父が関わっていた会社の一つが、旧国鉄の車両のパーツを納品していたのです。電車の制動関係の部品で、車輪にブレーキをかけるための大切な部分の製品だったのです。そんな関係で、父の知人の国鉄の役員が、国政に出るために、選挙戦に立候補したことがありました。選挙戦が繰り広げられる中で、父は、全国を飛び回って、応援の仕事を担当していたのを覚えています。
父としては、会社の命運のかかった取引先の役員の出馬で、その当選を期して協力をしていたわけです。その働きの甲斐があって、見事、立候補をされた方は国会議員に当選していたのです。まだ高校生ほどだった自分にも、国の成り立ちのある面は分かっていたと思うのです。
たまたま東京に出て来て、二度目に住んだ街にも、国鉄の主要の路線が走っていて、日本通運の作業の引き込み線があって、その作業を、近くの空き地で遊びながら見て過ごしていたのです。また線路の保線区があったり、踏切があったり、同級生の家族が住む国鉄職員の社宅もあったりでした。
上の兄の同級生が、お父さんが国鉄職員の関係で、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員の養成のための岩倉高校(運輸科だと思います)に通っていて、卒業して、電車の車掌をしていていたのです。小さい頃に、『準坊!』と呼んでくれて、一緒に遊んでくれた方でした。一度だけ、彼の乗車していた電車に乗ったことがありました。『格好いいなあ!』と思ったのです。
子どもの頃に乗った、蒸気機関車の吐く白い蒸気の色と音、車軸が回転して出力を増し加えていく様子、そして時々鳴らす汽笛の音に、とてつもない力強さを感じたのです。まだ、立川から奥多摩に行く線に、蒸気機関車が走っていて、立川駅の一番端にあった、その路線のプラットホームで、ジーッと眺めていたことがありました。よく、汽車や電車の運転手にならなかったものだと、今でも思うほど、〈国鉄オタク〉だったのです。
そんなことで、浅田次郎原作の小説が、1999年に映画化され、「鉄道員〈ぽっぽや〉」が上映された時に、普段映画館などに出入りすることなかった私でしたが、” Nostalgie “ でしょうか、もう興味深く観たのです。その映画で、蒸気機関車の『ぽっぽっぽー!』の音、車輪を回す蒸気の排出、黒煙、車軸の回転が、子どもの頃の情景をスクリーンに蘇えってきたのです。
不思議なことに、今は、JRの両毛線、東武電鉄の日光・宇都宮・鬼怒川線(延伸の野岩鉄道や会津電鉄があります)の駅の近くに住んで、同じ鉄道の音や匂いを感じて、朝一番電車が、南栗橋方面、東京に行く光景も見られます。子どもの頃の光景が思い出されてならないのです。今年は、ここの駅から鉄路でつながる会津若松駅から、新潟県の小出駅までを結ぶ、JR只見線が、復旧開業しているのです。
実は、この沿線が、〈昔の鉄道風景〉を残しているとかで、乗り継いでみたい思いに駆られて、満を持しているところなのです。男の “ sentimentalism “ なのでしょう。子どもの頃に、目に焼き付いた光景というのは、時が流れても、薄れはしても、消えてしまわないのかも知れません。きっと、もう車を運転することがなくなってしまったこともあって、鉄路への “ Nostalgia ” が沸々と持ち上がっているのでしょう。
東武電鉄の日光線と鬼怒川線の分岐駅が、「下今市駅」と言いまして、そこを時々、上下車してきたのですが、この駅に、蒸気機関車の週末運転を記念した「駅弁」が売られているのです。その駅弁に、スプーンがついているのです。この冒頭の写真ようなものです。きっと、蒸気機関に石炭を焚べるために使っている、シャベルを模したのだと思われます。
『私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。 (詩篇143篇5節)』
煤煙や煤の蒸気機関車は、かつては男の子の憧れだったのですが、歳を重ねた今でも、リニアに乗りたいなどと願いませんが、この蒸気機関車で、長い鉄路を旅をしてみたい思いは消えないのです。今日日、鉄路の 継ぎ目がなくなってしまい、心地よい『ガタンゴトンキィーン!』の音が聞こえないのには残念至極です。
これからの時期、ローカル線は、もう何年かすると廃線で、バス路線になってしまいそうで、「只見線」だって例外ではなさそうな危機感を覚えています。どれほど自分の日が残されているか分かりませんので、この秋には、無理を言って、出かけてみたいと、積年の願いをと思うのです。
(「奥会津を行く蒸気機関車」、「只見線沿線の秋景色」、「スプーン」です)
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