草苺

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昨晩遅くに配信してくださった「里山を歩こう」の写真です。呉市の灰ヶ峰でも撮影されたそうです。

上は、「エゴノキ」です。沢山の花をつけていたようです。だそうです。
中は、「サイハイラン」です。山道に咲いていたようです。
下は、懐かしい、「草苺」がありました。とても甘いそうです。中国語は、”草苺caomei“と書いて、「いちご」です。

隔日ほどに配信していただいています。里山歩き、山歩きをしないで楽しませていただいております。感謝しております。

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うなぎ怖い

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「百足」と書いて、"ムカデ"と読みますが、これは難読漢字の一つです。実は、この百足が、父の天敵でした。一度、百足が、家の中を這っていた事がありました。それを見つけた時に、父が見せた<形相>、リアクションは尋常ではありませんでした。一歩も二歩も退いたからです。子どもの頃に刺された経験があったのだそうで、その痛みと恐怖心を忘れていなかったのでしょう。スリッパで叩くこともしないで、距離を置いたのです。余程の激痛だったのでしょう。

私の嫌いなものは、「蛇」です。ある時、知り合いの子や我が家の子を乗せて山道を、ゆっくりと走っていました。そうしましたら、一人の女の子が、その蛇を見付けて、『とって!』と言ったのです。嫌いな蛇を、手で捕まえて欲しいと言ったわけですから、獲る事などできませんでした。ところがこの子は、『撮って!』と、カメラで撮影して欲しいと言ったのです。ホッと、私は胸をなでお ろしたのです。

よく通学路の田圃道の農業用水の中を、泳ぐ蛇を見た事がありました。木に登ろうとするのも、崖を登るのも、道路を横切るのも見た事があったのです。見た瞬間、足が<竦む(すくむ)>のです。もう動けません。舌をペロペロと出していたら、卒倒してしまいそうです。台湾に仕事で行きました時に、夜の屋台で、柱に、この蛇を突き刺して、皮を剥いている光景を見て、もう食欲がなくなってしまった事がありました。折角のご馳走でしたが、残念な事をしました。

もう一つは、「ガマガエル」です。里山で遊んでいた時、藪の中を突っついていた時に、ガマガエルが足を揃えて座りながら、私をジッと見ていたのです。その時も、足が竦んでしまったのですが、遊び仲間に見られたかどうか気になってしまったのです。<弱虫>だと思われたくなかったからです。

そして、「毛虫」です。事務所の脇に、「ビワの木」が植えられてありました。そこには、葉や実が甘いのでしょうか、毛虫がいて、木の下を通ると落ちてきて、首先にたかって、刺された事がありました。ひどい痒みでした。そのビワの木の実が、甘くて美味しくて、鳥と"取りっこ"の競争をするほどでした。また、その葉に薬効があると、よく人が貰いに来ていました。この木を切るに切れないし、そんな生々しい経験のある私でしたが、決断しかねていたのです。

もう一つは、「まんじゅう怖い」で、「鰻」です。蛇に似ていますが、これは、ヌルッとしていて、可愛いし、何よりも美味しいのです。帰国中の最後になって、家内と私を、友人が食事に招待してくれました。『何がいいですか?』と聞くので、『今回の帰国中、まだ鰻を食べていないのですが!』と言ってしまったので、彼が、国産に拘る店で「鰻重」を奮発して、ご馳走してくれたのです。浅草に、本店のある人形町の支店ででした。

中国に来て、皿の上以外に、蛇を見た事がありません。みんな食べ尽くされてしまったのでしょうか。どうしたのでしょうか、嫌いな私を避けてくれているのでしょうか。大変、助かっています。『好き嫌いはいけない!』と、父や母に言われたのですが。鰻重は、本当に美味しかったのです。

