勘違い

.

 1922年(大正11)、野口雨情‥作詞、本居長世・作曲の童謡、「赤い靴」が世に出ました。

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 姉も妹もいない男四人兄弟でしたから、我が家に赤い色の服、ズボン、靴などは、まったくありませんでした。母もけばけばしい色を好まなかったので、男所帯の殺伐さ、無味乾燥さがあふれていたのだと思います。ラジオから時々流れてきたのが、この「赤い靴」でした。女の子のイメージは、『オカッパ頭をし、赤い靴を履いている!』、これが一番の印象だったわけです。この童謡で歌われている「女の子」は、異人さんにさらわれて(?)、横浜の港から船に、むりやりにのせられて(?)、遠い国に連れて行かれる、といった暗い印象が強くて、この歌を好きになれませんでした。この悲劇(?)の女の子は、『どんな生活をしているのだろう?』と、考えてみたこともありました。

 もちろん姉妹がいなかったので、『いたらいいな!』とは思ったことはありましたが、五番目も男の子の確率が高かったのですから、母にお願いするわけにもいきませんでした。家内が、ついこの間、「勘違い」でしょうか、間違って聞き覚えてしまったという話を聞いてきて、話してくれました。「うさぎおいし」を、『美味しいい兎!』と思い続けててきた人もいるのですから、他にも大勢いるのですね。この、「いじんさんに つれられて 行っちゃった 」というところを、『いいじいさんにつれられて・・・』と覚えていた人がいたようです。〈好い爺さん〉だったら、きっと幸せになっているわけです。すごく肯定的で、可能思考の聞き方だなと思って感心してしまいました。

 以前、「通販生活」という雑誌の中に、「子は鎹(かすがい)」を、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈不良の子〉を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げた、一人のお母さんの〈勘違いの話〉を読んだことがあります。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、遠い日本の空の上に目を向けると、感謝が胸の奥からあふれてきそうです。

(写真上は、http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=15554148の「赤い靴」です)

好きな野菜は「トマト」

.  

 よその家の庭に、赤く熟したトマトを見つけた子どもの私は、あたりを見回して、そっと一つ失敬して食べた夏の日のことを思い出します。美味しかったのです。そういったことを許してくれた時代だったようです。何ともいえない青臭い、トマト独特の匂いがしていました。ああいった臭いが、ほとんどの果物や野菜から消えて行ってしまうのは、品種改良をしているからなのでしょうか。最近のトマトは、異常に甘かったり、大きかったりしていますが、昔のほうが美味しかったのは間違いありません。

 何度か家庭菜園で、トマトを苗から育てたことがありました。ナスは栽培が簡単なのですが、トマトは、結構難しかったように思います。もぎたての初生りを食べたときは、ほんとうに美味しかったのです。こちらでも、『〇〇産が美味しい!』と言われていますから、きっと土の質に関係もあるのかも知れません。時期によるのでしょうか、異様に皮が硬く、実も堅いのは、土が肥えていないからなのでしょう。こちらでは、「西紅柿」とか「蕃茄」と呼んでいます。アンデスで栽培され食用にされていたのが、ヨーロッパに持ち帰られ、そこから種として中国に伝えられ、海をこえて長崎に伝わったのは、江戸時代の1660年代半ほどだったようです。はじめは観賞用だったそうですが、食用とされたのはご維新以降のようです。

 私の大好物も、御多分に洩れず大陸渡来の経緯があるのです。こちらで面白いのは、「ミニトマト」が最近みられますが、これは、野菜売り場ではなく、果物売り場で売られる「果物」なのです。大きいサイズのトマトは八百屋で、ミニサイズはくだもの屋で売っているのが、不思議でたまりません。時々、料理をするのですが、カレーに入れたり、ラーメンに入れたりして食べます。熱湯につけて皮を向いて、それを細かくして煮込むと、実に押ししいラーメンとカレーが出来上がります。

