喜ぶ者と共に喜び

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 『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 (詩篇1226節)』

 「ブリッジ・フォ・ピース( Bridge for Peace )」からの今朝届いたメールが、次のように伝えてきました。

 『イスラエルは、国中が喪に服すメモリアルデー「ヨム・ハジカロン」です。昨晩の日没から始まり、イスラエルを守るために命を落とした兵士、テロ犠牲者を偲び国中が、亡くなったイスラエルの息子と娘たちを自分の家族のように追悼します。メモリアルデーには、追悼のサイレンが国中に鳴り響きます。人々は立ち止まり、車を停止し、車外に出て哀悼の意を表します。』

 イスラエルは、1948514日(ユダヤ暦の5078年イヤール5日)に、ダヴィド・ベングリオンによって、テルアビブで、独立が宣言されています。今夕の日没から、75回目の「イスラエル独立記念」の式典が行われます。日本からも、《Blessing Zion クワイヤー》の三十数名のみなさんが式典に参加されます。私たちの友人も参加しておいでです。式の祝福と、旅の無事をお祈りします!

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(「イスラエル独立宣言」、参加の「クワイアーのみなさん」です)

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[人]リヴィングストン

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 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、 蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)』

 『遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。(ロマ1015節)』

 ロンドンに、「ウエストミンスター(Westminster)宮殿」があります。この街の象徴であり、いえ、イギリスの誇りと言ったほうがいいかも知れません。今は、イギリスの国会が行われるための国会議事堂に用いられていますが、元々はGreatBritain の国王の宮廷でした。

 この王宮に隣接して、イギリス国教会の「ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)」が、西側にあります。この5月6日に、チャールズ新国王の戴冠式が行われようとしています。また、ここには諸代の王や英雄や国家貢献者たちが埋葬されてもいるのです。

 その中に、デーヴィッド・リヴィングストン(David Livingstone)も葬られています。

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 「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカに渡り、奴隷解放運動に尽力し、イギリス紙幣の10ポンド紙幣の肖像にもなっている人です。彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し、貿易ルートを開拓した人でした。

 『私の探検の 目的は、どん欲で利己的な 人たちに アフリカの扉を 開いて 不公平に 利用され、荒れ果てさせることでは ありません。アフリカ全土に 福音を伝えられるように、宣教師たちのための道を 開拓したいのです。私の 求めているのは、ダイヤモンドでは なく、 人間の 永遠の魂なのです!』と、リヴィングストンは語りました。

 後の10ポンド紙幣の肖像にもなった彼は、史上始めてアフリカ大陸を横断し貿易ルートを開拓しました。しかし探検中、感染症にかかりジャングルの中で亡くなりました。同行していたアフリカ人の従者のスーシとチューマは、この尊敬する主人をなんとか本国に還そうと遺体をミイラ処理にし、途中10人もの仲間を犠牲にしながらもなんとかイギリスへ届け遺体はウェストミンスターに葬られました。

 私の母は、昭和初期に、カナダからやって来られた宣教師の教会に導かれて、十代の初めに信仰を持ちました。そこは、日本中の神が、神無月には参集すると言われてきた出雲でした。宗教の強固な地での宣教は大変だったに違いありませんが、福音に力があり、人々に受け入れられていきました。95歳で帰天するまで、母は信仰を持ち続けたのです。

 義母も、戦後の混乱期に、マッカーサー司令官の派遣養成に応用して、来日した宣教師の配布した、「約翰伝」の分冊を読んで、その、伝道の中で、救われています。福岡で生まれ、東京で学び、結婚をして東京に住み始めて、そこで宣教する宣教師に導かれたのです。101歳で帰天するまで、信仰を守り通しました。

 「救い」とは、イエスを「主」、「キリスト(救い主)」と信じ、告白することによります。それは「聖霊の働き」によります。

 『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。 1コリント123節)』

 イエスを信じて救われた人の中で、ある人は、宣教に召されるのです。神に遣わされた人たちによって、人は、イエスを主、救い主と信じるのです。リヴィングストンも、母を導いたカナダ人宣教師も、義母を導いたアメリカ人宣教師も、みな遣わされて、「福音」を宣べ伝えたのです。

 幕末から明治にかけて、そして第二次世界大戦の後に、欧米諸国から、教会の主でいらっしゃる、キリスト・イエスさまの「宣教命令」に従った、多くの宣教師が来られました。日本のキリスト教会の礎は、そのみなさんによって据えられているのです。

