Education

 「六三三四」とは、小学校年、中学年、高校年、大学年の就学年数です。16年間の教育、そしてアメリカ人の師匠から、私的に年間学ばせて頂きましたから、少なくとも24年もの間、教育を受けたことになります。それ以降、東京の大学で聴講生として学んだことが何度かありましたので、それ以上の年数になっているでしょうか。この年数を考えますと、同世代に比べて、結構多いほうだと思うのです。劣等感の強かった私が、それに悩まされないでいいように、高等教育を受けさせてくれた父には、心から感謝しております。その割には、しっかり学ばなかったことは、常々反省をしておりますが。すこしばかり「知能指数」が高かったからでしょうか、父の期待を背に受けて、中高一貫の私立学校に行かせてもらったのです。しかし、その期待に反して三流校にしか合格しなかったのは、父には申し訳なかったと、いまだに思っております。

 そんな私ですが、学校の教師になることができ、「天職」だと励んだわけです。退職後、中国にまりました私は、友人たちにめぐり合い、彼らの紹介で、こちらの大学で教える機会を得たわけです。今学期は、学校から、「日本の国情」の講座を依頼されました。昨年末から一生懸命に準備をしながら、16週、32コマの授業で、何を教えるかを考えに考え、書籍等を買い求め、学びながら精一杯の講義ノートを作りました。2年半の間、日本語を学んできた学生ですから、難解にならないようにと工夫をしたつもりですが、自分でも、『ちょっと難しいかな!』と思ってきたところです。専門的な言葉を使わなければならないのですから、『やはり聞く方は大変だろうなあ!』とも感じてきたわけです。そんなこんなで、昨日で13の講義を終えました。よく出席して、聞いてくれたものだと学生のみなさんには感謝しているのです。

 昨日は、「日本の教育」について話してみました。古代から現代の教育まで触れてみたのです。話のはじめに、「教育」という言葉について触れてみました。「教育」は、「教える「と「育てる」とからなっているのです。「教」という漢字は、「交わり」と「鞭(棒)」と「子」でなっております。教え手(親)鞭を用いながら、子に注意を与え、子は、それを受けるといった意味で関わるわけです。「育」は、母が乳房をもって子を養うという意味です。私たち漢字文化圏は、「教育」について、こういった理解があることになります。さて、英語では、「educationn」、「educate(教える)」といいます。この英語は、ラテン語の「educere」から来たことばで、「e」と「ducere」からなる言葉なのです。この「e」は「外に」、「ducere」は「導き出す」という意味の言葉ですから、この言葉の意味することは、『人間には生まれながらに、能力や才能がある。だれもが好いものを内に持って生まれてくるのである。教育とは、こういった子供に関わりながら、その才能や能力や良いものを導き出して上げる働きである!』ということになるのです。

 ところが、日本でも韓国でも台湾でも、そしてここ中国でも、やはり「詰め込み教育」が主流のようです。外から教師が、子どもたちに内側に、知識などを注入していく、そういった教育がなされてきております。これは東アジアだけの傾向ではなく、どこの国も少なかれそういった傾向があると思うのです。私は、詰め込まれるのが嫌でしたから、『だから勉強しなかった!』と、不勉強の言い訳をしております。『俺のうちには好いもの、良いもの、善いものがある!』と自負して生きてきたつもりなのです。アメリカ人から学んでいた時に、アメリカの有名大学を卒業した優秀な人と一緒に学んだ時期がありました。テストを受けますと、彼は常に「優」、私は「良」ではなく「可」でした。結果には歴然とした差があったのです。それでも、嫌にならずに学び続けることが出来たのは、この師匠が激励してくれたからでした。このかたが召される前に、『あなたなら私の教えを理解してくれるでしょう!』といって、彼の生涯をかけて研究してきたレクチャーのDVDとレジュメを私に託してくれたのです。それは私にとって大きな喜びとなったのです。

 この師匠だけではなく、小学校2年の時の担任、中学3年間の担任、高校3年間の担任、一緒に遺跡の発掘をした教師、大学で『日本思想史」を教えてくれた教師などを思い出すのです。この教師たちが、私に言いたかったのは、『一生が学びですよ!』ということなのだと思うのです。それで、いまだに本を買っては読もうとしている私です。読みながら、横道にそれてしまう傾向は、いかんともしがたいのですが。本が増えてきて、家内の心配の種は尽きないようです。

(写真は、戦後の小学校教育で使われた「国語の教科書」です)

