メディカル・カフェ

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 この日曜日の午後、県都・宇都宮で、「メディカル・カフェ」があり、来訪中の次女と孫娘と私たちで参加したのです。この会は、順天堂大学の医学部の医師をしておいでの樋野興夫(ひのおきお)氏が、呼びかけて始まった、おもにガン患者を中心に、医療関係者とボランテアと家族の交流を目的としたもので、宇都宮では十周年を迎えています。

 樋野興夫氏の担当の「ガン哲学外来」の医療現場から、そもそも「ガン哲学外来」とは、どんなことを目的とした医療なのかについて、つぎのように述べられています。

 『多くの人は、自分自身または家族など身近な人ががんにかかったときに初めて死というものを意識し、それと同時に、自分がこれまでいかに生きてきたか、これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えます。一方、医療現場は患者の治療をすることに手いっぱいで、患者やその家族の精神的苦痛まで軽減させることはできないのが現状です。
 そういった医療現場と患者の間にある隙間を埋めるべく、「がん哲学外来」が生まれました。科学としてのがんを学びながら、がんに哲学的な思考を取り入れていくという立場です。そこで、隙間を埋めるために、病院や医療機関のみならず、集まりやすい場所で、立場を越えて集う交流の場をつくることから活動を始めました。
 2009年、この活動を全国へ展開をしていくことを目指し、樋野興夫を理事長に「特定非営利活動法人(NPO法人)がん哲学外来」を設立しました。2011年には、隙間を埋める活動を担う人材の育成と活動を推進するために「がん哲学外来市民学会」が市民によって設立されるとともに、「がん哲学外来コーディネーター」養成講座も始まりました。
 こうして、がん哲学外来が対話の場であるメディカルカフェという形で全国に広がり、現在ではメディアで取り上げられるほど注目されるようになりました。また、地域の有志による運営、病院での常設などのほか、さまざまな形で協力してくださる企業も増えてきました。
  これらの活動をしっかり支援し、がん患者が安心して参加できる場をもっと提供していこうと、NPO法人がん哲学外来を201373日「一般社団法人がん哲学外来」とし、一組織として強固な体制を整えていくことになりました。
  「がんであっても尊厳をもって人生を生き切ることのできる社会」の実現を目指し、より多くのがん患者が、垣根を越えた様々な方との対話により、「病気であっても、病人ではない」という、安心した人生を送れるように、私たちは寄り添っていきたいと思っています。』

 宇都宮でもたれている、この交流会について、医師をしておられ、ご自身もがんの闘病中で、会の責任をお持ちの方は、次ように語っておいですす。

 『がんの診断にたずさわる医師たちやがんを経験した人たちが「まちなか」へ出ることにしました。がんなどを患う方たちと話すために。がんなどを患う方たちの家族と話すために。白衣を脱いで、立場を超えて経験をふまえ、同じ立場でまちなかでみなさんと癒しの場をつくっていきたい。
 まちなかでコーヒー片手に、話しましょう。』

 家内の退院後に、以前教会に来ておられ、ご主人に転勤で東京近辺に在住の一人の姉妹が、この会の存在を教えてくれたのです。ネットで検索しましたら、宇都宮でも開催されていて、そこに集うようになったのです。

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 昨日の会には、実家に帰って来た次女と孫娘が、私たちに同行してくれ、一緒に家族として、この会に参加したのです。心うちのことを何でも話をし、一歩会場を後にしたら、語られ聞いたことは、会場に置き残して、それぞの生活の場に帰っていく、これを旨としていて、自由な語り合いが行われ、看護師や医師のみなさんに相談したり、苦しみを分かち合ったりするのです。

 互いに認め合い、励まし合い、話すこと、書くことに励んでいくような勧めもなされています。この会は、全国に展開していて、引っ込み思案の患者を外に誘って、話したり書いたりするような勧めまでしてくれています。「ことば」は、話されても、書かれても、keyboardで打たれても、大切な交流の resource なのでしょう。

 臨時参加の孫娘は、司会者に請われて、交流会の最後に「クリスマス会」が持たれ、「聖しこの夜」を英語で賛美していました。

(” Wikipedia “ による「宇都宮市」、「ベツレヘム」です)

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貧弱という門を通って

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 「私たちは、貧弱という門を通って神の国に入らなければならない。」