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LGBTを考えるために~向き合いたい三つのこと〜

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 キリスト教性教育研究会 会長をなさっている水谷潔氏が、次のようなことを書き記しておいでです。私たちが、どのように、LGBTのみなさんに接したらよいか、素晴らしい提言ですので、ここに転載してみます。

 『20年ほど前から、同性愛傾向に葛藤を覚えるクリスチャンや関係者から相談を受けてきた者として、私見を記します。今回は、同性愛を考えるときに、向き合っていただきたい三つのことを、ご提案いたします。 

信:聖書に向き合う

 まず、確認したいことがあります。聖書が言及しているのは、厳密にいえば「同性愛」ではなく「同性愛行為」、言い換えるなら「同性間の性的結合」です。ですから、「傾向」と「行為」は分けられるべきです。同性愛傾向を持つだけの方が、断罪的な言葉を受けて教会を去っていくようなことは、本来、あってはならないことでしょう。

 では、同性間の性的結合はどうでしょう。創世記1、2章によれば、神様は人を男と女に創造し、結婚関係において異性間での性的結合を定められました。神様の秩序からの逸脱という意味において、同性間の性的結合は、結婚外の性関係と同様、御心ではないと言えるでしょう。また、紙面の都合上、詳細な考察は割愛しますが、他の聖書箇所でも、一読する限りは、同性愛行為は否定的に記されています。

 一方で、同性愛行為を他の罪とは別格のものと考えるのは聖書的ではありません。聖書は多くの場合、同性愛行為を他の罪と同列で記しています。ソドムが滅んだのは、同性愛行為が原因でしょうか。創世記19章以外でソドムに言及している聖書箇所を読めば他の罪も原因だとわかります。また、レビ記2013節では、男性間の同性愛行為は死刑に値すると記されていますが、前後を見ると他の性的罪、あるいは性的でない罪も死刑相当です。さらに、ローマ人への手紙1章でパウロは「同性愛行為を行う者は滅びる」ではなく「滅びに向かう者は結果として同性愛行為に至る」という趣旨を記しています。もしかすると、原因と結果を取り違えて読んではいないでしょうか。そして、1章29節以降には、やはり同性愛行為と並列して、一般的な罪がリストアップされています。

 どうでしょう。同性愛行為を特別に邪悪な罪と考え、結婚前に性関係を持つ求道者はOKで、LGBTNGとするような思いはないでしょうか。「聖書的だと信じてきたこと」は「聖書が記していること」でしょうか。一度、思い込みをわきに置いて、聖書に向き合っていただければと願います。

知:事実に向き合う

 もし自分が通っている教会にLGBTの方はいないと決めつけるなら、それは偏見に基づいた事実誤認かもしれません。一定の確率で、教会の中にもLGBTの方はいらっしゃいます。私が相談を受けてきた当事者の多くはクリスチャンホームで育ってきた方です。どうかその「見えざる事実」「知られざる苦悩」を想像してみてください。

 典型的な事例を紹介しましょう。LGBTの傾向を自覚する中高生は、親にも指導者にも打ち明けられぬ一方「同性愛は罪」と聞きながら育ちます。本当の自分は受け入れらないと考え、自死を考えます。うつ病を発症します。教会を去り、ゲイコミュニティーに集う青年もいます。親も指導者も、この現実に気が付きません。親友だけが知っています。これが現実です。自分の家族や教会の仲間がそうだったらと考えてみることをお勧めします。

愛:当事者に向き合う

 イエス様は遊女など、性的罪人を受け入れられました。LGBTの方々が人間としての尊厳を持ち、愛すべき隣人であることを忘れてはなりません。残念なことに、キリスト教会は、長い歴史において聖書を根拠に差別をしてきました。ユダヤ人差別、黒人奴隷の正当化、ハンセン病差別、アパルトヘイトなどは、その代表例でしょう。そうした過去への真摯な悔い改めをもって、LGBTについて考えたいものです。

 今、日本の教会でも、LGBTの新来会者、教会員のカミングアウトが増えています。ヨハネの9章において、弟子たちは生まれつき目の見えない方を前に議論しましたが、イエス様はその方に語り掛け、愛を注ぎました。私たちもLGBT当事者を前に、弟子のように議論するのか、イエス様のように愛するかが問われます。