朝陽と落日

 昇りゆく《朝陽》と沈みゆく《落日》、ダルビッシュ有と松井秀喜を、こう例えてみたいと思うのです。この二人の年齢差は15歳ほどですが、野球選手の選手生命の短さから言うと、やはり、こんな風に例えてもいいように思うのです。私の長男も野球少年で、スポーツ少年団から中学校まで、野球部に席をおいて、将来は「プロ野球選手」を夢見ていました。『お父さん。プロの選手になったら、車や家を買ってあげるね!』と親孝行なことを言ってくれたのを思い出します。わが家は毎月家賃を払わなければならない、借家住まいでしたから、彼は身にしみて「自分の家」を持ちたかったのでしょうし、親を持ち家に住んでもらいたいと思ったのでしょうか。実に嬉しい思いをしたことでした。息子とほぼ同じ時期に、それぞれの地で、泥まみれになって玉を追っていた二人ですが、息子は中学を出てから、ハワイの公立高校に進学しましたので、いわゆる「高校球児」にはなりませんでしたが、2年後に卒業した松井は、石川の星陵高校から巨人軍、ヤンキースへと、野球の王道を歩んでいったわけです。

 金銭的な面で見るなら、大リーグのヤンキースに鳴り物入りで入団した松井のほうが成功者なのでしょうけど、精神的な面でも職業選択の面から見ても、私の息子の選んだ道は、決して価値のない、劣ったものだとは思っておりません。昨年の「東日本大震災」で被災した街に、月の何日間かを使って、いまだに定期的に訪ねて、水産業の手伝いをしたり、被災者への支援物資を届けたり、話し相手になるといった奉仕を忠実にしていますから、金になる人生は生きてはいませんが、まあ人に喜ばれる生き方をしていることは確かではないか、何よりも彼自身が満足して生きているのです。

 この松井秀喜ですが、チームへの貢献も、個人の成績も、素晴らしいものを残しながら野球人生を続けてきております。2009年の「ワールドシリーズ」でヤンキースがチャンピョンシップを奪取した年には、《MVP》に輝いておりますから、アメリカ大リーグで活躍した日本人選手の中では、最も高い評価を受けており、あのイチローに勝るとも劣らないのです。貢献度からしますと、かえって松井のほうが大きいのではないでしょうか。これは簡単には比べられないのですが。その彼が、膝の怪我、故障で、今シーズンは、《浪人生活》のままシーズンを迎えてしまいました。どの球団も、彼に食指を動かさないままだったわけです。初めて未所属のまま開幕を迎えたことになります。ところが4月30日に、「タンパベイ・レイズ球団」とマイナー契約を結んだのです。今は、その3Aの試合に出場して調整をしていると、ニュースは伝えています。

 

 いわゆる、この《干されている経験》というのは、母の病気で練習を休まざるをえず、センターフォワードのレギュラーから外された経験のある私にとっては、言いようのない《悔しい経験》であることが分かるのです。ところが、契約をしてくれる球団が出てくることを願って、黙々と独りで練習を、彼は続けてきたのです。野球環境も文化も言語も習わしも違った社会の中で、そうできる強さこそ、この人の凄さなのではないかと、舌を巻いているのです。いわゆる、《クサラナイ》のです。米のプロの世界は、情実も何も効かない実力の世界ですし、年齢や経験からしてもう諦めてもいい時期でもあるのに、野球への愛を捨てきれないで、機会を窺っている彼の下向きさに拍手したいのです。莫大な経済的な支えがあることは事実ですが(彼は多額の見舞金を被災者に捧げていると聞きます)、好きな野球を続けるために、大リーグとは雲泥の差のある3Aでプレーをするというのは、大選手の誇りからすると、誰でもができないのですが、彼は、そういったものに頓着しないで、機会を待っていたわけです。

 並の選手でしたら、挫けてしまいそうな中を、どんな酷評を受けようとも、意思や願いを貫く生き方は、若い人たちに学んでほしいことであります。金稼ぎは、目的ではなく、結果としてついてくるものだと思うのです。機会が与えられ、始めた生き方を好きになって、どんな職業でもいいから、そこに創意や工夫を加えて、楽しく有意義な人生を生きていって欲しいと思うのです。どの世界を生きても同じ、額に汗をかきながら、下向きに生きるなら、その人の人生は輝くからです。私たちは、そうやって生きてきた人々の子や孫やひ孫なのですから。彼の活躍を期待しつつ。

(写真は、HP「こつなぎの写真ノート」から「落日」です)

くちなし

 私たちの住んでいますアパート群の植え込みには、多くの木や花卉(かき)が植えられていて、四季折折の花を咲かせております。この住宅群を設計した方が、住むであろう住民に、細やかな配慮をされたのだということが分って、うれしくなってきます。中には、パパイヤの木もあって、青い実をつけております。その植え込みの間に、最近、芳香を放つ白い花が咲き始めました。そうです、「くちなし(名は、果実が熟しても口を開かないことによる )」なのです。この花は、東アジア、中国、台湾、日本(本州の静岡県以西、四国、九州、南西諸島など)の森林に自生する花だそうで、花言葉は、『幸せを運ぶ・・・清・・・私は幸せ・・胸に秘めた愛 』、とのことです(ウイキペディアから)。甘い香りを放ちますので、多くの人に好まれているようです。こんな歌を思い出しました。

