私の評価額は

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 今朝読んでいた、「レビ記」の27章に、〈人間の評価額〉が記されてありました。

 『その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。 女なら、その評価は三十シェケル。 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。 主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。(レビ27310節)』

 年齢によって、人間の評価を、神さまが定められたのです。ある時、長野県に用があって、出かけた時に、高速道路のサービスエリヤに、「姨捨(おばすて)SA」がありました。近くに、姨捨山があるのです。そこには、次のような民話が残っています。

 『昔、年よりの大きらいな殿様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てること」というおふれを出しました。殿様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年よりを捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

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息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命れいにそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくして、となりの国から「灰(はい)で縄(なわ)をないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様はこまりはて、だれか知恵(ちえ)のある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩(しお)水にひたしたわらで縄をなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰の縄を作り、殿様にさし出しました。

しかし、となりの国ではまた難題(なんだい)を言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸を通せというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸をつけたアリを入れなさい」と教えられ、殿様につたえました。すると、となりの国では「こんな知恵者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

殿様はたいそうよろこび、男を城(しろ)によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、殿様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりを捨てることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。(千曲(ちくま)市教育委員会の協力をえて、「姨捨の文学と伝説」からの要約)』

 旧英国海軍の基地のあった軍港の高台に、「老人院laorenyuan」があって、5人ほどで訪ねたことがありました。牧師の娘、医師の長女、教師などの背景を持たれる何人もの姉妹たちと交わりをしたのです。こんな方々のように、老いを迎えたいと思わされるほど、輝いて今を生きておいででした。お父さまやお母さまのことなど、街のこと、出会った人々のことをお話しくださったのです。

 社会の厄介者のように、老人への敬意を忘れていた殿さまもも、その知恵や経験を、後にありがたく感謝するようになったのは、実に聖書的なのです。

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ1932節)』

 華南の街で、公共バスに座っていた学生さんたちが、ピッと起立して、幾度も席を譲ってくれた経験が思い出されてきます。間もなく外孫が2人、お母さんの故郷回帰に従ってやって来ます。もう、彼らの評価額の方が、私たちよりも、はるかに高くなっているのですが、それでも respect されるのは嬉しいことです。孫たちの訪問を、いつになくワクワクと待っているバアバなのです。

(幕屋で仕える祭司、姨捨山(冠着山)です)

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ご覧あれ❗️

 

 『もう、何で咲かないの!』、蕾ができてから、どれだけ待ったか分からなかったほどで、ヤキモキしていました。この7号台風が近畿中国圏に、大きな爪痕を残して、日本海に抜けたのですが、その余波で、強い風が、ベランダにも吹きつけ、花壇の下におろしたら、今朝、開いたのです。《 sun  parasol giant(サンパラソルジャイアント)》です。まさに、ご覧あれ! です。まだ、100%の開花ではないのzですが、待ちきれずにアップしました。

※ 反省  冬越しの2年目ですが、乾燥気味に一年経ったのですが、きっと、花卉用の肥料やりが足りなかったかも知れません。

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弱き者を顧みられる神

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 自分でも、何度か説教をさせていただいた聖書箇所でしたが、そこを読まれて、ある講義がなされました。どこでかと言いますと、ルーテル派の神学校でだったのです。旧約聖書の担当の教授の最後の講義でした。どんなルーテル神学を聞けるのかと、大きな期待で座席についていたのです。ルターについて語るのか、ルーテル派の伝統的な神学論を語るのかと思いましたら、「旧約における弱者救済の論」を講義されたではありませんか。

 長い間、日本の学生のために講義し続けてきた学者が、任地の日本での教えを締めくくるに当たって、「義認論の旧約的背景」などについて聞けると思っていましたら、孤児や寡や在留の外国人を顧み、支えられる神の愛を語られたのです。

 『在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(申命記241722節)』

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 生産的、貢献的でない人間への神の顧みということ、寄るべなき者ものを、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最たるものではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、自分の生き方が変えられたのです。

 男の子ばかりの兄弟の中で、「強さ」を身につけることこそ男の生きる道だと教わったような気がします。喧嘩にも、経済競争にも、出世競争にも、〈強者生存〉の生き方を身につけようとしていた自分に、この憐れみに富み、恩恵に溢れた神、それは精神的なものだけでなくではなく、〈持っている物〉によって、持たない人々の物の不足を、物によって満たし、補い、助けることを示されたのです。

