親日家

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小学校の社会科の授業で、「大森貝塚」のことを学んだことがあります。アメリカ人の生物学者、E.モースが、1877年に発見した、この貝塚は、日本の考古学に光を当てた、学術的な大貢献でした。私の父が、旧制中学の時に、この大森(東京都品川区)の親戚の家に寄宿して、そこから学校に通っていたと言っていました。

このモースが、三度の来日で触れた日本について、「日本その日その日(Japan Day by Day 講談社学術文庫版)」を著しています。39才で初来日した彼が、東京帝国大学で教えながら、東京や、旅先で見聞したことを、スケッチ入りで書き著した本なのです。偏見や蔑視のない目と心と体で触れた、江戸文化を残しつつ、新しく変えられていく日本の街々と人々と事物を捉えたのです。

横浜、東京、江ノ島、日光、函館、長崎、鹿児島、京都、瀬戸内海と、精力的に旅をしたのです。主に学術的な目的を持った旅でしたが、日本文化に感心しながら触れた日本滞在記です。こんなことが、記されてあります。

「人々正直である国にいることは実に気持ちがよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠を掛けぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは、一日に数十回出入りしても、触ってはならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間も無くポケットの一つに、小銭が若干入っていたのに気付いて、、それをもってきた・・・・日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に、錠も鍵もかんぬきも戸鈕(とちゅう)もーーーいや、錠をかける戸すらもないことである・・・」

そんなことですっかり<日本びいき>になったのが、モースでした。私も日本で生活をしたアメリカ人を大勢知っていますが、彼のように、みなさん好印象をお持ちでした。もちろん日本にも日本人にも欠点もありますが、総体的に、高い評価のあることは、私たちが誇っていいのかも知れません。明治期も今も、変わっていないようで安心しました。

複雑

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初冬の雨が、しとしと降っている、11月の週日の朝です。電動自転車の後ろに孫を乗せたおじいちゃんが、眼下のバス通りを左の方には走って行きます。マントをかぶって、雨を防いでいるのです。小学校に向かって、何台も何台も列を作っている、平日の毎朝の光景です。

孫の送り迎えを、おじいちゃんが主にし、両親は、勤めに出ている、これは中国の一般的な家族のシフトなのです。11時半前後になると、今度は、逆の右方向に、迎えに行ったおじいちゃんの運転する電動自転車が戻って来ます。おばあちゃんが作る昼ごはんを、孫に食べさせるためです。

さらに一時半過ぎになると、また小学校に孫を送り、五時前後に、下校する孫を乗せたおじいちゃんの電動自動車が帰って来ます。日に家と学校を四往復するのですから、意外と大変なことのようです。これが<祖父母の生き甲斐>、老後の過ごし方のパターンなのでしょう。全中国の22の省、5つの自治区、4つの特別市で繰り広げられている生活の一端なのです(この町は、特に電動自転車の普及率が高いそうです)。

もちろん、徒歩や自転車、今では自家用車も使われているようです。ですから、小学校の周辺の道路は、大混雑です。朝晩は、渋滞しているのを見かけますが、みなさんは、上手に泳ぐように歩き、自転車や電動自転車や車を駆っているのです。『次代を担う子供のためだ!』と、渋滞に巻き込まれた車、運転手さんも、黙って耐えているのです。

こちらでよく見かけるのは、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫の通学用リュックサックを担いであげている様子です。足腰の弱くなったおじいちゃんやおばあちゃんが、そうしている様子を見て、『そこまでして上げなくても・・・・』と、ちょっと私の思いは複雑です。バスの中には、『ご老人を労りましょう!』と標語が貼られているからです。

国際貢献

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この秋、国際社会で、大きな問題になっていたのが、「エボラ出血熱」の蔓延です。アフリカ大陸の西部の国々で、蔓延し、医療従事者に感染し、そこから第三次の感染が危ぶまれていると言うのが、今の問題です。日本にも感染が広がる可能性もあるわけす。

私の長女がシンガポールで働き始める時、「サーズ」が流行っていて、中国大陸や香港、そしてシンガポールでも、感染された方が亡くなっていると言うニュースが、飛び交っていました。『渡航を延期した方が・・・』と思ったのですが、彼女は、マスクをして出かけてしまいました。親の心配をよそに、恐れなかったのが好かったのでしょうか、間も無くこの流行が収束したのです。

そんな恐れの中、日本の製薬会社の薬が、「エボラ出血熱」の治癒に有効だと言われています。また、昨日の朝のニュースですと、特別製のマスクに殺菌作用があって、感染拡大に有効な防疫機能を持っていると伝えています。こう言った世界大の問題に、日本の企業が貢献できると言うのは、<物作り大国>を掲げて来た国としては嬉しい限りです。