 「いと高き方のもとに(いのちのことば社刊)」にあった一節です。この本は、オズワルド・チェンバースの説教や聖書学校の講義で語られたものを、夫人が速記されていたものを編集して、刊行された黙想書です。「百万人の福音」誌に、湖浜馨牧師が翻訳され、19711972年に掲載されていたものを、1990年の秋に、いのちのことば社から、手を加えて刊行されたものです。

 名文、名翻訳文で、毎年毎年繰り返し繰り返し、家内と読み続けてきたのです。このような黙想書は、多く刊行されてきていて、内村鑑三の「一日一生」、スポルジョンの「朝ごとに」、榎本保郎の「旧約聖書一日一章」、金田福一の黙想書も素晴らしいものでしたが、私には、一番教えられ、迫られたのが、この書なのです。

 力強さとか、速さ、豊かさが求められる繁栄の時代、「貧弱」とか、「弱さ」とかは流行らないに違いありません。価値観の転倒だからでしょうか。この流行りこそが、価値観の転倒なのにです。

 救われるために、高慢で、言い訳ばかりする人は、創造者の前に、自らの弱さを曝け出さない限りは、神の国に入国できないというのは、その通りなのです。イエスさまは、「山上の説教」で、

 『心の貧しき者・・哀しむ者は福なり(明治元訳聖書 馬太伝545節)』とあります。それはただの貧しさというよりは、何も持たないほどの困窮状態を言っていて、また単なる悲しみよりも、悲嘆のどん底で感じる思いに違いありません。そこから「神の国」に入るのだと言っているのです。繁栄の教えの対極にある在り方でしょうか。

(“ウイキペディア”による十七世紀頃の「London bridge」です)

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渡り鳥の習性に


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 上海の外灘にある港と大阪南港を結ぶ海路の船旅を、何度もしたことがありました。大阪南港を出て、瀬戸内海を関門海峡を出て、玄界灘沖、対馬の北を経て東シナ海を、約二日間を費やしての船の旅は、悠々として、素敵な時でした。

 いつも思ったのは、遣唐使や遣隋使あの船客の思いに重なって、帆船から機関船に代わって、船旅の旅程時間は、とても短くな理、航海の危険性は少なくなったのですが、1500年の隔たりがあっても、船に乗る気分や思いは変わらないのではないかと思ったのです。

 逆の航路で、上海を出て、外洋の航路の船に乗りますと、カモメが追ってきて飛ぶ姿が見えていましたが、やがて、カモメに変わって飛魚が船とが並走して泳ぎ、飛ぶ姿が見られました。果てしない東シナ海を、ゆったりと進むのです。何度も乗ったのですが、ただ一度だけ、台風接近に中を、乗り出した船が、船頭と船尾を、縦に揺らす波に襲われたことがありました。船員さんも酔っていて、船に強い自分も酔わされたのです。そんな静まらない荒波も、やがて凪(な)いでくるのでした。

 港に帰れる所まで飛んできて、戻っていくカモメとは違って、エンジンもペロペラも持たないのに、ただ羽根の翼を駆って空を飛来する、長距離移動の「渡り鳥」には驚かされるのです。春のツバメやオオルリ、冬のオオハクチョウやマナヅルなどです。この写真にあるのが、中国大陸から冬季に飛来する「タゲリ」です。

 モンゴル周辺から飛んできて、関東以西で越冬するために飛来してきて、「田んぼの貴婦人」と呼ばれていますが、絶滅危惧種になっていうようです。広げた時に7284cmもある大きな丸い翼を持っていて、季節風に乗って飛来し、去っていくのです。フワリと飛ぶのが特徴だそうです。

 この街にも、飛ぶ鳥が見るように、上空から見る「鳥瞰図(ちょうかんず)」で描かれた図絵があります。時々掲出している、日光例幣使街道の栃木宿の街並みです。人は、鳥のように飛ぶことを夢見てきたからでしょうか。鳥のように、地の上を眺めて描くのを好んだのでしょう。

 でも、宇宙船から月に降り立った地球を眺めた、アームストロング宇宙飛行士が、『地球は青かった!』と語ったニュースを聞いて、緑色でも茶色でも灰色でもなく、「青」には、驚かされたのです。人類が見上げ続け、和歌や俳句や詩に表し続けてきた月の色だったわけです。

 そう言えば、『月がとって、青いから、遠回りして帰ろう』当たった歌謡曲がありましたが、月が青いように煮えたことはなかったのですが、地球は、きっと、青いんだろうなと納得がいったのです。