 家内が、今、4人ほどの中学生に、日本語を教しえているのですが、〈昼食付〉で、大体は、料理当番に私がされています。スーパーで、日本ラーメンを売っていまして、それを使って作ります。鍋に、玉ネギ、長ネギ、しめじ、キャベツ、ニンニクなどを入れ、それにトマトを加えてスープを作ります。鶏肉、豚肉、牛肉、ベーコンの4バージョンがあります。結構人気で、美味しそうに食べてくれます。カレーは、日本のカレールウを使います。こちらの大きなスーパーには売っていますので入手可です。これにもたっぷりのトマトを入れるのです。ちょっと酸味が強くなって、自画自賛ですが、実に美味しいのです。

 中学や高校の門の前で、沢山の屋台が出店して、下校時の学生さんたちに、様々な食べ物が売られているのですが、このカレーとラーメンをやったら、きっと人気が出ると思うのです。それで、『この屋台だそうか!』と、家内に提案すると、『こちらに来た目的は?』とやり返されてしまいます。あっ、そうです、〈トマトケチャップ〉も大好きなのです。ラーメンのレシピに使っている野菜を、このケチャップと玉ねぎやリンゴやニンニクを、ミキサーにかけて、これを煮込んで自家製のケチャップを作るのです。これを先ほどの野菜に絡めて、炊きたての御飯や、麺にかけて食べるのも美味しいのです。

 毎朝欠かさないで食べるのが、このトマトでして、家内も私に付き合って、トマトが好きになってきています。冷蔵庫に買い置きがなくて、食卓に並んでいないと、一日が始まらなくなるので、急いでスーパーに跳んでいって、買い求めてきます。『同じ物ばかりを食べてははいけない!』と言われますが、ビタミンCやAやリコペンが多い野菜で、体には大層いいのだそうです。トマトの歌もありましたね(荘司武・作詞、大中恩・作曲)。

トマトって かわいいなまえだね
うえからよんでも と・ま・と
したからよんでも と・ま・と

(写真は、エクアドル(南米アンデス)の山地です)

♫ ことし六十のおじいさん ♬ 

.

 子どもの頃、「おじいさん」の印象というのは、舟をこぐ「船頭さん」のことで、年は六十歳、それでも元気イッパイに生きている人、そういったものでした。この「船頭さん」という歌を、今でも、子供たちは歌うのでしょうか。武内俊子・作詞、河村光陽・作曲で、1941年(昭和16年)に発表されています。

村の渡しの 船頭さんは
ことし六十のおじいさん
年はとっても お船をこぐ時は
元気一ぱい ろがしなる 
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

 父が六十だと聞いた時、また兄が六十になり、今度は自分が六十になった時、「六十」が、おじいさんであるという感覚はありませんでした。まだ顔はつややかでしたし、背もぴんとしていましたし、現役で働いていたからです。まあ若干、髪の毛が白髪が多くなっていましたが、おじいさんの実感はなかったのです。

 実は、この「船頭さん」の歌は、私たちが覚えた時代は、いなかの田園風景を彷彿とさせる童謡でしたが、作られたのが戦争中で、〈戦意高揚〉の目的で作られた「戦時歌謡」でした。元歌には、次のような二番と三番とがありました。

2.雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

3.村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 舟をこぐ
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 『六十になったおじいさんが、今でも、軍馬を戦地に送るために、頑張って仕事をしているのだから、銃後にある国民は、このおじいさんに倣って、懸命に、お国のために働き、生きていかなければなりません!』と言いたかったのでしょうか。幼子も大人も、歌って戦意を高めていったのです。平均寿命の短かった当時、雨の日も休む暇なく働き続けれる六十の労働は、少々、過酷な労働を強いられていたようで、気の毒になってしまいます。戦争に負けて、この歌は、一番はそのままで、二番と三番は、改作されています。

 今では五歳ほど繰り下げて、「65歳以上の高齢者」という表現が使われてるようです。映画館のスクリーン、学校帰りに友人と固唾を飲んで見守っていた三十代の高倉健が、そこに映し出されていました。彼が、八十代になっていると聞いて、やはり驚きを隠せません。憧れて観ていた私たちも、六十代の後半になっているのですから、当然といえば当然なのですが。この高倉健が主演した、「君よ憤怒の河を渉れ(中国の題名〈追捕〉)」という映画が、1978年に中国で公開され、何億という観客を動員したと言われています。日本の映画人で、最も有名なのが高倉健だと言われているそうです。彼も「おじいさん」、私も「おじいさん」になりました。

(絵は、琵琶湖の渡しの舟をこぐ「船頭」です)

あんころ餅のチョットしょっぱい思い出

.

