温かいスープ

 

 

中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。中学校3年生が、読んで学ぶようにと心を砕いて書いたものです。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、つらい経験が多かったそうです。そんな中で、心温まる経験をされて、それを綴っているのです。中学を卒業して、もう何十年と経ってしまいましたが、今の中学生が学ぶ国語の教科書のページを開くことができ、そこに見付けた一文です。それをご紹介しましょう。

「温かいスープ』                今道友信

第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい。

一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。その気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。

そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。

若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そういう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。

ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前のパンがあった。

その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいませんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

(今のパリの裏町の風情です)

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落語一席

 

 

三遊亭円窓の噺、落語「叩き蟹」(たたきがに)

日本橋の袂にある餅屋に、子供が餅を盗もうとしたところを、そこの主人に取り押さえられてしまった。親が居たら出てくるように言っているが、誰も名乗り出ない。そこに旅人が野次馬の輪の前に出たかったので、親のふりして前に出た。折檻するのは可哀相だと掛け合うことになった。

子供の話を聞くと、子供の親は大工で、仕事場で怪我をしてそこから毒が入って身体が動かなくなってしまった。おっ母さんは子供を産んで体調崩し寝たっきりになっている。兄弟の中で年上だから近所の使いっ走りをして食いつないでいたが、その仕事もここのところ無かった。水ばかり飲んでいたが、この前を通ると美味しそうなので、つい手が出てしまった。

「親孝行でも他人の物は盗んではいけないよ」、「分かった」、  「おじさんが一緒に謝ってあげよう」。 「自分の子供は可愛いが、他人の子は憎いか?」、「けじめを付けるんだ」、「だったら、一切れ餅をあげなさい。家に持って帰れば両親は床から出て、手を合わせて感謝するよ。病気が治るかも知れない」、「そんな、坊主みたいな事はヤダね」。「では、私が勘定を払ったらお客だね」、「誰が払ったって客だ」、「では、さっさと持って来い」。 「自分が食べたくて、手を出したんじゃないから、食べたくない」、「両親と兄弟の分は後で用意する。食べなさい」、子供は3皿食べて、お土産を7皿分包ませて100文になった。しかし、その100文が無かった。そのカタ(担保)に小半刻でカニを彫って、名も告げずに立ち去った。

 駄作だと思って貰い手もいないカニを、主人は煙管で悔し紛れに甲羅を叩いた。つ・つ・つ・・・と横に這っていった。何回やっても這っていく。俺にも叩かせろと行列が出来た。一皿買って一叩き、店は大繁盛。 2年後、カニを彫った旅人が店にやってきた。百文返して、あのカニは餅屋にあげた。あのときの坊やの消息を聞いた。

「チョット、お待ち下さい。吉公(よしこう)こっちに来な」、「へ~ぃ・・・、あッ!カニのおじさん」。 「両親は元気か」、「・・・あの時、餅屋のおじさんが家に見舞いに来てくれたんです」、「私からも、礼を言うぞ」、「行くと、医者にも診せていないというので、診せるとお袋さんは直ぐ治りましたが、お父っつあんの方は手遅れでした・・・。その為、この吉公がここで修行したいと言い出して、今では一人前になって、あっしも楽が出来るようになりました。これも、みんな貴方様のお陰です」。

「お父っつあんは大工だったよね。どうして後を継がなかったんだい」、「ん、お父っつあんの死に様見ていたから・・・、今、餅屋で修行しているの。おじさん左甚五郎でしょ。お父っつあんが言っていたよ名人だって」、「どの道も同じだよ。魂を込めることだ」、「私の作った『切り餅』と『黄金餅』食べてくれない」、「いいよ。持って来な。これが『黄金餅』か。2年ぶりだな・・・。うん、旨いよ」、「嬉しいな。切り餅も食べてくれないかな。どっさり切ってきたから」、「全部は食べられないから、取りあえず、一切れ。

