有明菫

 

 

これは、東広島市の溜池で咲く「アリアケスミレ(有明菫)」です。[HP/里山を歩こう]のマルタン2号さんが訪ねた日が暖ったので、季節外れの開花だったそうです。秋の花も晩期で、そろそろ来春まで、咲く花を待つ季節の様です。忠実に送信してくださる写真と記事を、ずいぶん楽しませていただきました。有難うございます。

私は、もう随分昔から、中国の東北部の満州里に咲く、歌に歌われていて知った「アゴニカ」に出会ってみたいと願ってきています。ロシアのシベリヤとの国境付近の原野で、春に咲く花だそうです。雪を割って咲き出すのでしょうか。子どもの頃、病弱で臥せっていてラジオを聞いて育ったのですが、「復員の時間」、「尋ね人の時間」と言う番組がありました。戦争中に外地で生活したり、戦争で派兵されていた方の「戦後の消息」を知らせていました。

 『○○にお住まいだった〇〇。△△さんがお探しです!』と、アナウンサーが話していたのです。満州のソ連国境に住んでいたみなさんは、この花を知っておいでなのでしょう。南方にいらっしゃった方は、南洋に咲く花をご存知なのでしょうね。きっと大きな慰めになったなったことでしょう。こちらも、めっきり木々に咲く花がなくなってきてしまいました。時々、家内が切り花を買ってきます。今は、「菊」の一種がテーブルの上に飾られています。

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接点

 

 

去年、北海道の病院に入院中、道内を転勤して働いてきた、私より少し若い方、と言っても,すでに退職されていましたが、彼と同じ病室でした。お仕事の細かなことを聞きませんでしたが、道内の遺跡について詳しく、埼玉県にある遺跡まで訪ねたりしておられました。

この方が、「オホーツク文化」の存在を、実に情熱的に知らせてくれたのです。若い頃の僅かな教員経験しかない私には、新しい情報の提供でした。網走に、その遺跡があり、道内のあちこちに遺跡があると言っていました。興味を引いたのは、「黒龍江(ロシアではアムール川と呼ばれています)」周辺に起源があって、そう言った大陸との繋がりの文化だったことです。

それまで、「南蛮貿易」などの《南方志向》だった私が、北に思いを向けることができたのは大きな変化でした。高二の修学旅行で、初めてオホーツク海を眺めた時の印象は、実に強烈だったのですが、その印象を呼び起こしてくれたのが、この方との出会いでした。

小学生の頃、旧友から、川の近くの小高い丘に、「貝塚」があると聞いて、そこに行ってみました。眠っていたものを呼び起こされた様でした。土を掘り起こしたら、鏃(やじり)や土器の破片を見つけられたのです。古代の人の生活と、昭和を生きる私との接点を見つけた感動は、実に大きかったのです。中学に入ると、高等部の考古学部の発掘調査に、担任が誘ってくださって、何度も、あちらこちらと出掛けては、手伝いをしたのです。

そんなで、「考古学」を学びたかったのですが、いつの間にか、その情熱がしぼんでしまって、時が過ぎたのです。それが、この「オホーツク文化」について、熱く語る方と出会って、興味が、心に再燃したわけで、《ヤケボックリに火がついた》様です。奥様から和菓子を頂いたりで、おじいさんのこれからの趣味には、ちょっと面白いかも知れません。いつか網走の「モヨロ貝塚(遺跡)」や紋別や北見の遺跡を訪ねたい気持ちが溢れています。

森繁久彌が、「オホーツクの舟唄」を作詞しています。

知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜は明ける

旅の情けか 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと
岩影に寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 知床の村にも
君は出てゆく 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いカモメよ
白いカモメよ

「朔北(さくほく)の地/辺境の北方をそう言う様です)」、稚内から海を渡って「アムール川」に、古代人の足跡を追ってみたいのです。日ロ関係が改善されてたら、いつか実現できるかも知れません。私は、この人たちの子孫になる可能性だって、ないとは言えません。だからこんな関心と感動があるのかも知れません。うわー、そこに接点がありそうです。

(モヨロ貝塚で出土したものです)

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循環する人格的感化

 

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、『精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、かつて達せられたことのない段階にまで登り詰めたと自惚れている。』という言葉を残しています。随分辛辣(しんらつ)なことを言う方です。ドイツ人気質の学者だからでしょうか。

この「精神のない専門人」と言うのは、利潤を求めようとする時、『不正なことをしない!』と言う<倫理観>を持たない経営者のことを言っています。儲けるためには手段を選ばないで、営利主義に走る経営者が多いのかも知れません。鉄面皮の様に、優しさとか、『みんな益ために!』と言った気持ちに欠けている経営者のことです。アルバイトをしていた時に、そんな経営者がいました。