 このタゲリは、私が、宣教をしたいとの願いがあった、このモンゴルから飛んでくるのです。この渡り鳥の習性には、羨ましさも感じますが、その長距離飛行を遂げる力と飛翔の術には、驚かされるのです。餌を求め、避寒のために、どうして、それほどの距離を飛んで来て、飛んで帰るのでしょうか。天敵が少ない北で、子育てをすることを知っているからでもあるようです。ヘブル書には、信仰者たちを取り上げて、次のように記しています。

 『11:13彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓れる者なるを言ひあらはせり。(大正訳聖書ヘブル書)』

 イスラエル人の祖、アブラハムは、その生涯を天幕で過ごし、創造者のもとに帰っていきました。それはアブラハムだけではなく、すべての人は、旅人で寄留者なのです。この地上に国籍や市民権を置いていても、それは仮の登録であって、永遠の登録は、これから、約束に従って与えられる、いえ与えられているのです。

 彼に倣って、私も、ここまで旅人で、寄留の地で、借家住まいで過ごしてきました。

(ウイキペディアの「タギリ」の幼鳥の写真、聖句は新改訳聖書です)

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洗うのか研ぐのか

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 自分が、今や「時代錯誤の人」になってしまったのかと、つくづく感じてしまいました。今先日(29日)のラジオに、五十代前の大学の先生が出ておられて、『コメを洗って。』と言っていました。

 子ども頃、母に、『お米を研(と)いどいてね!』と言われて、研いだのに、今は、「洗う」でいいのですね。それには理由があります。昔は、精米技術が良くなかったので、米の糠(ぬか)が残っていて、米同士をぶっつけ合うようにして研ぎ合うようして、米を研いだのです。しかし最近では、精米機が改良されて、研がずに、「洗い」だけで良くなっているのだそうです。

 そのコメントに、『エッ!』と思ってしまった自分が、時代がずれてしまっているのを知って、今週訪ねてくる次女と孫とに、『お米を洗っといてね!』と言うことを、心で決めたのです。

 家内が、近所の女の子と話をしていたことがあり、それを聞いていたのです。『お母さん、妹さんのオシメを洗うので大変でしょう?』と言ったら、その子は、『ううん、オシメはすてるの!』と答えたのです。家内の子育て時代は、晒(さらし)で作ったおしめを使って、晴れても降っても、洗っては乾かし、乾かしては畳むを繰り返していたのに、家内は、使い捨てオシメの時代になっているのに気づかなかったわけです。

 この「時代錯誤」は、如何(いかん)ともし難い、世代間の溝のようなもので、世の中は変わり、物は新しく作られ、技術は長足の進歩を遂げ、主役は交代しているのです。紙の感触よりも、洗い続けた晒の布の感触とは、雲泥に違うのですが、手間よりも、時間を省くほうが、大切にされている時代なのでしょう。

 時代時代に使うことばも変わってきているのに気づかないのが、老いた証拠でしょうか。まさにことばは生きているのでしょう。今日は天気がとても良くて、どうするかと言いますと、若い頃は、外出したほうがいいと思ったのに、今では、洗濯日和だと思ってしまう、これが世代のギャップなのかも知れません。

 でも、です。「研ぐ」は、まだ〈生きていることば〉のようです。寿司屋や定食屋のお店では、正統な研ぎ方を伝授された方が、洗い場で、昔からの手順で、米研ぎがなされているようです。まだ時代に置き去りされないで、安心しました。
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されど薩摩芋

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 『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。  地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。 (新改訳聖書第三版・創世記11112節)』

 いよいよ師走、よく走らされたように思い起こしています。さて、お昼の定番は、今や「さつま芋」のわが家です。蒸しているのですが、焼き芋が一番美味しいのは分かっていますが、一番簡便な方法で食べているのです。

 このさつま芋は、甘藷、人参芋、砂糖藷、饅頭藷といった味を表現した呼び名、由来の唐芋の呼称もあります。このさつま芋は、「青木昆陽」に始まるのだと歴史の時間に学んだのですが、飢饉に強い植物と言われ、非常食として重用されてきています。江戸の中期、8代将軍の徳川吉宗の時代に、青木昆陽が「蕃藷考(ばんしょこう)」という研究書を著し、将軍に上書したことに始まります。

