父子

 

 

作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭の「櫻井の別れ」という歌が、明治32年(1899年)に発表されました。

1 青葉茂れる櫻井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

2 正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまで来つれども
とくとく帰れ 故郷へ

3 父上いかにのたもうも
見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅

4 汝(いまし)をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己(おの)れ討死なさんには
世は尊氏(たかうじ)のままならん
早く生い立ち 大君(おおきみ)に
仕えまつれよ 国のため

5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む折からに
またも降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀れと聞かざらん
あわれ血に泣くその声

この歌は、楠木正成(まさしげ/1294〜1336年)と、その十一歳の子、正行(まさつら)との父子の別れを歌ったもので、足利尊氏との「湊川の戦い」を前にしてのことでした。正成は湊川で、壮烈な戦死を遂げ、正行も後に、足利の武将・高師直(こうのもろなお)と四條畷(しじょうなわて)で戦って討ち死にしてしまうのです。この「櫻井」は、大阪府島本町にあり、私の師のアメリカ人起業家が、しばらくここに住んでいました。

楠木正成は、戦前、「忠君愛国」のシンボルとして祭り上げられたのですが、敗戦後は、戦時の過ちが叫ばれる中、その惜別の美談は語られなくなって行きます。しかし、「志操の堅さ」と「戦術的才能の優秀さ」では、真田昌幸・幸村父子とともに、わが国屈指の武将、人物としての高い評価を、今でも受けています。

この歌を、父がよく口ずさんでいたのです。きっと小学校の修身の時間に、歌い覚えた歌だったのでしょう。そんな戦国時代や、主従関係の厳しい武家社会に生まれなくてよかったなと、常々、私は思わされるのです。父が、鎌倉武士の末裔を自慢していたのですが、何百年も前の身分が、この時代には通用しないのです。

でも父から、戦争時代の話を聞いたことがありませんでした。心ならずも軍国主義化して行く時代の流れの中で、軍命に従わざるを得ない状況に、父があったのでしょう。先日の「追思会」の折に、知人の母君との出会いを話させていただいたのですが。父が軍属で、爆撃機の製造に携わり、その爆撃機がこの国の多くの街を爆撃したことへの「お詫び」と「つぐない」とで、いつかこの国に来たいとの願いが叶えられ、やってき来て間も無く、お会いした旨を話したのです。

過去に引きずられる必要も、親の罪責を子が負う必要もないのですが。そんな黴(かび)の生える様な〈浪花節気質(なにわぶしかたぎ)〉も、何か自分の一部の様に感じて、捨て切れません。葬儀で、その話をした翌日、村内を行く葬列の中で、一人のご婦人が、『お話がすごく良かったです。ありがとうございました!』と言ってくれました。その村の近くにも、日本軍が上陸しているのですから、加害者の子の話を、その被害者の孫が聞いていたのかも知れません。

(正成と正行親子の「櫻井の別れ」の図です)

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