1 いまでは指輪も まわるほど  やせてやつれた おまえのうわさ
  くちなしの花の 花のかおりが  旅路のはてまで ついてくる
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

2 わがままいっては 困らせた  子どもみたいな あの日のおまえ
  くちなしの雨の 雨の別れが  いまでも心を しめつける
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

3 小さな幸せ それさえも  捨ててしまった 自分の手から
  くちなしの花を 花を見るたび  淋しい笑顔が また浮かぶ
  くちなしの白い花  おまえのような 花だった

 この歌は、1973年に、作詞・水木かおる、作曲・遠藤実、渡哲也が歌って、大変反響のあった歌謡曲です。もちろん悲しい実らない恋の歌です。さて、どうして日本人は、「はかなさ」、「かなしさ」、「あわれさ」、「さび」、そして「さようなら」などの言葉を好み、和歌も俳句も詩も、こういった言葉が大変に用いられているのでしょうか。そういった日本語の傾向、日本人の好みには、ときどき驚かされるほどです。ある時の授業で、『どうして日本人は、『さようなら』と言って別れるのでしょうか?』というテーマで、話をしたことがあります。中国語は「再見」、英語は ”good byGod be with you)”、””see you”、朝鮮語は「アンニョン(安寧)ケセヨ(◯◯を持ってお出かけください)」と言いますが、なぜ日本人は、別れの挨拶として「さようなら(さよなら、さらば、おさらば、あばよ)」と言うのでしょうか。もちろん、『ごきげんよう』とか『お元気で』とか『じゃあ、またね』とも言いますが。

 それでも、日本で一般的なのは、やはり「さよなら」です。これを漢字で書きますと、「左様なら」「然様なら」です。「さらば」は接続詞で、「それでは」の意味になります。親しい間で使う、『じゃあ』と同じ意味です。ひとつのことが終わって、そこに立ち止まって、次に新しいことに向かおうとするときに、『左様であるなら』『そうであるなら』と確認して決別するのです。日本の学校では、授業の始めと終わりに、『起立、礼、着席』と級長が号令をかけます。「ことの始め」と「ことの終わり」にしっかり区切れを守るわけです。そうしないと、1つ1つの「こと」が進められていかない、日本人の「けじめ」をつける態度、伝統なのです。『そうなら、また明日か、いつか逢いましょうね・・・さようなら!』なのです。

 田中英光という作家がいました。1940年に「オリンポスの果実」というベストセラーの小説を発表しました。ロスアンゼルスのオリンピックにボート選手として出場し、その体験記を描いた青春ものでした。その後、中国大陸で兵士として戦い、戦後は共産主義の運動に参加します。しかし精神的に行き詰まり、挫折した彼は、太宰治の墓の前で、服毒自殺をします。1949年、36歳の時でした。彼の作品に「さようなら」があります。この小説の最後の部分で、『ではその日まで、さようなら。ぼくはどこかに必ず生きています。どんなに生きるということが、辛く遣切れぬ至難な事業であろうとも――。 』と書いています。彼の子供たちへの遺書には、『さようなら、お父さんをゆるしておくれ!』とも記してありました

 清楚な白い色と甘い香りの「くちなし」の花によせて、恋を終わらせてしまう歌に、寡黙な日本人の感情は共鳴してしまいます。ハッピーエンドでは面白くないのでしょうか、日本人のセンチメンタリズムを満足させるのは、「悲恋」でなければならないのです。しかし、若い人には、素晴らしい人と出会って、輝いた人生を互いに「伴侶」として、花言葉のように、子どもたちをたくさん生んで育てて、「幸せ」になってほしいと、植え込みの「くちなし」の香りをかぎながら思う、五月の下旬であります。

金環日蝕

 

 2012年5月21日、朝6時過ぎ、ここ華南の地の雲間から、「金環日蝕」が、はっきりと見えました。北京時間の6時半過ぎから始まったようですが、雲間にありましたので、しばらく見守っているうちに、見え始めてきました。次男が家内に、『これで見るといいから持って帰って、5月21日の早朝に見てね!』と言われた、昔、ノートの下敷きに使った、セルロイド(プラスチック)製の様な「日蝕観察用のグラス」を通してでした。薄目にして肉眼でも見えましたが。ベランダから東の空に目を向けていたのですが、やはり神秘的でした!こちらの方は、いつもと変わらない生活をされていて、バス通りに人がそぞろ歩いていて、私と家内だけが、興奮していたのかも知れません。写真を撮りましたので、掲載しましょう!