また、在米の大学で、日本人研究者が、ガンを制圧できる薬を開発したとのニュースもありました。これも画期的なことです。人の命に関わることに貢献できる人材がいると言うのを、私たちは誇るべきかと思うのです。こう言った人材や機関を作り出した、日本の教育や研究の成果が、今顕著に現されてきているのでしょうか。

国際貢献が、軍事や産業だけではなく、人間の根本的な面で、役割を果たせることは、驚くべきことと思います。この様なニュースを聞いた多くの青少年が、地球的な規模で、平和や福祉や幸福のために役立ちたいと、自信と使命感を持って、学んでいって欲しいものです。

私の愛読書に、次の様なことが記されています。「えやみもあなたに天幕に近づかない」と書いてあります。「えやみ」は、原因不明の流行性の疫病のこと、「天幕」は、家とか民族とか国家を意味しています。そこを害することがないことの約束です。この約束を握りしめて、この時代を生きていきたいものです。

スポーツ考

 

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テニスもフィギュアスケートも、日本人選手の活躍が目覚ましいようです。でも、練習や養成に、莫大なお金がかかるのだと聞いています。スポーツが科学的に捉えられていて、ガムシャラに、根性でやる領域のものでは、もはや無くなってきているのです。食べ物、用具、練習内容や時間などが、科学的なデーターによってプログラムされないと、世界に通用する選手にはなれないのです。練習だけではなく、精神面でメンタルトレーニングもしなければならないのです。 心身両面の周到で細心な環境を要するのだそうです。

ただ路地裏で、ボールを蹴ったり走ったり、布で作ったボールを投げたり打ったり、冬の田んぼに水を張って凍らせた特設リンクの上を、下駄に金属に刃をつけた物で滑っているだけでは、もうダメなのです。実績のあるコーチについて、科学的に練習を積まなければならない時代です。

貧しかった野球小僧の野村克也などは、もう例外なのです。こう言った環境の中から、頭角を現わして来る時代は、すでに過去のことになっているのです。しっかりと育成される必要があるのです。足が早いとか、遠投がすごいとか、体格が好いだけではだめなのです。総合的な資質が求められています。

名門の教室で育成された選手だけが、栄冠を手にするのです。お父さんの鰯漁を手伝っていた少年が、名投手になったり、アフリカの原野を裸足で走っていた少年が、オリンピック・スタジアムで、飛んだり跳ねたり、走ったり投げたりすることは無くなってきているのでしょう。

どのスポーツもアマチュア色がなくなってしまいました。プロアマを問わず、選手が、お金で計られ、どれだけ稼ぎ出すかが注目点になってしまっています。そう言った世界で生きている大人がいるのです。次から次へと有望選手を発掘して、育成して送り出すのです。まさに、<稼ぐ人間マシーン>です。芸能界と同じです。だから、スポーツが面白くなくなってしまいました。

日本のプロ野球の「ドラフト」のニュースを聞いていて、少しスポーツをしたことのある、10月下旬の私の思いであります。

吉祥寺駅

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「東京音頭」と言う歌があります。作詞が西條八十、中山晋平の作曲で、1932年に発表されています。

ハァ 踊り踊るなら チョイト
東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 昔や武蔵野 チョイト
芒(すすき)の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハァ 花は上野よ チョイト
柳は銀座 ヨイヨー
月は隅田の 月は隅田の屋形船 サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ(省略しました)

ここで歌われている「武蔵野」には、かつて櫟林の原野が広がって、「芒の都」だったのです。「甲武鉄道(今の中央線です)」が、新宿と甲府間に開通してから、徐々に沿線が開発されて来ているのです。今では、東京の西の一大繁華街でしょうか、若者に人気があり、最も住み好い町に選ばれた、吉祥寺駅を主要駅にした「武蔵野市」があります。

この吉祥寺駅には、京王井の頭戦の始発駅もあり、都心の渋谷を結んでいます。今では、JRや地下鉄やその他の私鉄相互乗り入れや、直通輸送が行われていますが、この井之頭戦線は、渋谷止まりで、そこを折り返している鉄道です。時々乗ったことがありますが、沿線には、大学や高校の多いのが特徴です。

この京王井の頭線の吉祥寺駅のガード下に、「青果会社」の分場があって、何年か年の暮れの時期に、仕事をしたことがありました。休み時間や青果物の搬入の待ち時間に、年配の話好きのおじさんに、いろいろと人生、世の中を教わったのです。このー駅も、田舎に行っている間に、全く変わってしまい、昔の面影がなくなって、寂しく感じたりしていました。こちらにきて、さらに年月が経ちましたので、大きく変化しているのでしょうか。やはり「秋」、飽きもしないで、昔を思い出しております。(十月に書いた記事をアップしました)