 享保の大飢饉(1732年)が、当時に日本を襲って、食物危機をもたらした教訓から、紀元前には、メキシコのアンデスで栽培されていたそうで、15世紀にヨーロッパに伝わり、やがて中国から琉球(沖縄)、沖縄から薩摩に伝わり、その昆陽の学問書を、伊奈忠逵が簡略化した「薩摩芋功能書并作り様の伝」として刊行されて、まず将軍のお膝元の関八州に、種芋とともに配布されます。ところが収穫に至らなかったのだそうです。

 その状況下で、さつま芋の栽培が成功していく様子を、「上毛新聞(前橋市古市町1-50-21)」が、次のように伝えています。

 『上州只上(ただかり)村(現在の太田市)の名主も、伊奈忠逵から試験栽培の任を受けた一人だった。板橋定四郎は和算家でもあったが農学研究にも熱心で、丹念に栽培記録を取ってい失敗を重ね、試行錯誤を続ける中で彼はあることに気が付く。

 それが、肥沃な土よりもやせた土地の方が良く、むしろ肥料を与えない方が良質な芋がたくさんとれるという事実だった。要は蔓(つる)ぼけという、栄養の与えすぎで蔓や葉が茂りすぎて、土中の芋がちっとも大きくならない現象を見つけたのだ。これは当時の常識を覆す発見で、青木昆陽よりも早く、具体的で実践的な研究成果だった。

 かくして関東最初のさつまいも栽培の成功は、上州只上村の板橋定四郎によってもたらされた。この由緒にちなんで、太田菓子工業組合発の太田銘菓「定四郎ポテト」が販売されている。おいしいスイートポテトで、さらに地域の歴史も味わえる。』

 この只上村は、渡良瀬川の南岸に位置し、川を隔てた栃木県足利市に隣接しています。あの有名な岩宿遺跡(旧石器時代だとされる遺跡)も近くにあって、なじみ深い地なのです。この村で栽培、収穫に成功したさつま芋は、またたく間に全国に広まり、飢饉の時の非常食、とくに農民の主食にまでなっていったようです。今では、この地で作られる「種芋」が、全国に出荷されているそうです。令和の我が家でも、準主食になっています。

 土地が肥沃な地には、それに見合った作物が生産され、そうでない地にも、違った種類の作物が育つと言うのは、やはり創造主の神さまのご配慮なのでしょうか。板垣定四郎のように、人は知恵を得て、栽培に工夫をしていったのです。

(Illust AC からのイラストです)

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朔風払葉

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 この季節を歌った、季節歌と言っていいでしょうか、「たきび(作詞が巽〈たつみ〉 聖歌、作曲が渡辺 茂)」があります。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

そうだんしながら あるいてる

 作詞者の巽聖歌は、岩手県の人で、お父さんは鍛冶屋で、この人も小学校を終えると家業に従ったのです。童謡に惹かれ、北原白秋に師事した童謡作家でした。20歳の時に洗礼を受けたクリスチャンで、讃美歌も作詞していて、東京都下の日野市で病没しています。

 今頃を、「七十二候」の「朔風払葉(さくふうはをはらう)」と言うのだそうです。二十四節気の「小寒」を、三分した季節の移り変わりを、そう日本では呼んできたのです。この時季は、北風が木の葉を吹き払う頃で、この「朔風」は北の風という意味で、木枯らしをさします。

 人に会った時に、話題にしたりはしないことばなのですが、日本人の感性の細やかさに驚かされることばなのです。家の近くの「うずま公園」も、落ち葉の吹き溜まりができていて、落ち葉焚きができそうですが、今では、ゴミ袋に入れて、回収されてしまうのは、趣がありません。

 山の中で、落ち葉を集めて、濡れ新聞に持参のサツマイモを巻いて、落葉焚の中で、焼き芋をして、教会学校の子どもたちと美味しく食べた日がありました。風のないのを確かめたり、ちゃんとバケツに水を汲んで、防火の用意を怠りなくしたのです。スーパーの電気焼き芋機では味わえない、美味と郷愁の味でした。

 今朝も、陽が射してきて、外気は冷たいのですが、窓際は小春日和の暖がとれそうです。

(散歩道の菊の花です)

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皇帝ダリアと栄光の王

 

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 この花は、近所の方からいただいた「皇帝ダリア」です。去年もいただいたのですが、木のように高いところに咲いていて、それを手折ってくださったのです。高いところに立って、国民の生活ぶりをつぶさにながめて、善政を行う真の指導者を思わせるような花なのです。

