武士の妻の老いに

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 武士の生き方とは、ずいぶん厄介なものだったのでしょうか。明和八年(1771年)、三河国の伊織という名の武士が、刀を買うのです。150両という値で、30両を侍仲間から借金していました。よほどの名刀だったのでしょう。

 その刀の披露のため一席を設け、友人知人を招くのですが、お金を借りた同僚を招かずにいましたら、席の途上に、この同僚がやって来て、言い争いになり、その刀で伊織は切ってしまうのです。その傷が原因で、3日の後に、同僚は死んでしまいます。武士も些細なことで癇癪を起こし、刀を抜いて、人を殺め殺してしまうのです。江戸から越前国丸岡に「永のお預け」の処罰が下されるのです。妻るいと結婚して、四年目の出来事、若気の至りだったのです。

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 これは、鴎外の小説で、「ぢいさんばあさん」という題で、そのあらすじなのです。このことが起って37年後、伊織が赦免されて、るいの元に帰って、仲睦まじく老いを生きている様子から始まっています。その間、るいは、義父母の世話をし、見送り、授かった息子も見送ってきたのです。独り身になったるいは、筑前国黒田家に奉公に上がって、31年間仕えてきたのです。今や、年老いて、その仕事を辞しています。

 そのるいが、時の将軍徳川家斉から、褒美を授かるのです。今で言う年金と考えても良さそうです。その額が、銀十枚、今のお金で、7080万円になるそうです。るいは、夫の不始末で、寂寥(せきりょう)の年を重ねるのですが、この金銭的な慰めよりも、夫との老後を、共に生きる静けさが、なんとも好い「武士(もののふ)の妻の老い」ではないでしょうか。

 人生って、どう言うふうに展開するか、誰も予測できません。意地張りの短気で、人生の好い時を棒に振る人もいます。ただ忠実に働き上げて、趣味に老いを過ごす人もおいでです。ただ悔やんで、人生を振り返るよりも、残された日々を、どう生きるかが、いのちの付与者から問われていることなのかも知れません。鴎外は、還暦になった年に、『馬鹿馬鹿しい!』と言ったとかで病没しています。
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 カレブは、次のように言っています。

 『主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである』と言いました。 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア14711節)』

 なんと言う告白でしょうか。『・・・モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。』と言うのです。今の壮健さは、自然にできたとは考えられません。しっかりとした自己管理をしてきた結果、今、手にしているものなのでしょう。85のカレブは、日常の必要を、十分に果たせる健康体だったのです。

 度々訪ねては、激励してくださった主の器も、病を得て亡くなりました。婚約式にも、その時に合わせて来てくださって、奨励をしてくれたのです。彼は、食べ物にも気をつけていたのです。脂身の肉は食べませんでしたし、冷たい水もコーヒーも飲みませんでした。結婚生活も、常にご夫人を、会衆の前で褒めて、単身旅行中も、結婚の枠の中にとどまる予防線を張っていたのです。自己管理の人でした。アフリカ宣教に誘ってくださったことがありましたが、後に私たちが隣国に行ったことは知らずでしたが、それを是としてくれることでしょう。

 この方が、「心の中でメロディーを(Making Melody in Your Heart )」、「主はすばらしい(Oh God is good)」、「主の御霊よ」などの賛美コーラスを紹介してくれ、独身時代の家内たちが翻訳していました。当時、讃美歌や聖歌で礼拝時に賛美していたのに、

 『新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。 (詩篇981節)』

 『主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。(イザヤ4210節)』

の聖書のみことばに従って、礼拝賛美が始められて、作詞作曲がなされたのです。あの頃、よく賛美が作られたのを思い出します。歳を重ねた今も、あのメロディー、あの歌詞が思い出されて、皿を洗いながら、洗濯物を干しながらも、道を歩きながらも賛美するのです。鴎外の書いた「ばあさん」の家内も、「ぢいさん」の私にも、まだ唇と心に、歌い慣れた賛美がとどまっているのです。

(「三河国」の古図、青空文庫版、ブドウを担ぐカレブです)

