どぶ板

 
 華のお江戸の新宿に、今では信じられないでしょうけど、「どぶ板(下水道に木の板で蓋をしたところ)」がありました。ところが今、JR、地下鉄、京王、小田急、バス、タクシーで降りますと、 美しいビル(コンクリートの肌の見えない)が林立し、世界に誇る繁華街が目に飛び込んできます。裏道を歩いても、道路はきれいで、段差はなく、人は安心してそぞろ歩いています。小学生の時に、新宿の東口から歌舞伎町まで歩いて「コマ劇場」に、父が連れていってくれた道筋には、古い新宿の街の風景が残っていました。中学生の頃、高校のバスケット部の試合の応援に駆り出されては、帰りに、上級生やOBがご馳走してくれた食堂街のあった西口の線路際は、雑然としていました。学校に行っていたころは、映画を観たりコーヒーを飲んだり食事をするために、たびたび降りました。その頃の新宿の道路の脇には、「どぶ板」があって、ゴミが散乱し、西口と東をつなぐ線路下の地下道には乞食や孤児、東口の駅頭には傷痍軍人を見かけました。どこを通っても、小便臭かったのですが、汚さだけではなく、昔からの人の営みの面影の「下町情緒」が残されていました。

 このように大きく変化していく様子を見ながら、日本経済のとてつもない進展ぶりを身近に感じたものでした。田舎に住んでいて、数カ月ぶりに新宿に降りますと、迷子になってしまうことが度々でした。何時でしたか、京王ルミネのビルの中の美味しい珈琲店に入ったことがありましたが、帰りに迷路のように入り組んだ通路の中で、道を失ってしまいました。西口を降りると駅前に、父の会社があって、向こうの方に淀橋浄水場があり、都電が、中央線の荻窪駅まで走っているのを眺めることができたのに、西口で迷子になって、田舎者になった自分を笑ってしまいました。たしかに懐かしいものが、1つ1つと消えていく新宿、いえ日本の街であります。


 そんな街の変化が、今住んでいる中国の町の中にも見られるのです。初めて訪華した20年前の北京でさえも、信号がほとんどありませんでした。自転車がはるかに車の量をしのいでいたのです。タクシーに乗って、胡同の中を走って目的地に行きましたが、バス路線も少なかったのです。そこには、新宿にもあった「どぶ板」のような、古きよき時代の残滓があふれていました。何よりも、北京の下町人のにおいのする営みを肌に感じたのです。

 ところで華南の町の、この5年の変化は、日本の20年~30年の変化を、一挙に遂げているのではないでしょうか。古い時代の複雑さ、怪しさ、危なさがあって、道路は段差がきつく、歩道もなく、バスを乗り継いでも、降りて歩きだしても、自転車や電動自転車が、ぶつかりそうに交わしていくのです。店の前は公共の場なのですが、我が物顔で私的に使われていました。ところが、急激な変化というのでしょうか、街の様相が激変しているのです。駅に行くためにバスに乗ると、どこをどう走っているのか曲がりくねって、皆目わからなかったのですが、今、主要道路は、ほとんでまっすぐな道路になり、上下線の中央分離帯ができ、路側帯があって歩行者保護がなされています。道路や街並みが、銀座通りのようになってしまっています。小さな商いをしていた人たちは、どこに消えてしまったのでしょうか。

 そのように整備された道路を走る中国の運転手さんの技術は、一見して上手ですが、一触即発、常に事故の可能性を秘めています。急ブレーキと急ハンドルは、タクシーもバスは、とくにそうです。それで衝突しないで車を交わしているのは、見事ですが、上手とはいえません。規則が遵守され、運転レーンを守り、車間をとり、横入りをしないなら、ニューヨークでも、東京でも、パリでも、彼らは運転することができます。街が綺麗になったのですから、走っている車が、譲り合い、歩行者優先になってくればいいのにと思っております。そういえば、昔の日本の運転も、今の中国に勝るとも劣らないのではないかと思います。かく言う私も、自転車に一度ぶつけ、もう一度は車にぶつけた過去を持っております。ひやひやは数限りなくあります。やはり、こちらでの運転は遠慮したいと決心していますが、こちらの運転の見事さに感心し、けっこう楽しく眺めているのです。