 お城の高楼に登っては、四方を眺めるお殿さまがいて、民は安心して暮らせるのです。この下野国には、小藩がいくつもあったようで、ここ栃木にも、中世には皆川城があったそうです。皆川氏の居城でしたが、今では城址跡になっています。どんなお殿さまだったのでしょうか。

 『7門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん 24:8えいくわうの王はたれなるか ちからをもちたまふ猛きヱホバなり 戰闘にたけきヱホバなり 24:9門よなんぢらの首をあげよ とこしへの戸よあがれ 榮光の王いりたまはん 24:10この榮光の王はたれなるか 萬軍のヱホバ是ぞえいくわうの王なるセラ(文語訳聖書 詩篇24710節)』

 私にも王がいます。「栄光の王」、「万軍の主」と言われる神で、人の子の姿をとって来てくださったイエスさまなのです。十字架に死なれ、蘇られて、今も、いと高き天から見下ろして、見守り続けてくださっておいでです。

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羅馬書之研究

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 内村鑑三著の「羅馬書之研究」を開いて読み始めたところです。この書の序の箇所に次のようにあります。

『・・・また余の四十七年間の信仰の生涯において、余がもつとも注意して研究したりと思うはこの書である。余はロマ書を講じて、實は余自身の信仰を語つたのである。ゆえに六十囘にわたりしこの講義は、余にとりては快楽の連続であつた。これを百囘または二百囘となすも、余は倦怠をおぼえなかつたであろう。神の思惑の福音の講述である。キリストにあらわれたる天父の愛の宣傳である。これにまさる愉楽(たのしみ)の、他にありようはずはない。余は第六十囘の最後の講義をなし終つたときに、惜別の涙を禁じ得なかつた。』


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 どれほどの救い主キリストへの愛と感謝と喜びにあふれていたかが分かります。共に奉仕の助けをした、内村鑑三門徒への感謝などが深くあったようです。第一講に、こんなことが述べられています。

 『・・・厳密の意味においてキリスト敎の經典と言うべきは新約聖書である。何となれば、キリスト敎そのものは、その完き形においては、キリストの出現をもつて始まつたものであるからである。而してこの新約聖書は、その分量においては決していわゆる大著述と稱せらるべきものではない。五号活字をもつて四六判に組みて、わずかに數百頁にわたるにすぎない。』

 『然るにこの一小著述中に、全世界を幾度も改造したる歴史を有し、なお将來も然かする力を具備せる一書のふくまるるは、眞に奇蹟中の奇蹟であると言わねばならぬ。この一書こそ、實に我らの今囘の研究の題目たるロマ書である。』

 『實に聖書は寶の庫である。その中に、採つて以て我らの心靈の糧とすべきものはかぎりなくある。從つて我らは研究すべき題目のすくなきに苦しまずして、かえつて多きに苦しむのである。しかしながら、福音の中心たる十字架すなわち贖罪問題について研究せんとするときは、この問題に關して徹底的説明を提供したるロマ書を採るを最上の道とすること、勿論である。』

 『キリスト敎の専有的敎義は贖罪である。もとより罪の赦免は佛敎にもある。浄土眞宗のごときは、これをもつて生命とせる宗敎である。さあれ彼になくして我にあるものは實にキリストの十字架である。いかなる宗敎か、その敎祖の死の上に赦罪の信仰を立脚せしむるものがあるか。ただの赦罪の信仰ではない、實にイエス・キリストの贖罪による赦罪の信仰である。これキリスト敎の特有物にして、福音の福音たる處以また實にここに存するのである。ゆえに今日この信仰を提唱するは、キリスト敎を他の宗敎と截別(せつべつ)せしむる效果あるとともに、近時唱道せらるる贖罪抜きのキリスト敎と我らの信ずるキリスト敎との相違を明らかならしむる、もつとも有力なる道である。この意味において、ロマ書の研究はすこぶる有價値であると言わねばならぬ。』

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 この研究書は、19211922年までの4年間、東京の大手町の大日本私立衛生會の講堂で、700人もの聴衆になされた「羅馬書講演」を、1924年にまとめで出版した一書です。1930年に内村が亡くなっていますから、5963歳の4年間にわたってなした講演記録と言えるでしょうか。上記のような書き出しを、内村はしています。