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花と無花果と

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 今日の散歩道の農道の脇の水辺に、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花が咲き残っていました。どんなに暑くても季節季節に、咲く花に、いつも驚かされています。

 忙しくて、花など眺める余裕がなく、仕事をし、子育てをし、やっと終わって頭をもたげたら、綺麗に咲いて、季節を告げる花に出会って感動を覚えさせてもらえました。

 そう言えば、今日も無花果が、農家の庭に片隅になっているのです。もう何週間も前から、スーパーの棚で売られていましたが、手の届きそうな所で熟していたのです。

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 『「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。 (箴言917節)』

 小学校の通学路を離れた小道の脇の家の中から、垂れ下がって、美味しそうになっていて、この時期なのでしょう、一つももぎ取ってたべてから、どの甘さに誘われて、時々失敬し、何年か繰り返したのです。

 この無花果の持ち主の家のお嬢さんが、同じ教会のメンバーで、 同じ学校の先輩で、共通の恩師の薫陶を受けていたのです。お父さんは、父の仕事と関係にあった旧国鉄の研究所勤務だったそうです。

 何年か前、イチジクドロボーの罪を告白したのです。もうご両親は亡くなられていましたが、罪の告白って、ある面で自由にされるのでしょうか。なんかスッキリして、わだかまりが消えてしまったようでした。

 あの盗んだ無花果の実が、これまで食べた中で、一番甘かったのに、この先輩は、『あんな渋いのをよく食べたんですね!』と言われたのです。今晩の無花果も、大変甘くて、しかも安かったのです。好きな果物を食べて、今晩の幸福度はだいぶ高そうです。

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[街]上海

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 作詞が嶋田 磬也、作曲が大久保 徳二郎で、D.ミネが歌った「夜霧のブルース」が発表されたのは、戦争が終わった直後の1947年でした。映画の主題歌として歌われた歌謡曲で、1930年代の中国の上海の街を懐かしそうに謳っています。

青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路か 虹口の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ

可愛いあの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の リラの花
何も言わぬが 笑ってみせる
ああ これが男と 言うものさ

花のホールで 踊っちゃいても
春を持たない エトランゼ
男同志の 合々傘で
ああ 嵐呼ぶよな 夜が更ける

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 私の教え子のご両親が、この上海でホテルを経営していて、上海から大阪まで船で帰ろうとした時に、彼女と友人が、この街を案内してくれたのです。私が泊まるとために予約していたのは、youth hostel で、 “ Captain  Hostel (船長旅館)と言う、上海の外灘waitan と呼ばれる、旧市街が今も残っている地域にあったのです。教え子のお父さんのホテルでは、『無料で泊まってください!』と言われるのを避けたいため、自分で予約していたのです。

 中国新幹線で、虹橋という駅に、もう春節の休暇の間近で、親元へ帰省していた彼女たちが出迎えてくれたのです。ちょうど、そのHostel は、この歌の四馬路や虹口(小東京と呼ばれていたようです)の近くで、かつて日本人街があったところにあったのです。どうも、戦前からの煉瓦造りの建物で、経営者が日本人から中国の人に移っていたような雰囲気でした。

 外灘は、かつての上海港があった所で、世界中から、この港に、人々が事業や観光の目的で行き来していたのです。私の父の青年期に、きっと訪ねていたのだろうと思うのです。私が、この国に初めて行き、北京、呼和浩特(フフホト)、広州と、この上海に行った時には、もう父は召されていましたから、もっと父の若い日のことを詳しく聞きたかったのですが、叶えられなかったのは残念なことでした。

 そんなことで、親近感が上海にはあって、初めて訪ねた時も、初めてのような気がしなかったのは、父のことを思っていたからなのでしょう。戦後は、ハワイやロサンゼルスやパリなどが、観光名所になっていたのですが、戦前は、「東洋の魔都(大都市すぎて本体が掴めなかったりして呼ばれた街を言ったのでしょう)」、一度入り込んだら厄介な場所もあったのかも知れません。

