「ものの見方について」

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「ものの見方について(角川文庫/笠信太郎著)」という本が、昭和32年8月30日に発行されました。私たちの担任は、発刊したばかりのこの本を買って読む様に、勧めました。本屋に跳んで行って、私は買ったのです。福岡の修猷館から東京商科大学(現一橋大学)、大原社会問題研究所、朝日新聞に勤め、49歳で論説主幹に就き、退社するまで、それを務めた人で、「天声人語」も書き続けた人でした。

 その笠氏が、ドイツや、欧州諸国に滞在した経験も踏まえて、『西欧になにを学ぶか。』という目的で、この本を書いたのです。買って読んでも難しくて、戦後初等教育を受け終わったばかりの12歳の私には、歯が立ちませんでした。無くしては買って、先月、古書店からまた買ったのです。「九州大学文学部社会学専攻」の「◯◯蔵書」と印が押された古本で、よく読み込んだものです。

 この九大の学生が買い求めて読んだ頃に、中1の私が読んでいたのだと思い、『けっこう担任は、背伸びをさせようとしたんだな!』と、60年以上も前のことを思ってみたのです。何か、懐かしい友に再会した様で、なんとも言えませんでした。多分、この本から始まって、〈本の虫〉になっていたのだと思います。先日は、ある本の最後の頁の内容を思い出したのです。はっきりと読みたくなって、ネットのサイトにある古書販売から、その一冊を買ったのです。その箇所を読んだら、懐かしい恋人に、もう一度出会えた様でした。二十代後半に出会った本だったからです。

 さて、「ものの見方について」ですが、冒頭に、「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走り出す。そして、スペイン人は、走ってしまった後で考える。」、これは、国際連盟の事務局長をしたマドリヤーガ(スペイン人の外交官)が言ったことだそうです。それに、笠氏は、「ドイツ人もどこかフランス人に似ていて、考えた後で歩き出す、といった部類に属する。」と付け加えています。

 『では、日本人はどうするのだろう?』、そう、私は思ったのです。その結論を知りたくて、読み進めたのを覚えています。日本人は、自分の〈日本人たること〉をはっきりさせたかったのだろうと思うのですが、明治以降、多くの「日本人論」が著されています。『代表的日本人(内村鑑三著)』、『武士道(新渡戸稲造著)』、『日本風景論(志賀重昂著)』、『茶の本(岡倉天心著)』、『風土(和辻哲郎著)』、『「甘え」の構造(土居健郎著)』、などが書かれています。私も読んだ本です。

 どうも、『自分は誰か?』、『何処から来て、何処へ行くのか?』の答えを得ないと落ち着かないのが、日本人なのかも知れません。そうでないと、不安に駆られてしまうからです。4人の私たちの子が、新しくできた《実家》に、やって来ること、来たいとの願いに、両親に会って、《子たること》を確かめたいのも、一つにはあるのかなって思ってしまいます。いや、単に会いたいからでしょうか。

 『・・・血気にはやって自分たちが現にやっていることの意味や重みを忘れて突っ走ってしまうようなところは、フランス人に似・・・「理論」といったものにはずいぶん引きずり廻されたというような点では、ドイツ人に似て・・・』と、日本人について、表て向きなことを言ってから、イギリス人、フランス人、ドイツ人、そして日本人を具体的に述べて、ご自分の論を進めています。60年以上前の本ですが、自分を知るのには、日本人であることを知るのには、今でも一読に値します。

 〈日本人であること〉は、私にとって、今になると、もう全くというほどに拘わらなくなっています。《一人の人としてどうであったか》の方が大切になってしまったからです。しかも〈何をしたか〉よりも、《どの様に人や物事と対峙したか》の方が重要に思うのです。そして正しくものを見、判断したかを自分に問う今でもあります。

(〈フリー素材〉でイギリス、フランス、ドイツのパン、そして田辺玄平の発案のコッペパンです)

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忘却

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 『忘却とは忘れ去ることなり。』、当たり前のことを言って、ラジオ放送で人気を博した、ラジオドラマがありました。それが、一世を風靡した「君の名は」です。この番組放送のはじめの言葉が、冒頭の言葉でした。1952〜1954年にかけて放送された時、銭湯の女湯が空になるほど、女性の人気を得た番組でした。