 

(写真上は、次男が東京で撮影したもの、下の4枚は華南の空の下で撮影したものです)

会津魂

 明治維新の折、朝廷側の薩摩・長州藩と徳川幕府側の会津藩が、1968年に繰り広げた戦いを、「会津戦争(大きな意味では戊辰戦争(ぼしん)」といいます。明治維新以降の会津藩の処遇に対しての不満から起った戦争で、会津藩・鶴ヶ城に立て籠もって城を死守しようとしたのが、16歳から18歳の340名ほどの「白虎隊」でした。実際は予備軍だったのですが、この戦いに駆り出されます。近代的な銃器の長州軍に、旧式装備しかない白虎隊は、一ヶ月の善戦むなしく、ついに降伏してしまいます。

 この会津は、新興勢力に、尻尾を振ってなびこうとしなかった「意気地」が高く賞賛されて、歌にも歌われ、映画の題材にもなっています。旧主君の徳川様に忠誠を尽くすといった「武士道」を、現代の日本の社会が、やはり高く評価するのでしょう。私の下の息子が、仕事で、この会津を訪ねた時の話をしてくれました。タクシーの運転手は、『お客様は、どちらからおいでですか?』と聞き、『山口からです!』と答えると、『降りて頂きます。あなたを乗せることはできません!』と答えるのだそうです。観光客に対しても、いまだに、「会津戦争(大きな意味で戊辰戦争)の遺恨」が残っているのだと言っていました。幸い息子は長州人ではなかったので、乗車拒否をされなかったのだそうですが、150年も経つのに、会津っ子の心意気に興味津々になりました。

 私が、高校3年の時に、入学したかった「同志社大学」は、新島襄が建学した学校でした。その新島の夫人・八重は、実に、この会津藩・砲術師範の娘だったのです。少女時代には、鉄砲を手にして、長州勢と戦った「女兵(おんなつわもの)」だったのです。会津では女性も子供も、「会津魂」をもって勇ましかったのですね。この会津には、もう一人、特筆すべき女性がいました。家老の娘で、「山川咲子(後の大山捨松)」で、明治4(1871)年11月12日明治維新政府から派遣されて、アメリカに留学をした、12歳の少女でした。岩倉使節団の一行の中に、女子留学生が加えられていたのです。『日本の近代化のために、どうしても女子もアメリカ社会で学ぶ必要がある!』との、黒田清隆(北海道開発吏次官)と森有礼(後の文部大臣)の考えによりました。その時、一緒に留学した5人の中には、後に津田塾大学を創設する6歳の「津田うめ(梅子)」がいました。

 

 

異国に留学させる決心をした親も、進取の精神に富んでいたのですが、自ら決心して留学の道を選んだ捨松は、やはり会津っ子の血を引く女性だったのでしょう。黒田にしても、旧幕臣の娘・津田うめ、仇敵の会津藩士の娘・大山捨松を選考した度量の広さは、さすがに薩摩武士に違いありません。15歳の次女を、アメリカのハワイに送った1991年、私は心配でなりませんでしたが、親しい友人が世話をしてくれると確約してくれましたので、肩を押すことが出来たのです。しかし情報量の遥かに少ない時代に、年少の女子が、11年間という留学を果たしたことには驚かされてしまうのです。

 「捨松」とは、留学する娘に、母が、『あなたを「捨てる」つもりでいます!』という意味での「捨」、『帰ってくるのを「待つ」ています!』という意味での「松」だったと伝えられています。年長の二人は、異国の生活に慣れずに体調を崩し帰国します。ところが捨松は、ニューヨーク近郊のニューヘブンという街の牧師の家庭にホームステイをします。溌剌として生きる彼女は、アメリカ社会にすぐに慣れて、溶け込んでいきます。10年後、卒業時には、記念スピーチをします、その内容は、「イギリスの日本に対する外交政策」と題して話されイギリスが不平等条約によって日本国内に治外法権を維持し、その政策がこのまま継続されるなら、日本人は国の独立のために闘うことを決して止めないであろう!』、という内容だったのです。いやー、明治の女性は強くてしっかりして、自分の国の有様を正確に理解していたのですね。そのスピーチに、列席者からの拍手喝采がやまなかったそうです。そして祖国日本のために帰国するのです。

 「大山」という姓は、「大山巌」と結婚してからの名です。大山巌は、旧薩摩藩士の陸軍大将、亡くなった時には「国葬」が行われたほどの人でした。捨松は「鹿鳴館(明治政府の公的な社交場)の華」として活躍した、明治を代表する婦人だったのです。念のため、東日本大震災以降、山口と会津のそれぞれの市長が、握手してる写真が、新聞に掲載されていましたことを申し添えます。

(写真上は、鹿鳴館、下は、明治政府が1871年にアメリカに派遣した女子留学生、捨松は左端です)

驚き

 