 「どぶ板」は、庶民の生活環境を象徴するような物といえるでしょうか。どこにでもあったのですが、近代化とともに不要になった物たちの総称です。中国の街角から、今、消えつつある物たちのこと、伝統的な生活様式のことでもあります。四川省の成都で、あちこち案内してくださった方が、『この街の伝統的な街並みが消えてしまうのは寂しいことです!』と嘆いていたのを思い出します。新しさと古さとは共存できないのでしょうか。先日、観光用に整備されてしまった古い町並みを歩いていましたら、「覗きカラクリ窓」を見かけました。声色を使って動物の鳴き声をしながら、カラクリを操作している路傍芸人がしていました。昔、育った街にもいたようなオジさんでした。これも消えつつある伝統芸能なのかも知れません。郷愁を誘うものが一つ一つ消えていってしまうのを残念に想う、十一月の終わりであります。

(写真上は、JR新宿駅東口、下は、江戸末期の横浜の街並みです)

[演説]ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(ブータン王国)


 天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説 する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかく も傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。この ことに対し、感謝いたします。

 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。

  ご列席の皆様、演説を進める前に先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的に分かちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。

 私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべも なく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わっ てしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国 の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。


 皆様が生活を再建し復興に向け歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実味のあるものです。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ,そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータ ン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代もリーダーであり続けます。

 このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本の ことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実で あると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

 皆様、日本お よび日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうし た力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国の ひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。

「ブー タンには寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています」 ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心からいまお話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大 な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなか で主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。


 ご列席の皆様、ブー タンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作ってい ます。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々のあ いだに深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。

 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手のなかに委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありま すが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本か らは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民のあいだを結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。 それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々の、ブータン国民のゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝え ることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。

 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、(英語ではなく)ゾンカ語、国の言葉でお話したいと思います。

「(ゾンカ語での祈りが捧げられる)」

 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。(2011年11月17日、国会・衆議院本会議場にて)

(写真上は、皇太子さまとブータンのワンチュク国王夫妻=16日午後、皇居・宮殿「石橋の間」で撮影されたもの、写真中は、ブータンの国土地図、写真下は、街中のみなさんの様子です)

郷愁

                                   .

 子どもの頃、我が家へは、道路の側面を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関を入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、鹿の角や水晶や掛け軸のある床の間の部屋に出入りしました。着替えや布団は押入れに収め、木で作られた椀に味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、おなじようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻と布でできた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれました。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 中国に来て、住んだ家はコンクリート造りで、切り石の床、ビニール塗料のぬられたコンクリートの壁でした。遠足で連れていってもらった天津の郊外の農村は、煉瓦造りの家で、土間があり、煉瓦と土壁で出来ていました。美味しい餃子をお腹いっぱいご馳走になったのです。アメリカに旅行し、韓国のソウルに旅行しても、アルゼンチンやブラジルやカナダやシンガポール、どこに行っても、昔の木造平屋作りの、木と紙の織り成す質素な日本の家屋の独特な情緒と接することはありませんでした。高度成長期に入った日本では、木造からコンクリートの家に代わってしまい、モルタルの塗りこまれた壁の中に閉じこめられてしまいました。最後に住んだ家には、障子も襖も床の間も長押も木板の木目のある天井も、もうなかったのです。それでも山がに友人が借りて住んでいた築何十年(もしかしたら百数十年)の農家は、藁葺で全くの木造で、壁も床も床柱も囲炉裏の煙でくすんで黒光りをしていました。貧しさの象徴かもしれませんが、長い歴史を感じさせ、人の技のやさしい機微が残されていて、『ああ、いいなー!』と、嘆息してしまいました。

 実は、この7月から住み始めた家も、コンクリート造りの「公寓(アパート)」なのですが、大家さんが、田舎から運んできた楠で床を張り、同じ楠で部屋に収納や机や寝台を作ってくれたのです。木が持っている独特の匂い、温かさというのは、家内と私、訪ねてくる客人の心を、なんともいえなく落ち着かせてくれます。私の原風景の記憶の中にも、こういった、「木」と「紙」で出来上がった温もりがあります。日本人は、狭い国土の中に住み続けてきましたが、自然の恩恵に浴すことのできた《特恵の民》だと思うのです。春の草木の様々な青葉若葉の緑、夏の濃い葉の緑や真っ白な入道雲や海の波しぶきの白、秋の紅葉の赤や黄、秋晴れや冬の小春日和の真っ青に抜けるような空、こんなに豊かな色彩に囲まれている民は、この地上に、そう多くないのではないでしょうか。染井吉野の桜のほんのりした色彩は突出しています。木造の家屋に住み、木で作られた道具を使い、楮(こうぞ)といった木の表皮で造られた和紙に文字を記し、様々な文化活動を行って来て、独自の文化を育んできたのですね。