 まさに、〈食べる物〉を、補い、助けて与えることです。イスラエル民族は、奴隷として、エジプトにいた時の、精神的な苦しみ、神の民なのに困難を通り、虐げられた過去を持っていたからです。具体的には、〈食べ物の不足〉の過去を思い出し、今まさに食べ物に困窮する人に「小麦」を、「オリーブ」を、「葡萄の実」を与えるように命じたのです。

 好意を受ける人が恥じて受けることにないようにとの、配慮も、イスラエルの民に要求したのです。〈強さ〉だけが、生き残る手段であるのではなく、今の強さが、今まさに弱さを覚えている人たちの支えとなれるような配慮、恵みあふれる対応を求めているのです。誰も、『足りない!」と言うようなことがないためです。

 今まさに世界中で、春に植えた稲や小麦などの穀物が、大雨の洪水、貯水ダムを保つためになされる放水で、収穫を見ることなく押し流されています。灼熱の旱(ひでり)、旱魃も世界中に見られます。その上穀倉地帯が、戦火で焼かれようとしています。

 強い者が弱い者を、強く力のある時に、弱く力のない時のために、強い者は、弱いものに、憐れみを示すなら、どちらも、神の要求を満たすことができて、共生することができるわけです。神の国の 《 balance sheet 》なのです。驚くべき神の配慮ではないでしょうか。

 この退職する教授の話の内容は、もう忘れてしまいますが、その講義する姿勢、テキストの聖書箇所、講義を聞く者たちへの配慮、何よりも、神を崇めている時間が、尊かったのです。

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この日に思うこと

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 終戦の日に、満八ヶ月だった私は、前年の十二月に生まれていましたから、あの戦争の記憶はありません。ただ、軍需工場の責任を負っていた父は、軍からの支給で、一家を養っていました。ですから生まれてきた私のための産湯の盥(たらい)も産衣も、寝具も、それで賄われていたことになります。

 ですから戦争と自分とは無関係ではなかったことになるのを、大きくなって理解したのです。中国大陸や東南アジア諸国に送られた戦闘機や爆撃機や特攻機には、父の掘り出した鉱石によって作られた防弾ガラスが、組み込まれていて、父の戦争責任を、少しずつ感じ始めたようです。兄たちや弟には、そんな思いはあったのでしょうか。

 戦時下の外地で、どんな蛮行が繰り返されたかを知るにつけ、とくに大陸に対する、責任を感じられるようになるのです。「真空地帯」とか、「二等兵物語」などの映画を観たり、戦争物の小説などを読むに連れて、その思いは、心の底で大きくなっていったようです。

 私が、2007年の夏から過ごした華南の街の郊外にも、日本軍が海岸から上陸し、飛行場を整備したのだそうです。その街に住み始めた頃には、大きなバスターミナルに、転用されていました。そして、近隣の井戸に毒を投げ込まれたことがあった、と地元の人に聞いたりしたのです。日本語の学びのために、わが家に来ていた若者の家に招かれた時に、彼のおばあちゃんは、江蘇省の農村の出で、日本軍の放った村の火事で、腕に大きな火傷を負ったのを知らされました。無理を言って見せていただいたのです。そして、私は心からのお詫びをしたのでした。

 そのことのためにも、そんな戦争責任のお詫びをするようにと、中国に導かれたのだと思わされたのです。私の授業に出ていた学生のみなさんは、『先生と日本軍の侵略とは無関係です。あれは過去に、軍隊が犯したことですから!』と、言ってくれましたが、その街の大きな河川の脇の1kmほどの石板には、その街の歴史が刻まれ、その中に、『日本軍の爆撃により、300人余りの戦死者出る!』とありました。それは過去の悲しい記録だったのです。

 私が、大学の先生たちの集いの中で、証しを頼まれたことがありました。その時に、軍需産業に従事した父の戦争責任、幼児の私のミルクも産衣も軍からの支給であったことなどを話をしたのです。そして返さなければ負債を感じたことが、中国に来た一つのおおきな動機付けだと言いました。それに感動された方たちが、近寄ってきて握手を求めてきたのです。100人近い先生たちの中には、彼らの父や祖父や親族に、日本軍の侵攻の被害者だっておいでだったに違いないのです。

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 福音宣教のためだけではなく、そう言った謝罪の務めもあって、過ごした隣国での13年は、主が設けてくださった機会だったと思い至り、ただ主に感謝をしているのです。父は、私たちが献身する前に、中国に行く前に、すでに天に帰っていきましたから、私たちの過ごした年月や出来事は知らないままでした。