 今朝は、近くに郵便局が無いので、F大学の正門の道路を隔てた反対側にある局に行くことにしました。近くのバス停から、大学方面行のバスに乗り込みました。空いていましたので、座席に座って、耳をすませておりましたら、ナナナなんと「軍艦マーチ」が聞こえてきたではありませんか。中国の公共バスの車内に流れるラジオかテレビの音声が、聞く耳を疑うような曲を奏でていたのです。最近、バスの車内では、FMラジオに替わって、移動テレビが放映されているのですが、『エッ!』と驚いた私は、テレビの画面を見たのですが、キャスターが何かをしゃべっているのが見えたのですが、画像と音声が一致していないのです。そうしますと、運転手が、旧来のラジオのチャンネルを回していたのかも知れません。学校に行ってる頃に、時間を持て余して、よく入り浸ったパチンコ屋で流れて聞き慣れていた、紛れもない、あの「軍艦マーチ」なのです。

 その曲が一段落したら、こちらの俳優か声優の日本語が聞こえてきました。聞き取れなかったのですが、今度は、みなさん、驚かないでください!「君が代」が聞こえてきたではありませんか。日本を「小日本」、日本人を「鬼子」という国の中で、日本の国歌が流れていることに、唖然としたのです。今日日、日本の公立中学や高校の卒業式などで、ある教師は国歌斉唱を拒否してるという事態を聞いていますから、ラジオであろうとテレビであろうと、かつての敵国の軍国主義を高揚したと思われている曲と、日の丸を彷彿とさせる日本国歌が流れることなど、『ありえない!』わけです。すでに戦争が終わって66年を迎えますので、年配者から聞いてはおいででしょうけど、軍靴で蹂躙されたという忌まわしい記憶が、この国の中で、じょじょに薄らいできてるのでしょうか。ほんとうに驚いてしまったわけです。

 聞きながら、車内を見回しましたが、どこかの景気のいい中国民謡か、物悲しい失恋の歌にしか聞こえなかったのではないかと感じてしまいました。「北国の春」とか「四季の歌」とか「昴」などは、翻訳されて歌われていますから、ほとんど抵抗を覚えないに違いありません。私の住んでいる5階の部屋から、南に位置する大きなアパートの下に、集会場があるのですが、そこで老人会がカラオケを歌っています。その1つの定番は、「北国の春」ですから、ここ華南の街では、敵愾心など、まったく感じないのは、ある意味では当然なのかも知れません。しかし、この二曲には、『いいんですか?!』と、あたりを気兼ねした私だったのです。

 今日、私は、中国と日本の関係を、『もう心配しなくていいのではないか!』と思ってしまうほどでいた。こちらで生活をされていらっしゃる一般のみなさんが、ちょっとおかしな私の中国語を聞いて、『あんた、何人?』と聞いてこられるので、『日本人!』と答えると、躊躇なくニッコリと笑いを返してくれるのです。午前中の驚きの興奮がさめないまま、午後は、「マッサージ(按摩)」に連れていってもらいました。寝違いなのでしょうか、この2週間ほど肩が張って、首がまわらない私を心配して、若い友人が連れていってくれたのです。鍼とマッサージと温湿布などをしてくださった方が、ナナなんと、招かれて8年間、中国医学を日本で教えておられたお医者さんだったのです。流暢な日本語を話されるではありませんか。更にこの方は、家内と時々交わりをしておられる日本人のご婦人の義理のお兄さんだということも分かったのです。彼女は、わが家にも2、3度おいでになったことがありました。こういった奇遇に、『世界は狭いものですね!』とお医者さんが中国語で話されておられたのです。

 私の愛読書に、「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。とあります。二人の兄と一人の弟がいまして、家内が羨むほどに仲がいい兄弟なのです。しかし、異国で出会った友人や隣人たちもまた、私の人生の「宝」に違いありません。欲しくて出会うとは限らない友が、今や何人も与えられているということは、何にも勝る「富」であります。この方々に、心から感謝して!

(写真は、中国の市内を走る公共バスの車内風景です)

すき焼き

           野菜を食べて愛し合うのは、

           肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。

 『何よ、これ豚肉じゃない。すき焼きは、牛肉でしょ・・・』、映画「三丁目の夕日(ALWAYS)」の中で、知人の少女を、事情があって家に迎えた一家の夕食の折に、この娘(こ)が文句を言った言葉です。父から独立して所帯を持ち、新しい事業を始めるアメリカ人企業家の手伝いで、仕事をやめて彼にしたがって、越していった新開拓地は、私の生まれ故郷でした。この方には、起業の助手として、三人の候補者がいたのですが、なぜか私を選んでくれたのです。『旨いものを喰おう!』という時、この土地の人が最も好んだのが「鮪の刺身」で、日本でも有名なマグロ消費県だったと聞いています。山にめぐりを囲まれて、海産物に恵まれなかった土地柄でしたので、『新鮮な魚が食べたい!』と切に願っていたからです。道路が整備され、汽車が走るようになってから、いままで手に入れることの出来なかった魚を、食卓に並べることができるようになって、最高のご馳走が、「鮪」だったのです。