ん・・・、繋がっているぞ。まだ修行が足りないぞ」、「スイマセン。包丁持ってきます」。 これを聞いていたカニが、横につ・つ・つと這ってきて・・・、 「(両手の指を鋏の形にして)使ってくださいな」

(左甚五郎作の日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」です)

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ゲンノショウコ

 

 

上の花ですが、「ゲンノショウコ」は知っていましたが、こんなに綺麗な花をつけるとは初めて知りました。下の花は、「カラスノゴマ」だそうです。きっと見たことがあったのでしょうけど、心にゆとりがなく、野花に関心を向けなかったので、見過ごしていたのでしょう。広島県呉市灰ヶ峰・林道~水場に咲いていて、[HP/里山を歩こう]が配信してくださいました。里にも秋がきているのでしょう。

春か秋かに、生まれ故郷に出かけて行って、渓谷の側道に咲く花に、目を向けて見たいものです。そんな時がくることを願っている、九月の末です。

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秋の陽

 

 

秋の陽を浴びて、朝顔が輝いて咲いています。やっと、涼風が吹き込んできて、ホッと一息と言った感じがしてきます。次女が検査をした結果を知らせてきました。これもホットしたのですが、生きるって、様々な問題や課題と直面しては、慌てたり、覚悟したり、任せたり、また喜んだり、悲喜交々(こみごも)、繰り返しですね。長女の主人が、酷い脱臼で、要手術です。

咲いている朝顔だって、色んな場面に出会っているのですが、何も文句を言わないで、種を蒔いてくれた主人に向かって、いえ天に向かって咲いているのでしょう。子育て中のお母さんが、今朝やって来らこられました。子どもだって、生きにくいこの世の中で、不協和音を出したり、渋ったりしたいに違いありません。子育てを終えた私たちには、過去のことが、このお母さんには今日の現実です。

子のこと、子の父親のことを思って上げて、一緒に悩んで、または泣いて上げる母と妻なのでしょうか。そして親は、<親となる>のかも知れません。<来た道>を振り返ってみて、万事有益の思いのする、秋の午後です。

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淡き香り

 

 

“プルースト効果”について、こんな記事がありました。

『交通事故で記憶喪失になった少年は、親友の名前や親すらも思い出せないことが続き、10年近く記憶が完全に回復することがありませんでした。しかし、ある日突然に記憶の一部を取り戻すことが出来たのです。そのきっかけが香りと記憶の強い関係を指し示すものでした。

それは、街で塗装作業のシンナーの香りを嗅いだ時に起こったのです。 塗装の香りから彼が思いだしたのは、プラモデル、そしてそれを作っている部屋。さらに友達の顔と連鎖的に思い出してゆき、どんな治療をしても思い出せなかった記憶が香りによって蘇ったということがありました。』

この様な記憶喪失でなくとも、ある匂い、香りを嗅いだ時に、記憶や、ある場面が蘇ってくることが、私にもあります。多くの時、それは淡いかすかな匂いや香りの場合が多いでしょうか。秋になると、決まって「金木犀」の香りがしてきて、小学校の時の通学路とか、あの頃のことが彷彿とされてくるのです。

その他にも、何かの香りがしてくると、父の家でのこと、兄弟や母のことを思い出すことがあります。秋刀魚の煙と焼く匂いは、高校の頃、ハンドボールをしていた頃の学校のグラウンドの秋の夕暮れの光景が、フーッと浮かんでくるのです。走馬灯のように、あの頃の出来事、通学路の道筋、級友たちの顔、教室の様子も思い出されてくるのです。勉強のことが思い出されないのはどうしてでしょうか。

ある匂いは、ただ遠い過去に嗅いだ記憶だけがあって、ただ懐かしくなってくることだってあります。嗅覚だけではなく、味覚も同じ、記憶を蘇らせることがあります。フランスの小説家のマルセル・プルーストが、紅茶に浸したマドレーヌを口にした時に、ふと、過ぎ去った日々を思い出したことに因んで、「プルースト効果」と呼ぶようになったそうです。