 終戦78年の今日も、世界中では、国と国との戦争があり、民族間の対立が、そこかしこにあります。中国本土と台湾、沖縄との間で、何かが起こりそうな迫りを感じます。大陸の多くの若者たちが兵士になるように招かれていると、先日おいでの訪問客から聞きました。台湾に接する地では、戦争準備がなされているようです。両岸の交流を叫んでいた口が渇く前に、睨み合いになっています。

 冷静になって、何が起こるにかを見極めなければならない時が来ています。どうしても、次の聖書の言葉が思い出されて参ります。

 『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24612節)』

 「必ず起こること」、避け難い時を、この時代に生きる私たちは迎えるのです。そのために私たちに必要なのは、〈慌てないこと〉です。78年目の8月15日、「終戦の日」に、そんなことを思いました。

(戦時に飛んだ気宇撃機、石英の結晶です)

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行く夏に

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 栃木市総合運動公園から見上げた行く夏空は、もう秋の気配がしているようです。セミの鳴き声も、心なしか、最盛期の声ではなくなっています。

 道筋に、モミジアオイが咲き、私たちの室からベランダを眺めると、例年になく、今季の朝顔は、緑の葉で溢れています。

 家の中には新旧の胡蝶蘭、ベランダには、桔梗、ペチュニア、咲こうとしてなかなか開かないサンパラソルの花があります。そして、真紅の薔薇の花が咲いているのです。

 今週も、日本列島は、猛暑に包まれ、台風が襲来し、日常が破られて、ままならない状況になっています。中国の東北部やノルウエーでの洪水には、驚かされています。ハワイのマウイ島では山火事で、多くの人が亡くなっております。ただ被害の少ないことを祈るのみの〈行く夏〉です。

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そのひたむきさがいい

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 〈バーチャル高校野球〉と言うネットの放映で、甲子園大会に出場の高校野球の選手が、挨拶のために、帽子を取ると、長髪なのを見て、ちょっと驚きました。あるチームは、クリクリ頭の一厘刈りなのに、その違いが、今らしくて面白いなあ、と思ったのです。まさに、〈多様性の時代〉なのでしょう。

 すぐ上の兄が、高校球児で、やはり坊主頭でした。1974年に東京都の予選は、東西に二分して、東東京と西東京から、それぞれ一校ずつ選出されるようになるのですが、兄たちの頃は、一校のみでした。自分たちの属する都道府県の代表校として選ばれたのです。

 戦前は、台湾からの参加もあって、嘉義農林学校が代表校で、甲子園の土を踏んでいるのです。第十七回全国中等学校優勝野球大会に出場し、勝ち進んで、準決勝で小倉工に10-2で圧勝。最後の決勝の中京商業戦では、0-4で負けてしまったのですが、準優勝をして、映画化もされています。

 今年の出場校のうち、栃木の県大会を勝ち抜いて、選ばれたのが文星芸術大学附属高校でした。20人のベンチ入り選手中、県内の中学からのメンバーは17人でした。県予選で負けた作新学院は19人が県内出身だったのです。その反対に、県内出身者の少なかったのは、島根県の江の川高校は2人、山梨県の山梨学院は3人、高知県の明徳義塾が5人でした。公立の徳島商業は全員が徳島県勢です。

 多くのチームが野球留学の生徒たちで構成されていて、名門への進学、県予選の学校数の少ない県への進学(野球留学)が、甲子園への道になっているのは、ちょっと逸脱していて、企業野球のようで寂しい限りです。

 でも、野球をする部員たちは、下向きな努力で、競争して代表選手に選ばれてベンチ入りしているのです。そのプレーも顔付きも素敵です。去年も今年も福島県代表になった聖光学院の校歌に、『復活(よみがえり)の主』とあって、昨年も今年も驚かされたのです。学問の向上だけではな、そんな信仰上のことを表現する学校の姿勢に、隣県ですが応援してしまったのです。

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 もう一度高校生になれたなら、今度は野球部に入ろうと思うのです。アメリカ生まれのスポーツなのですが、日本的な展開をしている高校野球に面白くて、惹きつけられるからです。大人の目、プロ野球人の目でではなく、野球好きな爺さんの夢なのです。白球を投げ、打ち、追い、捕る汗まみれ土まみれで励む、お金に無縁な、《直向(ひたむき)さ》の世界の野球がいいからです。