 肉だって、豚肉でした。私たちの家族を夕食に招いてくださった家庭で、「すき焼き」が供されました。その時、『あれ、これ豚肉じゃあない!』と、牛肉だと期待していたのに、違っていたのです。心の中で、あの小学生の少女と同じ事を、私はつぶやいてしまったのです。意外だったからです。父は、自分で〈割下(わりした、砂糖と日本酒と醤油を調合された調味料)〉を作って、特級のロース肉を、すきやき鍋で調理して食べさせてくれました。『卵なんか、田舎者が使うんだ!』と言っていましたから、わが家では卵を使わないで、肉、長ネギ、春菊、焼き豆腐、しらたき(糸蒟蒻)でたべました。そういえば「すき焼き」を最近食べていません。牛肉の値は高かったから、庶民には手が出なかったのかも知れませんので、食べる習慣がなかったのでしょう。『牛肉は臭くってダメだよ!』と食べない理由、言い訳をあげていました。豊かになった現在、健康を考えて豚肉で「すき焼き」を食べる人はいますが、「すき焼き」の定番は牛肉になっています。

 この冒頭の言葉は、イスラエル民族の伝統的な書物にある一節です。このイスラエル民族は、「よそ者」とか「流浪の民」とも呼ばれ、とくにヨーロッパ諸国では嫌われ者であったと、歴史が伝えています。ところが、この民族の優秀性というのは、驚くべきものがあるのです。アメリカ合衆国に移民したこの民は、金融業界のみならず、多くの領域で、大変な活躍を見せております。この民族は、美味しい物を食べることよりも、家族の「関係」を一番大切なものにしていたということなのです。昨年でしょうか、一年を表す漢字が、「絆」でした。

 野菜といえば〈煮物〉、これは日本食の中の日本食ではないでしょうか。年をとったからでしょうか、野菜を薄味で煮たおかずは、米のご飯には一番似合っているのです。鼻の穴から、牛肉が溢れ出るほどに躍り出て、「豊かさ」を見せていても、愛し合っていなかったら、家庭の機能を果たしていないのです。憎しみ合っている家庭は家庭ではないからです。「愛」ほど、安っぽくされてしまった感情はありません。「人類愛」「祖国愛」「師弟愛」「家族愛」「夫婦愛」など、「愛」はあらゆる関係の《要(かなめ)》なのです。ブラウン管やスクリーンが映しだす、偽愛ではなく、《本物の愛》が、日本を困難の中から回復させ、中国と日本の友好を実現させ、明るい明日を向かさせてくれます。もちろん、牛肉の〈すき焼き〉を食べてはいけないのではありません、念のため!

(イラストは、の「すき焼き」です)

安全

 日本に帰って、『高い!』と思うのは物価ですが、『収入が多いから、高いのは仕方がない!』と納得してしまいます。しかし、高さの基準となるのは、「人件費」なのです。物を作るにも、サーヴィスをするにも、人の賃金が高ければ、それにスライドして、値段や料金が高くなるのは当然です。逆に、中国に戻ってみると、『安い!』と感じてしまいます。これも、人件費が低いので、値段も料金も安く抑えられているわけです。ところが、最近、人件費が高くなってきていますし、物の値段が高くなっていますので、「ルーミエン」と呼ばれる美味しい麺料理ですが、一番初めに食べた時には3元でした、ところが今では、7元と10元との二種類になって、10元のほうが、丼の中の具に驚くほどの違いがあるのです。野菜も肉もお菓子も、すべての価格が高騰してきているのですが、収入の少ない家庭では、やりくりが大変だろうなあと思うことしきりです。それでも、米とかバス代のような公共性のあるものは安くされております。

 昨年の6月に、広州まで飛行機で出かけ、帰りは「長途汽車」という、遠距離バスを利用しました。二階式の寝台バスで、肩幅ほどのベッドがあって、音とトイレの臭気で、熟睡はできませんでしたが、料金は安かったのです。安さに負けて、バスを利用したわけではないのですが、この国は、「公共料金」が安く抑えられているのです。そのためにバスの運転手は、月給も少ないようです。私が夕方に乗り込んだバスは、個人経営だったのですが、過重な運転手の負担を軽くするために、安全策が講じられていたのです。運転手が、途中で乗り込んできて運転を変わったり、交代で運転をしていました。私服を着た運転手で、外観から見て、『あれっ!』と、いつも思うのですが、運転は熟達していて、配慮があったのです。日本は制服を着ますが、心に制服を着せていないので、事故を呼ぶこともままあるようです。

 日本の交通機関の料金は、高過ぎるのではないでしょうか。とくに「JR新幹線」は、公共性を忘れているのでしょうか、実に高いのです。関空を利用していた時も、東京まで行くのに、『バスにしようかな?』と思わせる1つの理由は、料金の問題なのです。「三公社五現業(日本国有鉄道、日本専売公社、日本電信電話公社が三公社、郵便・林野・日銀・造幣・アルコール塩専売が五現業)」の頃の国鉄は、赤字経営でしたが、公共輸送機関としての役割を、しっかりと果たしていたのではないかと思っています。