そして「心情のない享楽人」とは、「天職」としての自分の仕事を、精一杯励んでしようとする気概を持たない労働者のことです。ヴェーバーは、人の仕事を「天職」、つまり天が備え、与えたものという理解を持った人でした。勤勉に働くのは、自分に課せられた「仕事」の意味や価値や使命を知っているからなのだと言うのです。アルバイトをし、社会人として働いた職場にも、自分の仕事への不満を持って、楽しく溌剌と働かない人が、結構いました。

勤勉に働くことが、仕事を成功させ、そうすると評価が高なり、給料が増えると言う好循環があります。それが会社を富ませ、さらに業績をあげさせ、優良企業となって行きます。何時でしたか、あるホテルでセミナーが開かれていた時、そこの従業員のみなさんが、高い意識を持って、楽しそうに働いていたのです。誰もが、そう感じていたのです。

それで、『どうしてですか?』と聞きましたら、『待遇が好いからです!』と言っていました。好い仕事を生み出し、企業を富ませるのは、そんな単純な原理なのでしょう。経営者だけが豊かにならないで、利益を従業員に分配することが、高い企業評価に繋がります。自分の仕事を正しく評価されると、好いサーヴィスを生み、好い製品を製造させるのです。

また、マックス・ヴェーバーは、政治家にとっての特に重要な素質として「情熱」、「責任感」、「判断力」の三つを挙げています。国や自治体の代表として、それを好くしようとする政策を提案していく「情熱」を持つことが、政治家には必要です。正しく「判断」し、「責任感」を持つことも必要です。そう言った指導者がいる国や自治体の住民は、安心して生活ができるのでしょう。それで、国や自治体や市民が安定していくわけです。

とどのつまり、人も組織も《自惚れないこと》、《怠けないこと》、《享楽に溺れないこと》です。「小国主義」を掲げたジャーナリストで、後に政治家となった石橋湛山は、素晴らしい政治家だったのではないでしょうか。実に短期間でしたが、内閣総理大臣をされた湛山は、甲府一中の中学生の頃に、大島正健校長の薫陶を受けたことが、彼の人となり、政治家の姿勢を作り上げた、と後になって語っています。

その大島正健は、17歳の時に出会い、人格的影響を与えられたのは札幌農学校で出会ったウイリアム・クラークでした。一年にも満たない、ほんの短い間の人格的薫陶だったのです。その青年期の一人の人との出会いと薫陶とは、この人の一生を貫いています。これを《循環する人格的感化》と言うのでしょうか。

(石橋湛山が、母校の後輩に書き残した書です)

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郷愁

 


今朝、ベランダの寒暖計は、7時半で、18℃でした。同じベランダで、また二輪の朝顔が咲き、秋の花ではないのですが、私たちに目と心を楽しませてくれます。お母さんを呼ぶ小学生の声が、響いています。家内が”ベランダ会議“をする隣家のおばあちゃんが、風邪をひいた様で、顔を見せていないそうです。先ほど娘さんに、家内が声をかけていました。

今日は、弟の誕生日で、今朝2時頃、目が覚めて、「誕生祝い」のメッセージを送信しました。上の兄2人は、島根県で生まれたのですが、弟と私は、軍需工場の責任を任された若い父の赴任地、中部山岳の山の中で生まれました。熊や鹿の出る様なあたりでした。40年以上前に、兄弟4人で訪ねたて以来、訪ねていません。いつかまた、生まれ故郷を訪ねて見たいものです。

あの「故郷」の歌の意味が、“ウイキペディア”に次の様にありました。

1 野兎を追ったあの山や、小鮒を釣ったあの川よ。今なお夢に思い、心巡る忘れられない故郷よ。

2 父や母はどうしておいでだろうか(「います」は「居る」の丁寧形ではなく、古語の尊敬語「坐す」なので、「ゐます」とはしない)、友人たちは変わりなく平穏に暮らしているだろうか。風雨(艱難辛苦の比喩とも)のたびに、思い出す故郷よ。

3 自分の夢を叶えて目標を成就させたら、いつの日にか故郷へ帰ろう。山青く水清らかな故郷へ

この年になると、父も母もいませんし、幼い日の 友の消息は分かりません。でも思い出だけは、鮮明に残っています。これが「故郷」なのでしょう。

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走る孫

 

 

