気遣い

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「江戸しぐさ」と銘打って、江戸の巷に庶民の生き方が、再評価されていた時がありました。『冷えもんでございます!』と言って、銭湯の湯船に入る江戸っ子たちがいたそうです。熱い湯を好んで浸かっている客仲間に、冷え切った体で湯をぬるめてしまうことを、そう一言詫びて、入ったのです。

傘をさして、通りを行き合う時、〈傘傾げ〉をして、傘の雫がかからない気遣いを、江戸っ子たちがしたにだそうです。長く住んできている華南の街で、向こうから傘をさしながらやって来た、華南っ子が、私のために、そのさしていた傘を傾げたのです。どう見ても、中国の方ですし、そこは華南の街です。その人は紛れもなく、江戸っ子ではないのに、「江戸しぐさ」をしたので、江戸っ子の子孫かなと思ってしまいました。

これって、世界中の街角で見られる、相手への気遣いであって、江戸っ子を気取っていたって、できない人はできないし、大陸だってできる人はできるわけです。京都人だって、出雲人だって、那覇人だってしてきている配慮です。

息子たちは、二人とも、ここにやってくるときに、背中にザックを背負ってやってきます。それなりの仕事のために必要なものを入れているのです。電車に一緒に乗った時に、後ろのザックを前に掛け直して、不恰好なのを見て変だと思ったことがありました。それは、時々、乗り物の中で見られる姿なのです。

後ろに背負うザックで、人に迷惑がかからない様にとの乗客への配慮であって、決して変ではなかったのです。山本周五郎の小説に、『どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね!』との格言があるそうです。つまり、《背中への注意》を言ってるのです。視野に入らない、気付かないことに注意して生きることの勧めなのです。

気配りの日本に社会が、気配りがいき過ぎたり、気配りがなくなったりの両極端が見え始めているのかも知れません。中国語に「马马虎虎mamahuhu」という言葉があります。「大雑把(おおざっぱ)」という意味で、あまりにも神経質になり過ぎずに、「ほどほどに」という意味でしょうか。〈马虎的人mahuderen〉がいいかな。

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神秘

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これは何と神秘的な写真ではないでしょうか。雲と太陽の光線とが織りなす空模様に圧倒させられてしまいます。イスラエル民族の族長ヤコブが、天と地を結ぶ梯子(はしご)を上り下りする幻を見ています。光の梯子で、空高く昇ってみたい誘惑に駆られそうです。

アメリカの西海岸で生活を始めた長女が、仕事の行き帰りの風景やを、最近は、出歩くことの少なくなった家内と私に写真で知らせてくれています。

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昨日通った宇都宮街道の脇には、青田が広がっていました。梅雨の真っ最中、ほぼ田植えが終わったのです。ここ北関東は、男体山を仰ぐ、豊かな米どころなのです。

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スパンク

「日本王国記」という本があります。スペインの商人で、ヒロンという人が著者です。戦国時代、関ヶ原の戦いの時期に来訪し、長崎に、合計して20年余り生活した人で、その見聞を記したものです。今でも、“ amazon ”で日本語訳(岩波書店刊)を購入できます。

乱世を生きる日本人を見たからでしょうか、戦闘的で残虐性を紹介しているのです。江戸末期から明治期に日本にやって来た人たちの印象とはだいぶ違っています。私をさまざまに教え導いてくれたアメリカ人の恩師は、それまで出会ってきた日本人の印象について、次の様に話してくれたことがありました。

『〈来ます〉と約束したのですが、実際は来ませんでした。どうして約束を守らないのでしょうか!』とです。約束を守らない日本人と、よく彼が出会ったのです。この日本人の心理を、彼は理解できなかったのです。私たちは、招きを断って、相手を傷つけまいとして、できないのに、都合がつかないのに、口約束をしてしまうことが往々にしてあります。気遣いが、逆に相手に不信を与えてしまうのです。

