江戸時代の元禄期に、近松門左衛門という人がいました。越前藩士で、藩主の侍医をしていた人の子でした。「竹本座(大阪の道頓堀にあったそうです)」という芝居小屋で上演される浄瑠璃や歌舞伎の出し物の作者だったのです。生涯に100作ほどの戯曲を書き上げたと言われています。日本を代表する文化として「歌舞伎」が取り上げられるのですが、歌舞伎の隆盛に大きく貢献した文化人として、著名です。
その100もの作品の中で、一番有名なのが「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」で、人形浄瑠璃として1715年に初演されています。その後「歌舞伎」でも上演されるようになりますが、これが大当たりとなったのだそうです。この作品の主人公の名は、「和藤内」と言われ、中国人の父と日本人の母の間に、長崎で生まれた人でした。「和藤内」は作中人物ですが、彼の中国名は、「鄭成功(ていせいこう)」で、実在の人物でした。人形浄瑠璃や歌舞伎は、史実とは違ったもので、近松の創作でした。
この作品が人気を博したのが、鎖国をしていた当時、海を隔てた中国や台湾を舞台とした「和藤内」の活躍が、そのスケールの大きさ、国際的であったので人々の関心を買ったようです。この作品の中に、和藤内の老いた母親が出てきます。この母親が戦いの中で、中国の人質として捕らえられてしまいます。ところが鄭重に扱われて、食事なども、今でいう中華料理をもてなされたのです。アヒル、豚、羊、牛などの肉が振舞われるのですが、この老母は、『こんなものより《おむすび》が食べたい!』と、ことばをもらしています。その脂分の多い中華料理よりも、「淡白」な日本の食べ物を求めたわけです。
これは、中日の食習慣の違いが端的に現れていて、笑いを誘うくだりになっているのです。国際人になって、異国の生活に慣れるのですが、年老いてくると、生まれた祖国、とくに母の手料理の味を思い出すのは人の常のようです。和藤内のお母さんだけではなく、私たちも、《おむすび》がしきりに食べたくなってしまい、時々、《塩むすび》、梅干しが送られてきた時などは、《梅むすび》を作って食べることがあります。人の「嗜好」というのは、昔戻りするものなのでしょうか。ビーフステーキやハンバーグステーキが好きだった私が、根菜の《煮っころがし》や青物の《おひたし》が食べたくなってきてしまうのです。父が、美味しそうに食べていた光景が思い出されると、しきりに、『食べたい!』との思いに駆られるのです。
南の方に、「泉州」という街があります。昔から貿易港として栄えてきた街で、海岸から、遥か昔の航海を行き来した舟の残骸が発掘されたりしています。この街の小高い山の上に、和名・和藤内の「鄭成功」が、馬上に凛々しくまたがった巨大な像があります。案内していただいて、その真下で見上げたのですが、何でも大きい物好みの中国のみなさんの作ったものに圧倒されてしまいました。彼は、海の彼方の台湾に目を向けているのです。彼は中国でも台湾でも、国民的な英雄とされています。日本人との間にできた人物が、清に滅ぼされようとした明を擁護し、また台湾に渡って政権を握るなどの活躍をしたわけです。
近松門左衛門が魅入られた人物だったのでしょう。何百年も前に、国際舞台で活躍した日系人がいたことは、この国際社会の現代に、大きな励みとなって、青年たちに夢を持たせたいものです。なんだか、《おにぎり》が食べたくなってしまいました。
(写真は「鄭成功」、地図は彼が活躍した地域です)