 私は、『何時か乗ってみたい!』と思っていたJRの路線がありました。宮古と盛岡を結ぶ山田線に茂市という駅があるのですが、ここから始着発していた「岩泉線」です。3・11の地震で不通になってから、廃線が決まってしまいました。昔は、蒸気機関車が山間を走り、ジーゼルからバッテリーの動力で走っていた、沿線の景色に定評のある赤字路線でした。「地方切り捨て」「赤字線廃止」の経営方針で姿を消してしまうのです。「経営」だけが会社の存在目的になって、「公共性」を忘れてしまっているのが、《殿様商法》の今の企業の在り方なのではないでしょうか。

 それで、『料金を安く抑えれば、ビジネスチャンスがある!』と、バス輸送が脚光を浴びている矢先に、先日の関越道の悲惨な事故です。もちろん中国にも事故があります。これだけの人を輸送するのですから、事故だってあります。でも、安月給でも、バスは古びていても、最大限の安全対策をしているのが分かるのです。先ごろの「動車(中国版新幹線)」の事故には、ほかの問題があるようですので触れませんが、一般的に、安全が保たれていると思われます。速さより、安さより、《安全性》こそが、求められる業界です。日本の国の津々浦々に至る、総合的な輸送を考えて、これからの対策を急いで欲しいと思うのです。「リニア」は国威の発揚のために必要でしょうか。その予算で、安全対策を講じていかないと、「東京電力」の二の舞になるのではないかと、心配で、ご飯が喉を通りません・・・と言いながら、今朝は、饅頭を三等分してトースターで焼き、バター、果物ジャム、チーズ、きゅうり、紅茶、林檎、バナナの結構贅沢な独りの朝食をしてしまいました。

(写真は、長距離バスの乗車券売り場の風景です)

知恵

 

         人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。

         あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 学校を出て社会人になろうとしていた時に、今で言う「就活」の時期になるでしょうか、母校の恩師が、1つの職場を紹介してくれました。私は、6年間の在学中に、この教師から教わったことがなかったのです。中学生の時に、バスケットボール部に所属しながら、高等部の「考古学研究部」の活動に参加していました。この研究会の顧問をされていたのが、この教師だったのです。学校が、武蔵府中、武蔵国分寺があった地にありましたので、よく、分倍河原、仙川、日野などの住居跡などの発掘の手伝いをしていたのです。

 スコップを手にしながら、堀り進んでいくときに、千年も二千年も前の古代の人々の生活の様子に、時空を越えて触れられるといった「浪漫」にふるえていたのです。あのまま進んでいたら、古代史の研究者になっていたかも知れません。ところが、バスケットボール部の上級生も、高校生も、OBも、何も知らない純な中学生の私を、大人の世界に引きずり込んでしまったのです。「揉まれる」というのでしょうか、エログロの雑誌や写真を見せられ、選び取りをするまでもなく、汚れた社会の洗礼を受けてしまったわけです。帽子に細工をしたり、ズボンの太さを調整したり、生意気さを増長させてしまう道に、突進していったのです。これが大人になるということとは違うのでしょうけど、背伸びをして、『はやく大人になりたい!』と焦った気持ちを持て余していましたから、すんなりとその波をかぶってしまったわけです。よく「中2の危機」とか「17の危機」とか言うのですが、まさにその危機の只中を深く潜行していたのです。

 そんなことですから、浪漫を追い求めるよりも、がむしゃらに大人の世界に突入していくのです。喧嘩をして、体の大きな級友を殴り倒したり、パンを盗んだり、実験室に忍び込んだり、クラブの部室荒らしをしたり、教師に楯突いたり、そんな事で明け暮れていたのです。ところが中3になってから、急におとなしくなって、三学期の学年末の「通信簿」に、担任が、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたほどでした。どうして、あのまま、ズルズルっと落ちていかなかったのか、自分でも不思議でならないのです。そのまま高等部に上がって、入ってきた同級生の中には、すぐに数人が退学していきました。盗みの常習で、意気が合って仲よかったのですが、運動部に入っていましたので、彼らと一緒に行動できなかったのが幸いしたようです。というよりは、心のどこかで、『母親を困らせて、泣かせてはいけない!』といった思いが強くて、それが抑止力になっていたのだと思うのですが。

 教育実習を、母校でさせてもらった時に、この「考古学研究部」の顧問の教師が、私の世話をしてくれたのです。「就活」の最中、この先生から連絡があって、『学校の帰りに寄りませんか?』と誘ってくれて、行きますと、『今度こういった機関が出来ましたので、私の元同僚もいますから、働いてみませんか?』と紹介してくれたのです。恩師の紹介でしたので、即採用となって、そこで3年働きました。この恩師の元同僚が、私の所属課の課長でした。一緒に山歩きをしたりはしたのですが、「狡い男」だったのです(!?)。この人につまずいた時に、それなりに悩ましい表情をしていたのでしょう、母が、冒頭の「ことば」を、私に聞かせてくれたのです。『人の語る言葉に煩わされないでね!』と言ってくれたのです。もちろん、《人間不信》を母が教えてくれたのではなかったのですが。どうも『人の言葉を鵜呑みにしないで、言葉半分で聞いたら!』と、教えてくれたのだと思うのです。それ以来、人にはつまずかなくなりました。感謝なことです。