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イシモチソウ

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東広島市に咲く「イシモチソウ」と「ヤマトキクソウ」です(☞「里山を歩こう」から)。黒や赤や灰色の土井の中から、こんなに綺麗な花を咲かせる芽が出て、葉をつけて開花する神秘さに、ただ驚かされるだけです。こんなに薄汚れてしまった心の中からでも、時には、人を赦したり、愛したり、我慢する思いが出てくるのも不思議です。「里山」に出かけて行って、俗世間から離れて、自然界の法則に従って命を繋いでいる、草や花や小動物たちを眺めていたら、子どもの頃の純真無垢な思いが蘇ってきて、喜びが湧き上がってきそうです。

人やコンクリートや物の間で生活していると、忘れてしまっている事が多くあります。この町の北に、森林公園があり、その近くの道から、高地にある村落に行く事ができます。去年の夏に、そこを訪ねて、ぶらりと歩き回ったのですが、山の間に村落があって、人の営みがあるのは、山の麓の都会に住んでいると気づかないものです。

この3ヶ月ほど、左足の踵(かかと)に痛みがあります。最近、庇いがちで歩くことが少なくなっているのに気づきます。何十年も歩き続けてきて、何度も捻挫したり、靭帯(じんたい)を切ったりしてきた足ですから、『もっと大事にしなさい!』と言ってるのでしょう。もう一方で、『もっと歩かないと筋肉も機能も劣化しちゃうよ!』と言う声も聞こえてきます。

もしかしたら、歩き足りないかも知れません。「里山歩き」も「山歩き」もしないといけませんね。この数日涼しいのです。今日は、「多雲」、のちに「小雨」の予報が出てきています。ここにも雨季があるからです。

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山躑躅

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この花は、広島県三原市本郷町、広島空港に近くにある、「爆雪の滝」に、密やかに、そして綺麗に咲く、「ヤマツツジ」です(先日配信の「里山を歩こう」から)。

山梨県甲府市の駅の北の方に、「城」を持たなかった武田信玄の館跡(やかたあと)があります。そこから山に向かった所には、「信玄の隠し湯」と呼ばれる、武田軍の武将や兵士の湯治場の一つだったと言われる「積翠寺温泉(せきすいじ)」があります。数年前に、娘が招待してくれて、そこの宿に泊まった事がありました。

その信玄の館跡を、「躑躅ヶ崎」と呼んでいて、「ツツジ」が綺麗に咲くのです。もう咲き終わっているのでしょうか。清里の長野県寄りの山岳地帯にも、ツツジが綺麗に咲いていたのを見たことがあります。そこは、これからでしょうか。平和の時代に生まれて、田畑を荒らされる心配も、戦に引かれる恐怖も覚えないで、花を愛で、時には、温泉に浸かれる時代に生きる私たちは、感謝しなければなりません。

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6月1日

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父が、その友人に薦められて、私立中学に進学する事になりました。小6の冬の事、東京の会社から帰ってきた父が、突然、『準、黎明中学に行け!』と言ったのです。それを聞いた素直な私は、すぐに受験準備の勉強を始めました。同じ私立中学校の女子部に行く同級生がいて、たった二人が、同じ町立小から私立に進学したのです。父の期待に応えて合格して、その4月1日に入学式がありました。

その学校には、軍隊で歌われていた替え歌があって、"ボクはレイメイの一年生 、紺の制服よく似合う”と歌う歌を、上級生に教わった様に、《紺色の蛇腹の制服》でした。旧海軍の軍服、あの<学習院>の物にも似ていました。町立中学は、ボタン式の《学ラン》だったのに、ちょっと目立ってしまったのです。

今日は、六月一日、「衣替え」の日です。あの頃、この日を迎えて、夏用の制服に着替えたのです。冬用と同じ形で、灰色の生地の制服でした。その中学校は、幼稚園から小学校もあって、医者や市長や社長や大きな商店主の子どもが、学内入学で通っていました。まさに"お坊ちゃま"の集団の中に入ってしまった様で、ちょっと浮いていた感じもあり、窮屈だったのです。父の趣味に従った結果でした。