それで、私は、約束したら守ること。できないことは約束しないでお断りすることにして生きて来ました。ヒロンも、同じ様な経験をしたのでしょうか。それとも、日本人は、長い鎖国時代に、変わってしまって、元々は約束履行の民だったのでしょうか。私の両親は、軽率な約束はしませんでした。その感化を、自分も受けている様です。

最近、子どもへの親からの〈虐待〉による事件は頻発しています。犠牲者も多く出ています。生むことはできても、育てることのできない親が増えているのでしょうか。ヒロンは、日本の子どもについて、『彼らは非常に可愛く、優れた理解力を持っている!』と書いています。『それを父母に感謝する必要はない。父母は子どもを罰したり、教育したりはしないからである!』と続けています。

当時の日本の社会では、子どもへの体罰はなかったのでしょう。ヒロンは、そんな光景を見たことがなかったのです。これはヒロンだけの見解ではなく、多くの西欧人を驚かせたことでした。なぜなら西洋では、「鞭(むち)」を尻に当てる体罰による、子育てが行われてきていたからです。

私の恩師も、そうしていて、私も、それを奨励されて、鞭で子どもたちの尻を打ったのです。我儘、短気、約束不履行の時にです。大人になった彼らには、子ども時代の〈スパンク(鞭打ち)〉は、合点のいかない時もあったのだそうです。もし、もう一度、私が親をやれるなら、極力、この〈スパンク〉を控えたいのです。

日本での子どもへの虐待事件の頻発で、国連から対策を求められています。私から度々、スパンクされた長男が、先日の「父の日」に、美味しい洋菓子を送ってくれました。『お父さん、やり過ぎ。でも僕にはよかったよ!』と、以前言ってくれました。でも、彼は二人の子に、〈スパンク〉はしないで育ててきています。

その彼が、今朝、家内の通院の助けにために、来てくれます。 強雨の1日になるそうです。先週は、電車に乗って通院をしたのですが、バリアフリーのない下車駅に、近隣の駅の助役さんたちが駆けつけてくださって、行きも帰りも、家内の移動を助けてくれました。多くの助けがあって、闘病中の家内であります。

(日の丸と桜のイラストです)
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朝顔便り/6月22日

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強い雨が断続的に降り、今は止んでいます。梅雨真っ盛り、蛙が水を得たように喜びの鳴き声をあげています。なぜか、朝方4時頃から、カラスが騒いでいるにです。朝にゆうに、日中も、カラス天国な感じです。

朝顔が葉を大きく広げています。その前に、百日草とヘリクリサム(別名は “ everlasting ” )も芽を出してきています。花をつける日も、そう遠くなさそうです。あの黒茶色の種が割れて、そこから目が出て、綺麗は花を咲かせるのなら、人って、もっと素晴らしい可能性があるのでしょう。

どんな花を咲かせてくれるか、とても楽しみです。
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野の花

 

 

手に取るな やはり野におけ 蓮華草

この蓮華(れんげ)草の俳句は、江戸中期の俳人、瓢水(ひょうすい)の句です。野原に自生し、誰に見られるともなく、天に向かって咲いている野の草花が多くあります。その様に、野原に咲いているからこそ美しいわけです。この俳句は、『手で摘んで、家の中に飾って眺めるものではない!』と言っているのです。

それなのに、家内と散歩中に、道の脇の雑草の中に咲いていた、この写真の紅白の花を、家内は手を延べて摘んで、自分のベッドの脇にあるテーブルの上で、ガラス瓶にさしているのです。もう3日以上も経つのに、まだ活き活きと咲き続けています。

望むも望まずも、人生のあらゆる時点や居場所こそが、誰にとっても一番好い時であり場所なのでしょう。健やかで陽気であっても、病んだり傷心していても、それを認めて受け入れて、感謝ができたら、人生って素敵なものだと言うことが分かる様になりました。

人や生き物には、個々に相応しい環境があるのでしょう。まさか私たちが、ここ栃木に住むなど、これまで考えもしませんでした。それなのに、今やその市民となり、こちらで穫れる野菜を食べ、水を飲みながら生活をしているのです。家内の闘病も然りで、信じられないほどの愛と好意を、多くの友人や家族や親族から頂いて、最善の環境が与えられ、感謝な時を過ごしれいるのです。