この秋の運動会のでしょうか、2人の孫の持久走の走りを撮った写真が、今朝送られてきました。後ろ姿でひた走る姿がいいですね。前に向かって、自分の前にある、生きるべき行程を、力強く走って行く様に願ったところです。もう2人の孫も、元気に成長している様です。孫たち4人の成長を祝しているジジとババです。

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懐旧

 

 

人生の最も好い8年間を一緒にお過ごして、多くのことを教えていただいた《お師匠さん》は、アトランタの大学の工学部を出て、空軍のパイロットをされておいでしたが、日本を愛して、二十代の中頃にやって来られたのです。1972年の8月に、中部圏の地方都市で、ご自分の事業を開拓されて、私は8年間彼の働きの助け、きっと邪魔の方が多かったかも知れませんが、一緒に働きました。

日本人の奥様との間に、二人の男の息子さんがおいででした。温厚な方で、近所の方には、とても評判の好い方でした。貸家住まいをされ、純和式トイレで、アメリカの地方都市の名門の出身でしたが、日本風の地味な生活をされておいででした。前立腺の病気で、2002年に66才で召されました。

この方は、ジョージアの片田舎(フロリダ州タラハッシーに近い州の南部の街です)で、”GE(General Electric)“の電気製品を扱う<街一>の電気店を経営するお父さんとお母さんに愛されて育ったのだそうです。彼が日本で住んでいた家は、『子どもの頃に、ジョージアで住んでいた家の自分の遊び部屋は、この家と同じほどです!』と言っていました。アトランタの大学で学んで帰京すると、お父さんは、地下の「牛肉貯蔵庫」に降りていって、吊るされている牛の一番良いところを切って、ステーキにしては食べさせてくれたそうです。

彼は、<アメリカ版御曹司(おんぞうし)>で、街では自慢の息子を持つ両親として知られていた、そんな羨ましくも、次元の違う話を聞かされて、一緒に働いたわけです。<日本版>の私は、太刀打ちができませんでしたが、ただ尻尾を丸めているだけではなくて、実は爪を研いでは、反発していたのです。<御曹司対決>で、彼も若く、私も若くて、正直にぶつかり合ったと言うのが正しいと思います。それだけ近く親しかったと言うことでしょうか。

彼が、2002年9月に召されたのですが、その直前、入院中の彼を見舞った時に、彼の方から、先ず、私を赦してくれました。そして『I am sorry /御免なさい!』と、ご自分の若い日の不足と未熟さを詫びられたのです。それを聞いた私も、心から悔いて、『私の方こそ、御免なさい!』と言いました。私は、私の家族と彼の家族の間であった軋轢や不和、たぶん不理解でしたが、それについて、第三者に言うことをしませんでした。内々にしたのです。

この方のことを思い出しますと、レイ・チャールズが歌った、”Georgia On My Mind “と言うジャズの名曲を思い出すのです。このチャールズは、黒人差別に反発し、故郷の南部ジョージア州との関係を悪化させたことがあったそうですが、その優れた歌唱力は、誰もが認めるほどで、1979年に、この彼の歌った歌が、ジョージア州の州歌になったのは有名な話です。この中国だと、私たちの住む省は、アメリカ合衆国のジョージアと同じ様な位置にあるかも知れません。

北京語を話す都会人には、この地方都市は田舎に見えるでしょうし、訛り言葉がはっきりしていると言われています。最近、北で育った方の言葉との違いが聞き取れる様になり、私たちの話し言葉は、基本的に、「普通語putonghua」だと言われます。12年前に、天津で中国語を最初に学んだ名残なのでしょうか。あの師匠の英語も、“ジョージア訛り”だったのでしょうね。懐かしい方です。

(アメリカの通貨で“4分の1ドル”で州の名産「桃」がデザインされています)

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詩人

 

 

秋の夜の会話  草野心平

さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中は痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

福島県いわき市出身の草野心平(1903年〜1988年)が、25才の時に 作詩したものです。週の半ばに、家内と知人宅を訪問し、夕べのひと時を共に過ごしているのですが、秋の夜半の虫の声が、徐々に強くなってきています。やはり秋たけなわと言った感じがしてまいります。昔、鈴虫を友人からいただいたことがありました。とても好い鳴き声がして、一秋の何日かを楽しんだことがあります。

"チンチンチンチロリン"と鳴くのでしょうか。寒くなってきて、痩せてきて、切なくなるほどで、心平青年は死にたくもないのです。人のいろいろな感情を知ってか知らぬか、秋の虫の鳴く声を、ただ、心平は静まって聞いているのです。

この「虫」を読んだ後、草野心平は、「蛙」と「富士山」を取り上げた詩を多く詠んだ詩人でした。スケールの大きな詩を詠んでいます。自分の職業欄に何と書いたらいいのか迷ったら、「無職」と書く代わりに、「詩人」と書き込めたら素晴らしいですね。寺山修司は、自分をそう呼んでもらうのを好んだそうです。