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 対岸に、この街のシンボルの大きなテレビタワーがあって、东方明珠广播电视塔と呼ばれています。東京の顔のような東京タワーやスカイ・ツリーに匹敵するような、上海の顔とでも言えそうです。最初に訪ねた時に、このタワーの展望台に登って、みたのです。この街には、中華民国の文学者の魯迅や郭沫若という方々と親交のあった内山完造(岡山県出身)の経営する書店が、かつてありました。東京と上海で、文化の発信をしていたのです。この内山はクリスチャンで、日中友好に尽力した人でした。

 市内の街路には、城市や人の名が付けられていて、福州路、中山路、愛迪生路(エジソン)、延安路などがあり、かつては「租界(そかい/ 各国の治外法権の地で、外国扱いされた地域のことです)」があり、実に無礼なことに、日本租界には、『犬と中国人、入るべからず!』と、立て札があったほどだったそうです。

 アジア最大の街であって、東京に匹敵する大都市です。親しくしている、華南の町で製パン会社を経営している方は、この上海で修行をして、ご自分の出身した省た街に多くのパン店を展開しておいです。製パン機やパンの原材料の卸などをされていて、今東京に住んで、行き来をしておられます。何年か前から神奈川県下に工場を作る準備中なのです。

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 長江の下流、上海の街中を通って、東シナ海に流れ込む黄浦江に流れの脇に、外灘があって、戦争が終わり、中国の革命運動も終わっても、この街は、かつての様相を残したままのようでした。周辺の省や内陸からの出稼ぎの人たちの多い街ですし、学生たち学びの府でもあったのです。文化的で、古い中国が残る、混ぜ合わされたような街ではないでしょうか。

 食べ物も美味しかったですし、この上海の波止場(港)は、欧米や日本への通路でもあり続け、大きな国際空港も整備された街なのです。日中関係が、不安定であっても、日本の商社も工場も多くあって、今も日本街は元気なようです。

(新旧の上海の外灘、紅焼肉はホンシャオロウ、テレビ塔、内山書店です)

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思い出から消えていくもの

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 JR中央線に、いくつかの名物がありました。駅舎でユニークだったのが、国立駅、日野駅、豊田駅、高尾駅(浅川駅)でした。学園都市の国立には、一橋大学、国立音楽大学、東京女子体育大学、桐朋学園、国立高校、第五商業高校、国立小学校などがありました。その駅舎を何度振り返ってみたかも知れません。

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 国立駅から二つ目が日野駅で、駅舎が農家の茅葺(今は、トタン葺き)と同じで、独特な佇まいでした。日野自動車、小西六(コニカ)、羽田ヒューム管、オリエント時計、神鋼電機(神戸製鋼所)などの大手の会社がある街で、かつては宿場町で、多摩川の渡し船が、立川との間を結んでいました。ここに踏切があって、そのメカニズムや仕組みを、面白くて科学していたことがあります。

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 この駅の近くに引き込み線もあり、ほろ苦い思い出の場所でもあります。貨車の最後部の車掌室の固い椅子に横になって、夜を明かすと言うのは切ないことでした。お腹は減るし、水だって飲みたいし、ほろほろと鳥は鳴き、犬も遠吠えしていました。引き込み線のメカニズムだって、おかげで学べたのです。

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 日野駅の隣りが豊田駅で、今では、もう面影が残っていませんが、駅舎は開業当時は独特でした。日野台団地と浅川との間の段丘に、線路が走っています。公団住宅による多摩平団地が、1958年に作られ、大東京の西のベッドタウンとして注目されていました

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 中央線の終点が、浅川駅でした。のちに高尾駅に駅名の変更がありましたが、ここも、高尾山の下車駅で、何度もこの駅から山に登り、相模湖に下って、ハイキングをしたことがありました。八王子と高尾の間には、西八王子駅があり、多摩御陵(大正、昭和の天皇の墓所)の至近の駅です。でも、昭和初期には、京王電鉄が、ここまで線路を敷設し、御陵駅があったそうです。