✳︎追記 [HP里山を歩こう]に質問しましたら、読者のみなさんから、「ホット・リップス」と言う名の花だと回答がありました。
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夫婦

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茶道や華道が一番相応しいのに、女性が柔道をすることなど、明治の柔術家は、誰ひとり考えもしなかったに違いありません。しなやかな女性と柔道はミスマッチに思えるのですが、女性が、さまざまな分野に進出し、活躍できるようになったことは、好いことなのでしょう。

ソウル五輪の柔道で銅メダルを獲得し、筑波大学の教師をされておいでの山口香さんが、「畳を降りても」と、講演で語っていました。活躍した世界から引退したことを、そう言った表現で話されるのが、興味深く、面白かったのです。

野球選手、ピッチャーなら「グローブを置く」、野手なら「バットを置く」と言うのでしょう。会社勤めをされた方が定年で退職をすると、何と言うのでしょうか。私は若い頃に教師をしましたから、きっと「チョークを置く」とか、「教壇を降りる」とか言ったらよかったのでしょうけど、言いませんでした。

誰も、命を削り、時間を捧げて生きているわけです。ちょっと格好をつけて、人生を終えるときに、何と言おうかと、健康な内に考えておこうと、今思っているのです。私は、滅んで消えてしまうと思わないのです。母が教えてくれて、《永生の希望》を持っています。

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それで、「お二階に上がる」は、どうでしょうか。ちょっと厳粛な出来事にしては、軽過ぎるでしょうか。父や母や恩師のいる世界に「転居 」も変でしょうか。もう悩んだり、泣いたり、苦しむことがないので、「涙を置く」とか「ため息を置く」、いや「肉を脱ぐ」が好いのかも知れません。

内村鑑三が、「後世への最大遺物」と言う本を残しています。本を残しただけではなく、生きている間に何をし、そして何を残すかを語ったのです。まず「金を残せ」と言いました。誰にもその才覚があるわけではありません。それで、「事業を残せ」と言いました。これも誰にでもできるものではありません。それで、「思想を残せ」と言ったのです。これだって特別な人にしか残せません。それで、「勇ましく高尚な生涯を生きよ」と勧めたのです。

金にも事業にも思想にも、全く縁のない私でも、「勇ましく高尚な人生」は、まだ残せそうです。明治の男の父の陰で、精一杯生き、4人の子を育て上げた母もまた、「どう生きるか」を有言無言に語って示してくれました。そう、『女は弱し、されど母は強し』、山口さんのようなものではない、「強さ」が、母にあったのを思い返しています。

その同じ「強さ」を、糟糠の妻である家内の内に認めるのです。2010年に膵炎で入院し、手術をするまで、肉体も精神も強い女性でした。今は、肉体は弱っても、心強く生き続けて、病と戦っています。昨夕、お風呂に入ったのです。シャワーでしたが、介添えする私に、2度も『ありがとう!』と言って感謝してくれました。それこそが「夫婦」なのでしょうか。

(昨日の散歩で、見かけた白い紫陽花とSFで咲く紫陽花です)
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当番表

 

 

これは、2010年11月24日に、このブログに掲載したものです。8年半ほど前に、市立第二医院に入院した時の様子を記しています。再掲載してみます。「当番表」と言う題です。

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『いつまでもあると思うな親と金!』、これは父が常々言っていた言葉です。子どもを諭す実際的な格言と言えるでしょうか。そう言わないときに、父は、『金が木になるとでも思ってるのか?』とも、浪費を戒めて言っていました。正しく経済的な観念をもって生きるように願った父を、北風が木の葉を拭き落とす初冬の華南の地で思い出しております。

