1969年2月に発表された、作詞が寺山修司、作曲が田中未知の歌に、「時には母のない子のように」がありました。

時には母のない子のように
だまって海を見つめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない

時には母のない子のように
長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない

時には、人って、「母のない子」になってみたい願望があるのでしょうか。同じタイトルで、“Sometimes I feel like a motherless child”という、黒人霊歌がアメリカにもありました。

Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
Sometimes I feel like a motherless child
A long way from home
A long way from home
(True Believer)
A long way from home
A long way from home

私は、甘ったれっ子だったのでしょうか、学校や、遊びから家に帰ると、『ただいま!』と言う代わりに、決まって、『お母さん、いる?』と言って帰って来たのです。近所のおばさんに、それをからかわれたことがありました。死にかけた私を抱いて、回復を願ってくれた母を覚えているからでしょうか。

雛が、母鳥りと巣を後にして、自立して行くように、人生の旅に出て、ヤンチャをしては、傷ついては、後ろめたく巣に帰る日を重ねて、遂に自立したのです。よく〈長い手紙〉を書いては、母に感謝を表したでしょうか。胎内の羊水の記憶を呼び覚まそうと、海を見に、潮騒を聞きに行ったでしょうか。今は帰天した母を時々思い出します。〈母なくば我あらず〉、まさに子の本音を語れるようになったのでしょうか。

母のない自分など考えたことも思ったこともありません。〈母ありて我もあり〉なのです。自分の母親に、4人の子どもたちが、それぞれに思いを向けています。そして母親の危機に、共に立とうと、共に痛もうとしている今です。

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転寝

 

 

「転寝」、これを〈うたたね〉と読みます。昨日、ある集まりに出掛け、その足で、次女運転の車で、家内を入院先に見舞いました。まだインフルエンザの影響で、面会全面禁止で、会うことが叶いませんでした。

〈掟破り〉の常習者の私は、病棟の看護師さんに、家内の着替えを渡す時、メモを添えて、家内に悪知恵を入れるのです。携帯電話を持たないので、病棟四階のエレベーター脇にある、入院患者用に公衆電話まで、電話をするふりをして出てくるように、伝えるのです。その隣の電話機で電話をかけるそぶりの私と家内と次女と会話するという策略です。この2日ほど成功し、ちょっとの間ですが、家内と言葉を交わすことができたのです。ところが見破られてしまい、昨日は、策が功を奏さず、会わずに帰ることになってしまったのです。

もちろん、よく手をアルコール消毒し、マスクをかぶりながら、ナースステーションに行くのですが。それで、ちょっとがっかりした私は、帰宅して、次女の淹れてくれたお茶を飲んで、煎餅をかじって、炬燵に横になって、そのまま「転寝」をしてしまったのです。

この〈転寝常習者〉でもある私は、華南の街の家でも、それで何度も風邪を引いていて、家内に、厳しく叱られてきました。しばらくは守るのですが、忘れっぽい私は、〈約束破りの常習者〉で、昨日もしてしまいました。

きっと、チョキレートって、この〈転寝〉と同じで、習慣性があり、何とも言えず気持ちがいいし、美味しいのでしょうね。〈転寝〉は格別です。叱られるのを承知で、繰り返してしまうのです。ものの2、3分の〈転寝〉って、ほんとうに旨いのです。でも今は叱られずに、思い出しては、首を引っ込めてしまいました。

(多摩美術大学工芸学科の野口裕史教授に作品です)

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もう30年にもなるでしょうか、私の事務所を訪ねて下さったご婦人が帰宅されて、ある詩人に、私のことを話したそうです。その詩人が、岡山県瀬戸内市にある「長島愛生園」を訪ねた折に、みなさんに、その話をされたそうです。次兄に左腎を移植提供した、その話にいたく励まされたと言って、貴い愛心を、送ってr下さったことがありました。けっこう大きな金額でした。

それを手にして私は驚いたのです。国から与えられるわずかな手当から、みなさんが、こんな自分のために捧げてくれた愛の籠ったお金でした。どうしても使うことができませんでした。当時、私たちを激励し下さった恩師が、脳腫瘍の闘病中でした。それで、その愛心を治療費の一部にと言って、ご家族にお渡ししたのです。

この長島愛生園に、かつて、明石海人と言われる歌人がおいででした。小学校の教師や銀行勤をした方だったそうです。25才の時に、病気になられたのです。奥様と二人のお嬢様を残して、入院され、後に、長島愛生園に転院されました。そこで短歌を、林文雄氏、小川正子医師から学んで、短歌作りをし始めるのです。