   
 木工法にしろ、紙の製造にしろ、紙の上に記す文字も、その墨汁も、すべてが、ここ中国から朝鮮半島を経由して伝来しているのは、歴史が記録しているところであります。「日本書記」の記述の中に、紙が使われ始めたのが、610年であるとの公式な記述があるそうです。紙消費の驚くべき多さも、私たち現代の日本人の特徴でしょうか。映画監督の大林宣彦が、『風通しのいい木と紙の家が育んだ日本の文化は、「気配を思いやる文化」だ・・・ことばを交わさずとも、今だれが幸せで、だれが傷ついているか分かった。』と言われたことばが、読売新聞の編集手帳で紹介されていました。NHKの「おしん」の中で、真冬、雪が家の隙間から吹きこんで、寝ているせんべい布団や掛け布団に真っ白に積もっていたシーンが思い出されますが、たしかに「風通しの良い家屋」で、夏向きだったのは確かです。今のようにサッシの窓も鉄製の扉もなかった時代、北風がピューピューと隙間から吹き込んでき、ストーブもエアコンもなかったのに、『寒かった!』という記憶が、ほとんどないのです。すぐ上の兄の同級生が、よく鼻をたらしていて、それを袖口で拭いて、光っていたのを思い出します。

 味噌・醤油・塩の蛋白な味つけ、畑の野菜、畳や障子や襖の紙や木や草の感触で育った文化や生活は、やはり独特な、侘びや寂を感じさせて、東洋の神秘さを漂わすのでしょうか。秋の野辺に、真っ赤な柿の実が残されていて、からっ風に揺れていた光景が思い出されます。『俺って、やっぱり、浪花節や演歌やオデンの好きな、飛びっ切りの日本人なんだ!』と納得させられます。今頃、日本は富有柿が美味しいでしょうね。この時期に、日本にいない歴六年になりますので、この富有や次郎や御所といった、極上美味の柿の味が恋しくて仕方がありません。アッ、沢庵や野沢菜漬けやらっきょう漬、けんちん汁や豚汁、すき焼きや水炊きなどが食べられないのも、実に口惜しく感じてしまいます。そろそろ食事の時間のようです。

(写真上は、「染井吉野」、下は、「畳」です)

安全の文化


 『組織の〈安全文化〉は、報告する文化、正義の文化、柔軟な文化、学習する文化である。誤りや失策がちゃんと報告され、公正な規則が守られ、予想外の事態にも臨機応変に対応でき、自他の失敗からきちんと学べる文化なのである。』と、イギリスの心理学者で、「組織事故」の専門家であるJ.リースマンが言っています。

 今年3月11日に、東日本大震災で、地震と津波による被災、二次災害としての福島第二原子力発電所の放射能漏れ事故が起こりました。津波が押し寄せてくる様子を、ヘリコプターから中継されていました。それをテレビで見て、その猛威に言葉が出ずに、目を釘付けにされてしまいました。津波が人命を奪い、人が築き上げてきた一切のものを破壊し、奪い、押し流していく有様は、空前絶後、筆舌に語りつくせませんでした。津波が遡上していく脇で、何が起こっているのか全く情報を得ていないトラックの運転手が、為す術も無く車の方向を変えておられました。春の収穫を待って、ビニール栽培されていた作物が、つぎつぎと波に飲み込まれていきました。

 津波が襲いかかった建造物の中で、福島第二原発の発電施設は致命的でした。それまでの警告を無視して、最悪の事態を予測して、その対策を講じてこなかったのが、8ヶ月が経過した今なお、放射線の放出で戦々恐々としている事態を生んでいます。チェルノブイリの事故に、日本の電力会社が、何を学んだのでしょうか。あの時、たくさんの情報が発信されていました。誤りや失敗が何であったかを、きちん学習しようとすれば、驚くほどの情報があったのです。「他山の石」、よその出来事として看過されてしまったのではないでしょうか。

 農山漁業が主産業だった東北地方、岩手県などは、「日本のチベット」とまで言われていたのですが、工場誘致を図り、近代工業、ハイテク産業の基地が作られ、そこに雇用を産んで、取り残された地域ではなくなってきていましたのに、この地域が被った被害は甚大でした。私は、長野県の南信・駒ヶ根が気に入って、終の棲家と決めていたのですが、今年、心変わりがしてしまったのです。盛岡と釜石を結ぶJRに山田線があります。その途中駅の茂市から岩泉線というJRの気動車が走っていて、終点が岩泉なのです。当初、延長路線計画がありましたが、それが頓挫してしまって、三陸の海岸線までつながらないままな工事打ち切りになりました。バス輸送が、地形上困難との理由で、赤字路線ですが、JRはこれを手放すことができずに運営を継続しているのです。この岩泉には、日本有数の「鍾乳洞」があって、多くの観光客を呼んでおります。この町に、帰国したら住んでみたいと思い始めているのです。


