絶対者

 

 

文部科学省の問題行動・不登校調査によると、2017年度に全国の小・中・高校等で認知したいじめの件数が前年比28%増の41万4378件となり、過去最多となった。児童生徒1000人あたりの認知件数は30.9件だった。学校種別では、小学校が31万7121件、中学校8万424件、高校1万4789件、特別支援学校2044件で、いずれも前年より増加した。

文科省は、発生した場所が学校内かどうかは問わず、当事者が心身の苦痛を感じているものを「いじめ」と定義し、早期発見、早期対処を重視している。いじめ件数が急増しているのは、児童生徒が置かれている環境が急激に悪化しているというよりも、学校現場で、事態が深刻になる前に積極的に認知し、対応する動きが広がっているためと考えられる。

ただ、いじめ防止対策推進法に基づき、生命、身体、精神、金品に重大な被害が及ぶ「重大事態」と認定されたいじめも、前年度比78件増の474件となり、予断を許さない状況だ。

いじめの内容(複数回答)としては、「冷やかしやからかい、悪口など嫌なことを言われる」が62.3%と圧倒的に多く、「ぶつかったり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」21.0%、「仲間はずれ、集団による無視」14.1%と続いた。

いわゆる「LINEはずし」や「既読スルー」などSNS経由のコミュニケーション上で起こるいじめや嫌がらせは1万2632万件だった。全体に占める割合は3%だったが、高校生に限れば17.5%に上った。

★この記事は、”nippon.com”の「いじめ認知件数、過去最多の41万件 : 生命、精神に影響及ぼす重大事案は474件」に転載です。2017年度の報告ですが、これは国として憂うべき数です。

『この事態をどうするか?』を考えなければなりません。問題の根は深いのです。<異質者>を認めず、受け入れない大人たちの社会に、子どもたちが生きています。こんなに<生きにくい社会>が出来上がって、家庭と子どもたちの<精神の戸惑い>が見られます。この様に、「愛が冷える時代」に必要なものは、《絶対者との出会い》の他になさそうです。

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浅田次郎の著した「壬生義士伝」が映画化され、その主人公を中井貴一が演じていました。この人は、山梨県韮崎市の塩川(富士川の上流)を横切る国道20号の橋桁で、衝突死した俳優の佐田啓二の一人息子です。盛岡藩の脱藩浪士で、新選組の隊士・吉村貫一郎を演じていて、自分の故郷自慢をしている場面があります。盛岡のめぐりにある岩手山や 姫神山の名を上げて、山紫水明の盛岡を、新撰組の剣の達人、斎藤一に自慢していたのです。

誰もが自分の生まれ育った村や国の《国自慢》をするものですが、吉村貫一郎の自慢話を聞いて、盛岡って、どんなに綺麗な町であるのか、私は知りたくなってしまったのです。総理大臣を務めた原敬、米内光政、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(ほとんど江戸で育っていた様です)、詩人の石川啄木、その他無名の多くの人、この様な人たちが生まれて、育った街が、どんな街か興味津々なのです。

ここも通過しただけで、一度も訪ねたことがありません。剣術や軍事の専門家だけではなく、新渡戸稲造の様な、国際社会で活躍しうる人材を生んだ街であることは、大きな意味があるに違いありません。とかく東北人は、口の重い"ズーズー弁"で話すのだと言われてきましたが、人は朴訥(ぼくとつ)で、親しみやすいのです。

稲造は、十五歳で札幌農学校に入学していますが、気性の荒い鬼熊の様な男が、在学中に、穏やかな気性の人に変えられたと言われています。 あのクラークの教えを受けた上級生の感化を受けたからだそうです。 十五歳の青年を、作り変えてしまった札幌には、去年二度訪ねたので、今度は盛岡に行ってみたいのです。

北上川や雫石川の流れは綺麗なのでしょうね。古い日本が残されていそうです。中華風の”じゃじゃ麺”"の誕生の地だとも聞いたことがあります。旧満州に住んで、戦後帰国した方が、満州で食べた"ジャージャー麺"を基本に、工夫して作り、屋台から始まった、盛岡の郷土料理です。この稲造が食べたことのないと言うのが面白くて好いですね。稲造は、一高の面試の折に言った、『わたしは太平洋の橋になりたい!』を、見事に実現しています。十代に想い描いた夢でした。

