不遇

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 幕末の戊辰戦争の頃からの流行歌(はやりうた)に、作詞が品川弥二郎、作曲が大村益次郎の「宮さん宮さん」がありました。

1 宮さん宮さん お馬の前
ひらひらするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ

2 一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
トコトンヤレ トンヤレナ

3 伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな
トコトンヤレ トンヤレ(以下省略)

 明治維新政府の要職には、ほとんど薩摩藩と長州藩の出身者が就きました。幕末の動乱を動かしたのは若い世代で、しかも身分の低い武士階級が、その動きの中心を占めていたのです。畑や田圃を耕し、行商をしなければ生きていけない階層でしたが、時の動きをしっかりと見て、国に在り方の変化を野心的に求めていたのでしょう、それで尊王攘夷に身を投じて行きます。

 そんな人たちの中に、島津藩の加治木島津家の分家に生まれた村橋久成がいました。上級国民の話題が多いのですが、この人は上級武士の子で、藩が、イギリスに遣わした留学生の一人でもあったのです。同行者の中に五代友厚、ロンドンにはすでに森有礼がいました。久成は、一年ほど「軍事」を学んだ後に帰朝しています。

 薩摩に戻った久成は、戊辰戦争で越後や東北に、大砲隊長として赴き、各地を転戦して行きます。さらに箱館戦争にも遣わされ、幕府軍の榎本武揚に降伏を持ちかけています。戊辰戦争後、郷里に戻りますが、東京に呼び出され、北海道開拓の屯田兵の創設を任されます。

 中央志向が強くなかったのでしょう、閑職に甘んじた人でした。明治維新政府では、はるかに下級であった黒田清隆の方が要職についています。大久保が暗殺された後は、薩摩閥の重鎮として、明治憲法が発布された折の内閣総理大臣にも就いています。

 一方、開拓使の久成は、札幌麦酒(現在のサッポロ・ビールです)を建て上げ、官営事業とします。ところが黒田らは民間への払い下げをしてしまいます。その後でしょうか、久成は黙して、表から消えてしまいます。そして、家も家族も捨て、托鉢僧となり、1892年に行旅病人として神戸で亡くなってしまったのです。

 この久成に何があったのでしょうか。家族を捨てなければならないほどの屈辱体験があったのかも知れません。男って、けっこう厄介ですね。下剋上でしょうか、維新政府を動かした、長州の伊藤博文も薩摩の黒田清隆も賢かったそうですが、醜聞や奇行が多かった様に聞きます。大国主義の中で、有望な人材が消えていったのは事実です。

 この流行歌の歌詞で、二度も繰り返して歌わせている「一天万乗」とは、〈全世界を治める位またはその人の意で、天子のこと〉なのです。実に世界制覇、野心的な歌であり、天子が担ぎ出された革命が、明治維新であったと言えそうです。作詞者の品川弥二郎も作曲者の大村益次郎も長州藩士でした。どうも祇園での遊びの中で生まれた歌の様に申し伝えられています。

 人の世は、とかく不遇をかこつ人が多くおいでです。歴史に《もし》と言うことはあり得ませんが、デンマークのような小国のままの国造りが、私たちの国でできたら、勤勉さや正直さや律儀さを生かして、別の形で立派な国が出来上がったことでしょう。そんな中で、石橋湛山の小国主義は気高く輝いています。

(札幌の市花の「鈴蘭」です)

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