 格言に、『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ!』とあります。何もかもうまくいってる時には、手放しで〈喜べ〉というのです。しかし、何をやっても失敗の連続、家の中も仕事も、そして対人関係も、何もかも駄目なときには、〈反省〉することだというのです。反省したら、逆境を乗り越えることができるし、順境の日も糠喜びすることなく、感謝して注意深く生きていけるに違いありません。私も落ち込むことがありますが、そんな状況下に長居しないことにしています。楽観的な生き方をしていくほうが、遥かにいいからです。大波小波、晴れの日も嵐の日も、上昇も下降も、様々な日々が、これまでありました。低迷の時には、必ず誰かが助け上げてくれたのを思い返すのです。家族や友人や見知らぬ人によってです。

 1週間臥せっていて、昨日、腰の疼く痛みが消えましたので、バスに乗って、授業をしに行きました。『無理かな?』と思ったこの一週間でした。反省をしてみても、痛みは引いて行かなかったのですが。4コマの授業は大丈夫でした。今まで、どんな仕事をしていた時でも、大体、始業時間の30分前にはスタンバイしています。今は、授業のポイントを板書をしたり、準備してきたことに思いを巡らしているのです。そうすると、そろりと一人二人やってくるのです。『いつも早いですね!』と学生さんたちが聞いてきます。『実は・・・』と、早いわけを話すのです。約束時間を破って友人を失ったことがあるのでと、いつもの話をするのです。『へえ!』という顔をして聞いていました。きっと、気が小さいのかも知れませんね。『遅れたらいけない!』との思いが強くて、そうするのだと思います。

 学校の教師の中には、始業ベルがなってから、やおらタバコに火をつけて吸いだす輩がいました。私は、ほとんどベルがなると同時に、ドアーを開けて教室に入っていましたが。私立の学校にいましたから、高い授業料を払って学んでいる学生さんたちに、それなりの努力をして接しなければいけないと思っていたからです。十二分に努力をして、教壇に立ちました。時間があると、用務員室に行っておじさんやおばさんと、渋茶を飲んで、世間話の仲間に入れてもらいました。職員会議で出たお菓子を、おばさんに、そっとあげたら、数日たって、『ちょっと、ちょっと!』と、そのおばさんが手招きをするので、そばに寄ると、ご自分で作った〈あんころ餅〉をくれたのです。『三月でやめるんです!』と言ったら、『好い先生は、みんなやめてってしまう!』と言てくれました。そのお世辞を〈勲章〉に、新しい仕事に転職しました。

 私の中学の担任が、いろいろな教材を引っさげて、ベルの前に教室に入ってきて、セッティングをしていたものです。『三つ子の魂百までも』といいますが、そんな中学3年間、社会科を教えてくれ、担任までもしてくれた恩師の仕事ぶりを見ていたので、真似て同じようにするのでしょうか。この恩師には迷惑をかけたのです。退学させられなかったのは、この恩師のおかげだったからです。勉強も素行も何もかも駄目な時期がありました。そんな私を見守もり続けてくれたのが、この先生でした。JR横浜線のある駅名と同じ名前の先生でした。

 高校に進学する直前の中3の長男を連れて、『ここが、俺が6年間学んだ学校なんだ!』と、自分の出た学校を見せたくて、卒業以来初めて母校を訪問しました。その時、恩師は女子部の中学校長をされていたのです。『息子さんは大丈夫ですね!』と太鼓判を押してくれました。ということは、私は大丈夫ではなかった、ということになります。まあ恩師の言うことですから、そうだったことにしておきましょう。もう亡くなられたでしょうか。誰にも連絡先を告げずに、こちらに来てしまったので、連絡の方法がなかったのかも知れませんが。大きな感謝をしたかったので残念でなりません。何だか、最近は、『蛍の光・・・わが師の恩・・・』を歌わないのだそうですね。

(写真は、「あんころ餅(錦盛堂:岡山県倉敷市)」です)」

好きな花は「ムクゲ」

.