その「衣替え」について、"暮らしの歳時記"に、次の様にありました。『中国の宮廷で、旧暦の4月1日と10月1日に夏服と冬服を入れ替えていたことから始まった習慣です。日本へは、平安時代頃に伝わり、室町時代から江戸時代にかけて、四季に合わせて式服を替える習慣が定着しました。当初は、貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ定められていました。』

都立に行く事も考えていたのですが、担任の強い薦めがあって、学内進学で、中高6年間、そこに通ったのです。"都立、公立古くさい どうせ行くならレイメイに レイメイ健児は色男 一度は惚れてみたいもの"、これも替え歌の一節で、バスケット部の上級生に仕込まれました。あの頃の"男女別学"が、時勢に押されたのでしょうか、今では共学になってしまったそうで、汗で男臭い教室で、ギスギスしていたのが、今では"華やいで"いるのが羨ましいのです。

"色男(もう今では、そんな事言わず"イケメン"ですが、中国語では"帅shuai"です)"の"レイメイ健児"も、もう過ぎ去った日々を、アレヤコレヤと思い出す"老ぼれ"になってしまいました。 "男女交際禁止"で通学路で会っても、『女子部の学生に話しかけてはいけない!』との校則が、強要されていた時代でした。でも、”レイメイ小"の同級生と結婚したのが何人かいましたから、校則厳守は徹底されてなかった様です。"ああ我が青春の日々よ"、です。

(夜明け、朝焼けの「黎明」です)

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皐月

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「早乙女主水之介」、お読みになれるでしょうか。小学生の頃、週末になると、父にお金をもらって、電車に乗って、隣駅で降りて、映画館通いをしていました。その時の時代劇の主人公の名が、「さおとめもんどのすけ」でした。不思議な名だと思っていました。

その主人公の名が、漢字で読めたので、その意味を辞書を引いて確かめた事がありました。「さおとめ」の「さ」とは、〈稲〉のことを言い、この稲の苗を植える女性を、そう呼んだのだとありました。そうしますと、今日は最後の日になったのですが、「五月」を、『皐月(さつき)』と旧暦では言うのですが、この「さ」も、〈稲〉のことを言っているのでしょうか。それで、早乙女を「早苗(さなえ)」とも呼ぶのでしょう。

その早乙女主水之介の剣が強かったのです。弱きを助け、強きをくじく、確か旗本の身分の侍だったと思います。この侍が、「早乙女姓」を名乗ったのですから、農業従事者の祖先を持っていたのかも知れません。もちろん、小説を映画化したものでしたから、架空の名であることは確かです。

こちらに来て、田んぼを見たのは、何年も前に、海の近くの村にバスを3度ほど乗り継いで行った時ですから、ここ都市部の周辺には、「水田」が見当たりません。でも今頃、夜になると、カエルの鳴き声が聞こえてきますから、宅地になる前は、水田だったに違いありません。今頃の日本では、田植えの時期を迎えていることでしょう。

私は、一度だけ、田植えをさせてもらった事がありました。雨降りの日で、雨合羽を着て、裸足で田んぼの中に入って、苗束の中から、教えられたように、親指と人指し指と中指で、二本ほどの苗を挟んで、水田の中に、等間隔に差し込む作業でした。もう今では、機械で植えるようになってしまって、手植えの作業は見られなくなってしまった事でしょう。上の兄嫁の実家が、農家だったので、手伝う機会があったのです。

あの植えた苗の実った米を食べさせてもらったかどうか、覚えていません。そんな農作業をした後、越した中部山岳の街で、いくつ目かに住んだ家は、田んぼの中にありました。カエルの鳴き声が、やかましかったのです。一斉に鳴くので、 合唱になって、それはけたたましかったのです。でも自然界の声音ですから、機械の音と違って、横になると、子守唄のように聞こえて、すぐに眠りに落ちていったのです。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

