黙々と

 

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「孟母三遷の教え」というのを読んだことがあります。孟子のお母さんは、よく息子を見守っていたのでしょうか。ある時、墓場の近くに住んでいた時のことです。そこで行われる葬儀を真似ては、「葬式ごっこ」ばかりしていたのです。これでは良くないと言って、引越しをします。その引越し先は、市場の近くでしたので、今度は、「商売ごっこ」ばかりして遊ぶようになったのです。『これは教育上良くない!』と判断して、今度は学校の近くに越します。そうしますと、彼は「礼儀作法」を真似し始めたので、お母さんは安心して、そこに住み続けた、と言う話です。

その孟子は、お母さんの環境選びの甲斐あって、やがて著名な思想家、教育者となっていくのです。その孟子が、「人は以(もっ)て恥ずること無かる可(べ)からず」と言いました。その意味は、『人は恥の思いを持つべきで、反省せず慢心するようなことがあってはいけない!』というものです。それは人に言えないような、過去の日陰での体験とか、恥を被った経験なのかも知れません。

私の愛読書に中に、『人は若い時に、くびきを追うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙って座っているがよい。』とあります。この「くびき(軛)」と言うのは、むかし、ヨーロッパなどの農村で見られた、「粉挽き」で石臼で粉を挽くために、二頭の牛を、ひとつの首枷につなぎ、牛追いに引かれて、共に同じ方向に歩んで石臼を回すための「首枷」のことです。もし牛たちにも抗議の機会があったら、きっと、『こんな単調で、きつい作業をさせ、しかも軛に繋ぐとは!』と言いたいことでしょう。

自分の思い通りにならず、誰かの意思によって動き回される不自由さを覚える経験は、有益なのです。青年期には、年長者、人生経験の豊富な人に従って生きていくこと、さらには重荷を負って生きることを言ってるのでしょう。そう言った環境にいたら、文句を言ったり、自説を唱えたり、自分や環境を呪ったりしないで、「黙ること」なのです。「孤独」になると、心が澄み渡って、人は多くのことを学べるのだと言うわけです。

もしかしたら、「砂を噛むような経験」かも知れません。愚直な努力でしょうか。野球小僧なら、球拾いをさせられるような時期のことです。そういう時にこそ、基礎が培われ、やがて長足の進歩と成長が見られるのです。最近の若い人は、すぐにレギュラーになりたがります。初歩コースを、『時間の無駄!意味がない!』とスキップしてしまうのです。私は、こんなことをしました。スナップの効いたシュートを打てるように、毎晩、入浴時に、風呂の中で手首を使って水をかいたのです。コーチに勧められてでした。そんな単純なことをし続けた結果、手首が強くなったのです。そんなことをある人は、『風呂の中で、ばかなことし続けて!』と、思っても不思議ではないのですが。黙々としてやった高校時代が懐かしく思い出されます。

(絵は”百度”による「山茶花」です)

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