(盛岡市内から望み見る「岩手山」です)

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霜月

 

 

いよいよ「霜月(しもつき)」、十一月です。この七日には、「立冬」となります。中国の黄河周辺の地域を基準に、太陽の動きを二十四に分けて、「二十四節気」が定められました。それを、日本でも受け入れて、旧暦、農業暦で、季節を暦の上で定めたのです。

今朝の外気は冷たく、ベランダの寒暖計は、"19℃"を示しています。濃紫の朝顔の花が開きました。まだ日の光がありませんので、鮮明ではありませんが、実に綺麗に咲いてくれました。

暦の上では冬が訪れるのですが、季節としては一番快適な時季でしょうか。もう学生のみなさんは、学校に「上课shangke」、出掛けて行く姿が見られます。秋を見つけに、私も出掛けて行きたいものです。

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奈々子

 

 

奈々子に       吉野弘

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい

自分を愛する心だ

こんなお父さんに見守られ成長した「奈々子」に会ってみたいと思うのです。《自分を愛すること》を教えたお父さんが素晴らしいからです。自己否定、自己否認が、多く見られるこの世で、ありのままの自分を愛せたら、順境の日も驕らず、また逆境の日にも凹まずに生きていけるからです。自分を愛せたら、隣人を愛することだってできます。そんな赤い頬の「奈々子」に会ってみたい!

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行く十月

 

 

このところ、友人やお嬢さん、兄や婿殿が、病んだり、手術をしたりでした。またこちらの友人たちやご家族の中に、癌や甲状腺の手術を考えておいでだったりする方がおいでです。そうこうしている間に、十月の最後の日になりました。癒えたり、快復したりを願っております。

まるで、月が羽根を生やした様に飛び過ぎて行きます。この写真は、小谷村の付近のススキ野の風景です。向こうに針葉樹林が見えます。こうやって秋が深まり、冬を迎えるのです。壁のカレンダーですが、最後の一枚をめくらねばなりません。2018年も二ケ月を残すのみとなります。

季節の変わり目に、私こと、ちょっと体調を崩してしまいましたが、例年のことで、もう大丈夫です。それにしても、《吾妹子(わぎもこ》は至極元気です。好い人々と出会ったり、美味しいものを頂いたり、素敵な十月でした。くる月も、そんな月であります様に。

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お芝居

 

 

これまで普段は、することのない経験を、偶然にでしたが二度ほどしています。一度は、小学校6年の「林間学校」で、五日市のお寺に泊まって、自然観察をした時でした。決して、お化けが出てきたわけではありません。東映映画の撮影隊が、このお寺の墓場を使って、時代劇の一場面を撮っていたのです。当時、東映映画は、時代劇専門の会社で、立川の東映の封切映画館には、何度出かけて、映画を観たか分からないほどでした。

その撮影現場に、俳優の「大友柳太朗」がいて、初めて「映画スター」の実物を見たのです。よくスクリーンで知っていた俳優でしたから、いつまでも見ていたかったのですが、そうはいきませんでした。浪人風の男を演じたら、この人の右に出る俳優はいないほどの、名優だったのです。何という題名の映画だったのかを聞かずじまいだったのが、大変残念でした。まだ、映画の舞台が撮影所にできる前だったのでしょうか。江戸時代を、昭和の五日市で撮影しているという不思議を、この目で見てしまったわけです。

もう一度も、テレビや映画でおなじみの「丹波哲郎」の、撮影風景でした。八王子の料亭ででした。勤めていた研究所の上司に連れられて食事に行った時に、テレビの番組の撮影が、一間に、照明器具が満ちこまれ、驚くほどの人数の撮影スタッフが、煌々(こうこう)たる照明の中で行われていたのです。テレビ番組も、テレビジョンの中で観るから、邪魔な物が見えないわけで、もう大人でしたから、<芸事>を、監督のOKがでるまで繰り返しているのを見て、俳優も撮影スタッフも、やってみたい仕事だと感じませんでした。