 父や兄妹や父と共に、通学や通勤途で、JR中央線が長らく利用したのですが、級友と電車に乗り合わせて、一緒に通った思い出があります。学校の下車駅の駅名の看板に、悪戯書きをしたのを、高等部の国語の教師で、「奥の細道」の特攻をしてくれた教師に見つけられ、『消しゴムを持って、消してきなさい!』と注意され、共犯の級友と消しに行ったことがありました。

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 別の級友が、三鷹駅の近くに住んでいて、広い車輌センターの近くで、線路に入って、十円玉を、線路の上に置いて、走ってくる電車の轢かせて、薄べったい硬貨作りをしていました。危険極まりない悪戯でしたが、国鉄からも学校からも見付からずにすんでしまいました。その子の家の近くに、跨線橋があって、そこも遊び場でした。

 その跨線橋は、太宰治が利用したことで有名でしたが、今年末、2023年の12月に撤去されるのだそうです。鉄橋の撤去、駄洒落にもなりませんが、懐かしい景色が、思い出の中から消えていくのは、ちょっと寂しいものです。もう一度渡ってみたいものです。吉祥寺駅も西荻窪駅、荻窪駅も阿佐ヶ谷駅も、時々利用してきました。

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 『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(黙示録21章4〜5節)』

 過去の出来事、出会い、別れ、そして涙、悲しみ、叫び、苦しみなどは、消えたり、薄れたりしておぼろげになりますが、それでいいのでしょうか。もしそれらが鮮明過ぎてしまったら、今がボケていってしまうかも知れません。今は一箇所にとどまり、行動範囲が狭くなったこともあり、新体験は少なくなりましたが、《新発見》はできそうです。聖書は、新しい天と新しい地とが、やがて到来し、『みよ、わたしは、すべてを新しくする。』と、主イエスさまは言っておられるのです。

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ホッとできるのです

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 『もう、こんなにもまでもかっ!』と思うほどに、朝顔が咲いています。種苗屋で買った種がよかったのか、世話がよかったのか、来客のみなさんも驚かれるように、日本朝顔が咲き誇っている9月の下旬です。

 今年は、長年の願いの「肥後朝顔」を植えたいと思っていましたが、とっかかりがつかなかったことと、難しそうなこともあって、先送りしてしまいました。「花卉いじり」の趣味など縁遠かったのに、咲く花を見てると、励まされるので、また楽しいので、し続けています。

 以前住んでいた街で、家の大家さんから、サツキや松の盆栽をいただきながら、枯らしてしまった前科者としては、今の自分がくすぐったいのです。

 まだまだ咲き続きそうで、華南の町のベランダでは、年越しの正月にも、朝顔が咲いてくれました。日本から里帰りした種からでした。どんな国情の国でも、朝顔は朝顔、綺麗に咲いてくれます。ホッとできるのです。

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dandy

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 『あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。(2テモテへ413節)』

 『ダサい!』と言われて、昭和の服装や格好はダメなのでしょうか。「野暮(やぼ)」や「無粋(ぶすい)」の言い回しだって、今では使われない「死語」になっているのでしょう。タンスの中には、20年も、30年も前に買った、格子柄のシャツが残っていて、もう着ないのですが、どうしても捨てられずにあります。

 生き方が、昭和的なのは、どうにもし難いもので、もう改めようがありません。fashion って、営業的、意図的に作られて、それが支持されていくのであって、その時代時代を反映ているのでしょう。流行りに流されない生き方をして来た自分としては、改めようがありません。

 兄や弟にもらった物も、捨てられません。また『兄が使わなくなったので、着てください!』と言われて、頂いたシャツやネクタイがありましたが、ちょっと pride が揺らいでしまって、好みが違うこともあって、奥にしまった後に、捨てさせてもらいました。それ以来、どんなに良くっても、着なくなった物は、着なくなった物なので、人に上げたりは、決してしません

 〈勿体ない物〉であっても、それを着たり、使ったりするのは、だいぶ抵抗があります。一番景気の良かった独身時代に、誂えたジャケットがあって、それがお気に入りでした。一張羅(いっちょうら)で、ちょっとおしゃれをしたい時に着ていましたが、良い物は、飽きがこないのですが、処分してしまった時、気残りがしてしまいました。

