.
夏場の「泳ぎ」は、もっぱら多摩川でしました。中央線の鉄橋の下が、格好の水泳のできる箇所だったのです。硬質の粘土("ナメ"と呼んでいました)が、川の流れでえぐられて、3〜4mも深さがあったでしょうか。水は澄んでいて、「ハヤ」の魚影を裸眼で見ることができました。
病欠児童の自分が、四年生頃から元気になり出してからは、一夏中、そこに行っては泳いだのです。海水浴など行ったことがありませんでした。でも、文部省唱歌で宮原晃一郎の作詞で、作曲不詳の「われは海の子」をよく歌っていました。
1 われは海の子 白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
わがなつかしき住みかなれ
2 生まれて潮にゆあみして
波を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の気を
吸いて童(わらべ)となりにけり
3 高く鼻つくいその香に
不断の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)とわれは聞く
4 丈余のろかいあやつりて
ゆくて定めぬ波まくら
ももひろちひろ海の底
遊びなれたる庭広し
5 いくとせここにきたへたる
鉄より堅きかいなあり
吹く潮風に黒みたる
はだは赤銅(しゃくどう)さながらに
6 波にただよう氷山も
来たらば来たれ 恐れんや
海巻きあぐる龍巻も
起らば起れ おどろかじ
7 いで大船を乗り出して
われは拾わん海の富
いで 軍艦に乗り組みて
われは護らん海の国
この歌は、明治43年(1910年)、『尋常小学読本唱歌(六)』(6年生用)に掲載されています。海洋国家で、国土の狭い日本が、果たそうとしたのが、海外進出、海外制覇だったのです。戦後の教育を受けた私たちは、歌詞の3番までしか歌ったことがありませんでした。平和憲法を戴いた戦後の学校で歌うには、4番以降の歌詞は削除されたのです。
それで、海への憧れが養われて、『何時か、海外へ雄飛するんだ!』と、自分を鼓舞したのですが、結局は現状維持の危険な冒険を冒さない、平凡な生き方を選んでしまいました。それでも18でアルゼンチンを考え、大人になってからはインドネシアも思いの内にあり、結局は、六十を過ぎた頃、職を辞して、中国に行ったのです。大阪港から上海の外灘への船旅は、結構、海に憧れた少年時代を過ごした私には、満足させてくれるものがありました。
飛行機ではなく、船の旅は、鴎が飛んだり、トビウオが船と競争したり、海に落ちていく夕陽は、驚くほどに神秘的だったのです。二日間の船旅はゆっくりで、ボウっとする時があったり、海面が見える風呂があって、そこに入って、それを眺めたりできるのも"乙(おつ)"なものでした。
今住んでいます栃木のみなさんは、〈海なし県人〉で、海に対する憧れが強いのでしょう、よく行かれるのは、茨城県の海だそうです。小山に両毛線で行き、そこから、水戸線で出掛けるようです。もちろん、車で出かける方たちが多いようですが、この五年間、海の潮騒をきくのが好きな私ですが、まだ出かけたことはありません。
横須賀で育った父は、少年期に遠泳をして、夏を過ごしたと言っていました。〈六尺褌(ろくしゃくふんどし)〉をしめていたそうで、溺れた時の救助を考えた、優れた水泳着だったのです。中学一年の夏に、その真っ赤な褌をしめて、ちばのうみで行われた、臨海学校に行ったのです。山のこの私は、この「海の子」の歌を、羨ましく歌っていました。
.