虚構の世界というのでしょうか、テレビの時間帯を埋め、視聴率を得るために、激しい競争の世界なのだと、大人の目で見られる様になっても、時代の錯覚の中で、まるで当時が再現されているかの様に、一喜一憂してしてしまうのは、脚本、芝居の作り方、演技、撮り方、編集などが上手なのだからでしょうか。

夢の売り手、夢の買い手がいて、夢に感動したり、泣いたり、笑ったり、憎んだりしたりがあっての世界なのでしょう。でも人生は、お芝居や映画ではなく、現実の、ただ一回きりの世界なわけです。これまで、ずいぶん多くの人と喜びの出会いをし、悲しく、また残念な別れをしてきたものです。『大丈夫かなあ?』と思ってしまう人が、何人かいます。彼らも、逆に、そう私のことを思っているのかも知れません。確かに、お芝居なんかではないのです。

(愛媛県今治市関前村・岡村港の風景です☞[HP/里山を歩こう])

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ボントクタテ

 

 

島根県東出雲に咲く「ボントクタデ(凡篤蓼)」です。島根は、兄二人が生まれていますし、母の故郷でもあります。地域名を「山陰」と言われるのは、ちょっと日陰者の様に呼ばれて気の毒ですが、母も兄たちも、そんなことを思ってもみなかった様です。岡山や広島が「山陽」と呼ばれるのですが、島根や鳥取が、別に中国山地の影に隠れているわけではなく、陽も燦々と降り注ぐ土地柄です。こんなに綺麗な清楚な花を咲かせるのですから。☞[HP「松江の花図鑑」]

弟と私が生まれた中部山岳の山奥は、まさに「山陰(やまかげ)」でした。でも自然の美しい山村だったのです。熊や鹿や雉(きじ)などの肉が食べられ、山菜も、木の実も豊富でした。もう今頃は、紅葉で綺麗に山が飾られていることでしょう。もうずいぶん帰郷していないのです。親族もいないし、過疎の村ですから、知人も住んでいないのでしょう。

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<買ったけど読まなかった本>が数冊あります。そう言う本を<積ん読書>と呼ぶのでしょうか。その一冊は、1920年に刊行された、賀川豊彦が書いた「死線を越えて」でした。神戸の新川にあったスラムに入って、貧しく、差別されていた人たちに、「友愛」を示した青年期の体験を記した小説でした。百万部を売ったという、当時の大ベストセラーだったのです。その復刻版を、私は買ったわけです。

ところが、高級書で、硬いボール紙のケースに入っていたのを出すことも、ページをめくこともなく、書棚に置いたままでした。この人は、今では、全国に数え切れないほどある、「生活協同組合」を始めたことでも有名なのです。戦後、三度ほど、「ノーベル賞」の候補になったのですが、受賞されないままで終わってしまいます。

なぜ、その本を読まなかったかと言いますと、この人は「平和主義者」で名高かったのですが、戦時下、憲兵隊本部に呼ばれてから、自分の節(せつ)を曲げてしまったのです。アメリカにまで出掛けて、世界平和を、アメリカ国内を講演旅行して訴えた人だったのにです。その彼の語った「平和主義」を堅持する考えは、アメリカから拍手喝采を受けていました。ところが、「憲兵隊での九日間」で、日本の戦争は聖戦であって、天皇のために勝利しなければならないという立場に、この人は鞍替えをしてしまったのです。

国全体が、日本人の全体が、国策や国体に賛同していたのですから、この人の変節も分からないではありません。でも、強固な平和主義者が、急転直下、反対の立場についた、その<不徹底さ>が、この人にあったことが分かって、読もうとする願いを削いでしまったわけです。終始一貫、賛成でも、反対でも、自分の態度を変えないのが、人の道だと、若い私は思っていたからです。