 このところ孫のお古が届くことがあります。〈お上がり〉と言うのですが、孫の残していった靴下やザック、次女が、洗濯物で残していった〈Tシャツ〉もあります。兄が送ってくれた新品で、上質のポロシャツもあります。その反面、そろそろ箪笥の中は、捨て時のものばかりになってきました。

 今夏は、異常に暑かったせいもあって、外出するたびに、一日に三度もの着替えをしていましたから、洗濯回数が増え、長年着てきたTシャツも、穴が空き始めて、捨て時になっているようです。〈洒落者〉だったのに、いつの間にか、ダサくなっているようです。父は、たくさん持っていませんでしたが、良い物を、三越で買い求め、季節季節でしまったり出したりして、破れたり擦れてしまうと、母に繕いをさせて、男の服装道を守って生きていました。

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 自分の会社の経営を辞めて、アルバイトをしていた頃の父は、次兄のジャンパーを着て、野球帽をかぶって、ズック靴を履いて電車で仕事場に出て行きました。あの父が、『よくそんな格好ができるなあ!』と意外でしたが、dandy さの無くなった、父は、父で納得して、〈老い〉を生きていたのでしょうか。男の価値は、着る物や持ち物にはよらないのですが。

 背筋を伸ばして、しっかりと前を見て、残された日を生きて行こうと、そんなことをこの頃は思っています。ラジオ体操仲間に、写真館をされて来た方がいて、今は、息子さんに任せていますが、お洒落なのです。好い物を着用していて、格好いいのです。この街では、《おぼっちゃま》と呼ばれてきたのだそうです。三越で買い求めるのを、父に真似て買った30年前のシャツも、もう限界の時を迎えています。

 パウロは、大切にしてきた上着があったのでしょう、知人の家に預けておいた物を、寒い季節がくる前に、テモテに持ってきてもらおうと願って、手紙の中に私用の願いを記しています。聖書に組み込まれた手紙の一箇所に、上着の必要を述べるパウロの思い、それを二十一世紀の私たちが読んでいるのには、やはり意味があるのでしょう。

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 パリサイ派の碩学(せきがく)と言われ、ユダヤの宗教界では将来を嘱望されたのがパウロでした。福音に仕える身になって、自らテントを作りながら収入をえ、またコリントの教会などからの献金で支えられて生きていた人でした。彼の残しておいた上着は、きっと好い物だったのでしょう。近所でも買えるし、頂くこともできたのでしょうけど、わざわざ持って来てもらうほどの価値や思い出が強くあったはずです。

 イエスさまは、多く持たなかったのですが、《快い物》をお持ちだったと、宣教師さんが言っておられました。そんな彼が、アメリカから古着を持って来てくれたことがありました。大きな電気店の御曹司だったそうですが、彼の懐具合は、主にお任せだったのでしょう。水洗でない家に住んで、中古の車を運転して、伝道されていました。そんな彼が、私に似合いそうな服を買って、旅行カバンに入れて、持ち帰ってくれたのです。古かったけのですが、気持ちが嬉しかったので、愛用しました。

 もう頭も薄くなり、見る影もなくなってきましたから、何を着ても見栄えがしなくなってきているのです。娘たちが、来る度に、何か着る物を買ってきてくれるのです。dandyでいて欲しいのでしょうか。もう少しだけ、『昔の夢よもう一度!』で、色褪せたり、穴の空いたものは捨てて、身なりにも気配りしないといけないかなって思う、fashionの秋、心地よい風のやっと吹き始めた九月の下旬です。でも、男の dandyism って、服装ばかりではなく、生き方の姿勢なのでしょう。

(イエスさまのイラスト、娘の忘れたTシャツ、パウロのイラストです)

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悲しみを超えて

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 やはり、慣れ親しんだ日常から離れて、国外に出かけると言うのは、一大決心だったのを思い出します。生まれてから小学校の一年生まで7年間おり、1972年、長男が生まれて2か月で、家族3人で、宣教師のお供で34年間、都合42年過ごした街を、2006年の8月に離れたのです。