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自転車乗りの決意

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 私たちに住む栃木県の県都は、「宇都宮市」、戦国の世、下野国の宇都宮氏の支配のもとにあり、江戸から奥州に至る奥羽街道の要衝の地だったのです。戦国時代には、滋賀の蒲生秀行が支配し、江戸期に、宇都宮藩の初代藩主に、奥平家昌がつき、本田、阿部、戸田、松平と、改易、就任と入れ替わりに藩主が、幕府の管理の下に、移り変わっていたそうです。

 今では、「50万都市」となり、明治初年には、栃木市が、県庁所在地であったのですが、県令(当時の知事です)の三島通庸(9薩摩藩士)の決定で県都になっています。時代の移り変わり、電車や道路の整備によって、中心が、宇都宮市に移されて今日に至っています。

 この街は、「雷都」と異名をとっていて、「雷(らい)さま」と呼ばれるほどです。戦後、大陸から戻った方によって作り始められた、浜松と競い合う「餃子の街」にもなっています。ちょっと小ぶりですが、佐野ラーメン店の作る物もボリュームがあって美味しいのと、ちょっと違った味がするようです。

 また、この街は、「自転車の街」とも言われているそうです。同じ県民として、自転車利用をしている者でもありますので、四輪の自動車と同じ「車両」でもある自転車を、規則に従って乗る義務を、再確認しているところです。警視庁では、自転車が事故を起こすことが多い昨今の事情を見て、〈反則切符〉を切ることを検討しているようです。毎日新聞は、次のように報じています。

 『警察庁は3日、軽微な交通違反で「青切符」を交付して行政罰である反則金を納付させる「交通反則通告制度」の対象に、自転車を新たに加えることを検討すると発表した。刑事罰を科す手続きに入る「赤切符」(交通切符)による取り締まりの対象にはなっているが、検挙件数が急増する一方で、ほとんどの違反者は起訴されていない。警察庁は有識者会議を設置し、年内に提言を取りまとめた上で、2024年の通常国会への道路交通法改正案の提出も視野に進める。』

 父の自転車が家にあって、小学校に入ったばかりの頃に、自転車の乗り方を、兄に教えてもらったのです。学び方が悪かったのか、右乗り右降りで、今日まで自転車に乗ってきているのです。もちろん左乗りもできますし、左側で自転車を押すこともします。排気ガスは出しませんし、健康管理にも、有酸素運動にもなり、何よりも、利用が簡便でいいのです。

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 警察庁によりますと、どん違反が多いのかと言いますと、信号無視や一時不停止だそうです。確実に、違反件数は増え続けているので、法規制はやむを得ないのかも知れません。こんな、自転車乗りに関わる、標語のような俳句があります。

ひと呼吸 焦らずゆっくり 踏むペダル

 あわて者のお爺さんも、こんな motto が必要なのでしょう。今年は、車に追突されて、市警の現場検証をしてもらうような、事故にあってしまいましたから、より注意の毎日です。しっかり、helmet を被って、35℃ の中を、爽快に、そして注意深く走っております。

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木や草や紙の素材で

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 木、草、紙、藁などが用いられた、日本の家屋ほど、簡素で、自然に調和し、そこからの産物を用いた住環境は、世界に類を見ない優れたものだと言えます。隣国で過ごして帰国した時に、弟や友人の家に迎えられ、その障子から射し込む柔くて含むような光、畳み表の井草のなんとも言えない匂い、木の床の足の感触は、父が育ててくれた家を思い出させてくれ、なんともホッとさせられたのです。

 それらは、独特な雰囲気をかもし出し、日本的な文化や伝統の中に溶け込んだ感触や匂いや光でした。

 子どもの頃、わが家へは、道路の脇を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関に入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、わた布団を出して、畳の家に敷いて寝ました。今頃は、蚊帳が吊られてありました。

 床の間があって、そこに鹿の角や水晶の結晶や掛け軸が、置かれてありました。着替えや布団は押入れに収め、地の産する野菜、海で取れる魚類、牧草を食べた牛の肉、麩(ふすま)で育てられた豚の肉で、おかずを母が作ってくれました。木で作られた椀に、大豆で作られた味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。

 母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、同じようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻で作られた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれたのです。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 ところが、今や、私の周りは石油原料の製品ばかりになってしまいました。食べ物も、化学的な調味料や添加物の入った食べ物だらけです。人工的で加工された物ばかりで、命の危険が叫ばれています。そう、《自然に帰れ!》の時代がやってきています。それで、organic なものを、人は求めるようになってきました。わが家でも、買い物をする時、organic な物、添加物に入らない物、化学的殺虫剤や消毒液を使ってない物を買うことにしています。