私の学生時代の恩師は、国家総動員法違反で、収監され、酷い拷問を受けました。私たちを教えてくれた頃も、杖をつき、講義中に、顔を引きつらせることもあるほどの後遺症を持っていました。恩師は、節を曲げずに、戦時中が獄舎の中で過ごし、終戦を迎え、学部長をされた後に、退官されました。

この人は、戦後になって、平和主義者を偽装したことを糾弾されていますが、自分の戦争責任に対しては、沈黙したまま亡くなっています。これは、私個人の賀川観であって、彼を誹謗中傷しようとするつもりはありません。この人を尊敬する人は、それで好いのだと思います。あの時代の憲兵の迫りと言うのは、きっと先年観た映画の「沈黙」に登場する、長崎奉行の様に、人間性の底に触れるほど、変節せざるをえないほどにきついものだったのでしょう。

念のため、1943年11月の九日間に記した、「賀川書簡」をご紹介します。『・・・私の名を貴会(戦争反対者同盟)より削除されたい。思うに米国は・・・日本経済を死滅に導くことを敢えてした。その瞬間、私は永年持っていた平和論を太平洋上に捨てざるを得なくなった。(出典「戦争責任・戦後責任」62頁)』、この人は私と同窓なのです。

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朝顔

 

 

この9月に、訪ねてくれた次男夫婦が、持参してくれたタネを、10月になって家内が蒔きました。その朝顔が、今朝花開いたのです。ビロードの様なも花びらを見せています。今年第2期目のアサガオです。6時半の撮影でした。なんか子育てを、またしている様な気持ちがしています。咲くと、拍手をして上げたいほどです。子育て中に、子どもたちに拍手してあげたかな?

次兄の術後も、長女の婿殿も、術後の経過が良好とのニュースが入っています。友人が検査後に、高熱を出したのですが、熱も平熱に下がり、普段の生活に戻った様です。好い一日をお過ごしください。

謳歌

 

 

『もっと優しく、見守って上げたらいいのに!』と思うことが、このところ多くあります。健気に生きていこうとしている、少女を、あんなに無残にも罵(ののし)ったり、貶(おと)しめたりすることがあっていいのでしょうか。嫉妬か、恨みか、いたいけのない新人に対しては、酷ど過ぎます。もし、実力がなかったり、また時流に乗れなかったら、元の生活に黙って戻って、平凡に生きて行けばいのです。次の機会があったら、再挑戦させて上げたらいいのです。

私は芸能人の生活に、ほとんど関心がありません。ただ若い頃、素敵だとか、すごいとか思っていた方たちの消息に関心はあります。『最近、どうしてるんだろう?』とか思うことはあります。でも、これからの人に向かって、引き摺り下ろそうとする、あの悪意は、どうもいただけません。というのは、木村拓哉さんのお嬢さんが、芸能界にデビューした途端、物凄い叩き付けが見えるからです。

可愛くって、感じがいいではありませんか。ご両親の良いところを受け継いでいて、活躍して欲しいと思うのです。誰にでも未熟で、不慣れで、不確信な時期があったはずです。けっこう寛容で、忍耐し、将来性を見てくれて、多くの人が、その世界で、一人前になっていくのです。まだ15才ですから。

日本って、こんなに不寛容な社会を形作ってしまったのでしょうか。もう引退してもいい様な政治家の繰り返される失言や失態には、けっこう寛容だったりしているのでしょう。力ある人には、尻尾を丸めてしまって、責めるることを躊躇してるのでしょう。自分の身や立場が危うくなるなら、心の中に不満を隠して、みんな黙り込んでしまいます。彼女は、誰にも危害を加えたりしていないのに、煽り立てて、引き降ろそうとする動力には、こちらが腹立ちしてしまいます。

お父さん、またはお母さんが嫌いで、娘まで憎くなる感情っていうのが、日本にはあり続けているのでしょうか。漱石が、「草枕」で、『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』、このくらいの住みにくさ だったら、誰も傷つかないことでしょう。揶揄や嫉妬なんか気にしないで、"15の秋"を精一杯に謳歌(おうか)して欲しいものです。

([HP/里山を歩こう]の配信してくださった「リンドウ」です)

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