東京の郊外で生活をし、準農村で仕事をしました。事務所の前も、水田だったのです。今、大陸の沿岸部の大都市の一角に住んでいるのです。大きな河川の流れのほとりに住んでいます。この何日か、雷鳴と雷光と雷雨で、この降る雨を「五月雨(さみだれ)」と呼んでも良いのでしょうか。日本は、「梅雨」の季節ですね。

(広重の「最上川」です)

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60代半ば

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高校で、社会科を教えていた時期が、私にはあります。それまで勤めていた職場の所長が、『私の弟子がいるので、彼が面倒をみるから、そこに行って教えなさい!』と言ってくれたのです。上司の命令でした。この方のW大時代の研究室の弟子が、招かれて、そこの短大の教務部長をされていたのです。そんな関係で、教師をしておりました。

実は、その教師の機会は、難関でした。某大学の大学院で博士課程で学んだ方と、一つの教師のポストを競ったのです。実力ではなく、"コネ"の強い私が、その機会を与えられたわけです。大正時代に開学された、女子教育では名門校でした。3教科を教えたのですが、高3の"ゼミ"も担当させられたのです。それで、何を教えようかと思案した挙句、女子に教えるので、「青鞜運動(せいとう)」を中心に、調べ始め、一緒に研究したのです。必死でした。

それは、『原始、女性は太陽であった!』というスローガンを掲げて、女性の復権を目指した「青鞜社」の運動でした。平塚雷鳥や伊藤野枝を中心に、1911年(明治44年)に始まりますが、残念な事に、5年ほどで終わってしまいました。具体的に、女性の権利を、日本社会で拡大していくには、まだ時期尚早、「男社会」を打ち破るには至らなかったのです。

この運動に加わった女性たちの恋愛問題などがあって、足並みが揃わずに、まとまりを欠いたわけです。「青鞜」という雑誌を発行して、啓蒙運動を展開したのです。女性は、子供の時は父親に、嫁しては夫に、老いては子どもに従うとの「三従の教え」の枷(かせ)を超えられなかったのです。私生活では、あるメンバーは同棲したりして、やはり「女性の限界」を打ち破れませんでした。

与謝野晶子も、この雑誌に歌を寄せたのですが、この人は、鉄幹の妻として、鉄幹に12人の子を産んで育て、短歌を詠む事によって、女性の道を世に主張したのでした。妻や母の道を歩みつつ、彼女は、そうしたのです。与謝野晶子の歌に、

「やは肌のあつき血汐にふれもみでさびしからずや道を説く君」

があります。実に奔放で官能的な短歌は、当時の女性の喝采を呼んだのです。晶子は22才で「みだれ髪」を出しています。、

"サッチャー"と呼ばれたイギリス首相は、「鉄の女」と呼ばれ、大英帝国の一時期、大きな責任を果たしています。立派な女性でした。女性には、妻と母という、堅実な《天来の使命》があります。私は自分を育ててくれた母に感謝しております。母には辛い過去もあり、誰もが持つ弱さを持っていましたが、第一義的な使命を忘れたり、疎かにしませんでした。『準ちゃん!』と呼んでは、色々と教えてくれ、忠告もしてくれました。『女は弱し、されど母は強し」」の「母の日」は過ぎてしまいましたね。

あの1970年代に、「青鞜運動」を学んだ教え子たちは、娘時代を経て、その後結婚し、今では、60代半ばの〈おばあちゃん〉をしているのでしょうか。どんな"生き様"をしてきているのでしょう。

(「花菖蒲(ハナショウブ)」です)

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ヒナキキョウソウ

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この花は、「ヒナキキョウソウ(雛桔梗草)」と言います。母の生まれた島根県出雲市の近くの「八雲町」に咲いていました(☞ HP「松江の花図鑑」から)。アメリカ原産の花で、1931年に、横浜で見つけられ、それが全国規模で拡散して行った様です。