(写真は”WM”の京王井の頭線の「吉祥寺駅」の改札です)

落葉

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フランスの詩人、ヴォルレーヌが “Chanson d’automne” [Paul Verlaine
(秋の歌「落葉」 ポール・ヴェルレーヌ)]という詩を、1866年に出版した詩集の中に掲載しています。ヴォルレーヌが二十歳の時に作ったものです。それを、1905年に、上田敏作の翻訳で、「海潮音」の中に掲載しました。

落葉                 上田敏 (『海潮音』より)

秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
ひたぶるに
身にしみて
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

パリで生きる青年のうら悲しさが詠まれています。これを、何人かの人が翻訳していますが、上田敏訳が高く評価されているようです。「秋のシャンソン」という箇所を、「落葉」と訳したのが好かったのでしょう。明治の息吹が感じられる文語体の詩は、島崎藤村の詩に似て、簡潔で、歯切れが良くて素晴らしいと思います。パリで詩が詠まれた頃の日本は、「勤皇佐幕」に二分し、若者たちが国の将来を、それぞれに思い考えながら、夢を持ち、行動し生きていた時代でした。

こも詩を上田敏が紹介したのは、明治維新が過ぎ、欧化主義の動きも一段落し、明治の末期に生きる青年たちに好まれたのでしょうか。ちょっとおセンチな感じですが、シャンゼリゼ通りを感じさせたり、同世代のフランス青年たちを、日本の青年たちに思わせるには十分だったのでしょう。

そろそろ、私が生まれ育った故郷では、林道に入ると、そこは落ち葉で敷き詰められ始める頃でしょうか。歩くと落ち葉が渇いた音を立てて、『もうすぐ冬だぞ!』と語りかけるかの様でした。春の山歩きには、新芽が吹き始め、やがて、新緑が陽に映え、いのちの息吹を感じさせてくれるのですが、秋は、山の自然全体が「休息」に入ろうとしているのです。うあー、枯れ葉の音が聞こえ、その匂いがして来そうです!

高尾山から「明治の森(正式には[明治の森高尾国定公園]だそうです」を経て、相模湖に下って行く山路は、何とも懐かしく思い出されてきます。一人で、仲間で、子どもたちを連れて、何度も歩いたからです。陽の光と空気、音と匂いと風、秋から冬にかけて、この山路が目に浮かんできます。弟からの先日のメールに、この山路を、ある夫妻を案内して歩いた、高一の時の思い出が書いてありました。『帰国したら、近くに里山を一緒に歩いて見ましょう!』と誘ってくれました。

「落葉」を、<おちば>と読んだり、<らくよう>と読むのですが、前者は日本的な、後者はフランス的な感じがするには、私だけの偏見でしょうか。耳の底で、カサカサする音が聞こえる様です。{ヰ゛オロンとはヴィオロン、ヴァイオリンのことです}

(”写真部byGMO”による「落葉」です)

『おばあさんの新聞』

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今年の「新聞週間」に、日本新聞協会が、新聞配達にちなんだエッセイコンテストの発表をしました。その最優秀作品に選ばれたのが、岩國哲人(てつんど)氏の応募作品、『おばあさんの新聞』でした。次の様なエッセイです。

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『おばあさんの新聞』

一九四二年に父が亡くなり、大阪が大空襲を受けるという情報が飛び交う中で、母は私と妹を先に故郷の島根県出雲市の祖父母の元へ疎開させました。そのー後、母と二歳の弟はなんとか無事でしたが、家は空襲で全焼しました。
小学五年生の時から、朝は牛乳配達に加えて新聞配達もさせてもらいました。日本海の風が吹きつける海浜の村で、毎朝四十軒の家への配達はつらい仕事でしたが、戦争の後の日本では、みんながつらい思いをしました。
学校が終われば母と畑仕事。そして私の家では新聞を購読する余裕などありませんでしたから、自分が朝配達した家へ行って、縁側でおじいさんが読み終わった新聞を読ませていただきました。おじいさんが亡くなっても、その家への配達は続き、おばあさんがいつも優しくお茶まで出して、「てっちゃん、べんきょうして、えらい子になれよ」と、まだ読んでいない新聞を私に読ませてくれました。
そのおばあさんが、三年後に亡くなられ、中学三年の私も葬儀に伺いました。隣の席のおじさんが、「てつんど、おまえは知っとったか?おばあさんはお前が毎日来るのがうれしくて、読めないのに新聞をとっておられたんだよ」と。
もうお礼を言うこともできないおばあさんの新聞・・・。涙が止まりませんでした。