あまり拘りはない方なのですが、”アールグレイ”の紅茶は、初めて飲んだ時の香りが、何かを私の記憶の内にあったことを思い出させたのでしょうか、これを毎朝飲む習慣がついてしまいました。今、棚に買い置きがなく、ほかの紅茶で間に合わせて飲んでいるのですが、何か落ち着かないのは、その所為(せい)なのかも知れません。

この月曜日の夕方、生まれて1年の女の子が、ご両親と、わが家に来て、一緒に食事をしました。この子の頬や腕を指でつっつくと、何かとても好い気持ちになってきてしまうのです。これが好きで、時々してしまうのですが。自分の子どもたちの肌が幼子のように、柔らかかった頃を、指の記憶を蘇らせてくれるからでしょうか。

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ヒメジソ

 

 

東広島市の灰ケ峰に咲く「ヒメジソ」です。

『休耕田や湿地、溜池畔、用水路脇、湿った道端などに生える1年草。茎は直立し、4稜形、稜上に下向きの毛があり、節に白毛があり、盛んに分枝して、高さ20~60cmとなる。』と、説明されています。中国、台湾、日本などに分布しているそうです。☞HP[里山を歩こう]

親切

 

 

先週、東京のD大の大学院に留学のために出掛けて行った「小朋友xiaopengyou」がいます(と言っても186cmもあります)。遼寧省の大学を終えて、専攻した「医療ロボット」の研究を継続して、身体に障碍を負われた方のために役立ちたいと、これから学ぼうとしています。

大学の寮は短期間だけしか居れないとのことで、友人夫妻が、都下に住んでいて、アパートを経営いますので、空き部屋があるか、私が聞いたのです。ところが、住み心地が好いのか、どなたも出て行く方がいないとのことで、この友人夫妻の提案で、しばらくご自分の家に住んで、小朋友の好みのアパートを、一緒に探してくださるとのことで、お願いしたのです。

お母様も同行して、友人の家に泊めていただいていました。市役所や学校の手続きも終え、好い部屋を、学校の近くに探し当てたそうです。家具などの必需品も、一緒に買い求めたようです。私がお願いした、見ず知らずの外国人の小朋友ために、この友人夫妻は、大きな犠牲を払ってくださったのです。歓迎の食事会を開いてくださったり、大歓迎してくれたようです。

この方は、退職してから、市の要請で、日本で働いている外国人、特に中国のみなさんに、日本語を教えておられます。また 息子さんの一人も、在京の外国人に、日本語学校で教えておられるのです。この息子さんは、以前、ここ中国で1年間、日本語教師をされていました。そんなよしみでの、彼の好意なのです。

今週の日曜日の朝、連れて行ってもらった倶楽部で、私の弟に、小朋友が挨拶をしたのです。その時、しきりに体を掻いていたので、不審に思った弟が、『今朝、何を食べましたか?』と聞いたら、蕎麦を食べたと言ったそうです。それで、<蕎麦アレルギー>との判断で、休日診察の病院を探して、市立病院に行き、点滴治療をしたのです。

留学早々のハプニングでしたが、小朋友は、今は元気になっています。食べ物の違いで、アレルギーが発見されたのですから、不幸中の幸いで、かえってよかったかも知れません。いろいろなことの起こるこの浮世です。

帰郷のたびに、わが家に来て、家内と日本語で交流して来ていた小朋友です。瀋陽の大学で学んでいて、日本語が分からなくなると、携帯電話を掛けてきては、家内に聞いていました。実に、爽やかな好青年で、友人夫妻も、そんな彼を大歓迎し、お世話くださっています。友人夫妻の愛や犠牲に、感謝しています。私たちも、こちらでみなさんに好くしていただいていて、何かして上げたいのですが、この友人が代行してくださっていて、感謝でいっぱいの涼しい朝です。

(上は東京駅、下は瀋陽站です)

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手術

 

 