 この方は、東京英語学校、札幌農学校、アマースト大学で農学や水産学や理学を学んだ人で、いわゆる神学校や聖書学校では学んでいない、独学の信徒でした。ところが、専門の神学を学んだ人たちは、内村を聖書教師として認めていたのでしょう、彼の著した書に大いに学んできているのです。

 内村鑑三と同じほどの年齢で召された私を教え導いてくださった宣教師も、独学の聖書教師でした。札幌の教会で奉仕されていた頃でしょうか、彼の生涯の労作の「ローマ人の手紙の研究」を、『準、あなただったら、これを学んで理解してくれるでしょう!」と言って、送ってくれました。CDとテキストが手元にもあります。

 これから、自分も説経者として召され、日本と隣国で聖書を講じた集大成のようにして、もう一度、組織的に、「ローマ書」を学ぼうと願っています。私が、自分の救いの確信を得たのは、このローマ人へ手紙ではなく、エペソ人への手紙の次のみことばでした。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 これは、電撃的に迫ったものであって、救いの確信がきたのです。その時から、私にも、主への愛や感謝や喜びが、沸々として起こってきたのです。みことばに感動するという経験は、説教者の特権でしょうか。内村鑑三は、その特権を得て、関東大震災が起こる前の大正期に、真理に飢え渇く聴衆に語ったのです。

 パウロは、「福音」のために選び分けられたものであると語り、その「福音」を誠実に弁明し、「よき訪れ(ΕυαγγέλιοEvangélio)」である、キリスト・イエスの十字架の福音を解き明かしたのです。多くの聖書研究者が、聖書の学びの集大成のように、「ローマ人への手紙」に目を止め続けてきているようです。その一人が、内村鑑三でした。

(「福音を説くパウロ」、「羅馬書之研究」、「宣教地図」です)

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七十年ぶりに

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 『俺は爺さんじゃあない!』と言い張っていたのすが、もう年齢は後期高齢者、市内運行の「ふれあいバス」は半額などの恩典に預かる身となって、もう任せっきりです。

 この街に、おもに老齢者のために4ヶ所、入浴施設があります。近所の方に教えていただいて、女子校のそばに一つあり、23回行きました。ちょっと遠くですが、大きな電気工場の近くに一ヶ所、そして今日は、市の健康福祉センター(保健所)の近くにある施設に行ってきたのです。

 56人入っていたでしょうか。大きな湯船で、けっこうノンビリと入ることができ、身も気持ちもユッタリさせていただいたのです。これで、「100円」で、お湯もキレイで、ニギヤカではないのです。こんなことのできる今に、感謝なのです。

 ただ日帰り温泉のように、サウナも、@ジャグジーも、炭酸泉も、ぬる湯もありませんし、露天で樹木や空や鳥も見たりできませんが、目的は十二分に果たせるのです。

 実は、その湯に、右手の不自由な方が入っておいででした。右手と前腕がなかったのです。湯船に私が入っていて、その方が、左手で、腿の上に広げたタオルに、自前の石鹸をつけていて、体を洗おうとしていたのです。私は、とっさにお湯から出て、この方に、『お背中を流しましょう!』と声をかけてしまったのです。意外に思う顔を向けたのですが、ちょっと強引でしたが、右腿の上に石鹸のついたタオルを取って、背後に回ったのです。『すいません!』と言われて、左手では手の届かない肩、首筋、背中、腰と柔らかくタオルを動かして洗って差し上げたのです。

 やっぱり嬉しそうに、ニコニコとされておいででした。私は、余計なことを言わないで、自分の髭剃り、洗髪、体の洗いを、この方の隣でしたのです。この方は体を洗い終わって、湯船に浸かられて、しばらくして出られて、絞ったタオルで体を拭いて、『すみません!』と会釈されて、浴室から出て行かれました。

 これは自慢話ではありませんで、ただのオッチョコチョイなだけなのです。断裂した右手の鍵盤の再生手術をして、プロテクターで固定されて、何もできなかったことがあって、その時のことを思い出して、それでさせていただいたのです。『お互い様!』と、コソッと言ったでしょうか。とても嬉しそうなお顔をされておいででした。

 そう言えば、銭湯に連れて行かれ、『準、背中を流してくれ!』と言われて、父の背中を何度か流させられてから、七十年ぶりのことだったでしょうか。ちょっと、お風呂に入ったこともあって、いい気持ちで、自転車にまたがって帰って来たのです。途中、隣人のご婦人の展覧会が、市の文化ホールであって、それを観たのです。私が家に出る時、このご婦人が、家内を誘っていたので、会えそうに思っていましたら、会場で家内とご婦人にお会いできたのです。