 中部山岳の山の中で生まれたからでしょうか、故郷回帰で、田舎に住みたい願いがあるのです。山と山がせめぎ合って、平地が少ない山里は、何か寄りかかれる、頼りがいのある地形なのです。そこに一汁一菜と麦飯があれば、生きて行けるだろうと思っているのです。昔の人は、科学的な分析こそできなかったのですが、「知恵」に富んでいたからでしょうか、多くの教訓を子孫のために残してきています。津波に襲われた地に、先人は、札を建てて、正義に裏打ちされた報告をし、柔軟に、それを子孫が引き出して、十分警戒を怠らないようにと、学習教材を残しているのです。海には海の、山には山の掟が残されて、学ぼうとすれば誰もが学べる様な配慮が、賢い先人たちによって残されてきているのです。人が都会を好めば好むほど、田舎から離れて距離が増せば増すほど、そういった警告の声からも遠くなり、聞く耳さえ持たなくなってしまうのではないでしょうか。

 リースマンは、「安全の文化とは・・・自他の失敗からきちんと学べる文化なのである」と言いました。東北地方の人たちだけでなく、これは、すべての人が学ぶべきことに違いありません。この美しい国土の保全のために、心血を注いでこられた方々がおいでです。その志をついで、息子や孫やひ孫に、この慕わしい自然風土を受け渡したいものです。そして自分の人生も、「安全」なものでありたいのです。先人が定めてくださった「公正な規則」を遵守し、「予想外の事態にも臨機応変に対応でき(る文化)」として、学び建て上げていこうと決心しております。たった一度の限られた人生を、満身創痍、無為徒食、無味乾燥に過ごす事のないように、「自他の失敗からきちんと学」ぼうと決意している晩秋の宵であります。

 昨晩、帰り道の脇の草むらで、虫の鳴く音がしていました。そんなかすかな声音を聞き取れるほどに、心が静かにされてきているのでしょうか。聞こうとすれば聞き取ることができ、学ぼうとすれば学べるるのでしょうか。それこそ、こちらに来て初めて感じたような、秋の気配でした!

(写真は、上は岩手県岩泉町の秋、下は春の渓谷美です)

与太郎

 

 上の兄が、中学校の英語の先生の影響で、新宿の寄席「末広亭」に出入りしていたことを知った私は、忠実な弟だったので、兄に真似て落語なるものに関心を持ち始めたのです。「小噺」とか「落し噺」とか「洒落」とかいった言葉を、そのころ覚えたのだと思います。『明日、神宮球場で、早稲田と慶應の試合があるんだってねえ!』、『そーけー!』とか、『隣に塀ができたって言うじゃあねえか!』、『ヘー!』といった寄席での話を兄から聞かされて、これも兄の猿真似で、学校に行って、早速やったのですが、級友たちの反応は全くなかったのを思い出します。日本語は、同じ音の言葉が多いので、駄洒落天国の言語だと言われています。「きかい」という言葉ですが、機械、機会、棋界、奇怪、鬼界、貴会、まだまだあります。そういえば子どもの頃は、ラジオで、よく寄席中継をしていましたし、浪花節や講談も耳にする機会が多くありました。

 上の兄が、大学受験の勉強を、ラジオの講座で聞いていた時でしょうか、早めにスイッチを入れると、村田英雄が、「人生劇場(尾崎士郎作)」という歌謡浪曲をやっているのが耳に入りました。大正時代、早稲田で学んだ青成瓢吉が主人公の「青春編」や、吉良常が主人公の「任侠編」といった出し物で、難解なところもあったのですが、毎回楽しみにラジオの前に座って、一生懸命に背伸びをして聞いていました。文庫本で、原作を読んだこともあります。けっこう続編が続いていましたが。ラジオで声を聞いた村田英雄も先年亡くなってしまいましたね。こう言ったのを「雑学」と呼ぶのでしょうか、知識欲旺盛な子どもの頃に吸収したものは、良いことも意味のないことも、時がたっても忘れないのが不思議でなりません。

 落語家には、古今亭志ん生とか柳家小さん(五代目)とか三遊亭金馬がいました。おかしくて腹を抱えたこともありましたから、小学生の私にも筋が分かったわけです。その落語家、噺家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』といた言葉を話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上るほどの天才少年だったそうです。通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることのできた、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好き人間とされてしまったのです。