 当時、男女の恋愛、すれ違いの話に、強烈な思い入れが、自分にあったら、今頃、芥川賞作家にでもなれたのでしょうけど、8歳の晩生(おくて)の男の子には、馬に説教と同じで、関心を向けることなどありませんでした。母が聞き入っていたかの記憶がありませんから、他のことに母は忙しくして、珍しく無関心の人だったのだろうと思います。

 普通、人間は、辛い事は忘れる様にできているのだそうです。あまりにも悲しく辛いことを思い続けて、精神的にも肉体的にも破綻してしまわない様に、人の心が作られているのです。何があっても、よく寝て、スッキリして生きる方が得策です。とくに日本人の特性が、これだそうです。でも忘れてはいけないことがあります。

 歴史学習は、誰もが必要としていることです。今を理解するため、将来を展望するためには、時の流れの始まりや経過を知る必要があります。歴史学者のトインビーは、『人間とは歴史に学ばない生き物である。現代の諸悪は人間自身が招いたものであり、したがって、人間自らが克服しなければならないものなのです。』と言っています。

 〈克服しなければならない過去〉があると言ってるのでしょう。明治維新以降の「富国強兵」の急務のために、無理な背伸びをし続けて来た結果、国家としての大失敗を侵して、当然の様に、戦に負けた過去が、私たちに国にあります。相手国への賠償では済まない、決定的な反省がなされるべきでしたが、ほとんど曖昧に終わりっています。

 また、歴史学習が曖昧だったので、戦争を知らない世代のこの国の指導者たちが、危うい発言を繰り返して来ています。父や祖父の時代の負の遺産を、負わないからです。原子爆弾の投下や焼夷弾の爆撃を喫した〈被害者意識」だけが残され、侵略した国々での蛮行を忘れてしまっています。
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 とくに長崎市民にとっては、もう一つの被曝都市の第二の座に追いやられ、8月9日が忘れられつつあることに、いい知れない悔しさがあるのだそうです。この日を、祭日、祝日にしようとする動きの中に、決して忘れては行けない《歴史的記念日》が、〈忘却〉されそうになりました。けっきょく、8月11日を、『山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する!』との「山の日」が決まったのです。

 ” youtube “ の番組で、命を助けられたり、愛された過去を忘れない、犬や熊の話が取り上げられていて、〈忘却の人間〉は恥ずかしくなってしまいます。忘れていいことと、決して忘れてはならないことがあるのを、もう一度立ち止まって整理する必要がありそうです。

 イスラエル人は、自分たちの民族史を、父親が子に教えるのだと、聞いたことがあります。被った悲劇を覚えるためではなく、民族の足跡をしっかり知って、今を知り、未来に思いを向けるためなのでしょう。歴史教育が半端だと、未来が見えません。

 へそ曲がりの若かった私は、どちらに行くか考えた末、長崎には行きましたが、広島には行きませんでした。

(〈フリー素材〉の長崎市内のめがね橋です)

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キュウリ

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 娘が起き忘れたキュウリの種を、家内がプランターに蒔いて、実がなりました。今朝のベランダは、今年一番のにぎやかさです。昨日、蜜蜂が、24も花をつけた枝に飛んできて、吸蜜していました。収穫の季節がベランダに来そうです。

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海の夏

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 太平洋岸の街に、グランパ(私と家内はジイジとバアバ)の家があって、次女の子たちが友人たちと訪ねて、サーフィングを楽しんでいる様子を撮った写真が送られて来ました。コロナ禍で、こんな時間を過ごせるのはいいですね。湘南海岸でも、どこの海浜でも、今年は遊泳禁止なのだそうですが、アメリカの西海岸は、個人や家族の決定に任されているのでしょうか。

 この西海岸の海は、水温が冷たくて、海水浴はできないのです。孫たちは、スイミングスーツ、サーフスーツを着ています。こんな夏の過ごし方はいいですね。以前訪ねた時に、この海岸のレストランに連れていってもらって、生牡蠣をご馳走になったことがありました。イタリア系の人たちは、牡蠣を生で食べるのですが、大勢の人が注文して、レモンのジュースをかけて食べていました。夏ではなかったと思います。