 私自身は、聖書を基準に同性愛行為を罪だと判断していますが、その判断は、差別や排除ではなく、愛と受容に向かってこそ、聖書的だと考えています。聖書的価値転換や愛の実践は、決して容易ではありませんが、LGBTは、この時代にあって、日本の教会が取り組むべき課題の一つでしょう。そのために、三つのものに向き合うことが、神様が望まれる信と知と愛を獲得する一助になればと願っています。

   LBGTとは:レズピアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーを代表とする性的少数者の総称。

 水谷潔氏 1961年生まれ。小さないのちを守る会 元代表。春日井聖書教会 協力牧師。「世の光・ジェネレーションX」ラジオパーソナリティ。

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朋、エドより来たりて

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 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。(申命記516節)』

 『あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。 (箴言2325節)』

 友人が、ご夫人と、97歳になるお母さまとご一緒に、昨金曜日に訪ねてくれました。お母さまは、大正の最後の年に、九州の大牟田でお生まれになられたそうです。女学校をおえられて、久留米の洋裁学校で学ばれ、二十歳ごろには、満州に一人旅をされ、ソ満国境の街まで行ったとお話しされておいででした。

 家内の母親が、その久留米の出身だとお話をし、私の父が、満州の奉天(今の瀋陽です)に若い頃にいたと言いましたら、目を丸くされて、会話が弾んだのです。汽車を追いかけて走ったりした通学の様子や、名士のお父さまのことなども、懐かしそうにお話くださったのです。

 親孝行をする息子と、お嫁さんの姿も立派でした。自分の二親は、すでに召されていますから、十分に果たせなかった身には、ちょっと羨ましさを感じたのです。時々、温泉地などに連れ出されていると言っていました。明日は、足利市にある」” Flower park ” に、満開の藤の花を観に、お母さまをお連れするそうです。

 『あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 (ヤコブ514節)』

 若い頃からの主にある兄弟は、家内にオリーブオイルを注いで祈ってくれました。単純な信頼でなされる祈りには、主の驚くほどの祝福があります。私たちの帰国のたびに、会社のゲストルームを使わせてくださり、さまざまに物心両面で支えてくれてきた兄弟姉妹です。おかげさまで、人形町の銭湯にも浸かることができ、隅田の流れの界隈、江戸の名残を残す下町を、自転車をこいで流すことができました。

 お父さまの事業を継ぎながら、伝道と牧会をしているのです。『朋あり、遠方より来る。また楽しからずや。』な心境であります。

(あしかがフラワーパークの藤、オリーブオイルです)

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永生の望みの中にあるから

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『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15章13節)』

 私の家内が学んだ学校の玄関の前に、浮き輪の形をした池があるのです。以前、病中の恩師を見舞う家内を、車に乗せて、この学校にお邪魔した時に、彼女から、その池の建設までの経緯や背景を聞いたのです。そんなに大きいもではなく、何の変哲もない池でした。しかし、それは一人の宣教師の「隣人愛」の死を記念して、教職員や卒業生の寄金によって作られてものだそうです。

 1954年(昭和29年)9月のことでした。台風15号が、勢力を増して北上していました。函館港から出港した青函連絡船の洞爺丸が、数キロの海上にあった時、突風を受けて転覆してしまったのです。海難事故としては、あのタイタニック号の座礁事故の次にでしょうか、犠牲者が多かったと言われいます。乗客乗員合わせて1175人の方が亡くなられ、わずか163人だけが生存された事故でした。

 その亡くなれた方の中に、少なくとも二人のクリスチャンがいらっしゃいました。一人は、YMCAで奉仕をされていたアメリカ人のディーン・リーバー氏(33才)で、仙台の奉仕に向かう途次でした。もう一人は、農村伝道神学校の校長をされていたアメリカ人のアルフレッド・ストーン氏(52才)で、道内で農村伝道での奉仕を終えて、長野県に向かうところだったと言われています。お二人とも、日本と日本人を愛して福音宣教のために来てくださった方々だったのです。

 沈没しつつある間に、泣き叫ぶ乗客を励ましながら、救命胴衣の着用を手助けした二人の宣教師は、最後に自分の救命胴衣を日本の若者に与え、召されたのです。リーバー氏は恐怖に逃げ惑う子連れのお母さんに、ストーン氏は若者に、彼らの救命の浮き輪を渡して、亡くなられたと伝えられています。