そんな父でしたが、中学に進学する前の年の暮れに、何を考えたのか、『雅、〇〇中に行け!』と、説明なしに一言言ったのです。デモクラシーの自由な風が、教育界にも吹きこんで、新しい理想に燃えて建学された私立の中学に入って学ぶようにと、小学校六年生の私に挑戦したのです。当然、兄たちが学んでいた地元の中学に入るものだとばかり考えていたのですから、寝耳に水の話でした。父が冗談を言ってると思わなかった私は、小学校の教科書や参考書を入念にみなおしながら、いわゆる進学準備にとりかかったのです。昭和31年の12月だったと思います。

この中学の校訓は、「健康・真面目・努力」でした。暁の明星が暗闇の中から踊り出て、世界を照らし、輝かせ、暖かくすることができる人材を育成することを願って建てられた中学でした。たまたまでしょうか、100人ほどの入学者の列に加えてもらって、合格することができました。

この中学校は、幼稚園から高校まであって、今では四年制大学もあります。ですから小学校から持ち上がってきた20人ほどの級友も、この他にいました。私が学んでいた小学校から、私立の中学に進学したのは、もう一人、同じ街で会社を経営する社長の娘でした。同じクラスの彼女は、私が入学した中学の女子部に入ったのです。

同じ敷地の中にありました。そんな男女別学の学校も、時代の趨勢にみ合って、今では、男女が机を並べた共学校になっています。

その学校で、中学高校と6年間、のんびりと過ごすことが出来たことは、大きな感謝の一つです。まだまだ経済的に力のなかった時代に、私立中学に息子を進学させることは大変なことだったのだと思うのです。同級生たちは、中央競馬会の調教師や、医者や社長の息子たちでした。

そんな父に倣って、私も四人の子どもたちに教育を受けさせることができ、一応の社会人として自立した彼らを送り出すことができたのです。親業を卒業したと判断し、ほっとした私は、『今度はわれわれの番だ!』と一念発起して、天津の語学学校で中国語を学び始めたのです。それが2006年の秋でした。健康にも恵まれて、五年目の秋を華南の地で迎えた今月、家内が「胆石性膵炎」を発症し、市第二医院に入院してしまったのです。

軽率というのでしょうか、脳天気というのでしょうか、幸い健康が与えられて、病気になるということを想定しないで生きてきた私たちにとっては、その軽卒さから目覚めさせる発病と入院でした。『備えあれば憂いなし!』との格言が、思いをよぎるのですが、もう若くない自分たちの軽率さで、4人の子供たちに心配をかけてしまったことを、ほんとうに申し訳ないと思っております。

家内が猛烈な痛みと戦っています時に、私たちの友人が三人、車で駆けつけてくださって、市立二医院(中国では病院を医院といい医院を診療所といいます)に、支えか抱えながら連れていってくれました。点滴を受けながら、救急外来の担当医は、『入院した方がいいでしょう!』とのことで、急遽入院になった次第です。14日の日曜日のことでした。

 

 

入院しましたら、日本のように完全看護ではありませんから、私たちの友人が「当番表」を作って、1週間分の表を作成し、それに従って、19日の夕方の退院の時まで、途切れることなく夜昼、交代しながら、一人、二人、三人と介護してくれたのです。

「魚釣島」の一件が起こり、中国各地で反日・抗日のデモの噂が高まっている中、かつての侵略者「日本鬼子」の末裔の私たちを、温かく支えてくださったのです。点滴が一週、間断なく行なわれていましたから、夜間に眠ることなく、無くなると看護婦を呼び、家内の下の世話、乾ききった唇をぬらし、手や顔を拭くといった愛の行為を続けてくださったのです。

『遠くにいる家族よりも近くの他人』という諺がありますが、歴史的に、感情的に最も距離のある彼らが、家族にするように接してくれたことは、万感胸を打って感謝に耐えないのであります。

発病する前に、面識のある中華系のマレーシア人の方から、『必要に当ててください!』と、けっこうな額のお金が送られてきていました。それを、病院に払い込むことによって、診察が開始され、投薬が始まったのです(中国では精算払いではなく、入金を確認しないと治療が始まらないのです)。感謝な出来事でした。また、ある方も経済的に援助してくれました。だれが、敵の子を援助するでしょうか、でも彼女たちは、『あなたたちは、私たちの家族だ!』と言って助けてくれるのです。