 牡蠣と言えば、華南の街に、「シャングリラホテル」があって、友人のご主人が政府の人で、招待券をもらったからと、そこのランチに連れていってくれたことがあり、生牡蠣があったのです。海鮮料理を生で食べる習慣が、中国のみなさんにはないのですが、大皿にいっぱい載っていて、思いっきり食べてしまいました。家内は食べなかったのですが、美味しかったのです。一度きりの華南の街の贅沢でした。

 奥まった関東平野の街で、手で触れる様に、日光の山並みがありまして、海のない県に住み始め、さらにコロナでの行動制限で、ほとんど電車に乗らなくなってしまった今、乗って、茨城か湘南の海に、海を見に、潮騒を聞きに、砂浜を裸足で歩きに行ってみたい思いがしてきます。マスクをしたら行けそうでしょうか。でも「自粛」の二文字が、目の前にちらつくのは時節柄仕方がなさそうです。

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五月雨

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 元禄2年(1689)5月28日(新暦7月14日)、出羽国山形の最上川を、芭蕉は、訪ねています。この川は、私たちの住む栃木の巴波川には比べられないほど、水量の多い河川で、同じように、「舟運」が盛んだったそうです。その中でも、芭蕉が逗留した、大石田村は、もっとも舟運の盛んな地だった様です。芭蕉は、次のような文を遺しています。

『最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の 滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし 。』

 その大石田村の一人の門人を訪ねた芭蕉が、そこで詠んだ句が残されており、とくに有名な句なのです。
   
   さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川

 旅の途中で詠んだこの句を、江戸に持ち帰ってから、「奥の細道」を編集した時には、次の様に改作している様です。

   五月雨をあつめて早し最上川

 中一で、「奥の細道」を学んだ時に、覚えさせられた句でした。水量が多い流れは、これまで幾度となく洪水をもたらせ、近郷近在の農家が難儀させられた川でした。今夏、梅雨前線の停滞で、九州から、ここ東北に至るまで、想像を絶するほどの雨量の雨を降らせ、ここ最上川は数箇所で決壊したそうです。それで、この句を思い出したのです。(☞五月雨〈さみだれ〉)

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 芭蕉が訪ねたのも、五月(新暦の七月)でしたから、梅雨の時期だったのでしょう、最上川の流れが、ずいぶんと早かったことが、詠み替えられているのです。その折に読んだ句が、もう二つ三つありますが、その一つは次の句でした。

   風の香も南に近し最上川

 父は、この山形県で仕事をしていたことがあったのですが、兄たちは、生活したことがあった様です。母も父も、山形でのことは、あまり語ったことがなかったのですが、どこかの鉱山の仕事を、若い父はしていたそうです。

 今回の洪水ですが、九州の被害は多大でした。年々歳歳、水の脅威が増し加わりそうで、先のことを考えてしまうと、悲観してしまいそうですが、この美しい列島が守られる様に願うばかりの七月の終わりです。
 
(最上川、大石田の花火大会です)

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音の風物誌

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 音には、嫌われるものと、好かれる音がありそうです。また、昔あった音が、今はなくなってしまっているものがあります。その逆もありそうです。テレビや電子機器のなかった子どもの頃には、自然の音や、それに近い音が聞こえてきて、人工的な音は滅多に聞くことがなかったのです。

 それに季節季節に、特有な音がありました。風鈴売りに呼び声風鈴のリンリンの音、金魚売りや納豆売りやしじみ売りの呼び声、豆腐屋のラッパ、火事の半鐘、消防自動車の鐘の音、小学校の小遣さんの打ち下ろす鐘などがあったでしょうか。

 春以来、隣家の “ スズメちゃん(聞き違いで「涼音」ちゃんでした)” の泣き声が、時々我が家に聞こえてきます。外で顔を合わす度に、『うるさくてもうしわけありません!』と、お父さんもお母さんも、それぞれが恐縮して詫びるのです。『こちらは4人を育てましたので、親の子守唄の様なものです!』と言いたいのですが、『元気そうでいいですね!』と応えると、安心しておいでです。

 その泣き声や、保育園の園庭に響く子どもの声が、〈騒音〉に聞こえる人が多くなっているのだそうです。電車の中でも飛行機の中でも、赤子連れの乗車搭乗反対を言い出す人まで出てきました。そんなこと泣き声を上げなかった人だけが言えますが、みんな泣いたではありませんか。それで今があるのを忘れないことです。