 聖書が説き、そしてイエスさまがお話になられた、「人が、その友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15・13)」とのことばを、驚くほどの「愛」をもって実践されたことになります。ですから、その池は、「救命の浮き輪」を表していて、ドーナッツのような形をしていました。ですから、ただの池ではなかったわけです。

 そのストーン宣教師が校長をされていた学校に、保育科があって、家内は、そこに学んだのです。彼が、校長をしていた当時は、東京都下の日野市に学校があり、子どもの頃に、私が遊びまわった野原の近くにあったのを、後になって知りました。あの勇名をはせた大規模の公団住宅が建設された土地だったのです。

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 都市型の伝道が人気なのですが、農村復興を掲げて、農村にも福音を伝達し、そこにキリスト教会を建て上げようとしたビジョンに感動させられるのです。いつでしたか、この学校の卒業生と同席したことがあります。週日は、ダンプの運転をされて走り回りますが、土曜日に仕事を終えると、教会の掃除をし、日曜日の朝には、背広にきちんとネクタイをして、教会堂の扉を開き、礼拝を守るためにやって来る3~4人のおばあちゃんの前に立って、奥さんのピアノの伴奏で賛美歌を歌い、説教をするのだそうです。

 地道な伝道が、今日でもこの国の中でなされています。教会成長などと言った世界とは、程遠い所で小さな群れが、礼拝を忠実に守っているのです。きっと、日本の霊的覚醒(リバイバル)は、こう言った山村や漁村の僻地から、名もない働き人によって起こってくるのだと信じてやまないのです。

 ストーン宣教師やリーパー宣教師は、死を恐れずに、人を生かそうとした生き方で、人生を終えています。極限の状況下で、そう言った選び取りをした決断に、イエスさまの十字架の死を信じた者の信仰が感じられるのです。そのような信仰を継承して、今を生きる人がおいでです。永生の望みの中にあるからでしょうか。驚くことに、リーバー宣教師が亡くなられた後、三男が誕生しています。

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[人]保科正之

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 私の住む街の表玄関は、両毛線と東武日光、宇都宮線の「栃木駅」です。ここから乗る特急は、鬼怒川線、野岩鉄道線、会津鉄道線で会津田島まで行き、そこで乗り換える便で、会津若松まで行けるのです。住み始め頃から、会津を訪ねたいと思いながら、果たせずに今に至っております。

 そこには、「明君」と称えられた保科正之(ほしなまさゆき幼名は幸松です)と言う、会津藩の初代藩主がいました。徳川二代将軍の秀忠が父で、母は静、庶子とされています。その誕生は、父秀忠の側近だけが知るのみでした。三代将軍となる家光の異母弟にあたります。武家社会や大奥の習わしで、世継ぎの子を儲けるためか、大名統治の関係か、正室の他に側室が多かったので、複雑な系図が見られます。

 庶子は冷遇されるのが常で、信濃国の高遠藩に預けられ、藩主・保科正光は、徳川将軍のご落胤(らくいん)を、畏れつつ育てます。そして正光の跡を継いで、1616年(寛永8年)に藩主となるのです。ついで、1636年(寛永16年)に山形藩の藩主となります。そして、1643年(寛永20年)に、会津藩主となっていきます。

 正之は、その手腕で、「文治政治(武断政治は武力でしたがこれは学問や教育を重んじる政治でした)」を行いました。それで、主君が亡くなっての殉死の禁止、末期養子の禁の緩和などを行います。また徳川政治の関与し、甥にあたる徳川第四代将軍の家綱の政治を、一家臣のようにして助けていきます。

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 それで玉川上水の開拓など、様々な改革を打ち出しました。政治的手腕は会津にも発揮され、産業の発展に何より力を注いでいました。また1657年(明暦3年)の「明暦の大火」では、江戸城の天守が焼失した際、江戸城の天守の再建よりも民衆の生活の安定に努め、以来江戸城の天守が再建されることはありませんでした。

 会津藩には、「会津家訓十五カ条」がありました。その家訓を定めたのが、正之でした。

一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。

右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文八年戊申四月十一日 会津中将 家老中

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 幕末にも、徳川の側に立ち、長州軍と戦った白虎隊も、この家訓を守るために、勇ましく戦っていたのは周知の事です。