 そう、この数日の寒さとは打って変わって日差しの温かい一日でした。それでいい気持ちだったのです。今日も、また寒暖の差の大きさを感じた一日でした。

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打たれた子を旅に行かせ

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 「獅子の子落とし」ということばがあります。百獣の王と言われる雄獅子は、タテガミを持って、威風堂々としています。草原に伏す姿には威厳があるように見受けられますが、無敵とは言えそうにありません。巨体のカバや小ライオンを狙うハイエナは、獅子の天敵なのです。泰然自若のような外観でありながら、意外と繊細な神経を見せる動物だそうです。

 この「子落とし」の話は、「太平記(十六)」に記されている故事によるそうです。「獅子は子を産んで三日を経る時、万じんの石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざる中より身を翻して、死する事を得ずといへり」とあります。私たちの知ってるライオンとは違っていて、架空の動物を言うようです。

 厳しい子育てをする親を見て、「獅子の子落とし」と言って揶揄することがありそうです。そんな古事から、厳格な親の仕打ちを受けた人も、多くいそうです。

 お世話になった宣教師さんに、二人の男の子がおいででした。この方は、お子さんを、spank (尻をベルトやヘラで打って規律したり、教えるのです)していたのです。それには、聖書的な根拠がありました。その根拠となったのが、次の聖書箇所でした。

 『子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言231314節)』

 ユダヤの社会の子育てに、そのような規律の方法があったのです。鞭を打たずに、規律されなかった子は、長じてから大きな問題を起こしていくようです。だから、鞭で規律するのは、黄泉の滅びからなのだと聖書は言うのです。

 礼拝中に、幼かった長男が、我儘だか短気を起こしたことがあって、それを見た宣教師さんが、『準、今は、彼を spank する時です!』と言われ、母子室でそれを実行してから、四人の子どもたちの尻に、愛の鞭を当てて子育てをしてきたのです。我儘と短気と不従順を取り扱ったのです。打つ親の怒りからではなく、平静な気持ちを鞭を振ったのです。

 こんなことを思い出しながら、ブログを書いていましたら、エホバの証人の子どもたちへの鞭打ちの虐待の問題が、にわかに騒がれ始めました。それと、一緒にされたくはありませんが、過度であったり、教理的な規律や命令であってはいけません。聖書的であること、愛に基づいていて、親の確信があるのなら容認されると、今でも思っています。親の拳骨が子どもの頃にあり、先輩のビンタの規律が、私の若い頃にはあって、それで矯正されたので、今がありそうです。

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 子どもたちが長じて、何でも親に言えるようになった時に、不評でした。あの時々の私の確信は、それ以来、少々揺らいで、今日に至っているのです。一番スパンクの数が多かったのは、長男でした。15歳で親元を離れて、友人牧師のお世話で、ハワイの高校に入学したのです。home stay した先で、〈他人の飯を喰う〉経験をし、その学校を卒業しました。

 それから、アメリカの北西部の大学に進学したのです。え卒業後は、ハワイの教会のスタッフになり、礼拝の通訳奉仕や教会の必要のために仕えたのです。そこで神学校に通い、献身し、牧師となっています。

 まあ若かった日の確信が、歳を重ねてきた今になって、その頃を思い返しますと、揺らぎますが、あの時の確信は正しかったと思うのです。子育て中に、愛を基本にしていたことが分かったのか、長男は、『僕に取ってのスパンクはよかったです。ただ多過ぎたかな。』と、大人になって言ってくれました。

 私の明治生まれの父は、たまに拳骨を使いました。中学に入って籠球部(バスケット)に入ったら、OBからビンタをもらい、上級生から殴られたのです。それも規律の内でした。男っぽさだったかも知れませんが、戦後でしたが、まだまだ私立の学校では軍隊調が闊歩していた時代だったのです。

 「可愛い子には旅をさせよ」、家内と私は、決心して子どもたちに、旅をさせたのです。長男と次女は、中学を出て、ハワイの高校に送り、次男は、新潟の高校に、ハワイにも送りました。長女は、県立高校を終えて、東京の学校に進学していきました。そのように子どもたちを、旅に行かせて、親としては寂しかったですが、自立に追いやった点ではよかったと思っています。まんざら、彼らの子ども時代のスパンクは、虐待であったなどとは言えません。

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