 そう言えば、いつか住んでいた家の一階の若い婦人が、天井板を、ホウキの柄で叩いて、『うるさい!』と言ってたことがありました。数年前、日本情緒を味わいたくて、暖簾と夏の風物誌の「風鈴」が欲しくなってしまいました。中国の街の家の軒下に、風鈴を見たことはなかったのです。去年、通販で買って、一夏楽しんだのですが、引越しの荷の中にしまったか、被災した家に置いてきてしまったか、どこかに行ってしまいました。
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 縄文の世には、すでに、「土鈴」があったそうで、「鳴子(なるこ)」と同じ様に、田圃や畑で、作物を荒らす鳥や動物よけのために使われていた様です。昔、よく見掛けた鳴子や「案山子(かかし)」を見なくなりました。農薬の散布で、必要なくなったのでしょうか。そうなると、ちょっと怖くなります。

 麦の穂を手で揉んで食べると、ガムの様になって、芋飴とか水飴とか茶飴、ぶっ切り飴もあったでしょうか。みんな幼い頃の食感で、懐かしく思い出されます。子育て中の今頃の季節、夏休みに入ると、週日の早朝に、4人の子を乗せたオンボロ車で、静岡県相良の海に出掛けました。暗くなって、海の家が閉まる頃まで粘って、引き返した日が、よくありました。一夏に、何度出かけたことでしょうか。

 山道で、車の空冷のゴム管が敗れてしまい、スカスカと音がしてしまい、貰い水を繰り返し、水を足し足しして、やっと修理工場を見付けて、修理してもらったこともありました。ハラハラした子ども時代を過ごしたせいか、4人の子たちは、何があっても、けっこう動じないで生きられている様です。二人っきりの今、賑やかで暑い夏が懐かしくなってしまいます。

(〈フリー素材〉の風鈴と乗っていたのに似た車です)

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夏はきぬ

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 昨晩も、湿度が高いので、エアコンの除湿機能にして就寝しました。夜半になって、それを止めて、窓を開けましたら、入ってくる風が冷たいのです。昨日のニュース( youtube )で、北京に雪が降ったと伝えていました。この異常な気候の中で、何年か前に書いたブログの原稿を、引っ張り出し、一部を転載しました。消えてしまった分です。

 「暑さ」を表現する言葉が、結構、多くあるようです。

「盛暑(せいしょ)」⇨真夏の暑い盛りのこと『盛夏の砌(みぎり)』と言います。
「大暑(たいしょ)」⇨『記録的な大暑でした!』と言い、「二十四節気」の第十二のことで「打ち水」が行われます。今年は今日、七月二十三日が「大暑」です。
「炎暑(えんしょ)」⇨真夏の甚だしい暑さのことです。
「激暑(げきしょ)」⇨「激烈」の激と同じで激烈な暑さのことです。
「劇暑(げきしょ)」⇨「劇薬」の劇と同じで酷い暑さのことです。
「甚暑(じんしょ)」⇨「甚(はなはだ)しい」暑さのことです。
「酷暑(こくしょ)」⇨「酷(ひど)い」暑さのことです。
「極暑(ごくしょ)」⇨「極(きわ)めて」暑いことです。
「厳暑(げんしょ)」⇨「厳(きび)しい」暑さのことです。
「残暑(ざんしょ)」⇨「大暑」を過ぎた頃をそう言います。
「猛暑(もうしょ)」⇨「猛烈」な暑さを言います。
「蒸暑(じょうしょ)」⇨蒸す様な暑さのことです。
「旱暑(かんしょ)」⇨「旱魃(かんばつ)」が起きるほどの日照り続きでとても暑いことです。
「溽暑(じょくしょ)」⇨蒸暑と同じ意味で蒸し暑さのことです。

 長く住んだ中国では、「暑い」と書いたり言ったりしません。「熱(热re)」という漢字を使って、「大热daire」とか、「很热henre」と言います。また「蒸し暑い」は、「闷热menre」と言うのを聞きます。蒸し風呂に入った様な、鉄板の上に乗った様な暑い日が続くことも、夏場にはありました。

 本来なら、今頃は、もう「夏休み」に入っているのですが、今年は学校の夏休みは短期間だそうです。中国語では、「暑假shujia」と言い、「休暇」の「暇」は、「にんべん」の付いた「假」を使ってます。

