真実な

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青年期に読み、中年になって読み直した小説に、高橋和巳の「堕落」があります。

この小説の主人公は、国粋主義の活動家の青木隆造で、戦前、旧満州国の建設に携わった人物でした。「五族協和」や「王道楽土(おうどうらくど)」の実現という野望を持って、青年期を生きたのです。その後、満蒙開拓団に関わり敗戦を迎えます。敗戦後を、どう生きたのかと言いますと、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれ、そして捨てられた混血二世の子供たちの世話をするのです。

青木は、「兼愛園」という施設で、園児に慕われ、職員に敬われる園長となります。そう言った社会事業に関わり、戦後を生きるには、戦前の体験が動機になっていたのでしょう。主人公は、満州国が崩れ落ちてしてしまったことで、思想的に崩壊するのです。罪責感と償いとが、その戦後の生き方の動機でした。

ところが、長年し続けてきた社会事業が、ある新聞社によって顕彰され、副賞200万円を手にするのです。そこから、「堕落」の底に、主人公が転がり落ちて行く様子が描かれています。心の緊張が緩んだのでしょうか、押さえ込んできた欲望が吹き返したのか、一緒に表彰式に上京した施設の事務職員の女性と過ちを犯してしまいます。そして賞金を手にして、巷間の安宿に投宿します。飲むこともなく社会事業に専念して生きてきた生活が、変調をきたし、酒に溺れる様になります。

右左に大きく揺れた人生が、社会的な認知と表彰を受けるということで、再び大きく揺れてしまうかの様に、本来の自分に戻ってしまうです。街中でチンピラに絡まれて、〈満州浪人〉だった彼の本性が露わにされます。かつて満州でしていたのでしょうか、手にしていた傘を腰に、しっかりと構えて、チンピラを刺し殺してしまうのです。

社会的に評価されることによって、精算されていない自分の過去が露呈してしまう「怖さ」を、私は覚えたのです。どんな善行も、償い得ない〈過去の罪〉や〈挫折体験〉や〈夢の崩壊〉という人の世の現実を見せられたのです。ヤンチャに生きて、喧嘩ばかりして、いい気になっていた青年期が、正しく処理されてないと、主人公の青木の様な結末を迎える怖さを、私は感じたわけです。
 
この“ メランコリック ”な小説を読んだことは、私には益でした。私の父と同世代の主人公の生き方と、南満州鉄道で働いたことのある父の戦後を比べたりして、考えさせられたことが大きいのです。父の生涯の最終には、真実な「悔い改め」がありました。

(大陸をかつて走っていた蒸気機関車です)
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算了

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『社会生活をしていく上で、《関係作り》が一番大切なのです!』と、これまで教えられ続け、それを実行して来たと言えるでしょうか。それと共に大切なのは、《関係の維持》への最大限の努力なのです。人には〈感情〉があって、けっこう簡単に感情が傷ついてしまったり、関係がもつれてしまったりすることが多いのです。悠長で忍耐深い方も時折おいでですが、一般的に人は〈傷つきやすい〉と言えるでしょうか。

一度、そうなってしまうと、回復するのが極めて難しいのです。だから《関係の維持》が求められるのでしょう。それまで、家族の様に近い関係にあったのに、手の裏を返す様に、捨て台詞で私に、踵(くびす)を返して、去っていってしまった方が何人かいました。どうしても言わなければならないことを、言った結果です。生き方や在り方に、〈甘え〉があったり、過去に〈傷〉があったりしたのでしょうか、ガラスの様でした。

小説や演劇の中だけではなく、現実の生活に中によくあることです。地理的にも心理的にも、遠くに行き過ぎて、願えども《関係回復》は不可能の様です。関係を壊すことは容易ですが、立て直すことは至難の技です。

国と国との間に、齟齬(そご)が生じて、過去が蒸返してしまい収拾がつかなくなってしまっています。お隣の韓国との関係です。同級生にも、友人にも韓国の方が何人もおいでです。彼らとは、実に素晴らしく良い関係があり、疎遠になった今でも、尊敬の念は変わりません。立派な方たちです。

人も国も、過去に思いを向け過ぎて、未来を見ようとしないのです。「覆水(ふくすい)盆に返らず」、こぼれて流れ出てしまった水を、もう一度器に返すことはできません。歴史の事実を変えることはできませんが、《詫びること》と《赦すこと》は、謙虚になり、冷静になれば相互にできます。