 「菊薫る十一月」、昔住んでいた家の大家さんが、小鉢に観賞用の背丈の高い菊を栽培をしていて、実に綺麗だったのを思い出しました。日本の国花は、この「菊」と「桜」だと言われていますが、法律的な規定はないようです。春に桜を、秋に菊を愛でるのは、贅沢でいいのではないでしょうか。私が一番好きな花は、「木槿(むくげ)」です。大韓民国、韓国の国花です。東洋的な趣があり、清楚なので好きなのです。どうも日本原産ではなく、大陸からの渡来の花のようです。この花を好むのは、私の祖先は、中国か朝鮮半島の出身なのかも知れません。

 昨日の「中央日報・日本語版」によりますと、『日本人のルーツは韓半島系混血」…日本がDNA分析で明らかに!』というニュースを伝えていました。

 『日本列島の先住民である縄文人と韓半島から渡ってきた弥生人が混血を繰り返して現在の日本人になったという「混血説」を後押しするDNA分析結果が出たと日本経済新聞など日本のメディアが1日、報道した。

  東京大学や総合研究大学院大学などで構成された研究チームが、先月31日、このような研究結果を総合して発表した。日本経済新聞は、「今 までも似たような研究結果があったが、今回の研究は1人当り最大90万カ所のDNA変移を解釈して、信頼性を大きく高めた」と評価した。研究チームは、今まで 公開された日本本土出身者とアジア人・西欧人約460人分のDNAデータにアイヌ族と沖縄出身者71人分のデータを追加して分析した。アイヌ族は紀元前5 世紀ごろから北海道をはじめとする東北部地域に住んできた日本の原住民だ。

  分析結果、アイヌ族は遺伝的に沖縄出身者と最も近かった。その次が日本本土出身者、韓国人、中国人の順だった。また、日本本土出身者 などはアイヌ族や沖縄出身者などより韓国人、中国人と遺伝的にさらに近いと分析された。アイヌ族は顔の輪郭がはっきりしていて白人に似ていて、沖縄原住民 は肌が黒く東南アジアなど南方系に似て容貌上は互いに明確な違いが生じる。

  読売新聞によると、日本列島の本土などでは3000年前以降、 韓半島から渡ってきた弥生人と縄文人の混血が活発に進んだ反面、南北に遠 く離れている北海道と沖縄地域には混血の波及が遅かったという意味だ。それでこれらの地域に相対的に先住民の遺伝的特徴が多く残っているということだ。朝日新聞は、「縄文人と弥生人の混血が日本人の起源になったという説を遺伝子レベルで後押しすることができるようになった成果」と意味を付与した。

  日本人の起源に関連した「混血説」は「二重構造説」とも呼ばれる学説で、東京大学名誉教授の人類学者、埴原和郎(2004年死亡)に より1990年に提唱された。このほかに日本学界には先住民である縄文人が各地の環境に合わせて適応したという「変形説」、弥生人が縄文人を追い出して定 着したという「人種置換説」などがある。研究チームは今後、縄文遺跡で発見された遺骨のDNAを分析して日本人の根元追跡を継続することにした。』とありました。

 そうだったら、兄弟で内輪もめしている場合ではありません。憎み合ったり、そねみ合ったりしないで、血の近さを感じ合いながら、和解をしていきたいものです。豊臣秀吉の時代以降の恨みを忘れていただき、兄弟の契りを再確認したいものです。

晩節を汚さず

.

 あるブログへの知人のコメントに、「晩節を汚す」とありました。weblioの辞書を見ますと、『読み方:ばんせつをけがす。それまでの人生で、高い評価を得てきたにも関わらず、後に、それまでの評価を覆すような振る舞いをして、名誉を失うこと。 』とありました。十代の若い時に憧れ、その主張や事業観に共鳴し、『この人の弟子、門下生になりたい!』と思わされた人がいました。しかし、その方は、事業を投げ出さざるをえないほどの人格的な欠陥を見せて、業界から消えてしまいました。彼の失敗を、「晩節を汚す」ということばが、言い当てているのでしょうか。彼の弟子になる道が開かれなかったのは、幸いなことだったかも知れません。