一応の治療を受けた家内の、これからの治療についても、四人の子供たちは、中国で治療を継続する派、日本に帰ってきて治療すべき派と双派に分かれていますが、こちらの友人たちも心配してくれています。この金曜日は、一人の友人叔母さんの知人が、大きな漢方薬局をしているそうで、そこに連れていって下さり、医院での治療の経過を聞きながら漢方薬を調剤してくれるというのです。

そんな、もったいないほどの愛に、蒼白だった家内の顔に赤みが戻り、食欲も出てきております。愛には国境も、過去のわだかまりもなく、邪魔なものの一切を押し流してしまう力があるのでしょうか。つくづく『この国に来てよかった!』と思わされる、「勤労感謝の日(日本)」であります。

(写真上は、お世話の「当番表」、下は、友人の「お見舞いの花束」です)

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イスラエルの王であったダビデが、「・・・天を見・・・月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。」と詩を読みました。それは、天空に宝石の様に散りばめられた広大な世界を見上げて、圧倒されたからです。それにひきかえ、人の「矮小さ」に気付いていたのですが、そんな人であるのに、尊厳や価値や存在の意味をもダビデは熟知していたのでしょう。

それは人の心の中に、宇宙の様な広がりがあるからでしょうか。パスカルと言う人が次の様なことを言い残しています。

「人間はひと茎(くき)の葦(あし)にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。・・・宇宙が彼をおしつぶしても、人間はかれを殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある(〈パンセ〉から)。」

これは、とても有名な「考える葦」について語ったものです。人間には、脆弱(ぜいじゃく)性と尊厳さとの両面があると言うのです。私も、「考える人間」の一人です。折れやすいのに、ひっきりなしに様々なことを考えている自分に気付くのです。

社会的な責任から退いて、人生の晩期を生きていて、《晩節を汚さずにどう人生を終えるか》が、今の最大な関心ごとです。人生の伴侶である家内が病んで、今、その難敵と闘っているのですが、そんな彼女の傍にいて、彼女が、これまで私を支え続けてくれた様に、彼女の支えとなることだと、今年の元旦の入院以来、心に決めています。

放射線物理療法の研究に取り組み、長崎大学病院に勤務中に、長崎原爆で被爆された、永井隆の書かれた「この子を残して」を読んで、一昨日の晩、次の様に、私に言いました。『一度、長崎に行ってみたかったわ!』とです。〈過去形〉で、そう言ったのですが、私は、『病気が治ったら長崎に行けるよね!』と、〈未来形〉で返したのです。

華南の省立医院に入院して、こちらの病院に転院し、退院後の今は通院治療をしていますが、発病して半年になろうとしています。この間、ただ私の冗談に、悲しく応答したことはありましたが、一度も愚痴や不平を言わずに、過ごして来ています。人として、立派だと思います。

“ iちゃん”と言う、幼稚園の年中組に通うお嬢さんが、時々わが家に訪ねて来ます。私たちに、よくしてくださるご夫妻のお孫さんです。風邪を引いては幼稚園を休むことが多いのですが、そんなことを聞いた日の晩になると、決まって、家内は、『iちゃんの声が聞きたい!』と、お母さんに電話を入れるのです。日本や華南の街のどこに住んでいても、周りにいる人に、小さな関心を向けるのです。偉いと思うのです。

そんな彼女への〈お返しの日々〉を、「考えながら」過ごしております。私も、また《ひと茎の考える葦》なのであります。

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休暇

 

 

この写真の車は、「ジムニー」と言います。四輪駆動の軽のジープで、知る人ぞ知る車で、私は、この車に魅せられた一人で、多くの人が、『いつかクラウンに!』と言っていた頃に、私は、『いつかジムニーに!』と心秘かに思い続け、慕い続けてきた車なのです。