中国の生活の中で、中国の街中や公共バスの中で、喧嘩をしている人の間に立って、『算了算了suanlesuanle!』と言って仲裁している光景を何度か見たことがあります。『もうそれまでにしなさい!』という意味です。喧嘩の当事者には言えない言葉も、第三者には言える言葉です。

感情が亢進(こうしん)してしまうと、悲惨な結果を迎えてしまうので、仲立ちをする人が必要になってきます。酸いも甘いも噛み分けられる年配者が、そうされていました。そうすると感情が静まって、挙げた手を下すことができるのです。喧嘩をする本人たちは、仲裁者を待っているのです。『平和である様に!』です、ね。

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朝顔便り/7月11日

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縁側の窓の下の花壇が、賑やかです。朝顔の蔓が伸びて来て、待ちわびている花が咲きそうな素振りを見せています。華南の街の家のベランダで、家内が育てた朝顔は、みるみるうちに蔓を伸ばして、花を咲かせたのですが、ここ北関東での生育は遅いのです。気温が上がらないからでしょうか。

一昨年、家内が、弟にプレゼントした「ハイビスカス」が、一年中咲き続けていると、知らせてくれたので、『それではわが家でも!』と、先日、長男が来てくれた時に、病院の帰りに、ホームセンターで、一鉢買って来ました。その蕾が膨らんできています。

間も無くわが家でも、庭が花盛りになることでしょう。もう一つの窓の下には、「コスモス」の種を、家内が蒔いていて、もうその背丈が大きく伸びて来ています。花も、暑さの苦手な私も、それでも暑くなって花に元気を与えて欲しいと願いながら、梅雨空を見上げるこの頃です。
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ユダヤの格言に、「友はどんな時にも愛するものだ」とあります。ユダヤ人の間に語り継がれる、有名な《友情物語》があります。『あなたの私への愛は、女のにもまさって、素晴らしかった!』と言わせたほどの愛を、ダビデ王が告白しています。主君の子のヨナタンからの愛は、自分の命を捧げるほどの愛だったのです。それに、ダビデが感嘆していたのです。

これは、畏友ヨナタンの死への哀悼の意を込めた告白であります。ヨナタンは、ダビデを、ただ友愛によっただけではなく、「自分と同じほどにダビデを愛した」のです。これは自己犠牲的な愛を実行していて、ギリシャ語で言う “アガペーの愛” を示していたのでしょう。

王の子は、王位継承権を約束されていたのに、嫉妬に満ちた父サウルの仕業の中で、ダビデを守ったのです。自分が王位を継ぐことよりも、友の命を、父の手から守る方を選んだほどの愛でした。それは、《契約に基づく愛》であったのだそうです。男と男、漢と漢、真正の男の間に交わされ、約束され、誓われたものなのです。

『友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。』と、マーク・トウェインは言いました。しかし、私の若い日に、多くのことを教えてくれた恩師は、《真の友》とは、事を誤ってしまった時に、味方してくれるだけではなく、間違いや誤りを指摘し、責め、悔いることを勧める、『そんな友を得よ!』と教えてくれたのです。

そう言った友を得たいと願うなら、そのような友に、自らがならなければ、得ることはないのでしょう。中国の街中で、よく見かけるのは、大人の男性が、2人で肩を組み合いながら道をゆく光景です。酔っているのでも、あの可笑しな関係でもないのです。友情を確かめ合う様に、肩を抱いているのです。

中学まで、肩を組み合う友がいましたが、あれ以降、誰の肩も組まないままです。そう、真の友とは、 編み物の縦糸と横糸とが交互に編み合わされる様な,” knitting ” の関係だとも、教えられました。心と心が、ちょうど肩を組む様な近さになることなのでしょう。このユダヤの格言には、実は続きがあるのです。「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と。

友と兄弟とは、妻と自分との関係と同じほどに近いものなのでしょう。

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気骨

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明治の気骨と言うべきなのか、関東大震災の被災経験があるのか、私の父は、災害時に泰然自若としていたのではありませんでした。台風襲来のニュースを、ラジオで聞くと、雨戸など、まだ、どこの家にもなかった時代、窓という窓の木製の窓枠に、父の手伝いで、板を❌に打ち付させられて、備えをさせました。

地震で家が揺れると、『準、玄関を開けろ!』と言って、出口を確保させたのです。今では昔話になってしまう騒ぎでした。それだけ自然災害の怖さを、父が知っていたと言うことでしょうか。もう何十年も前に、『東京に大地震が起こり、壊滅的な被害がある!』と言う警告を聞いたことがありました。確かに、地震はいつでも起こり兼ねませんし、南に見えた富士の山だって火山爆発の可能性はあったのです。