 そんなですから、学校帰りに、新宿で降りて、伊勢丹の隣にあった「末広亭」に何度通ったことでしょうか。級友を誘って行ったことがあって、北海道の札幌から、卒業式に出席するために上京された、彼女のご両親に、『娘を落語に連れていってくださったそうで、ありがとうございました!』とお礼を言われて、なんだか気恥ずかしかったのです。感謝されるんだったら、オペラとか歌舞伎に連れていってあげればよかったのですが、寄席の木戸銭(入場料)は、学生の私でも二人分くらいは、難なく払えるほど安かったのです。

 今では、「大喜利」というのが人気で、テレビで中継されているのを、よく聞いたことがあります。日本語の面白さが、噺家の口から語りだされて、抱腹絶倒し、あとで思い出してはニヤニヤして笑ってしまうのには困ったものです。江戸でも上方でも、庶民の芸能が盛んで、そんな落語の世界の言葉で、日本語が形作られたのだとも言われています。夏目漱石は落語通だったようで、その作品にも落語が登場しますし、落語で聞いた会話がヒントとなって、小説が書かれているのです。漱石は、三代目の柳家小さんの落語を、ことのほか好んだと言われていますから、名作「吾輩は猫である」の作品は、猫に語らせる落語の手法だと言われて当然なのかも知れません。大衆文化が、こんなに隆盛を極めたというのは、逆に言いますと、上からの押し付けが厳しい時代の息抜きとして、江戸時代に庶民芸能が好まれたに違いありません。

 停滞ムードの立ち込めている今日日の日本、江戸の庶民に倣って落語でも聞いて気晴らしができたら、欝にならないで、現実を明るく見つめて、明日に希望をつないで生きることができるのではないか、そんなことを、大陸の片隅で切々と思う霜月の15日であります。そういえば、兄に付いて行って、新宿の「ガンちゃん」の家でご馳走になったことがありましたから、私は昭和の与太郎だったに違いありません。

(写真は、新宿の「末広亭」です)

生き方がハンサム


 同志社、京都の名門の私立大学です。この学校を始めたのが、上州安中藩の藩士であった新島襄で、彼の伝記を読んだことがあります。当時の文部大臣が森有礼で、彼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》だったのです。アメリカに留学してアマースト大学で学んだ新島は、その教育方針に危機感を覚えて、私立学校を建てる必要性を強く感じます。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる「自由教育」をしたのです。彼自身、函館から中国船に乗り込み、アメリカに密入国し、自由と自治の国で学んだからでしょうか。新島が、アマーストで化学を教えていたウイリアム・クラークから学びを受けたことが、札幌農学校でクラークが教頭として教えるきっかけになったのだそうです。

 新島襄には、八重という夫人があって、明治のご時世では、世間から轟々たる非難を浴びせかけられた女性だったと言われています。彼女は、白虎隊で有名な会津藩藩士の娘で、戊辰戦争の折には、男装をしスペンサー銃を手に、長州勢と戦った女傑だったそうで、「幕末のジャンヌ・ダルク」とあだ名されたと言われています。だからでしょうか、八重は、「烈婦」、「悪妻」と呼ばれてもいました。人力車に乗るときに、伝統的な武士の娘は夫をたてて、夫の後に従うべき時代の只中で、新島より先に車に乗り込むことが度々だったようです。それは、レディーファーストを身に付けていた新島の勧めもあって、男女同権を世に示そうとした行為だっだとも言われていますが。まあ、あの明治の御世では特異なご婦人であったことは確かです。

 私は、この新島の大学に入りたかったのです。この新島襄の信念に傾倒していたからではありませんでした。実は、中学の修学旅行で京都に行った私は、数日間、私たちを案内してくれたバスガイドの京都言葉に魅了されてしまったのです。男四人兄弟の中で育ち、男だけの男子校の世界で学んでいた私は、その優しい話し振りと振る舞いに、東京では感じたことのない異国情緒も相まってでしょうか、大人の彼女に恋をしたわけです。それで、『大学は京都に来る!』、中学3年の私は、そう決意してしまったのです。ところが、そんな決意をよそに、高校では運動部の練習に明け暮れていました。いざ進学と言った時に、3年前の京都での決意を思い出したわけです。それで相模湖に住んでいた、中学からの友人に、『一緒に行こう!』と誘ったのです。でも彼にも都合があったのでしょう、駒大に進んで行き、その後、彼とは疎遠になってしまいました。そんな彼との交わりが、社会に出てから再開したのですが、十数年前に病気を得て亡くなっています。