 もう子どもたちは、四人とも自立し、空の巣の中からの次の人生の再スタートを決心したのです。もう少し早く出かけたかったのですが、引き留めるものがあったのでしょうか、でもタイミングとしては一番よかったのだと、今も思い返しております。

 新しい働きへの宣教師からの挑戦、友人の牧会する教会の出身で日本語教師をされていた姉妹の促し、旧約聖書のエレミヤ書の『わたしがあなたがたを引いて行ったその町の平安(繁栄)を求め、そのために主に祈れ。そこの平安(繁栄)は、あなたがたの平安(繁栄)になるのだから。」(297節)』に、押し出されて、出かけたのです。

 安定した生活から出ていくと言うのは、さほどに戦いがあったわけではありませんでした。ただ理解してもらえないことがありましたが、それも時間と共に理解は得られるとは思っていました。だって、主が導いてくださったことだったからです。

 持参したのは、本や着る物などでした。その着る物に、飼い猫の毛が付いていたのです。三毛猫と黒毛の猫二匹を、次女夫婦が、長野県で飼っていました。英語教師を3年間している間に、道端に捨てられていた猫を、見過ごせなかった婿殿が拾って来て飼っていたのです。かれらが帰国しなければならなくなって、飼い主に選ばれた私たちが、引き取って飼い続けたのです。

 猫の貰い先を探し見当たらなく、渡航の日が迫っていて、最後の手段で、市の愛護施設に運んだのです。家内には耐えられないだろうと、彼女の留守の間に、そっと運んだのです。黒猫のタッカーは、どこに連れられて行くかが分かったのでしょうか、悲痛な鳴き声を上げていたのです。でも後戻りはできず、涙を飲んで、そうしたのです。

 やはり、この犠牲が一番大きかったのでしょう。可愛かったのです。猫嫌いの自分が、飼うほどに懐いてくるタッカーとスティービーに情が移っていくのです。家の前に車を駐車すると、二匹が玄関にお出迎えしてくれるほどでした。

 このことを思い出したのは、長女が飼っていた犬が、交通事故に遭って、亡くなってしまったとのニュースを聞いたからです。生まれてすぐに、長女の家にやって来て、しっかりと懐いていたのに、突然の死だったのです。『泣かせて!』と家内に連絡してきて、大声で、娘が泣いていました。様々な死別があって、生の厳粛さを覚えさせられる私たちです。悲しみを早く超えられますように!

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マナも干飯も

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 江戸の日本橋を発って、江戸の街の西の城殿内藤新宿、武蔵府中、八王子、上野原、甲府を経て、信州の下諏訪に至る、四十四次の甲州街道がありました。東京に出て来てから、2度目に住んだのが、この旧道の脇に、父が買った家でした。13年近く住んだと思います。

 まだ舗装されていない坂道の途中でした。そこに大きな樫の木が植えられていました。子ども手ではふたかかえもの幹の巨木だったでしょうか。その木の枝の又の所に、竹笊(たけざる)に入れたご飯を、母が干していたのです。今のように、電気やガスの釜で焚く時代ではありませんでしたから、薪を燃料に、鉄の釜で炊いていました。

 その釜の底には、お焦げなどがへばりついていたのです。今のように、電気やガスの釜で炊く時代ではありませんでしたから、釜の底に、ご飯粒が焦げてへばりついていたのです。そんな釜に水を入れて、ふやかした米粒を、決して捨てたりしないのです。「ほしいい(干飯)」の保存食に、母がしていたわけです。無駄にしない工夫でした。

 13年の間住んだ記憶で、木の股に置かれた竹で編んだ笊の記憶だけが鮮明なのです。その干してある干飯を、摘んで食べたことはありましたが、食卓に載ることはありませんでした。炊いたご飯は、父と四人の子に食べさせて、母は、子どもたちに背中を向けて、台所の立って、それを頬張って食べていたのでしょう。