 そんな私のために備えられた師は、目の青いアメリカ人実業家でした。八年間、彼のもとで仕事を学び、様々なことを教えてもらいました。そればかりではなく、この師の友人たちが訪ねてきては、この私に興味を示して、いろいろな刺激を与えてくれたのです。その中に、ニューヨークの学校の教授で、自分の教えた学生たちを、世界中に送り出していた方がいました。休みには、そういった教え子たちの事業を手伝うために出かけていて、旅の途中に、日本にもやってきたことが何度かありました。彼の事業というのは、世界を事業対象にしていたのです。そんな彼が、アフリカで働こうとした時に、私を一緒に連れていこうとしたのですが、実現しませんでした。そんなに大きなビジョンを持っていたのですが、十数年前に、ニューヨークの病院で亡くなってしまいました。

 若い時の、そういった出会いとか学びとか刺激というのは素晴らしいものだったと思うのです。学校での学びではなく、実務を学ぶ機会に恵まれたからです。私は失敗したからではありませんが、その受け継いだ事業から身を引いたのです。投げ出したのではありません。父が若い時に過ごしたこの国の東北部に行って、人生の最後を生きたいとの願を果たそうと思ったのです。ところが私は、遼寧やハルピンではなく、華南の地に導かれて、ここで6年目を過ごしています。天津で過ごした一年を加えますと、もう七年目になります。今思うのは、高い評価など受けたことのない、この人生を生きてきましたが、この期に及んで、「過去の生き方を汚す」ことのないように、また「師の教えに悖(もと)ることのない」、そういった日々を送りたいと思うのです。

 でも、明日のことは、どうなるか分かりません。「明日ありと 思う心の 徒桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」という和歌があるようです。何が起ころうとも、子どもたちや、孫たちを辱めるような生き方だけは、『したくない!』と思っております。あれっ、ちょっと暗くなっているでしょうか。『お父さん。明るい話をしようよ!』と、話題が暗くなるときに、きっと言っていた次男の言葉を思い出してしまいました。きっと、腰痛のせいかも知れません。私の師が、病院でコルセットをはめて、牽引されていたのは、腰痛治療だったのを思い出してしまいました。その見舞いの時の写真が残っていて、彼の「腰痛」も受け継いでしまったのかと、思う、久しぶりの雨の日の午後であります。

(写真は、Tシャツの「弟子」です)

ジジくさい年令

. 

 この月曜日の朝、風呂をたてました。檜ではないのですが、木造りの風呂桶に、湯沸かし器の湯を満たして、「和の里の湯」に浸からせてもらいました。『こんなに悠長で、贅沢な時を過ごしていいのかな?』と、ちょっと気兼ねをしていますが、「腰痛」がまだ改善していませんので、『腰を温めよう!』と言うことで、入ってきたところです。今朝は、「日本の名湯・由布院の湯」の温泉の素まで入れてて楽しみました。湯上りには、「ブルーマウンテン」のコーヒーを、ミルで挽き、ドリップで入れて、今、一口飲んだところです。仕事場に出ている方がたには、ほんとうに申し訳ないと思っています。退職後、こちらに来て、学校で週に2日、講師として教え、時々、経験談などを話す機会が与えられたりしております。また、病気の人を見舞ったり、相談に乗ったり、家内と、そんな日を過ごしていますので、持病で苦しんでいる時くらいは、こんな贅沢は許されるのだと思っているところです。

 仕事をしておりました時には、精一杯働きましたので、退職後は、こういった生活も許していただけるのだと思っております。若い時には、本職の他に、月に二度、中型のスーパーマーケットの床掃除を請け負っていました。12時閉店と同時に始めて、明け方までかけて仕上げたのです。従業員を雇って、床をピカピカにする仕事は、学校に行っていました時のアルバイトで、ホテルで覚えた仕事でしたので、苦になりませんでした。他にも、一時期でしたが、コンビニからも頼まれて、月に5~6軒の床清掃もしていました。20年ほど、させてもらったでしょうか。夜勤シフトでしたし、意外と重労働でしたから、ずいぶん体を酷使したのかも知れません。それが、この持病を持った原因なのかも知れません。

 子どもたちの学費の工面や友人への援助とかで、実に張りを持って働くことができたのです。夜が白むころに終えて、みんなを帰して、一人銭湯に出かけたり、24時間営業の温泉施設に行っては、疲れをとったのです。そんな過去がありますので、〈腰痛=温泉〉のパターンができたのでしょうか、『温泉につかれば痛みが和らぐ!』といった経験が、今朝のような行動を取らせるのかも知れません。