ご自分を「天啓の歌人」と称して、秀作を詠んだ方です。しばらく「天刑」と、ご自分の病を呪ったのですが、やがて「恩寵」に預かり、「天啓」として、ご自分を、ありのままで受け入れて、38才の生涯を、瀬戸の長島で終えられています。昭和14年のことでした。お父様の死、お嬢様の死にも、立ち会えない悲しみを歌った歌もあります。

鉄橋へかかる車室のとどろきに憚(はばか)らず呼ぶ妻子がその名

癒えたりとわが告ぐるべき親はなし帰りゆくべきあてすらもなし

吾子(あこ)が佇(た)つ寫眞の庭の垣の邊に金柑の木は大きくなりぬ

その明石海人が、終の住処とした同じ島で、同じような魂の慟哭(どうこく)の中から、光を見出した方たちからの愛心でした。同じ様に、私たちが12年も住み続けた、中国華南の街の友人たちが、「一家人yijiaren/家族の一員)」と呼んで、愛心を下さいました。それは中国の街での生活費の8ヶ月分ほどになるでしょうか。さらに、金銭では計れない、家内の入院中のお世話に費やした時間と犠牲とがあります。そんな応援の中と、この街に住まれる友人夫妻の善意を受けて、今、家内は、北関東の病院で闘病しております。

(瀬戸の朝焼けです)

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父の会社が、東京の浅草橋、日本橋、新宿にありました。これらの会社に、連れて行ってもらったことがあります。どこも父が責任者であったのかどうかは知りません。でも、いろいろなことを父はしていたのです。会社経営の才覚があったのかも知れません。

ところが、晩年の父は、名もない酒造会社に、様々な備品や什器を卸す事業をしていた所で、パートで働いていました。日本橋などに通勤していた時には、誂えの背広にワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨かれた革靴の出で立ちでした。自慢の<オヤジ>だったのです。ところが、パートをしていたときは、すぐ上の兄のお古を着たり、ジャンパー(ブルゾンとは言えませんでした)を羽織り、野球帽をかぶって出かけていました。

全くお洒落をしなくなった父を見て、年を取ることが、そういう変化なのかと、ちょっと意外に感じていました。もしかしたら、競争社会の緊張から解かれて、普通の初老のおじさんで満足だったのかも知れません。

その父が61才で召されたのです。私たちが結婚して一ヶ月経たない時でした。ですから、私たちの四人の子どもたちは、おじいちゃんを写真でしか知らないのです。父の晩年の面倒をしてくれた下の兄がよく言うのは、『親爺を温泉に連れてって、背中を流してやりたかったなあ!』なのです。この兄が、一番父親孝行をしたのかも知れません。姿格好も、父を一回り大きくしただけでそっくりなのです。

この父は、横須賀で生まれ、品川から中学校に通い、秋田の学校に学び、旧満州、京城、山形、甲府、そして東京を幾個所か住んだ人でした。母が一年近く入院した時は、会社に、ほとんど行かないで、母の面倒を見て、まだ父の家にいた弟と私の食べ物の世話もしてくれていたのです。

それでも収入があったのが不思議でした。怖い父でしたが、母には優しい父でした。生きていたら、今春百九才になります。先日書類を調べていたら、右肩上がりの独特の筆跡で、『心頭滅却すれば 火も自(みずから)涼し 安禅は必ずしも山水を須(もち)いず。』と書いたメモが出てきました。晩唐の詩人•杜荀鶴の詩です。明治生まれの世代は、こんなことを学んだのですね、すごい!

『心持ち次第で、どのような状況でも環境でも、それに即して生きていけるのだ!』と、父は生きたのでしょう。旧暦の正月、中国では春節であります。

(絵は”百度”から「杜荀鶴」です)

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壬生菜

 

 

徳川幕府の崩壊直前、京都は、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まって来て、不穏な状況下にありました。その都の治安維持には、京都所司代と京都町奉行が当たっていましたが、それだけでは手薄で、防護できなくなってきていました。それで幕府は、「浪士組」を組織して、その任に当たらせようとしたのです。