 会津藩は、幕末に至るまで、徳川の側について、長州の勢力との戊辰戦争の中で、飯盛山で自刃して果てはてた「白虎隊」で有名です。

 同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子どもたちは、十人前後で集まりを作っていました。この集まりのことを会津藩では「什(じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が「一人什長(座長)」となりました。

 毎日順番に、「什」の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

 会津の忠誠心は、驚くべきものがありました。新島襄の夫人であった八重は、会津の武家の娘で、手に鉄砲を持って、長州軍と戦ったほどでした。新島に、『生き方がハンサムです!』と言われた夫人でした。初代藩主と幕末の会津藩士とは、心に繋がりがありそうです。徳川初期の名三君の一人に、保科正之は、その名を挙げられています。

(会津若松の「飯盛山」、高遠城址公園です)

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あゝなんと美しいのだろう!

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  大宇宙こそ、神秘の極みではないでしょうか。計り知れない単位でしか、その距離を表現できない彼方のきらめく星々が、整然と大空に散りばめられているのを観て、古代の人たちは、想像をたくましくさせて、星や星座や星雲に、名前をつけました。

 大航海時代、地中海沿岸部で見られたのですが、やがて見られなくなった「南十字星」は、十六世紀、イタリアの探検家のアメリゴ・ヴェスピッチがアンドレア・コルサーリによって発見されています。

 大空を見上げる少年の思いって、けっこう強烈なのです。北半球にいるので、赤道の南側の世界への思いは、けっこう強いのでははないかと思います。『南十字星を見上げてみたい!』、北半球だって知らない私なのに、未知なる南半球、しかも南十字星の見える地への訪問の願いを、十代に持っていました。

 肉眼でとらえられる、渦巻のようなアンドロメダ星雲だって、じっくり眺めてみたいのです。七夕になると、年に一度だけ注目されるのですが、「天の川」を、中国の詩人の蘇軾は、詩の「中秋月」の中で、「銀漢」と呼びました。

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

 時がゆっくりと過ぎていった時代には、詩心をもって天空を眺められたのでしょう。芭蕉も、

 荒海や 佐渡に横たう 天の川

と、宇宙が広大に広がる様を、越後の海岸から佐渡が視野に入った空を見上げて観たのでしょう。英語の詩でも、次のように詠まれています。

“I Know the Stars”

I know the stars by their names,

Aldebaran, Altair,

And I know the path they take

Up heaven’s broad blue stair.

I know the secrets of men

By the look of their eyes,

Their gray thoughts, their strange thoughts

Have made me sad and wise.

But your eyes are dark to me

Though they seem to call and call —

I cannot tell if you love me

Or do not love me at all.

I know many things,

But the years come and go,

I shall die not knowing

The thing I long to know.
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 宇宙の神秘さは、洋の東西を問わないで、誰もが強烈に感じるのでしょう。さて、昨日、初めての光景を目にしたのです。それは『あゝなんと美しいのだろう!』、との印象だったのです。想像したよりも、綺麗で《いのち》が微動しているのです。そう、そこは《いのちの世界》でした。

 市の検診で要注意の知らせが来て、昨日は、医院に出かけて内視鏡の診察をしてもらったのです。食道と胃と十二指腸を、胃カメラが映し出す映像を、鼻から入れられた医療カメラの映像を、映し出したモニターテレビを観たのです。その画像を見た時に、詩篇139篇のみことばを思い出しました。

 『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇1391316節)』

 monitor に映された私の内臓は、何億光年もの彼方で、光り輝いている様よりも、さらに神秘的でした。神が、創造者として、「組み立て」た以外には、考えることができなく感動的でした。光を当てられた、私の内蔵は、柔らかで生き生きとして輝き、いのちの動作を繰り返していました。胃壁や十二指腸が、こんなに綺麗だとは考えたことがありませんでした。

 母の胎に、《いのち》を付与なさった神が、その日から、78年もの間、活動させ、それぞれの臓器に託した役割を果たさせ続けてきたのも、自分の意思でではなく、神によるのだと分かったのです。口から食べた食物で、いのちを養い、傷を癒やし、無益な食べ物も砕き、吐き出させたり、排泄させ、たまにはお腹が、『グウー!』と鳴ったりしてしてきました。