 そんな願いを持っていた私ですが、受験勉強に熱が入らなくて、同志社への入学を断念しなければならなかったのです。それで親元から通える学校を探していたときに、ある学校の入学案内を見たのです。その表紙に、楽しそうに笑っている綺麗な女子大生が、私に、『入学しませんか!』と誘ってくるのです。それを断りきれなくて、そこに入学させてもらいました。中3の夢も恋もかなわなかったのですが、結構楽しく4年を過ごしたのだと思います。勉強をした、と言うよりは、社会勉強という名のもとに、アルバイトに精を出していました。書を読んだり、議論したり、恋をしたり別れたり、心が高揚したり落胆したり、そんな数年でした。それでも、同志社ではなかったのですが、根幹のものを学ばさせてもらったと自負しているのですが。

 バンカラな大学ではなかったのですが、学ランに、弟に借りた高下駄を履いて、新宿や渋谷の街に、カラカラと繰り出したこともありました。横浜にも遠出したこともあったでしょうか。なんだか格好ばかりが先走りして、中身のない男だったのかも知れません。そんなことが許され、酔って高歌放吟のできた時代でしたが、今日日の大学生は何をして過ごしているのでしょうか。『少年老いやすく学成り難し』、まさに、瞬きの間の六十年でした。そんな老境の妻と私が、『どんな生活をしてるのだろう?』と気がかりになったのでしょうか、独身貴族の娘が、先週、やって来ました。新しく移り住んだ家の隅々まで目を向けて、足りないものを買い足し、収納を整理し、高級ホテルのレストランに連れ出してご馳走してくれました。家族っていいものですね。この娘が、なんだか新島八重に似ているように感じて、じつに面白かった中学高校時代の彼女の武勇伝を、家内と噂してしまいました。新島襄は、『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。 』と、友人への手紙に妻を評しています。生き方の面白い女性も、稀少になってしまいましたね。台風一過(!?)の日曜日の夜であります。

(写真は、福島県会津の名物「赤ベコ」です。がんばろうFUKUSHIMAKEN!)

がんばろうNIPPON!


 私の父親は、スタルヒンや沢村栄治が活躍していた頃からの巨人軍フアンでした。お酒を飲まなかった、そんな父の唯一の楽しみは、キンツバをほおばりながら、渋茶をすすって、テレビ中継で、巨人軍の試合を観ることだったのです。放送時間が終ってしまいますと、小型のラジオを取り出して、耳をつけて聞いていました。贔屓の巨人軍が勝っても負けても機嫌を損ねたりするようなフアンとは違っていたのです。たまには、こっそりと後楽園に行っていたようです。そんな、ただ巨人軍を愛していた父が、長年見聞きしてきた歴代の伝説の選手を、ときどき語ってくれました。そんな選手たちが、私たち兄弟も好きだったのです。もちろん勝つことを願っていたのですが、負けても、一生懸命に闘った巨人軍を激励していた父でしたが。

 「十六貫(60キログラム)」の恰幅の良かった父でしたが、背が低かったのです。もう少し背があったら、野球をしたかったのではないでしょうか。我々が子供時代に憧れていた大下とか小鶴とか千葉などよりも、上の世代でしたから、草創期のプロ野球選手を、少年期には夢見ていたのかも知れません。そんな父を見て育った私たち4人の男の子たちは、父が買ってきてくれたグローブで、父の手ほどきでキャッチボールを覚えました。少年期を過ごした東京の郊外に住んでいた頃は、家の前の旧甲州街道の路上で、兄たちとボールを投げ合っていたのです。和服のすそをパラッとさせながら、独特のホームで投げていた父の姿が目に浮かびます。暴投で、近所のガラスを何枚割ってしまったことでしょうか。その修理のためにガラス屋に飛んで行って、寸法どおりにガラスを切ってもらって、なけなしの小遣いで買って、はめる技術も覚たのです。そんなトレーニング(?)で肩が良かったので、ずいぶんと遠投することが出来ました。野球好き4人の中で、すぐ上の兄だけが高校で野球部に入って活躍しました。惜しくも甲子園には行くことは無かったのですが、この兄が一番野球好きで、巨人贔屓だったと思います。

 このところプロ野球が面白くなくて、人気が凋落してしまったようですね。サッカー人気に押されているというよりは、プロ野球自体の面白みが無くなってしまって、フアンを離れさせているのかも知れません。すぐ上の野球少年だった兄は、猛烈な巨人フアンでした。東京ドームができてからも、シーズン中には何度も足を運んで応援していましたが、もう最近ではテレビで見ることさえしなくなっているそうです。ジャイアンツが他球団の優秀な投手や4番打者を、契約金を積んでスカウトしてきて、チーム編成をするようになった頃から、面白みがなくなってしまったのではないでしょうか。金田、落合、廣沢、清原などです。多摩川のグランドで育てた選手ではない、出来上がった優勝請負の大選手がいても、勝てないチームに成り下がったのです。