その動きに応じて、浪士や士分はでない農民の出で、腕に覚えのある者たちが、将来、「旗本」の身分に取り立てられるとの誘いもあって、最終的に、京都守護職・会津藩主の松本容保の下に、「新選組」が組織されます。京都の壬生(みぶ)に、「屯所(とんしょ)」を置いていました。それは、江戸の郊外の多摩の出身の近藤勇、土方歳三らによってなる、武闘する武装集団でした。子母沢寛という小説家が、昭和3年(1928年)に、「新選組始末記」を出してから有名になったのです。

ですから、映画や芝居で取り上げられて、注目されるのですが、私たちが小説や映画で知らされていることと、史実とは幾分かけ離れた部分もある様です。京都の警備が目的でしたが、反幕府の天敵に対して、それを抹殺を図った集団でした。その戦法は、「必ず敵よりも多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。例えば、〈三条制札事件〉では、8人の敵に対し34人の味方を用意し、〈油小路事件〉では、7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を、あらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。」と記録されています。

一匹の百獣の王ライオンの雄を、20匹のハイエナが襲うビデオがあります。死肉を食らって生きるハイエナも、多数で長時間、襲いかかるなら、百獣の王でさえ疲れさせてしまい、弱者集団に負けてしまうのです。今日の〈いじめ〉と、よく似た〈いたぶりの戦法〉です。私の同級生に、「土方(ひじかた)君」がいて、土方歳三の関係者の子孫ですから、土方贔屓(びいき)なのですが、この戦法はいただけません。

農民が士分に預かり、しかも旗本に取り立てられるという誘いは、農民にとっては、この上ない出世の道だったことは分かります。でも時代の趨勢は、はっきりしていましたし、新選組の隊員も承知だったのでしょう。でも現状打開、立身出世への話は、彼らには魅力的だったことでしょう。民主的な時代に生まれて育った私たちには、分からないことなのでしょうか。

結局、組は解体してしまい、新しい時代が到来したわけです。土方歳三は、それ以前、「石田散薬」という自家製の薬の行商を生業(なりわい)としながら、天然理心流の剣術の修行に励みます。28の時に、京に上る、夢見る青年だったのですが、その夢も、時代の流れに押し切られ、近代日本が誕生したわけです。 壬生には、この写真の様な《壬生菜》が栽培され、新選組は消えてしまったのですが、この野菜は、今もなお生き残り、農家の手で生産され、多くの人に食されています。

ここ栃木は「小江戸」と呼ばれ、何となく江戸を感じさせられる街に、ほぼ3週間過ごして、150年も前のことに思いを馳せております。

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これも「一筆啓上賞」をとった、“日本一短い手紙”の一つです。これは第一回の表彰を受けた作品で、主題は、「母」で、東京在住の当時31歳の女性の作品です。

絹さやの筋をとっていたら
無性に母に会いたくなった。
母さんどうしてますか

「ちらし寿司」、きっと母のふるさと、出雲では「ばら寿司」と言ったのでしょうか、京丹後のものが有名で、西日本では、そう呼んだのかも知れません。事あるごとに、母がこの「ちらし寿司」を作っては、食べさせてくれました。

絹さやえんどうの筋を取るのを手伝わされたり、酢飯を作る時、団扇(うちわ)で、炊きたてのご飯に酢を注ぐ時に、団扇(うちわ)であおぐのを手伝ったりしました。家内の味もけっこう旨いのですが、育ててくれた母の味は、比べることのない別格な味なのでしょう。

同じく、その時の作品で、大阪府在住の当時51歳の男性の作品に、

お母さん、
雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。
もうすぐ雪ですね。

があります。涔涔(しんしん)と雪の降る中に生まれたことへの、母親への深い感謝が感じられる手紙です。私も、暮れの押し迫った12月中旬に、家族の住まいとしていた山奥の旅籠の別館で、母が産んでくれました。明方の4時45分、村長夫人が受け止めてくださり、産湯を使わせて、産衣(うぶぎ)を着せてくださったそうです。父が、仕事用に手帳に、そう書き残しておいてくれました。

「垂乳根(たらちね)の母」、4人の子どもたちは、様々なことを思い出しながら、自分たちの母親の危機に、思いを向けている今なのです。先ほど、長男の運転する車で、長女は成田国際空港に向けて帰って行きました。香港で12時間過ごしながら、ニューヨークに向かって、30時間の旅にです。任地が西海岸に変わる時期でしたので、貴重な時間を割いて、母を見舞ったのです。(➡️ 成田空港で、カウンターの係員の好意で直行便に120ドルに手数料で乗り換えられたそうです!)