 子どもたちが帰国中には、よく手伝ってもらいました。要員を確保できなくて、東京や静岡からの助っ人をお願いしたこともありました。実に懐かしい思い出です。手伝ってくれた友人たちに、今でも大きな感謝があります。潤沢にお金があって、子供たちを留学させられたのではなく、夜勤シフトの仕事の機会が与えられて、それで賄えことは、たいへん感謝なことでした。中学生だった次女が、体調の悪い私のために、コンビニの真夜中の掃除についてきてくれ、手伝ってくれたことが、数回ありました。小さい店でしたから、一人でやっていた私に、同情してくれたのです。翌朝、眠い目をこすって学校に出かけていったのです。冬場、水が冷たくて、大変だったのですが、「ホッカイロ」を買って差し入れしてくれたりしてくれたこともありました。涙がでるほど嬉しかった思い出です。あのスーパーマーケットの最終の仕事を手伝ってくれたのは、次男でした。

 時が過ぎ、そんなことを思い出させる「腰痛」です。あ、そういえば、学校にっていた時にしたアルバイトも、みんな肉体労働でした、沖仲仕、穴掘り、配送などなどです。生きてきたように、今があるのでしょうか。決して悔やんではいません。大学で猛烈に激しい運動部に所属し、大学選手権を勝ち取った時のスタメンだった上の兄も、腰や膝の不調に苦しんでいると、メールにありました。まあ、『もう、無理しないでゆっくりしなさい!』と言うことなのでしょうか。最近は、弟などは、『帰ってきたら、また温泉に行こうね!』と言ってくれ、みんな〈ジジくさい年令〉になってしまったのだと、微笑んでしまいました。

(絵は、晩秋の由布岳(湯布院)、下は、ファミリーマートのある店舗です)

老病

. 

 「老病」というのは、中国語では、老人病というのではなく、「持病」のことを言います。この十年来、冬から春の時期に一度、夏から秋、秋が深まっていくどこかの時期に一度、年に都合二度、「腰痛」が出てくるのです。体が覚えているのでしょうか、この2週間ほど前から、『そろそろ腰痛が起こるかも知れない。何か対策を取らないと!』と思って、家内に言っていた矢先、昨日の朝あたりから始まってしまいました。昼過ぎに、バスから降りてアパートの中を歩いて、5階のわが家まで帰りついたのですが、その道はあえぎながらできつかったのです。昨日は午後から、ベッドに入り込んで、今日も一日、寝たり起きたりの繰り返しをしていました。
 
 こちらで日本語教師をされていた方から、『こういった運動をするといいですよ!』と言われて教えて頂いたのですが、実行しないままでおり、腰が痛み始めてから、思い出しては腰をひねっているのですが、これって対策にならないで、事後処理で、全く効果ないのです。長く住んでいた街に、知り合いの整骨師がいて、体調が悪くなると、時々出掛けてみてもらった、掛かり付けだったのですが、通えないので諦めていました。今年の帰国中に、ある方が、評判の整骨院があるから、と紹介されて行ってみました。少し早く着いてしまったので、待合室で待っていました。書庫を見たら、ちょっと勧誘するような本がならんいたのです。診察口のドアーの上に、見慣れない福王をした人の写真が掲げてあって、『アッ、そうか!』と気づいたのです。ほうほうの体で、そこを飛び出して、バスに飛び乗ってしまったのです。念力で体に呪文でもかけられたくなかったからでした。

 『また始まった!』ということを知って、必ずどなたかがやってきては、腰を揉んでくれるのです。それが力いっぱいしてくれるので、その後のほうがひどくなってしまうのを繰り返してきていますので、最近は極秘にしています。中華方式は、どうも体に合わないようで、申し訳ないなと思っています。きっと、日本式の「鍼」をしたら、いっぺんで治ってしまうのでしょうけど、今度帰国したら、探して見ることにします。今まで日本鍼を二回ほどやったのですが、ピタっと治ってしまって、かえって怖いくらいでした。今年の春は中国鍼をしてもらったのですが、ちょっと合わなかったようです。まあ、なにか外からするよりは、「安静」が一番かも知れませんね。

 今の痛さでは、階段を歩いて降りられないし、じっとすることにいました。それで先程、風呂を沸かして、温泉の素を入れて、〈和の里の湯〉にして、『いい湯だな!』をしたところです。それから、この様に、パソコンの前に座っているのが、一番よくないのですが、やっぱり、何かしたくて、つい座ってしまいました。ここから立つと、激痛が来るのですが。そろそろ終えることにします。真夏のように暑かった日の夕方であります。

責任

.