 プロ野球が面白かった頃には、少年たちに夢があったと言えるでしょうか。夢でキラキラしている少年たちを見つめる少女たちもでした。相撲もプロレスも面白かったのです。そういった夢を心に秘めた少年たちが大人になって、夢で培ったパワーで、高度成長期の日本をあらゆる面で支えてきたのです。あの頃は政治も、政治家も、少々危険だったのですが面白かった。それに反抗し、革命を夢見た学生運動の中にも、青年なりの正義感が潜んでいたのかも知れません。テレビも映画も、内容は嘘っぽかったし、幼稚だったのですが、面白かった。見て、聞いて心を励まされたからです。

 それとは違って、停滞期から衰退期をたどってきている今の日本に、全く元気が無いのです。新幹線が走り、オリンピックが開催され、万博が開かれて、矢継ぎ早のイヴェントが行われた頃、少年たちの心は、嫌というほどに高揚させられていたのです。それも暫くのことでした。世界有数の文化的な裕福な国家にはなったのですが、頑張りの陰で、どこかに心を置き去りにしてしまったのです。

 この3月11日の東日本大震災、原発事故以来、それが急加速してしまいました。なんとなく諦めの気運が、日本の全土を覆ってしまっているように感じられてなりません。だからこそ、この時代を生きる少年たちに、夢や理想や幻を持ってほしいではありませんか。こんなに美しい風土、美しい言語、穏やかな人間性を宿している国に生まれて育ってきているのですから。決して叶えられないけど、夢で心をパンパンにふくらませている時期こそ、人を心を成長させるのではないでしょうか。『少年よ大志を抱け!』と言って日本を後にした札幌農学校のクラークは、明治の札幌農学校の一回生にだけに、そう語ったのではなく、その後の日本の少年たちの心に、《野望》や《野心》を抱いて生きるように挑戦したのだと思うのです。それが私たちの父の世代であり、私たちの世代だったのですから。この気概を子や孫の世代にも受け継がせたいものです。春から始まったスポーツシーズンが一段落した今、私の左腕には、『がんばろうNIPPON  Unite To be One !』と刻まれたアームバンドが巻かれています。〈NIPPON〉のうしろに、〈の少年たち!〉と、私の切なる思いと願いを添えたいのです。

夕日

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 2006年の夏からほぼ1年、天津のアパートで過ごしました。四方八方、山かげの見えない平原の真只中に、そのアパートがありました。7階の陽台(テラス)からは、朝日が昇り、夕陽が沈んでいく様子を眺めることができました。大陸の広大さに驚かされたのです。秋から冬にかけて、部屋の中を温める〈暖机nuanji〉に温水を配る施設の煙突からモクモクとした石炭を燃やす煙が立ち上って、とても印象的でした。日本では見られなし光景だったからです。天気のよい日には、大陸の太陽が真っ赤に空を焦がしながら沈んでいきました。日本の夕日とは、色が断然違うのです。八ヶ岳と南アルプスの山陰に沈んで行く夕日を35年余り見つめて過ごしましたが、それは淡いだいだい色や茜色でした。でも、天津のベランダから眺めたのは真紅と言ったらよいでしょうか。雄大な、まさに「大陸の夕日」なのです。いのちを宿した塊が、血潮の色を現わしながら沈んでいくのです。

 阿倍仲麻呂が、遣唐使の一員として、この地を踏んだのが、17歳だったと言われています。彼もまた、長安の都で沈み行く夕日を眺めたことでしょうか。父の寵愛を受けたジョゼフが、エジプトに行った年齢と同じです。長安もエジプトも、彼らにとっては、どのような町だったのでしょうか。仲麻呂は、外国人留学生として大学に学び、当時の国家公務員上級試験である「科挙」に合格して、玄宗の寵愛を受けています。彼は「朝衡」と言う中国名で呼ばれ、高位の役職に任じられたのです。この国が、外国人を積極的に登用することにこだわりがなかったのは、素晴らしいことだったと思えて仕方がありません。それは多民族国家なればこそ、一つの民族に拘らない人材の登用ができたからでしょうか。日本のように、単一民族(そうは言っても大陸から渡来した蒙古族や中華民族、南方からやってきたミクロネシアン、北方民族などの民族構成であったのですが)でしたら、なかなか難しいのかも知れません。仲麻呂は、50を過ぎてから、帰国が許され、懐かしい故国を目指して船出します。ところ防風雨に阻まれ、難船に遭い、その道が閉ざされてしまうのです。結局、長安の都に戻って、彼の地で、七十三年の生涯を終えております。