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花ある風景

 

 

今朝も、小雨がシトシトと降っています。やはり、一雨ごとに寒さに向かっているのでしょうか。ベランダの第二期目の朝顔が、今朝も鮮やかな色を見せて咲きました。上に蔓をのばすことなく、鉢のそばで咲いています。例年、次の年の一月ごろまで咲くのですが、どうなることでしょうか。子どもたちが、夏前に、朝顔を学校で、種から育てて、夏休みに家に持ち帰っていたことがありました。

花のある身近な風景というのは、実に好いものです。この小区の庭の木々に咲く花も少なくなってきて、やはり植物の世界は、冬に向かっているのです。確かに季節外れの朝顔ですが、朝ごとに、『今朝はどうかな?』とカーテンを開けて、見つけると、なんとも嬉しくなってきます。未熟な親がら育てた四人の子どもたちも、まだ私には《子ども》のままで、これも『どうしてるかな?』の毎朝です。

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内外

 

 

1968年12月10日に、東京都府中市内で起こった、「三億円事件」から、半世紀が経とうとしています。事件は未解決のまま、実行犯の目星もつかないままなのだそうです。当時、私は、学校を出て2年目で、八王子市内の職場に勤めていました。何時もは見かけないパトカーが、そこにやって来たです。職場の中に、刑事が入ってきて、事情聴取をしていたのです。チラリと、鋭い視線を私にも向けていました。

この事件の現場は、旧国鉄の国分寺駅と京王線府中駅を結ぶ道路と、これに並行したもう一本の道路とを結ぶ道路上(学園通り)で起きています。実は、この写真の様に、「府中刑務所」の壁際を通っていて、ここを、高校の頃、冬期には、"刑務所三周"のランニングコースだったのです。念のため、塀の外側を走っていました。灰色の塀を眺めながら、少しも面白くないランニングでした。東芝電気府中工場が、この写真の手前に道路を挟んでありました。

その府中工場の従業員に支給する年末ボーナスの入ったケースを盗まれたわけです。半世紀前の三億円というのは、当時の私の月給が、27000円(ウイキペディアでは、大卒給与が35000円とありますが)でしたから、想像がつきそうです。そんな事件があったことなど知らない後輩たちが、今でも、この塀を横目に、走り回っているのでしょうか。

府中市内のタクシー会社では、「三億円事件ツアー」と言うのが行われているそうで、そんな観光コースになるなどとは、犯人も想像しなかったことでしょう。あたりは櫟林(くぬごばやし)の武蔵野の風情が溢れていたのですが、そんな面影も失せてしまって、半世紀を迎えるわけです。

6年間通った学校の近くで起こった事件でしたから、特別な思いもあります。もう八年ほど前になるでしょうか、私たちの住む町の隣町から、ある夫妻が、私を訪ねて来られました。息子さんが、この府中刑務所に服役していて、訪ねて欲しいとのことで、訪ねて行ったことがあります。だいぶ検討してくださったのですが、面会は叶いませんでした。その時初めて、刑務所の内部に入らせてもらったのです。ただし、服役区域の塀の外でした。

今では外国人の受刑者が多い刑務所だそうで、一度も服役することなく、私はすみそうです。でも心の中で思ったことや企てたことが露わにされたら、塀の外も内も、法を犯したか犯さなかったか、運がよかったか悪かったか、紙一重の差しかないのかも知れません。塀の外を走っていた高校の時には、『何時か俺も入る可能性だってないとは言えないかな!』と思いながらだったのを思い出します。もうないかな。

(産経新聞による事件現場の写真です)

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深まりゆく

 

 

深まりゆく秋の広島県北広島町の八幡高原に咲く「カワラナデシコ」です[☞HP/里山を歩こう]。今頃の山道を歩くと、落ち着いて、気持ちが好いことでしょう。私たちの住む街は、盆地の様な地形で、巡りの山は、急峻ではなく、歩くには絶好です。

この1ヶ月ほど、風邪でしょうか、それとも緊張感が緩んでしまったのでしょうか、少し体調を崩してしまったのです。中国漢方のお医者さんが知り合いにいまして、先週、この方に診ていただいて、処方の中薬を飲み始めました。免疫力の増強だそうです。生活習慣は慣れたのですが、この地の季節に変わり目には、まだ慣れないのでしょうか。

新しい週が始まりました。素敵な一週間をお過ごしください。蜜柑も柿も栗も美味しい季節ですね。

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