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この岩國哲人氏は、島根県知事(2022年4月初めに、お父上が知事だったそうで、哲人氏はそうでないと指摘がありました!ありがとうございます!)や国会議員をした政治家でしたが、現在は引退して渋谷にお住まいで、78歳です。お父様を小1で亡くし、お母様の実家の島根県に引越しをされ、小5の時に新聞配達を始めたのです。貧しかったので、新聞購読ができず、配達した家のおじいさん、おじいさんが亡くなった後は、おばあさんに読み終わった新聞を読せてもらったのです。字の読めないおばあさんは、毎日やってくる哲人君のために新聞を取り続けてくれたことを、おばあさんの葬儀に参列して知るのです。

その激励のおかげで高校を卒業後、東京大学に進学し、実業界で活躍した後、政治の世界で活躍されたのです。母と同郷でしたので、岩國氏のことは存じておりました。私の長男も次男も、中学生の頃に新聞配達をしていたことがあります。風邪を引いた時、彼らの代理で、<新聞おじさん>をしました。<苦学生>は、今も大勢おいでなのでしょうね。朝早く働く<新聞少年>、<新聞学生>を、この華南の町の空の下から応援しています。

(”日本新聞販売協会”の「新聞少年」の像です)

古代の浪漫

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七才から二十歳まで住んでいた町に、「七つ塚」と呼ばれていた、不思議な地形の里山がありました。そこに、古代人の使った土器や石器があると言うことを聞いたのです。まだ、学術的な発掘が行われる前でしたが、小学校の五年の私は、そこに出かけて行き、土器の破片を拾って、家に持ち帰ったことがあります。長く保管していたのですが、引越しの時に、何処かに失ってしまいました。

その町で、はるか以前に、古代の人たちが、生活をしていたという場所と遺物に触れた、不思議な感覚を覚えたのです。この<古代の浪漫>を感じたくて、たった一人で、そこに出かけては、里山の雑木林の中を歩きまわって、土を掘り返したのです。小学校の文化祭だったでしょうか、生涯で初めての「研究発表」を、文書で提出した覚えがあります。少ない資料しかなかったのに、原稿用紙だったと思いますが、拙い文章で、その町の「歴史」を綴ったわけです。賞はもらえませんでしたが、古代史研究家になった様な、くすぐったい思い出があります。

市内の中学に上がらずに、電車通学で三つ先の駅で降りた町の中学校に進学しました。ここの高等部に、「歴史研究部」があって、担任で社会科教師の勧めで、夏休みや春休みに、調布市、府中市、私の母校の小学校の校庭で、「発掘調査」の手伝いをさせてもらったことがありました。スコップを片手に、表土に隠されている、生活の痕跡を探ることに、喜びを感じたのです。埋もれた土の中から、土器や石器を見つけた時は、何とも言えない興奮がありました。

高等部に進んでからは、運動部に夢中になって、あの興奮を忘れてしまいました。あのまま持ち続けていたら、きっと、大学も「古代史研究」を専攻し、学者になっていたかも知れませんが、横道に逸れてしまったのです。それでも、高校の社会科の教師もさせてもらったのですから、まんざら的外れになったわけでもなさそうです。

先日、ネットで検索しましたら、あの「七つ塚」が、「古墳群」だったことを、初めて知りました。 その後、何処かの大学や学者が発掘したのでしょうか。現代人の私たちは、 はるか昔の人たちの生活基盤の上で、そんなことを全く意識しないで生活をしているのでしょう。あの時代の人々と同じ様に、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだりしているわけです。台風も、大雨もあったことでしょう。彼らと同じ様に、私たちも生きているに違いありません。私は、その町への流入者ですが、土地の人たちは、古代人の末裔なのでしょうか。わあー、彼らは、<古代の浪漫>の中に生き続けているのでしょうね。実に羨ましい限りです!

