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このところ、「ヨハネの黙示録」を読んでいます。この書の一説に、メロディーをつけて、いつも歌っていたのが、私の恩師でした。子どもたちは、もう幼い日から歌い出しの部分を、聴き覚えていて,時々、彼らは歌っていました。すでに大人になった今でも、この聖句に出くわすと、歌い出しているのでしょうか。
『彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5章12節』
♯ ほーられた子羊こそは 力と富と勢いと 誉れと栄光と賛美とを受けるにふさわしいお方です ♭
この恩師は、アメリカの工科大学を終え、空軍の士官だったのですが、日本宣教をしている宣教師の帰国中に、テキサスに街で開かれた “ conference ” に参加し、そこでこの方と出会います。その人格的な感化と、みことばの迫りがあって、日本宣教を志したのです。パウロがテモテを、主の働き人として養成したのに倣って、恩師もその宣教師のもとで、聖書や教会の主への従順、教会への献身を学んだのです。
もちろん、神学校や聖書学校での教育を否定していたのではありませんでした。恩師も、私の兄も私も、この養成過程を経て、主の働きに召され、按手礼を受け、群れへの責任の委任を受けました。神学や教理には縛られませんでしたが、スポルジョン、内村鑑三、岡田稔、榊原康夫、竹森満佐一、リュティなどのみなさんの説教や書物から、浅学な私は。学んでまいりました。同じように、「神の恩寵」の教えは、私が受けたものと同じでした。
系統だった神学教育の単位を履修しなかったこと、任職検定試験を受けなかったこと、教師や牧師の資格の認定を得ませんでしたが、man to man で教えられ、単立の群れで奉仕が、32年の間できたのです。全てを網羅するカリキュラムに従って学んではいませんが、多岐に亘って学んだのは事実です。どういった動機でか、どんな価値観か、誰のためにか、どんな態度で生き、どんな奉仕をするかなどを学んだのです。金銭や異性からの誘惑の勝利するにはどうするかも学んだでしょうか。
私は、大学教育で、教育法に則った単位を履修し、東京都から教員免許証を、卒業と同時に得ました。それで、献身以前の5年ほど公教育に従事しました。中国の大学では、日本語教師を委嘱されて、10年ほど従事しました。何人もの教え子が日本に留学をし、博士号までとったりされていました。
私には、日本キリスト教界での資格はありませんが、《神の選びと委任》があったと自負しております。家内と私の奉仕を通して、傷ついた人が回復され、病んでいる人が癒され、無目的な人が目的を見出し、嫌っていた夫や妻を愛し始め、絶望していた人が希望を見出し、永遠の命の約束をいただく、その助力をさせただきました。それで、私も、次のように賛美するのです。
♯ わが神 あなたは 栄光と誉れと力を受けるに ふさわしい方 あなたは全てを造られ み旨のゆえに 万物は存在し 創造された (黙示録4章11節)♭
さらに、わが特愛のコーラスは、詩篇62篇1〜2節のみことばに、福岡の教会の一人の兄弟が作曲した賛美も歌い続けているのです。
『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。(詩篇62篇1~2節)』
♯ 私は静かに 神を待つ 私の救いは 神から来る 私は決して揺るがない 私の救いは 神から来る ♭
(“ Christian clip art ” の「過越の小羊」、震災前の熊本城の堅固な石垣です)
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