 人の体ほど、精緻に造られているものはありません。神の《最高傑作》の被造物なのです。神に似せられて造られた被造物であることが、真に理解できた一日でした。母胎に宿った日から、1日も欠かさず、見守り、機能させ続けてくださってきた神がおられるのです。もっと大切に、体も心も美しく保たなければならないことを、感謝の内に示されたことでした。

 心は、覗き見ることができませんが、聖書のみことばに反映させて、知ることのできる世界です。昨日よりも今日の方が、曇りのない心でありたいものです。それにしても、綺麗な私の内部でした。内奥でした。

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アンテナを張って見守れ

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 私たちには、「表現の自由」、「言論の自由」、「知る権利」、「信教の自由」などが、憲法で保証されていますが、その自由が、悪用されて、ある時は、人を惑わし、恐怖させる犯罪が起こり得ます。

 『すべて人は、意見及び表明の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(世界人権宣言 19条)』

 『1. 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法21条)』

 「自由」の履き違い、勝手な解釈、自己都合による解釈、言い逃れのため、偽情報の流布などが、多くみられます。信教の自由という名で、強引な伝道をし、人を恐れさせ、入信を強要し、信仰のためと言って、あくどい迫りをし、〈何でもありき〉になって、大きな社会問題になっています。様々な名目での献金の強要、信じられないほど高額な宗教用具を、人の弱みに漬け込んだ販売、集会への強制参加、そんな大きな社会問題を生んでいます。そればかりではなく、「脅し」もあります。人の恐怖心を煽ることによって、社会不安を増幅させているのです。

 例えば、「キリストの再臨」についてですが、預言者の様に、その日を特定しています。何を言うのも自由ですが、聞く人によっては、大きな精神的な問題をきたしてしまうのです。いくつかの例取上げてみましょう。

 [エホバの証人のラッセル]

 ラッセルは 1.地獄はない 2.永遠の刑罰はない 3.イエスは神ではないという説を立てました。1870年初め、彼が19歳のころ、ピッツバーグ市で聖書研究会を発足させ、1881年にそれを「シオンのものみの塔冊子協会」と名づけ、エホバの証人の土台を作りました。ラッセルは、キリスト教の教理の多くを否定するとともに、いくつかの予言をしました。1914年にハルマゲドンの戦争(世界最終の戦争)が始まり、1915年までに世界は終わると予言しました。詳細には、その終わりの時までに十四万四千人の「エホバの証人」が集められ、この世の政府や一般のキリスト教会は減ぼされ、「エホバの証人」が世界を統一するという予言です。彼は64歳で心臓発作を起こし死亡しました。予言は当たりませんでした。

 [セブンスデーアドベンチィスト]

 終末の年代予言には考えるべき点が幾つかあります。一つには、少なからぬ人々が不安にかられたり、熱狂的になってしまったりすることです。1975年の時にも、学校や職場を退職して伝道に打ち込む信者もいたとのことですが、ウィリアム・ミラー牧師(元バプテスト派)が特定した主の日の様子に関しては、以下のように記録されています。

 「ミラーはキリストの再臨を1843年3月21日―1844年3月21日の間と特定し、再臨待望集会は100以上の場所で開かれ、熱狂的な雰囲気であった。運動は拡大の一途を辿り、一時参加者の数は6万人に達したと言われている。また一方でその特定は多くの人々を恐怖におとしいれ、財産を売るものもでてきた。・・・ある者は仕事を放棄し、屋根や山の上に登って天を仰いだ。しかし、その日も何の変化もなく、彼らの失望は非常に大きかった。・・・世間的現実に引き戻そうとする強制から精神不安定となり、精神障害者施設に収容された患者は、ボストン近郊だけでも170人以上もいたと報告されている」(ウィキペディア「セブンズデー・アドベンチスト教会」より)

 『では、ものみの塔の初代会長、C・T・ラッセルが予言した1914年には何が起きたのでしょうか。歴史に詳しい方ならピンとくるかもしれませんが、この年には第一次世界大戦が起こりました。これを見て、本当に予言通りだと思われた方々もいたようです。しかし、信徒たちが天に上げられる(携挙)ということは起こりませんでしたので、1843年のミラー牧師の時と同様に、失望した信者たちは組織から離れていきました。

 とはいえ、全員が去ったわけではありません。残った人々の中で、2代目の会長となったJ・F・ラザフォードが組織を再建していきました。彼は、「1914年以来、キリストが天での統治を開始し『終わりの日』が始まった」というように予言を再解釈し、基本的には現代に至るまでこの解釈を採っているようです。』