 今では、カロリー・メイトだとか、カンパン、インスタントラーメン、チョコバーとか、携行食、保存食がありますが、戦国の世、戦場を駆け巡る兵が、袋に入れて持ち歩いて、食べていたのでしょう。「戦国時代の保存食」と言われますが、どの家庭でも、そんな風に、食べ物を大切にしていたのです。

 「パッカンのおじさん」と呼んだ方が、リヤカーに、魚雷のような形の鉄と網でできた筒を載せて、時々やって来ました。そこに米とお金を持っていくと、その中に、少量の甘味料を入れて爆発音とともに、米粒が干飯のようになって出て来たのです。すごく美味しいおやつでした。今でも、袋入りのパカンが、スーパーでも売られているのです。これは保存食にはならなそうです。

 忍者が食べた携行食の話を聞いたことがあります。鰹節とか木の実とか薬草を丸めて、保存食にして持ち歩いていたのだそうです。それが食べたくて仕方がなかったことがありました。

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 『主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。 六日目に、彼らが持って来た物を整える場合、日ごとに集める分の二倍とする。」(1645節)』

『イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。(出エジプト1631節)』

 そういえば、40年間、荒野を旅したイスラエルの民に、神さまが備えられた「マナ」は、どんな味だったのでしょうか。食べていたイスラエルの民が、すぐに不満を漏らしたのだと、聖書にありますが、感謝が足りないのは、人の世の常のようです。

 これこそ、栄養学的も理想的な食べ物でした。神さまの、憐れみによって与えられた、保存の効かない、一日一日に早朝に天から降って、与えられた食物だったのです。

(「干飯」、森永乳業が販売していた「マンナ」です)

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老松の残る街の片隅で

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 一見して、昔の名残りでしょうか、両岸の間を綱手道に挟まれて、5メートルほどの水路、これが巴波川です。この流れのほとりに住み始めて五年になろうとしています。朝にも昼にも、白鷺が流れに立って餌取りをし、その間を鯉が泳ぎ、時々カモが侵入して来ます。

 水の中に、水草が茂り、流れの中で逞しく青々としています。線状降水帯での集中豪雨で水かさが増して、綱手道を被るほどになってしまいました。水が引くと、青草を見せています。そんな繰り返しをする流れを朝な夕なに眺めながら、実に静かな生活をしているのです。

 元々は湧き水を源とする川なのだそうですが、雨水を集めて流れ下っていきます。鉄道や自動車の交通手段ができる前、江戸時代初期から、明治頃にかけて、「舟運(しゅううん)」で、商都として栄えた街なのです。江戸の木場や河岸あたりを行き来したのです。

 越して来たばかりの頃、この舟運のお仕事を、江戸時代から家業とされていた家が隣りにあって、このアパートの前の大家さんのお姉さまの家で、お金の出し入れ帳とかハッピなどがあって、それを見せていただいたことがありました。

 家内と私と同世代なので、時々行き来もし、ラジオ体操仲間で、ここの自治会の婦人会長もされていた方です。庭に、数百年と言われる物言わぬ老松があって、そちらに植え替えても、ずっと植えられ続けているのだそうです。松にだけではなく、川の流れにも、空気に流れにも、歴史が感じられるのです。

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この松には目はないので、移り変わる世の動きは見ることはできませんが、世相、豪雨、洪水、地震、疫病、戦争、平和などを、幹ごと感じながら、今日も、植えられた家の隙間に見ることができます。

 この松も感じた栄枯盛衰、この街の繁栄、そして衰退を経て、年寄りばかりの旧市街の一角に住んでいるのです。観光客に、巴波周覧の観光用の舟が、竿刺しながら運行しています。その船を「都賀舟」と呼び、渡良瀬川あたりまで船荷を運び、そこから高瀬舟に荷を積み替えたのだそうです。巴波の流れを操りながら、船子たちが歌った唄です。

栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ

向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ

 営営となされて来た営み、人の生業、出入りや行き来など、巴波の流れを眺めると、最盛期の賑わいの音が聞こえて来そうです。物流はともかく、遠く離れた江戸の文化も芸術も伝えられて、けっこう文化度も高い街であったのです。