 好きなチーズも、原乳と塩だけの物を探して食べています。安い原材料で、短時間に製造できるものに取って変わってしまい、危うい物だらけになってしまいました。排気ガスで空気を汚す車の所有をやめ、運転もやめ、20インチタイヤの自転車に乗って、どこまでも出掛けるようになって、〈一石三鳥〉で、原始の生活に一歩、二歩と戻っているようです。

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 今日は、市民大学の講座があって、わが家の傍を流れる巴波川が、江戸の木場あたりを往復しただけではなく、渡瀬川、利根川を上り下りしながら銚子との間を往復していたそうです。行きには、麻糸を積んで運んだ便があったのです。それが魚網のために用いられ、粟野(現在の鹿沼市になります)で栽培された「野州麻」で作った糸を運び下ったのです。帰りの船で、乾燥した鰯を運び上ったのです。それを麻の栽培のための肥料として用いられたようです。

 そう言った流通が行われていたことを知って、なお一層住む街の歴史を知ることができて、嬉しくなってしまいました。江戸に行くには、川の渡しを少なくして、足止めにならないようなルートがあって、小山、野木、栗橋、千住といった、いわば裏街道を、多くの人が利用していたのだそうです。そんな講義を聞いて、また、そこかしこと訪ねてみたくなってしまいました。

( 高瀬舟、麻糸、粟野の麻の刈り入れ作業です)

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まあいいかの懐深い大人に

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 〈子ども声が聞こえない街〉、われらが子どもの頃は、子どもは大きな声で話したり、泣いたり、喧嘩したりして遊んでいたのに、今では、子どもが少なくなっただけではなく、子どもが、ひっそり家の中に籠ってしまっているのではないでしょうか。何か寂しい時代です。

 缶蹴り、馬跳び、宝島、三角ベース、チャンバラ、ベーゴマ、カード起こしやカード飛ばしなどなど、子どもなりに工夫しながら遊んでいたのです。宿題なんか、あったのかと思ってしまうほど、した覚えがないのです。度をこすと叱られたりはしましたが、大人は 『まあいいか!』で、寛容でした。

 中国の田舎にいました時に、そんな子どもたちを見かけました。タバコを咥えた少年たちもいたり、〈自然児+ヤンチャ〉な子たちがいて、なんかホッとしたものです。学校にも遊び集団があり、家に帰ってくると、空き地にも遊び集団が、仲間を認めては集まって形作っていました。女の子たちも、その隅の方で、ゴム跳びなんかしていたのです。

 集団遊びで、《ルール遵守》を覚えさせられたのです。出過ぎ、度越えると殴られるし、生意気を言うと殴られる、そんな中で、「ワガママ」が通らないのを学ばされたのです。

 『静かに!』してないと追い出されてしまった図書館では、騒ぐ子がいても、大目に見られるようになっているのです。自粛を求められたのは、大人だけではなく、子どもたちでした。行動が規制され、制限されたのは、〈コロナ騒動〉があったからでもありました。この4年ほど、外出もままならず、籠り生活を強いられて、不自由を感じ続けていた子どもたちに、鷹揚さが示されているのです。

 大人だって同じでした。温泉に行っても、〈黙浴〉と露天の柱、浴場の壁に貼られていたのです。中国から訪ねてくれた見舞客をお連れして、温泉に行き、露天につかっていましたら、『お静かにお願いします!』と、従業員に注意されてしまいました。お腹から声を出す彼に倣って、同じように話していたらでした。

 子どもいる場所、例えば図書館などには、『少し大きな声を出しても大目にみて!』との張り紙が掲示されていたり、感情の表現を規制しない、大人の配慮があるようです。時代なのでしょうか、幼稚園や保育所の近所の方が、『子どもの声がうるさい!』と言ってきる大人がいるようです。そんなことしてるから、『子どもが暴れてしょうがない!』と苦情を言うようになるわけです。

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 大人の度量の見せ所、《来た道》に、多くの懐深い大人のみなさんが、生意気な子どもだった自分のまわりにいました。親はともかく、教師や近所のおじさん、職場の年長者が、電車で横に座ったおじさんもいましたが、みなさん暖かく見守ってくれたのを思い出すのです。あっ、おばさんもいました。

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