(”帯広百年記念館”による、縄文時代の土器です)

ボールを置く

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「筆を折る」とは、小説家が創作活動、文筆活動をやめてしまうことを言うのだそうです。そうしますと、野球の投手は、「ボールを置く」と言い、野手は「バットを置く」と言ったら好いのでしょうか。ニューヨークヤンキースの主将で、名内野手、名打者のジータが、今シーズンでバットを置きました。40才ででした。野球の選手生命と言うのは、短いのだと言うことを、また知らされた次第です。これから、折り返して、同じ程の歳月を、新しい分野で、彼は生きて行くことになります。

それは、研究者や経営者でしたら、基礎的な活動から、本格的な活動に入って行く年齢でしょうか。サラリーマンでしたら、定年まで、もう20年ほどあり、取締役にでもなれば、さらに、もう10年は働けるわけです。柔道で活躍した山下選手は、お父さんに、『柔道だけしか出来ない様な人であってはいけない!』と言われて、競技を続けていたそうです。

巨人軍の投手であった桑田真澄は、ボールを置いたあと、早稲田大学の大学院に入学して、新たに研究者の道に進み、修士号を得ています。その研究分野は、長くし続けて来た野球の「コーチ論」で、修士論文を書いたと聞いています。こう言うのを「一念発起」と言うのでしょうか。レストランのオーナーや、スポーツ店経営の道もあったかも知れませんが、彼の選び取りは、実に素晴らしいと思っています。

私の好きなアメリカ大リーグのヤンキースの投手で、ジータのチームメイト、名クローザーであった、マリアノ・リベラも、昨年で,ボールを置いています。パナマの漁師の息子で、高校卒業後は,鰯漁をしてお父さんを助けていたのですが,ヤンキースにスカウトされて、大リーガーとなった人でした。彼と懇意な方から話を聞いたことがあります。実に好人物だと言っていました。今は、どうされてるのでしょうか、慈善活動などをしていると言われていますが。

『第二の人生を、どう生きるか?』、有名無名を問わず、誰もが、そう問われているのでしょう。私の今も、最後の総仕上げをしているのだと思っています。自分のためだけではなく、誰かのためにも生きて来たと納得できる、そんな締めっくくりをしたいだけです。そんなことを思っている十月の半ばであります。いったい、私の折る物、置く物は、何なのでしょうか?

(”WM”による、ヤンキーススタジアムでの最後の投球後、マウンドの土を記念に手に取るリベラです)

人道的見地

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「一視同仁」と言う言葉があるそうです。中国語の「四字熟語」で、「すべての人を分け隔てなく慈しむこと」と言う意味です。これは、人種差別や蔑視に対して、反対の立場を取る考え方を言っています。小学校で、日本の歴史を学んだ時、村の掟を破ったり、重い年貢に耐えきれずに,村から出て行くことを、「逃散(ちょうさん)」と言うと教わりました。「人別帳(にんべつちょう)」に名がないので、「無宿」になり、「無宿人」と言われていたのです。

私たちが子供の頃を過ごした街にも、「部落」と呼ばれていた地域がありました。朝鮮半島からやって来た人たちが住んでいた地域や、戸籍法で特別な記入をされた人たち(今ではされていません)の住む地域でしょうか、そう呼んでいたようです。特別な差別用語で、みなさんを呼んだりもしたのです。その地域の人も、そうでない地域の人も、何一つ変わらないのに、そう言った区別を、私たちの社会ではして来た歴史があります。

職業にしても、多くの人がしたがらない仕事に従事して、家族を養って来ていました。かつての日本は、閉鎖的で、柔軟性のない差別社会でもあったのです。目を世界に向けますと、一つの民族が、そう言った差別や偏見のもとに、長く置かれて来た例があります。今では、奇跡的に国家として、2000年の空白の期間をへて、再建されています。そうです、「イスラル」です。

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彼らは、「ユダヤ人」と言われて、民族の離散の歴史の中を、主にヨーロッパの社会で生きて来ていました。その苦難の歴史の中で、最も困難な時代は、ドイツでナチスが支配権を握った後でした。彼らの「ユダヤ人撲滅運動」で、600万人と言われる人が死んで行きました。そんな中で、リトアニアに逃れた彼らが、人道的な立場で、日本を通過するビサを発行した、杉原千畝領事代理によって、日本にやって来ることのできた人たちが多くいたのです。

これらの人たちは、ウラジオストック(ロシアの極東部に位置)から船で、福井県の敦賀に上陸しました。着の身着のままの彼らを、銭湯を開放して入浴させたり、リンゴを配ったり食料などの援助をしたりして、敦賀市民が助けたのだそうです。その時の彼らの思いの中にあったのが、「一視同仁 」でした。彼らは、神戸や横浜の港から、オーストラリアやアメリカに渡って行ったのです。<日独伊>の三国同盟があったにも関わらず、人道上の見地から、そうしたのです。起死回生、日本人って素晴らしい面も、持ち合わせているのですね。そのビサで生き延びた人の子孫は、25万人にもなると言われています。

(写真は、”WM”による、現在の敦賀港、杉原の発行した「査証」です)