大陸からやて来た人たちの荷物に紛れ込んでいたのか、その花や果実が好きだったので、種を持参して、日本の土の上に降ろして植えたのでしょうか。また、地中海原産の雪中花の様に、中国に運ばれ、川の流れで種が海に押し出され、波で漂いながら、日本の海岸線に運ばれて、海岸に根を下ろして、今では群生して咲く様なものもあるわけです。

アメリカだって、太平洋を挟んで、人や物の往来と共に、草花の種が運ばれるのは、当然のことなのでしょうか。何か浪漫があって、こう言った話が好きです。"ジャガタラさん"たちも、故郷の花の種を行李に忍ばせて、"サンダカン"に出掛けたのでしょうか。哀しさを今に伝える様な話です。

靴を履いて、飛行機で移動する今日でも、ズボンの裾や服の襟についた種が運ばれることもあるのでしょうか。鳥だって、体内の種が土に帰る事だってあるわけです。美しい花や瑞々しい果実だけではなく、言葉や文字が運ばれた事も忘れてはいけませんね。

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逞しい

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人って、懸命に自分を守りながら生きているのでしょう。そうすると、周りが見えなくなって、利己的になって行く傾向があります。人のことを考えられないのではなく、じょじょに自分のことばかりに思いが向いてしまうのでしょう。世間でしょうか、世界が狭くなって、<閉じ籠り>がちになります。

自己保身は、孤独を深めてしまいます。思いは深くなりますが、考えが否定的に、厭世的に、批判的になっていきます。明日が見えなくなり、過ぎ去った日の出来事と、出会った過去の人だけが思い出されてきてしまいます。そういう時は、好いことを思い出さないで、辛いことや嫌だったことを思い出してしまうのです。人の記憶は、そう言った思い出したくないものを思い出させます。

そんな自分に気づかされたら、広い世界に飛び出したら好いのです。閉じられた環境から、思いっきり自分を押し出してしまったら好いのです。なかなか自分にはできないので、だれかが引っ張り出すか、押し出したら好い。いつもと違った土地で寝起きをし、違った空気を吸い、違った水を飲み、違った食べ物を食べるのです。そして、違った人たちと話し、交わり、人の語る言葉に耳を傾けたら好い。

どうでも好いことを話すのではなく、話の中心軸を自分から相手に変えるのです。特に、好かった人との出会いとか、出来事とかを思ったら好い。その時の光景、天気、そして人自身を思い出すのです。特に幼い日の素敵な出来事が好いかも知れません。そういうのって、記憶の中の宝物だからです。それは磨かれてなくて、角やヒビさえあります。そのままにして、手を入れないことです。

そうすると今までしたことのない行動が生まれ、感動が湧き出し、生きている充実感が出てくるからです。未来に思いが向けられ、そこでの再会の喜びを願うのです。空想ではなく、過去に現実の人との出来事が、思いを変えるのです。もしかすると、お父さんやお母さん、一緒に育った兄弟姉妹、親戚の人たちからの仕打ちを、赦したら好い。

今でも奴隷制度があるのです。ある人は、そんな過去の奴隷にされているからです。そんな呪縛を捨てて、自由で、開放された人として、自分の高価さを発見したら好い。溌剌と明日に夢をつないで、一日一日を生きたら好い。花は咲き、鳥は歌い、人は歌うのです。

そんな違った土地での生活の経験、いつもと違う空気を吸い、水を飲み、人と出会った経験が、戻って行く世界に帰る時に、きっと見る目が変えられてしまうからです。新しい発見や、永遠につながる希望が生み出されて、生きてる喜びを感じさせてくれることでしょう。生きてるって、楽しいことです。人って逞(たくま)しいのです。

("里山を歩こう"から「フタリシズカ」です)

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クチナシ

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北側のベランダに、陽が当たる様になって、2、3日前から咲き始めた、「クチナシ」でしょうか、大家さんが置いて行かれた鉢植えですが、それほど強く匂ってはいませんが、匂いは同じです。その脇で、小さな赤い花も咲いています。北側のベランダにも、初夏がやってきているようです。

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