 その上司が後で、ある短期大学の学長になっていたのを知らされて、驚いたことがありました。きっと、私のようにつまずいた部下が、何人もいたのではないかと、ふと思ったことでした。それでも、私の苦悩の日に、ほんとうに的確な助言をしてくれた母の知恵には、いまだに驚かされたり、感謝だったりであります。

(写真は、長野県富士見町の井土尻遺跡からの出土品です)

バベル

  

 日暮里から乗り込んだ、成田に向かう京成スカイライナーの右側の座席に座った私の視野に、「東京スカイツリー」が入ってきました。高さが634mもありますから、ひときわ目立つ塔ですが、かなり遠くに見えていました。その高さが、「武蔵、ムサシ、634」から来ていると聞いて、地上デジタル放送用に建てられた塔でありながら、〈語呂合わせ〉で高さが決められるというのは、建造目的が科学的であるのに、ネーミングは実に愉快なことだと感心してしまいました。私の上の兄が初めて手にした自動車の番号が、「2343」でした。義理の姉の名が、「文代、フミヨ、234」で、それに「さん、3」をつけた番号だったのです。当時、車のナンバーを選ぶことなどできませんでしたから、天からの授かりものだったことは言うまでもありません。この塔を眺めながら、『次に帰国したら、3000円を払って、展望台に登ってみよう!』と決心をしたのです。

 実は建設中に、JRの「成田エクスプレス」に乗って成田から東京に向かっていた時に眺めたことがあったのですが、車窓から初めて見えた塔は、圧倒されるほどの高さで、電車が地下に潜るまで見え続けていたのには驚かされてしまいました。《高さ競争》というのが、建設業界にはあるのです。ギネス認定を目的に、必要なのかどうかわかりませんが、高さを競い合うことに、「遊び心(!?)」を感じてしまうのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 幼稚園児だった長男を連れて、東京に出てきた私は、芝公園の近くある「東京タワー」見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。『もうすこし奮発すべきだった!』と後悔してしまいまい、『貧乏くさく生きるのを、もうやめにしよう! ]』と、後になって決心したほどでした。それでも息子は、そこで買ってあげた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この「東京タワー」に近かったのです。当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上に走っていたと思います)」に乗るとすぐのところにあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。

 高さだけではなく、その偉容に驚かされていたのが、ニューヨークのマンハッタンにあった「世界貿易センター(WTC)」でした。2001年、「9・11」のテロ攻撃によって、崩壊していく様子を、娘が国際電話をかけてくれたからだったと思いますが、テレビのチャンネルを回して、目の当たりにいたしました。『お父さん、バベルの塔だね!』と、一緒に見ていた次男が言ったのを、今、思い出しています。歴史的故事に出てくる「塔」のことです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 言って、瀝青とレンガを用いて、シヌアルの平地に建てられたものです。この塔が「バベル」と呼ばれたのですが、その意味は英語で、「バビロン(バビロニヤ帝国の首都の名)」です。この塔は実在していたと言われ、チグリス川とユーフラテス川の河畔にあって、高さが90m、7階建の建造物だったそうです。「頂が天に届く塔」というのですから、人間の驕りと、造物主への挑戦、挑発を意味して建てられたものであったのです。

 そういった意味で、「世界貿易センタービル」というのは、世界中の国々の有名企業が、このビルの部屋を借りて、経済経営活動を展開していましたから、「20世紀の人類の誇り」を象徴するような「塔」、20世紀の「バベルの塔」であったのは、息子の言うとおりだったかも知れません。「バベルの塔」は完成をみることなく、計画は頓挫してしまったと記録されています。多くの犠牲者のみなさんには申し訳ないのですが、WTCの偉容に見え隠れしていた「人類の驕慢さ」が、テロという蛮行によって打ち砕かれたような気がしたのは、私や息子だけではなかったと思うのです。というよりも、人の営みというのは、蛮行にしろ、自然災害にしろ、一瞬のうちに潰え去ってしまうのだということを、私たちに知らせてくれているのかも知れません。だから、「大きなもの」や「高いもの」を誇るのではなく、人は謙虚に生きるべきなのかも知れません。日本の先人たちがいみじくも残してくれた教訓に、今は聞くべき時に違いありません。

 

(写真は、http://ameblo.jp/kiyurino-jp/image-11240997715-11952455899.htmlの「東京スカイツリーの夜景」です)