 [ハロルド・キャンピング/ロイター] 

 米国でラジオ放送局を運営するキリスト教徒の男性が、2011年5月21日を「最後の審判の日」と予言し、話題となっている。予言では21日に地震が発生し、信仰心の厚い人は天国に召されるが、そうでない人は取り残され、数カ月にわたって続く世界の破滅に巻き込まれるという。

 予言をしたのは「ファミリー・ステーション」のハロルド・キャンピング(89)。同氏は1994年にイエス・キリストの再臨を予言したことがあるが、今回の予言について、「いかなる疑いの影もなく成就する」と自信をのぞかせた。

 ファミリー・ステーションは全米に66局を配し、提携先を通じ30カ国語以上で世界各地に向け放送を行っている。

 キャンピング氏の支持者は、全米約2200カ所に最後の審判の日について屋外広告を掲示したほか、数十人が各地で予言を広めている。

 土木技師でもあるキャンピングは、聖書の解釈やノアの大洪水などの古代の歴史を基に予言を行っている。21日はカリフォルニア州北部アラメダで妻と一緒に様子を見守る予定とし、「おそらくテレビかラジオなどのそばにいるだろう。(最後の審判の日に)世界の裏側で何が起きているのか興味がある」と述べた。

 キリスト教には世界の終わりにキリストが再臨し、人間は審判を受けるとの考えがあるが、世界の終末の日を特定する予言は異端で、多数派とは一線を画している。

  [新宿シャローム教会の富田慎悟]

 『(中略)つまり、この2014年と2015年は聖書の歴史において非常に重要な「時」となります。天文学的な驚くべき確率で全ての事がこの時に一致して起こるのです。多くの人々が、終末の「時」に関して言うと、「危険だ。おかしい。異端だ。」と警戒し、教会はその事を語るのを恐れます。なぜなら今まで、様々な偽りの指導者によって「この日が再臨の時だ」という惑わしが多く蔓延したからです。

 また教会だけでは無く、一般においてもノストラダムの予言や2000年問題、2012年のマヤ予言などが話題となり、実際にその時になっても「何も起こらなかったじゃないか。」と人々の心を終末に対して鈍らせて来ました。

 しかし、今までの予言と言われるものは、全て何の聖書的根拠も無いものです。しかし、この2014~2015年は、御言葉の預言と、聖書のカレンダーに基づく「時」です。創世記を読むと太陽と月が創られた目的が「しるしのため、季節のため、日のため、年のため」と記されていて、その第一の目的は「しるしのため」です。

 さらにヨエル書2章、使徒の働き2章には「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。」と記されています。月食は月が血のように赤くなり、日食は太陽が暗くなます。明らかな天のしるしです。

 しかし、その前に!幼子から老人に至るまで、今までの歴史の中で最も激しい聖霊の注ぎがもたらされ、「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」のです。これから非常に短期間の間に、人知を遥かに超えた勢いで、爆発的な魂の大収穫が全世界でなされ、そして主イエスが花嫁を迎えに来られます。

 私はこの事を思います。「終末の事を知っている。」のが花嫁ではなく、絶えず聖霊に満たされ、御言葉に従って忠実に歩み、聖さを喜びとし、日々祈り、主イエスとの親密さの中を生きる者。そして、麗しさと同時に手には主の剣を握り、勇敢に主の戦いを闘い抜き、主にある愛とあわれみを身に帯びて魂の大収穫をしていく。それがキリストの花嫁としての歩みです。

 ダビデの幕屋はその「麗しい愛と戦い、種蒔きと収穫」の両方を同時に成し遂げる為の重要な拠点であり、現在日本中、世界中で急速な勢いで絶え間ない祈りと礼拝を捧げる祈りの家、ダビデの幕屋が回復しているのは明確な終わりの時代の「しるし」と言えます。

 私達は、驚くべき時代、大いなる時に生かされています。今は、目を覚まし祈り、主に従い、主との時間を人生の第一優先とし、花婿なる主イエスと強く愛で結びついて生きなければいけない時です。これから始まろうとしている偉大な主の計画に胸を高鳴らせ。キリストの花嫁よ。目を覚ませ!』