東京から中部山岳の街に、アメリカ人起業家に伴って、引越しを決めた時、時間のある時に、休暇を貰って、この車に乗って、奥深い林道を走って、冒険心を満喫しようと思って計画していたのです。ところが、これを買おうとすると、子どもが与えられ、経済的には買えるどころではない状況が、4度繰り返していきました。少し安定したかと思う矢先、今度は、彼らの教育費の必要が出てきて、けっきょく買えずじまいで、今日に至ったわけです。

中古販売店の前を通ると、いつも目に飛び込んできたのは、この「ジムニー」でした。3台ほど車を持っていた時期もありましたが、みんな貰い物で、『使わなくなったので!』と言われたものばかりでしたが、その中には「ジムニー」はありませんでした。そんな私の思いを知って、今週手放すことになった「ジムニー」に乗せてくださって、温泉に、その友人が連れて行ってくれたのです。

家内は、友人の夫人がお世話くださったのです。ずっと家内の世話をしてきた私を、いつか休ませ様と、友人が計画してくれていたのです。去年の暮れからですから、半年振りの〈休暇〉になるでしょうか、家内への責任を、友人の奥様にお任せして、郊外の温泉施設に、この友人と行くことができました。これは私たちに家を使わせて下さっている友人夫妻の心遣いなのです。

しばらく前から、友人は、『ご主人には〈休暇〉が必要です!』と家内に言っていたそうで、それを今日は実行して下さったわけです。途中、山深いところにある、蕎麦屋まで遠回りをして、蕎麦をご馳走しようとしてくれました。請求書を横取りして、すんでのところで、私が支払いをしたのです。天ぷらの付いた、大盛りの〈ざる蕎麦〉で、実に美味しかったのです。

今日は、憧れの「ジムニー」に初めて乗せて頂き、〈休暇〉を取ることができた1日でした。その入浴施設の回数券を、もう何ヶ月も前に下さって、時間をとって行く様にして下さっていたのですが、これまでできずじまいだったのが、今日は、こう言った《心憎い形》で、一時の〈休暇〉を満喫できた次第です。兄弟にも勝る友人の配慮と友情に感謝でいっぱいです。

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お便り

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百合さん

退院おめでとうございます。
長く入院されていたとお聞きしました。内臓の治療というのは、本当に長期間の入退院だったり、一生付き合っていかなければならない病が多くありますものね。

入院される皆様、それぞれに自分にしかわからない悩みや苦しみ、痛みや葛藤と戦いながら過ごされているんだろうなあ〜って、入院するたび思います(笑)

また、そこに寄り添うご家族がやっぱり温かな人かどうか、その人の人柄も見えてくるな〜って。百合さんの声の優しくて気品のある声が好きです。

誰に対しても丁寧な心配りを持ってて・・・ご自分も辛いのに、まずまわりに“感謝“できるって”素敵な人だな〜って、いつも部屋のスミから感激していました。どんな時でも、人を思いやれる優しさが、百合さんの素敵な笑顔が、きっと、いつも自然と周りを幸せにしてくれるんでしょうネ。

これからも、治療は続いて行くんでしょうし、体調にも波がある時も、もちろんあると思いますが、どうか、お身体を大切に・・・。

そして優しい旦那様とご家族と素敵な時間を沢山沢山築いていってくださいね。
百合さんの笑顔と幸せと健康を、いつまでも願っております。
多い時は、月に三回は外来にきているので・・・もし、何処かでお会いできた時には声をかけて頂けたら嬉しいです。
少しの間でしたが、仲良くして下さって本当にありがとうございました。
では。
2019.4.15
愛海より
[解説]       これは、家内が退院する4月15日(ちょうど2ヶ月前です)に、同じ病室の廊下側のベッドに入院されている方から、家内が頂いたお便りです。この若いお母様は、妊娠しながら、体調を崩されて入院されていた様です。早期の治癒を願っています。退院して2ヶ月が経過しましたので、迷いながらも決心してアップすることにしました。

(独協医科大学病院の周辺の春と秋の風景です)

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