『台風11号が接近しているので、出航時間を午前9時に繰り上げます!』との連絡が前の晩に入ったのです。上海港を出た「蘇州号」は、大型船でしたが、波にもまれながら、前後左右に揺り動かされていました。これまで瀬戸内海を、フェリーで何度か利用して九州や四国に渡ったことがありますが、そこは内海で静かでしたので、大きく揺さぶられるようなことはなかったのです。ところが今回は、航路は外海でしたし、11号台風の接近で覚悟はしていたものの、幸い私は船酔いをせずに、しばらくの台風の影響を受けた後、静かに凪(な)いだ海の上を、快適に船旅をすることができました。その航路は、かつて遣唐使船が目指した航路を、反対に航行しながら、大阪の国際港に向かっていました。海には、三日月が写り、海また海の上を静かに走るような船旅でした。
夜、甲板に出て、ちょっとオセンチになったのでしょうか、『海は広いな大きいな・・・』とか、覚えていた歌を静かに口ずさんでみました。実に神秘的で、海の広さに比べたら、大型の貨客船と言いながらも、藻屑のような船が、静かなエンジン音を上げながら、まっすぐに航行する様子を体感しながら、科学技術の進歩の凄さを感じざるをえませんでした。あの遣唐使船や遣隋使船は、風を頼りの帆前船でしたから、無風の時は、漕ぎ手の人力も用いたのだそうです。全長30メートル、幅8メートル、300t程だったといいますから、超自然的な加護を求めながらの船旅だったにちがいありません。その航路を、一つの舵を取りながら、大陸の蘇州を目指したのですから、勇気の要ったことだったでしょうし、大陸から学ぼうとする意欲の大きさ、決死の覚悟をみなぎらしていたことになります。
日本の島影が見えてきた時に、やはり懐かしさがこみ上げてきました。4月に母の告別式で戻っていましたから、4ヶ月ぶりの帰国でしたが、やはり自分の祖国の名のない島が見えた時には、特別な思いが沸き上がってきたのです。「五島列島」に連なって無数に点在する島なのですが、島の緑は、優しく私の目に写りました。港が見えた時に、『こんな離島で、何百年も生活が営まれてきたのだ!』と思うと、日本人の勤勉さやたゆまない努力や工夫を感じさせてくれて、祖国の自然ばかりではなく、祖国を耕し、周りの海に糧を求めて続けてきた人々の毎日毎日があって、今日の時代を迎えていることが分かりました。玄界灘を航行しながら、北九州の港町が視界に入ってきました。看板も読めるようになると、瀬戸内海に入る辺りに、関門海峡の大橋が見えてきて、その橋をくぐった時に、トンネルを汽車や電車で走ったあたりを、海から眺めて、一入の思いも湧き上がってきました。
丸二日、48時間を船上で過ごしたのですが、この静かに流れる時間には格別なものがありました。同船のみなさんが口々に言うのは、『飛行機では、身動きもしないで、じっと4時間ほど座って、隣席の人との交流もほとんどなかった!』と言っておられました。しかし、船の中では、日本に帰るといわれる、私の兄と同年の方、日本に働きに行く中国の農村からの若い女性のグループなどと交わることができました。また、中国人のお母さんが連れた4人の母子がいて、その中学2年生の少年とも言葉を交わしました。そこには中日の友好の「交わり」の一場面があったのだと思います。1000円もする、船内のレストランで夕ごはんを食べていない中国のお嬢さんたちに、『泣きたいようなことがあっても、頑張って働き、日本と日本人を知ってくださいね!』と言って、カップヌードルを差し入れしてあげました。とても喜んでくれたのですが、給与支給の問題などがある雇用の中で、日本不信に陥らないようにと願うばかりでした。
ちょっと揺れたのですが、帰りの船で、どんな人たちに会えるかを期待しながら、下船した次第です。船から降りるのは、飛行機から降りるのとは、だいぶ感じが違いますね。ずっと液体の上にいるような気分でだったからでしょうか。これでは、船旅が病みつきになりそうです。
(図は、大阪の住之江から東シナ海を渡って、蘇州への遣唐使船の航路です)