 さて上記の「暑」を使った言葉で、最も『暑い!』のは、どの言葉だと感じられますか。「あつ」と「なつ」が相互に関係し合って、この季節が「あつい」ので、「あつ」と言ったのが変化して、「なつ」になって、「夏」と書く様になったのだと聞いたことがあります。

 やはり、中国語の「闷热」が一番暑い様に感じてなりません。それにしても、今夏の暑さは、八月に入ってやってくるのでしょうか。父が、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と、書き残した言葉が、今年は実感できるのでしょうか。

 昨日、今夏初めて、セミの鳴き声を聞きました。駐車場の脇の木からの鳴き声でした。アブラゼミの『ミーン、ミンミン!』でしたが、何か鳴き声に力がなく聞こえたのは、気のせいでしょうか。かき氷が食べたくなる様な、元気な鳴き声を期待したものです。

(〈フリー素材〉のアブラゼミのイラストです)

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朝一輪二輪

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自然界は落胆しないのですね。どんなに雨続きでも、へこたれません。いつもと同じ朝を迎え、同じ鉢の枝に、美しい花を咲かせている朝顔とサルビアです。昨日は兄から取り寄せの白桃が、先週は義妹から贈られてきました。こんな雨でも、甘くて美味しかったのです。湿りがちの夏を、桃三昧を舌で楽しんでおります。

今、外で、ミンミンゼミの鳴く声がしました。今夏第一声です!

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Nein!

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 第二次大戦下、ドイツに、“ ボンヘッファー ” という学者がいました。両親は大学で教えていた教授で、恵まれた環境で、この人は育っています。ナチスが政権を握った後に、心で闘いつつ〈反ナチ運動〉に身を投じた人でした。ヘーゲルやマックスヴェーバーやバルトの影響を受けていたそうです。ほぼ私の父と同世代人になります。

 第一次世界大戦の戦争責任を負ったドイツは、ワイマール帝国が崩壊し、莫大な賠償金と領土の分割と言った、国家的な危機的状況にありました。しかも物価の高騰、失業などが社会問題となっていた時期だったのです。そんな状況下で、ドイツ国民の支持を得て、台頭したのが、ヒトラー率いる〈国家社会主義ドイツ労働党/いわゆる“ ナチス ” 〉でした。彼らが掲げたのは、〈反ユダヤ主義〉でした。

 人心収攬(しゅうらん)の術に長けたヒトラーは、巧みな話術で、危機回避のアピールをし続けて行きます。その結果、国を誤った道に導き、何と600万人ものユダヤ人の犠牲者を生んだのです。残念なことに、当時の日本は、日独伊の三国同盟に加盟してしまいました。

 そのナチスの反ユダヤ政策に、“ Nein(英語のNoです)!“ と言って立ち上がったのが、ボンヘッファーでした。私は、若い日に、本で読んで、39歳で、亡くなって逝ったこの人に、重大な課題を投げつけられたように感じたのです。自らの信仰、教えられてきた学びと、その国家的、世界的な暗闇の中で、〈ヒトラー暗殺計画〉に加担せざるを得なかった想いを、私は突きつけられて、迷ったのです。

 『汝殺すなかれ!』との教えと、彼が選び取らざるを得なかった〈殺人計画〉との大きく深い〈食い違い〉を、どう埋めていくかの課題でした。日本でも、『日本人たれ!』で〈天皇崇拝〉を強要され、造物主の在すことことの狭間で、懊悩した青年たちが大勢いたのを、私は、歴史学習を通して知ります。今もなお、絶対的な権力で、自由を奪い取っている国家があり、多くの若者が、それに、どう向き合うかの課題を突きつけられているのです。
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 結局、その暗殺計画が露見し、それに関わった人たちは逮捕されてしまいます。その中にボンヘッファーも、彼の義兄弟もいました。彼は、1945年4月9日、フロッセンビュルクの強制収容所で処刑されてしまいます。私の次男の今の年齢ででした。不条理が罷り通るこの世で、正義や真理や公平や愛は、どこにあるのでしょうか。そうでない忌まわしい現実に、どう向き合えばいいのでしょうか。