 ここは、日光へ行く、日光例幣使街道の宿場町でもあって、春の家康の命日に、京都から毎年やって来る、公家の一行が、我が物顔で、住人に迷惑をかけていたのだと聞いています。それほど、身分の偉さを振り撒きながら、嫌われもにはなかったのだそうです。エリート意識の強さって、芬芬(ふんぷん)もので、厄介な一団だったわけです。

 そんな人の往来の激しさのあった道も、映画館も遊技場もあったのですが、今では裏通り、その面影を感じさせますが、やはり〈寂れ〉を免れません。駅前には、大きなスーパーが、御多分に洩れずあったのでスすが、バイパスができて、商業中心が移ってしまっています。いつでしたか、倉敷へ行って、駅の方に歩いた時、街並みがシャッター街であったのが、強烈な驚きの印象でした。

 近郷近在から、めかして出掛けてき来て、買い物や遊びのために、この石畳の街を歩いた、人の草鞋や草履や靴の音が聞こえてきそうです。

(巴波川の観光船、松のイラストです)

故郷への憧れで

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1 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
わたしゃ浮世の 渡り鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も みんなちりぢり
わたしゃ涙の 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
わたしゃあてない 旅の鳥
泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
明日(あす)も越えましょ あの山を

 この歌は、「涙の渡り鳥」です。父の二十代の初め頃に、流行った歌謡曲でした。そんな古い歌を、中学生だった自分は、よく歌ったのです。父も母も、私たち子どもの前で、歌謡曲を歌うようなことはありませんでした。ただ、「主我を愛す」と「めんこい仔馬」を、父が、時々歌っていたのです。母は、讃美していました。ー

 ラジオを聴いて育ったので、聞き覚えで歌えるのですが、今頃になって、昔が懐かしいのか、「渡り鳥」のように、あちらこちらと引っ越しを重ねてきて、故郷も心理的に遠過ぎ、自家もなく、ただ思い出だけが、想いの中に駆け巡ります。出会った人々、訪ねた街が、とても印象的なのでしょうか。

 何度も書くのですが、外で喧嘩しても、『泣いて帰ってくるな!』、つまり、『泣くような喧嘩をするな!』と言うことだったのでしょうか。そうすると、勝って帰って来なければならないので、大変でした。自分に嫌気がさしたり、急に悲しくなったり、泣きたくなると、『泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ ♯』を口籠もるのです。泣きの抑止力は、未だに効いているのです。

 そんな決心の自分でも、父が退院の朝に、入院先の病院で、退院の朝に亡くなり、母から職場に電話が入りました。その病院に、電車を乗り継いで行く時、恥も外聞もなく、辺りを気にするでもなく、ただ激しく泣いてしまいました。愛されたバカ息子だったから、なおのこと、その死別は厳しかったのです。

 『あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇568節)』

 流した涙が蓄えられてあるのです。父と母のもとから自立して、仕事を始め、さらに天職と決めた仕事を辞めて、宣教師の訓練を受けて、故郷伝道のために故郷に戻ったのです。そこも、子育てを終え、六十代で、『mature なあなたたちは、若い人に自分の働きを委ね、新しい地に出て行きなさい!』との宣教師さんからの何年も前の挑戦を受けて、海を渡って、隣国に出かけたのです。羽のない家内と私たちは、飛行機に乗って出掛けたのです。

 居続ける予定でしたが、家内の発病と共に、帰国し、縁もゆかりもない栃木に住んだのです。次は、再び海を渡れるのでしょうか。それとも、「天の故郷」への帰還でしょうか。

 『彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。  もし、出てきた故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル111416節)』

 帰りゆく本物の故郷があると言うのは、なんと素晴らしいことでしょうか。出てきた故郷にではなく、「天の故郷」があるのです。日本で生まれたオオルリのような渡り鳥は、東南アジアへの渡りの間に死んでいくのでしょうから、生まれ故郷に戻ることなどできません。でも私は、思い出の生まれ故郷ではなく、「あてない旅の鳥」ではなく、《憧れの故郷》に戻れるとは、なんと言う「救い」なのではないでしょうか。

(GOOPASSの「オオルリ」です)

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