 中学生になった私は、『男は、ひげの剃り跡の青さがいい!』と、担任に言われてから、父の安全カミソリで、毎日、入浴時にはひげを剃り始めたのです。父は、ひげが濃かったのですが、母似の私は、いくら剃っても、産毛ばかりで、一向に剛毛が生えてこないではありませんか。ついでに、胸毛のあった父のようになろうと願って、胸も懸命に剃ったのです。それは全て徒労に終わりました。大学に入る頃になって、やっと〈男らしさ〉の象徴のひげを認められるようになってきたのです。それ以来、毎朝、顔を洗うのと同時に、ひげ剃りを欠かしていません。今では、毎日仕事をすることもなくなってしまったので、怠けて剃らない日もあるのですが。何度かひげをたくわえたこともありますが、家内と子どたちの反対で、すぐにやめてしまいましたが。

 ひげ剃りのたびに鏡に写して、十人前の顔を眺めるのですが、まあまあ元気そうな顔色を見ては、安心するのです。しかし、40を過ぎてからは、違った観点から、自分の顔を眺めはじめたのです。かの有名な、アメリカ大統領のリンカーンが、『男は40過ぎたら自分の顔に責任をもて!』と言ったと聞いてからのことでした。「いい顔」かどうか、『この顔で、他人の前に出て、人に見せてもいいか?』を点検しているのです。目付きとか表情が険しくないか、卑しくないか、欲が突っ張ってないかどうかを見るのです。そして、大丈夫だったら、ニコッと笑ってみせるのです。だって、この顔で生きていくほかないからです。

 それで、自分の顔が気になり始めた私は、他人の顔も注意深く見ることにしたのです。『目は口ほどにものを言う!』と言いますから、『この人の無言の表情は、何を語っているのだろうか?』と、興味津々で眺めるのです。実に好い顔、好い目をしている方がおいでです。映画俳優や女優のような美男子、美女というのではなく、実に素晴らしく生きてきた顔と出会うのです。顔は、生き様が現れてくるのからです。私の最初の職場に、警視庁に勤めながら、中央大学の夜間で、法律を専攻した方がいました。私の直属の係長でした。この方が、善良かどうか、犯罪性があるかどうかの判断の規準を、警察官として学び経験したことから、教えてくれたことがありました。

 人を観察する目が、ちょっと厳しくなってしまったのは、そのせいでしょうか。自分の顔にも、『責任を持て!』と言い続けてきたつもりでおりますが。会って直接見たことはないのですが、実に「悪い顔」の大臣がいました。醜男だというのではありませんが、とても気になっていたのです。やはり、いつの間にか、辞任してしまいました。天津の南開大学の近くに、「周恩来記念館」があって、家内と訪ねたことがあります。この方の写真や使われた文物などを見ながら、『好い顔だなあ!』と感心したのです。日本に留学した頃の若かりし日の写真も、総理に就任した時の写真も、その表情が好いのです。京劇の俳優のような色男ではないのですが、信念と正義を貫こうとしている顔なのです。私を教えてくれた元警察官の判断規準によっても、じつに善良で、責任感に満ちた顔に見えました。

 この周恩来総理が、亡くなった時に、無一物だったと聞きました。自分や妻や親族のために備蓄をしておかなかったのです。記念館にいたときに、何組もの若い男女が、見学に来ていました。なぜなのか聞きましたら、周恩来は、こよなく奥様を愛された方で、それにあやかろうとして、結婚を決めた男女が、連れ立って来られるのだそうです。こんな素晴らしい指導者が、この国を支えてきたのだと思わされたのです。

 今朝も、鏡に顔を写してみました。『これなら、まあまあ及第!』と、合格点を上げた次第です。バスの中で、私が乗ってきたのを見止めた学生が、『どうぞ!』と目で合図して、席を譲ってくれる、そんな顔になってまいりました。喜ぶべきなのでしょうね。

(写真は、アメリカの5ドル紙幣の肖像の「リンカーン」です)

ブルーマウンテン ~その2~

.
 