その所為(せい)でしょうか、私の知人は上京する時に、瓦礫の道を歩けるような靴を履き、食料をリュックサックに詰めたり、野宿できるような備えをして出かけるのだそうです。そして、交通網が機能しなくなったら歩いて帰宅するそうです。私は思ったことはありますが、備えをしたことがありません。

でも、しておきたかったのは、子どもたちとの集合場所を決めておくことでした。まだ携帯電話などなかった時、大災害が起こって消息不明や連絡方法がなかったら、落ち合う場所を決めておこうと考えて、彼処でもない、此処でもないと考えたのです。橋の袂や駅の前やデパートの前などはどうかと思ったのですが、崩壊してしまう可能性があって無理だと結論したのです。

そうなんです、行きはぐれて会えない事態を恐れたからです。ところが、4人の子どもたちが、それぞれ独立した今は、5ヶ所に分かれて住んでいて、その上、娘たちは外国住まいですから、『地上では会えないかも知れないかな!?』、と思っているところです。

〈備えあれば憂いなし〉と分かっていても、水や乾パンやチョキレート、ラジオや軍手や簡易トイレや新聞紙などと思うのですが、父の様な経験がない私は、なかなか腰を上げません。チョコレートなど、しまった場所を、しっかりおぼえていて、手をつけて食べてしまうことでしょう。どこかのスーパーマーケットで、防災グッズ一式を売っていたことがありますが。

最近のニュースを聞くと、身辺で何が起こっても不思議ではないので、真剣にならなければならないのでしょう。アメリカ西海岸、ロサンゼルス近郊で、マグニチュード6.4、7.1の地震があり、余震もあって、住む家が大揺れに揺れたそうです。怖いでしょうね。

さて、備えで家内と私だけが肥え太っていたら、『あの家には食料がたくさんあるに違いない!』と、襲撃されかねないかと心配してしまいます。そんな怖い時代が来ているのでしょうか。やはり、昭和の気骨で、備えるべきでしょう!

(江戸を襲った安政のだいじしんの「浮世絵」です)
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この両者には、違いがあります。上は、“キャラメル” で照りを加えているのに、下は、そう言った照りを省いて、自然のままの焼きですませているのです。見た目には、上の鰻の方が、輝きがあって美味しそうですが、やはり人工的な見栄えが加えられています。

「通(つう)」と言う言葉があります。“漢字ぺディア”には、「①ある物事に非常に詳しい人。もの知り。「食の―」 ②世情や人情に通じてもの分かりのよい人。」とあります。食通、鰻通の人に言わせれば、『見た目よりも味!』と言うのでしょう。先週の足利の鰻は、ウマイのです。

もう50も60年も経ちますが、鰻よりも、「泥鰌(どじょう)通」の父は、私を浅草駒形の土壌料理屋に連れて行きたかったのです。『準、いつか駒形で泥鰌を喰おうな!』と言ったままなのです。弟や友人に、一緒に行こうと誘いをかけているのですが、いまだに実現できないままです。ここから特急に乗れば、一本で浅草なのです。近くて遠おきは、泥鰌鍋です。
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国花

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私たちの国には、国家として制定した国花はありませんが、この「桜」と「菊」が、国の象徴の花として考えられています。「桜」は庶民の花、「菊」は皇室の紋章に使われる花だと言えます。

お隣の中国にも、国が法定した国花はありません。それでも、「牡丹」と「梅」を国花と主張する人たちに二分されている様です。学生のみなさんに尋ねましたら、50%50%の答えが帰って来たことがあります。台湾は「梅」、韓国には「木槿(むくげ)」、フィリピンには「サンパギータ(Sampagita)」です。
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私の青年期に移住を真剣に考えていたアルゼンチンは「セイゴ(アメリカンデイゴ)」で、上の花の様に真紅の綺麗な花です。これは、鹿児島県の「県木」で、和名は「カイコウズ(海紅豆)」だそうです。

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今更

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七月七日は、〈二十四節気〉で、「小暑」にあたります。この〈二十四節気〉が作られたのは、紀元前の中国の黄河流域の「中原(ちゅうげん/東周時代の首都が、この中原の「洛陽」でした)であったため、日本の気候とは、だいぶずれがあります。

この〈二十四節気〉の内、「立春(2月上旬)」、「立夏(5月上旬)」、「立秋(8月上旬)」、「立冬(11月上旬)」の4つの節気は、それぞれ春夏秋冬の始まりを言っていますが、『春と言うには名ばかり!』と、時期尚早な思いを、私たち日本人は感じますが、よく『暦の上では・・・』と言って、その「ずれ」を表現します。