やっぱり母親の方がいいですね。自分が母親の胎に9ヶ月いた、母との関係にはかないません。次男は、母親のためにと、サプリメントを持ってきて、それを朝夕飲むように、優しく説明し、母親の好きな曲を、“iPod”に、十数時間かけてダウンロードして持ってきました。昨日の日曜日の朝は、それを聴きながら、一人で愛読書を、ベッドの上で読んでいたそうです。

これから次女と、獨協医科大学病院のナースステーションまで、着替えを持って行きます。何と、友人が車を貸してくれましたので、次女が運転して行きます。自動車保険も手続き済みにしてくれています。この友人夫妻の愛には、中国の華南の友人たちと同じような、大きさと深さを感じています。長女の離日に、昨夕は、ご馳走までしてくださいました。そんな月曜日です。

(東広島市に咲く「白梅」です[HP/里山を歩こう])

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一筆啓上

 

 

これらは、福井県丸岡市の「丸岡文化財団」が、去年26回になる「日本一短い手紙のコンクール・一筆啓上賞」、テーマは「先生」の優秀賞を得た作品です。中国の学校で教師をしていた時、これをヒントに、宛先を決めて、「短い手紙」を、日本語学科の学生に書いてもらいました。

俳優の渥美清が、ロケ地のアフリカから「拝啓御袋様、ボク元気」、南極越冬隊員の夫への妻の書き送った「あなた」を読んで、いたく感動した私は、中国一短い手紙を日本語で書くように、作文テーマを与えたのです。六、七年続けたでしょうか。 中国の街に、その作品の一覧ファイルに残してあります。

ことば数が多ければ気持ちが通じるだけではなく、一言二言で気持ちを表すというのは、難しいのですが、いらないことばを省く技術を身につけて欲しかったからでした。良い作品が多くありました。やはり、ふるさとの母親宛てが一番多かったでしょうか。

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ハプニング

 

 

1月31日、家内を見舞って、病院にいましたら、友人から電話がありました。家の浄化槽が満杯で、業者に連絡されたそうです。『処理が翌日になるので、市内のホテルに宿を取りますから、そこに泊まってください!』とのことでした。

それで、借りたレンタカーを、次女が運転して、一旦家に戻って、ホテルに向かいました。1ヶ月振りの雨の宵でした。遅くなってからは雪に変わったのですが、この浄化槽と雪のハプニングに、生活のリズムが変わって、老舗のホテルに投宿したのです。

心憎い配慮を友人夫妻がしてくださって、広い浴槽の湯に、思いがけなく入ることができました。中国で大きな愛を受け、ここ栃木でも、友人夫妻、ご子息ご家族から愛を受けながら、2人の娘と過ごしております。お湯の温もりと人の心の温もりが、重なり合って溢れております。

昨2月1日の明け方は、ホテルの6階の窓から見られたのは、実に綺麗な朝焼けでした。三日月と明けの明星が、凍てつく空に光輝き、それを押し切るようにして、太陽が昇ってくるのを、しばし祈り心で眺めていました。東に筑波山、南に富士山も見られたのです。実に神秘的な冬の朝焼けでした。

再び家に帰って、家内の着替えや愛読書などを持って娘たちと、東武電車で病院に参りました。ところが「面会全面禁止」とのことで、家内に会うことが叶いませんでした。と言うのは、インフルエンザの猛威から、入院患者さんを守る措置が取られていたのです。ただ、ナースステーションに、持参品は委託することができるとのことで、4階の病棟まで上がったのです。

家内の洗濯物を、看護士さんが届けてくれ、その中に、メモがありました。そんな意思の疎通しかできない中、家族への心遣いが記されてありました。持参した家内が、幼い日から読み続けて来た愛読書(版は何度か替わっていますが)や着替えを、看護士さんにお渡しし、それぞれに3人が記した手紙も添えました。そんな3つのハプニングの日でした。

(ホテルの6階からの富士山です)

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平忠度

 

 

この絵は、栃木県立美術館所蔵の「薩摩守平忠度桜下詠歌之図」です。今週、家内の妹が、友人と一緒に家内を見舞ってくれました。年寄りに、自分の家系を聞いたことがあったのでしょうか、父方と母方のことを、姪たち(私たちの娘たち)に聞かせていました。聞くところによると、父方は、源平の戦いで敗れた平家の武将の末裔なのだそうです。