 彼の死の3週間後、ヒトラーは自殺して果てます。ボンヘッファーが殺人の実行者となって、『その汚名を負うことから免れるために、その刑死があったのだ!』と、若かった私は結論したのです。ドイツ人の堅実さや賢さを知っている私は、全国民が、ナチス支持に回ったという歴史の事実の中で、経済問題や就職問題の食べて生きる必要や民族の誇りなどに固執し過ぎれば、誤った道に人心は導かれてしまうのだと分かったのです。

 悶々と苦しむのは、いつの世も、どこの国でも、若者たちです。ベルリン大学で、弱冠25歳で講座を担当した折、その授業を、《祈り》をもって始めるほどで、聴講の学生たちを驚かせたボンヘッファーでした。その数年後に、ヒトラーが宰相の地位に着き、人道にもとる政策を行い、ドイツの最暗黒の時代が始まります。でも、この第三帝国は、25年で崩壊してしまいます。現代の世界中の若者が、正しく選択し、決定し、責任を負うことができますように。まだ歴史に学ぶ必要のある私であります。

(留学したかったハイデルベルク大学、一度食べたい本物のハンブルグステーキです)

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秋刀魚

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 子どもの頃、まだ戦争の余韻が残る時代だったのでしょうか、「人間の条件」とか「真空地帯」などの戦争映画がよく上映されていました。軍隊の理不尽さや隊内の不条理さや酷さや辛さを描いて、戦争批判をしていました。そんな中に、兵隊の一番低い位の「二等兵物語」のシリーズが上映されていたのです。その中で、主演の伴淳三郎が、「歌う二等兵」を歌っていました。

粋な上等兵は 思いもよらぬ
せめてつけたや 星二つ
雪の夜中に ふんどし一つで
鳥毛逆立て 捧げ銃(つつ)
ひどいなひどいや こいつはひどいや

「コラ、何をガタガタふるえちょるんだ、
アーン、貴様年は何んぼか」
「でありまし」
「馬鹿者ありましとは何んたる事か
標準語を使え年は何んぼか」
「ハッ三十一でありー
ハッハックション」

敵が落した 焼夷弾が裂けて
髭の隊長が 腰ぬかす
ありゃりゃこりゃりゃとよくよく見たら
何と隊長の 髭が無い
すごいねすごいや 焼夷弾はすごいぞ

「隊長殿、御立派な髭が燃えちまって見当りません」
「馬鹿者!髭など問題じゃないんだ
司令部の屋根っこさ燃えてんでないか 分んねえのか
早く消せ!」

月も出たのに 休めはまだか
若い班長が 恨めしや
どこで焼くのか さんまの匂い
風が吹くたび 鼻が鳴る
つらいなつらいや 二等兵はつらいなぁ

 夕闇の帳(とばり)が降りて、薄暮が過ぎて、月の明かりだけの運動場で、ボールを投げ合い、走らされたり、うさぎ跳びをしていました。勝たなけれならない強豪校の予選会前の練習でした。喉は乾くし、お腹は空くのですが、『休め!』や『終わり!」』の号令は下りません。

 運動場の外れに、教員住宅や市営団地があって、秋の夕べには、夕食の秋刀魚を焼く匂いと煙が、たなびいてくるのです。バンジュンが歌う、『・・・どこで焼くのか さんまの匂い 風が吹くたび 鼻が鳴る・・・』の歌詞が思い出されて、まさに、『・・・月も出たのに 休めはまだか・・・』でした。もう六十年も前のことが昨日の様です。

 その秋刀魚が今年は不漁、一尾五千円もする高値だと、ニュースが伝えます。近所中で、サンマを焼くような子ども時代は、夢であった様に感じる〈世知辛さ〉の今日この頃です。平和の時代の只中で、〈コロナ騒動〉やら隣国の騒動やらイナゴの異常発生で、世相は騒然、庶民の心は恐れと不安に揺れています。それでも《否定的に過ごすよりも、肯定的に捉えて生きる方が得策だ!》に、うなずいて生きることにします。

 インターハイや国体の予選に勝っても負けても、全ては思い出の中です。悔しさよりも、あの秋刀魚の匂いが恨めしいほど、空腹だった方が、強烈な思い出です。明日は秋刀魚でも焼こうかなの、日曜の食いしん坊の夕べです。

(〈フリー素材〉の七輪の炭の上の秋刀魚です)

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