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 何を言うのも、権利として保障されていますが、言った人は、平然と口を拭うのですが、聞く人は、惑わされ怯え続けるのです。だから、言ったことを聞き分けることが必要です。聖書を読みますと、「キリストの再臨の日」、「空中携挙の日」、「世の終わり」、「最後の審判」は述べられてあります。でも、これらのことは《隠されている》のです。でも無理にその戸をこじ開けて、決定的な、断定的なことを言う人を警戒すべきです。

 何も起こらないと、計算を間違えたとか、その他の理由をつけて言い逃れをし、訂正をし、それを繰り返すのが常套手段です。テサロニケの教会の中にも、その様な問題があり、パウロが警告しています。

 『霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。(2テサロニケ22節)』

 日常の生活を乱し、すべき義務を果たさなくなったりして混乱が、この教会にあった様です。聖書を読んで、真理を蓄えているなら、おかしな言動を見破ることができるのです。《聞くべき情報》と〈耳や眼を塞ぐ情報〉があります。アンテナを張って、『アッ、これは怪しい、おかしい!』と見破るのです。

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[人]新渡戸稲造と李登輝

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 《39歳の時》に、主イエスさまの教会を牧する責任を負って、4人の子に養育を、家内と二人でしていたでしょうか。〈不惑〉の年齢になる前年でしたが、その責任の重さを感じながら、精一杯励んでいたのです。

 新渡戸稲造が同じ《39歳の時》に、台湾総督府の民生長官だった後藤新平の招聘を受けて、台湾に渡って、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長の重責を負っています。アメリカにいた時の要請でしたが、後藤の招きに、新渡戸は病弱でしたが、即座に応えたのです。赴任早々から、台湾全島を歩いて、この島で、何を植えて育てるべきか、農業の道を探します。それで思いついたのが、「サトウキビ」の栽培の近代化で、精糖業の整備だったのです。

 清朝時代から、台湾では精糖業が行われていたのですが、それを改善し、産業として確立するための術を模索していくのです。それで、パリで行われた万国博に出席した帰りに、ジャワ島に立ち寄って、そこで行われている精糖業の全てを視察します。そして、「糖業改良意見書」を後藤長官に提出するのです。

 その意見書を見て、後藤は新渡戸を糖業局長にします。京都大学に招かれて、植民政策の講座を担当するまで、3年間、その職に心血を注いで、台湾糖業の近代化の基礎づくりに腕を振るうのです。

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 この新渡戸稲造に、心服した人物がいました。台湾の第三代の総督に就任していく、李登輝です。台北高等学校を終えて、尊敬する新渡戸が、かつて教授職にあった、京都大学農学部に入学して、新渡戸が専攻し、講義した「農業経済学」を学んでいます。李登輝、19歳でした。〈22歳まで日本人〉であったと、この人は言っています。時代の子でしょうか、日本で教育を受け、アメリカに留学し、1961年に、クリスチャンとなり、その後、政治の道に進んでいきます。

 台湾で12年間、難しい時代の台湾の総統の責務を果たして、2020年に、97歳で帰天しています。その李登輝が、最も強く影響を受けたのが、農業経済学の教師であり、クリスチャンであった新渡戸稲造だったわけです。

 台湾には、上の兄と一緒に、台北から高雄まで、2週間ほど、教会巡りをしました。お招きくださった教会で、説教をさせていただきました。その代わり、説教後のおもてなしで、5kgも体重増になってしまったのです。確りした信仰を持たれる政治指導者の国は、落ち着いていて、豊かでした。新渡戸や、嘉義農林学校で野球部を指導した近藤兵太郎、台南に農業用水にダムを建設した八田與一など、台湾の農業や学校スポーツに寄与した人物が、何人もいます。

 その日本人への評価の高い国で、新渡戸やその他のみなさんのおかげでしょうか、歓迎され、熱く迎えてくださり、奉仕をさせていただいたのです。今、日台の関係が保たれていくように願うのです。大陸の華南の街にいた時に、ビサの関係で、3か月ごとに、厦門(アモイ)から金門島まで通いました。街の雰囲気が、大陸の街とはガラッと変わっているのに驚かされました。

 華南の街のある会社で、聖書研究会をしていた時、通訳をして下さった姉妹が、今は、台北に戻られておいでです。台湾に、主の祝福を心から祈っています。

(さとうきび畑、台湾のフリー・イラストです)

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