華南の地に12年住みましたので、この「小暑」の時期が、小さな「热re/中国では〈暑さ〉を〈熱〉で書き表します」どころではなく、酷暑になっています。今頃体感温度は、40℃を超えていることでしょう。もう学校も夏休みに入っていて、ホッとしている時期です。

こちらの街中も、期末試験中の高校生が、早めに帰宅してる姿が見られます。何せ高校が八校もある街だから、見事です。また海のない県だから、夏休みには、湘南や茨城の海に、海水浴に行くのでしょうか。

車に4人の子をのせて、静岡の伊豆や相良の海に出かけた日が懐かしく思い出されます。行く道のサービスエリヤで、〈イカの姿焼き〉が食べたかったみんなに、食べさせてあげたいと思っている、「小暑」の今更の老父です。

(洛陽の旧市街の写真です)
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遠足

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日本人の間に、ウナギを食べる習慣が一般にも広まったのは、1700年代後半、江戸時代だったそうです。日本最初の〈キャッチコピー〉は、ウナギの売れ行きが悪かった鰻屋が、平賀源内に相談し、

“「本日丑の日」
土用の丑の日うなぎの日
食すれば夏負けすることなし ”

と言う看板を出すことを勧めたそうです。そうしましたら、うなぎのぼりに売上が上がって、大繁盛したのだそうです。ちなみに今年の「土用の丑の日」は、7月27日に当たるそうです。

今日、友人夫妻が、家内と私を「遠足」に誘い出してくださって、「足利学校」で有名な足利市にある、鰻屋さんで、二重にウナギを重ねた「うな重」をご馳走してくださったのです。この鰻屋さんは、一日の串の本数を決めて、〈売り切り閉店〉の営業をされているのです。お父様が始められて、今の主人が二十代で暖簾を継いで40年になるそうです。普段は鰻に串を刺し、串焼きの仕事をする〈頑固な親爺さん〉なのですが、休みには、1500ccの大型バイクに跨ってレクレーションをするのだそうです。なんだか羨ましい生活をされる方です。

暑くなく、雨もなく、涼しい一日を、「遠足」の様にして、外を出歩くことができた家内は大喜びでした。血液を取られるための通院ではなく、青田を眺め、峠道を走り、「道の駅」で買い物をし、ぶどう園の脇を通過した半日は、この半年なかった経験でした。港町の老人ホームに問安して以来です。美味しい鰻と友情の一日に、感謝で思いがいっぱいです。

帰って来て、この夕べ、このご夫妻に感謝のメールを送りました。

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正人さんご夫妻

ありがとうございました。
まさに半年、7ヶ月ぶりの、気の晴れるような半日を過ごせたと、家内が言っています。
去年の12月の初め頃、馬頭rと言う港町に老姉妹がいる老人ホームを訪問しました。
◯師の娘で医師をしていた100歳の姉妹や85歳の元教師、その他の方を訪ねたのです。
とても好い交わりをして、『みなさんでお昼を食べておかえりください!』と、お昼代まで頂いて、その港町で食事をした時以来です。
家内は帰宅しても疲れた様子がありません。
帰ってから少し休んだ後は、元気です。
お二人のお気持ちに強められたのでしょう。
ありがとうございます。
家内への足利遠足、小生への温泉浴、
お気遣いを、心から感謝します。
ありがとうございました。
心から御礼申し上げます。

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八染躑躅

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これは「ヤシオツツジ(八染躑躅、八汐躑躅)」で、栃木県の県花に指定されている花です。城を持たなかった武田信玄は、「躑躅ヶ崎」に居を構えた戦国武将でした。歴史に「もしか」はないのですが、『信長、秀吉、家康と同年齢だったら、きっと天下を取っていただろう!』と、甲州人は言いたそうです。

ここ栃木市は、信玄の宿敵、上杉謙信が戦った大平山に、躑躅が自生していたのか、後になって植えたのか、躑躅の一大名所になっています。下野国に、廃藩置県によって、宇都宮県と栃木県が置かれましたが、二県が一つとされ、県名は栃木、県都は宇都宮になって、東北本線も東北新幹線も、宇都宮を経由しています。宇都宮は「軍都」でしたし、栃木は「商都」だったと言えるでしょうか。

私は、まだ宇都宮を訪ねたことがありません。県民として表敬の意を表すために、県庁や県立美術館を訪ね、〈餃子〉を食べに行きたいものだと思っています。

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