日本中に、平家の落人が、隠れ住んだ山や谷があるのですが、その一族なのでしょう。平家と言いますと、平忠度(たいらのただのり)という武将がいました。「薩摩国(今の鹿児島県西部です)」の国司の任に当たっていたので、「薩摩守忠度(さつまのかみただのり」と呼ばれていました。

詳しい戦歴や職歴はことはともかく、この人は有名な人なのです。何で有名なのかと言いますと、電車などの乗り物に、〈無賃乗車〉をする、けしからん人を、「薩摩守」と言うのです。お分かりかと思いますが、この人の名が、「ただのり」、すなわち、〈ただ乗り〉に語呂合わせするからです。

ある方が、東海道線の米原(まいばら)駅を訪ねて、『昔ここで大変お世話になりました。駅のために使ってください!』と言って、《十万円》を置いて、十三歳(大正末期)の時の〈無賃乗車〉を詫びたのだそうです。両親のいない彼は、都会にいる姉を頼ろうと行こうとします。路賃がなくて、仕方なく不正乗車をしたのです。北陸本線と東海道本線との乗換駅の米原駅で捕まってしまいます。ところが駅員たちは、この少年の事情を聞いて同情したのです。彼らは財布から少しずとお金を出して、少年にカンパをしたそうです。

そればかりではなく、駅員は、事情を車掌に話したのでしょう、「車掌室」にかくまって、この少年を東京に運びます。無事に姉のもとに着いて、その後、一所懸命に働きます。何年も何年も経ってから、少年期の温情を思い出したのでしょう、代替わりをしている米原駅を訪ねて、過去の経緯(いきさつ)を話して、金銭的な弁償と感謝を表したわけです。

この「薩摩守」は、素晴らしいですね。そういえば、社会人になってからは一度もしませんでしたが、学生の頃の私は、「薩摩守」でした。不幸なのは、一度も「ただのり」を見破られなかったことです。処罰され、弁償し、頭を下げていたら、繰り返さずにすんだのに、捕まらないままで、時効になってしまったわけです。

「恥な過去」に、心が疼(うず)くことが、今でもあります。赦されていながらも、精算していないことだからです。だから、40年ほど前に、そういった形で精算をされた方の決断と行為が羨ましいのです。今でも遅くはないし、今でもできるし、しなければなりません。そんな栃木の二月初頭の朝です。

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流感

 

 

日本語名は、「流行性感冒(流感)」である〈インフルエンザ〉が猛威を振るっています。学級閉鎖や学年閉鎖が、多くの学校であり、内孫たちの学校でもでもあったそうで、それを幸いに、こちらに、見舞いに来てくれたのです。

このインフルエンザを、江戸時代は、「タニカゼ(谷風)」と言いました。江戸の山谷から吹いてくる風が、〈インフルエンザ菌〉を運んできたのではありません。江戸期の相撲取りに、「谷風梶之助」と言う人がいて、酷い風邪をひいて、亡くなってしまったのです。屈強な男、角力(すもう)のチャンピオンを滅ぼしたのが、〈インフルエンザ〉だったのです。

それで誰言うともなく、〈流行性感冒」を「タニカゼ」と言う様になったそうです。その経緯が次の様に語られています。

『(谷風梶之助は、)身長6尺2寸5分(≒189cm)、体重43貫(約161kg)というあんこ型の巨人。容貌・人格共に温和で人望を集め、小野川との取組が評判であったそうだ。仙台伊達家のお抱え力士。1795(寛政7)年1月9日(新暦2月27日)、はやり風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中に逝去(45歳)。このときの流行り風邪を「谷風」と呼んだ。しかし、谷風が天明 4年頃に「土俵上で儂を倒すのは無理。儂が横になっているのを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語した時に流行った風邪が「タニカゼ」と称されていたもので、横綱・谷風の死因となった当時のはやり風邪は、正しくは、「御猪狩風」と呼ばれていたものだが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。兎に角こんな体力のある凄いお相撲さんでも、病気には勝てない時があり、そこで悪性のはやり風邪(インフルエンザ)のことを「風」にひっかけて「谷風」と呼ぶようになった。「無敵の風邪」という意味だろうね。そして、この谷風の命日が「風邪の日」となった。(HP「今日のあれやこれや」から)』

毎年、香港や中国大陸から、決まってやって来る、渡り鳥の様な〈流感〉には、中学せいの時に、一度かかったことがありました。体の節々が痛くて、近くの開業医に見てもらって、ものすごく高額の注射を打たれたのを覚えています。それなのに効きませんでした。今年も、早く流行がおさまります様に。

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