 恩師が、好んで飲んでいて、時々、豆をグラインダーで挽いては、『雅仁、いっしょに飲もう!』といって誘ってくれたのが、彼のこだわりの「ブルーマウンテン・コーヒー」でした。この恩師は、澄んだ青い目をパチパチさせ、幸せな表情をしながら、実に美味しそうに飲むのです。その飲み方も、上品でした。『こんなふうにしてコーヒーを愛おしんで飲むのだから、美味しいに違いない!』と思わされたものでした。学校に行っていたときは、新宿や渋谷や目黒などの駅の周辺にあった、「ルノアール」というフランス語の名前のチェーン店があって、みんなで、取り留めもない話をしたり、ノート写しなどをして過ごしました。もちろん安いコーヒーをすすりながら、何時間も過ごしたのです。好きではなかったのですが、まあ付き合いで飲むコーヒーでした。

 働き始め、世帯を持って、この恩師に同行して、彼の事業のお手伝いを始めてから、恩師が、美味しく飲むのに影響されて、私もコーヒーを、習慣的に飲み始めたのです。珈琲の味よりも、そういったゆとりの時が、何とも言えなく贅沢で、貴く感じられたからだと思うのです。そうこうするうちに。虜になってしまいました。この夏、日本に帰りました時に、『そろそろいいか!』と言うことで、母の故郷のコーヒー屋さんに、この「コーヒー豆」を注文したのです。ブレンド・コーヒーと比べたら、けっこう高いのですが、清水(きよみず)の舞台から飛び降りたつもりで、「ブルーマウンテン(500gを4袋、2つは息子たちに上げました)」を、ついに買い求めたのです。そして、大阪国際港から乗った船に乗せて、海路を運んできたのです。こちらの外資系のスーパーマーケットにも、コーヒー豆が売られていますが、この種の豆はないのです。私は、コーヒーの香りや味を見分けるほどの愛飲家ではなかったのですが、今は少し鼻が効くようになってきているかも知れません。

 この2週間ほど前から、恩師が使っていたような手動ではないのですが、「電動ミル」と呼ばれる道具で、豆を挽いて飲み始めています。前に買ったり、頂いた豆が底をついたこともあって、いよいよ念願の「ブルーマウンテン」を飲み始めているのです。豆を引くと、とても良いかおりがしてきて、恩師が挽いてくれた日のにおいがしてきて、懐かしくなってしまいました。家内が嗅いで、『好いにおい!』といい、『少し頂戴!』と言うので、一緒に飲みます。ドリップで入れて飲むのですが、とても美味しいのです。このコーヒーを飲むことを、〈楽しむ〉という余裕の行為が、やはり何とも言えないのです。

 恩師が、東京の病院で召されて、もう十年になります。いろいろなことを教えてもらい、彼の書いた数冊の本も、こちらに持ってきて、書庫に入れて、時々紐解くのですが。彼との八年の月日が、ほんとうに懐かしく思い出されてまいります。彼の友人たちが、ちょくちょくやって来ては、一緒に食事をし、コーヒーを飲み、散歩をし、話し合い、彼らからも教えられました。あのような日々が、自分を作り上げてくれたのだと思い返して、感謝でいっぱいにされています。ジョージアの田舎の出身でしたが、西海岸は時々訪ねたのですが、東南部の彼の育った街は一度も訪ねたことはありませんでした。

 先ほども、飲んだところです。もちろん、彼の飲んでいたものよりは、格が落ちると思いますが、同じ嗜好を受け継ぐということを考えますと、やはり、私は彼の「弟子」であることのなるわけです。時々思うのですが、日本人では考えられないような、思考法を彼から学んだようです。彼は、妻の愛し方も教えてくれたのですから。その出会いに、心から感謝している、秋風が、少々冷たく感じる夕べであります。

(写真は、コヒー豆を挽く「コーヒーミル」です)