開け放った北側の窓から、南のベランダのある窓を通り抜けて行く風が、涼しく感じられる朝です。南のベランダの寒暖計は、午前7時の時点で、25℃でした。矢張り"いよいよの秋"です。買ったり貰ったりの巨峰のぶどう、柿、りんご、ボンタン(こちらでは柚子youziと呼びます)、龍眼(こちらでは龙眼longyanと呼びます)、オレンジなどが、冷蔵庫や食卓の上に、秋が溢れています。

次兄が明日、「心臓ペースメーカー」の植え込みに手術を行い、明後日は長女の主人が、「肩脱臼」のために手術を行うと、言ってきています。色々なことの起こる人生ですが、二人の主人の執刀に手が祝されるように願っているところです。何度も手術体験にある私は、痛みに耐えて回復するようにと、願っています。

手術が終わったら、兄も婿殿も、秋を楽しんで欲しいものです。今朝咲いた三輪の朝顔も、そんな願いの素振りを見せています。

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海の浪漫

 

 

島崎藤村が、「椰子の実」を作詩したのが1898年でした。民俗学者の柳田邦男から、その椰子の実が流れ着いた、愛知県伊良湖での話をもとに、詩作したと言われています。それに大中寅二が作曲をしたのです。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

南洋の島から黒潮に乗ってやって来て、漂着した椰子の実って、どんなものなのだろうか、私も興味津々でした。周りを海に囲まれ、海洋民族の末裔であり、日本海軍の家系の父から生まれた私は、海の浪漫に憧れていました。そして、一度、椰子の実を割って、そのジュースを飲んでみたくて仕方がなかった日を覚えています。

四年ほど前に、ショッピングモールが近くにでき、日本料理店の店長と知り合って、わが家にもやって来る様になりました。この人が、引き抜かれて、「椰子营yeziying」という海南島で飼育された鳥肉の鍋の店の店長になったのです。彼に誘われて、そこで食べた鳥肉鍋が美味しく、「椰子の実」のジュースもサーヴィスしてくれて飲んだのです。

もちろん紙パック入りのジュースqが売られていて、飲んだこともあったのですが、皮を綺麗に剥いた実物に、小さな穴を開けて、ストローで飲んだのは初めてでした。先週、やって来た息子夫妻と、そこに昼食に行ったのです。二人とも喜んでくれました。椰子のジュースの中に、鶏肉や野菜などを入れ、炊き込みご飯もついているのです。

そういえば、柳田邦男が拾った椰子の実が、流れ出した元かも知れないシンガポールで、椰子のジュースを飲んだこともありました。南方では、子どもたちが木を揺すって、実を落として、鉈で割ってもらって、そのジュースで渇きを癒していたのでしょうか。この歌を思い出してしまい、口ずさんでみました。

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いよいよ

 

 

昨日は「秋分の日」、今日は「中秋節」、日本では、あまり盛んではありませんが、ここ中国の華南では、《二十四節気》の伝統的な行事が守られて、生活の節目となっています。この季節は、「月餅」を、家族や仲間でいただく様です。

次男夫妻が来た先週、何時も好くしてくださる方が、歓迎の宴を設けて下さったのです。子どもたちが来る度に、この様にしてくださるわけです。息子たちが帰国する前の晩に、「生きたアワビ」を、たくさん届けてくれ、夕食のおかずにとくださったのです。結局食べずじまいで、息子たちは帰ってしまったのですが。

それでも、「伊勢エビ」の料理をいただいて、彼らは満足だった様です。《もてなし上手》の国民性でしょうか、一度懇意になると、とことん好くしてくださるのです。《お返し文化》の中に、トップリつかって育った日本人の私たちは、どう応えてよいか悩むばかりです。

今宵は、満月が見られるでしょうか(追記;7時半ですが、雲が多くて月は見上げられないのは残念!)。猛烈な勢力の台風が心配で、沖縄の方に北進しつつある様です。無事を願う夕べです。

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