 一方、ジョゼフは、兄たちの憎悪の的とされ、奴隷としてエジプトに売られ、異国の地で、地を這うような生活を強いられます。しかし、天来の祝福をいただいて、逆境を跳ね返して、エジプトの地で生き抜くのです。それも誤解や誘惑の日々であって、決して平坦な道ではなかったわけです。ついにジョゼフは、パロの次の位、宰相の地位に登り詰めます。実力もあったのでしょうが、記録文書によりますと、「大いなるものが彼と共にいた」と記されてあります。当時、世界を襲った飢饉の只中で、父ジェームス一族は滅亡の危機に瀕します。ところが、未曾有の収穫の5年間に、ジョゼフはエジプトの食糧管理責任者として蓄えてあった食糧によって、世界を救うのです。そして、父の家族をも飢饉の中で救うのです。やがてやってくる飢饉の年年のために、ジョゼフを用いて、食糧を備蓄させたからでありました。その不可思議な境遇の中で、ジェームス一族は飢饉の中で救われるのです。

 故国で無難な生涯を過ごしていたら、どんな人生が仲麻呂やジョゼフにあったことでしょうか。人の一生は実に不思議なものではないでしょうか。自分の計画した通りに生きられる人は、きっと少ないのではないかと思います。私たちも、退職後、孫たちのおもりをして、日本で過ごす代わりに、一念発起して、中国大陸に渡りました。願いがありましたが、是が非ではなかった私の前に、一つ一つの扉が開いていったのです。そうこうしている間に、在華6年目を迎えるに至りました。この一ヶ月ほど、昔治療した歯が痛んで、帰国して治療しようと思いましたが、友人の友人が医科大学の歯科医をしていましたので、その方に診てもらうことにしたのです。治療を終えた晩、その歯が痛んで仕方がなく、鎮痛剤を飲んで二日ほど我慢していたのですが、耐えられなくなって、国慶節の休みの最中でしたが、診てくださった医師の友人が開業医をしていて、そこに飛んでいきました。診てもらいましたら、治療した歯の隣の歯が痛みはじめていたのです。彼女のご主人(医大の先生で開業医)が、その近くで近代的な設備の歯科医院をしていて、そこに連れていってもらって、診てもらいました。今まで日本の歯科医にかかってきましたが、こんなに丁寧に見診くださった医師はいませんでした。

 異国の地の治療台に座って、すべてをお任せできることに、国境の隔たりや過去の遺恨が取り去られているのを感じたのです。外国人への特別な配慮や厚意に、ただただ感謝で一杯でした。仲麻呂もジョセフも、外国人として、異国の地で、そんな私のような経験を、きっとしたのではないでしょうか。

(写真は、海岸線の綺麗な、「霞浦」の夕日です)

裸の私

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 ずいぶん昔、「裸の王様」の話を、自分で読んだか、誰かに読み聞かせしていただいたことがありました。『見えない者は愚か者なのです!』という仕立て屋の言葉にだまされる王様が主人公です。特別な人にしか見えないという豪華な布で、仕立て屋は特別仕立ての素晴らしい服を縫い上げるのです。その洋服を王様に献上します。それを喜んだ王様は得意満面で着てしまいます。そして国民が見守る中を、王様は誇らしく城下の街を闊歩するのです。家来も国民も、『なんと素晴らしくお似合いでしょうか!』とほめるのです。ところが無垢な一人の子どもが、豪華な服を着ていると思い込んでいる王様に向かって、『王様は裸です!』と言いました。その一言によって、王様の裸の現実・事実を、王様も国民も認めるのです。『変だ!』とは思っていましたが、「愚か者」になりたくなかったので、言はれるままに王の面子を保つためでしょうか、着てしまったら、脱げなかったわけです。

 人はだれでも、「愚か者」と思われたくないのです。ですから、おかしいのが分かっていても、人の目や言葉を気にするあまり、この王様のような行動を取ってしまう傾向があります。人の目を気にするのですが、その奇異な行動がもっと人の目をひきつけてしまって、大恥をかいてしまうことになります。この王様のことを考えていて、思わされるのは、『王様は裸です。だまされているのです!』と、はっきりと指摘し忠告してくれる妻や子どもや家来や国民や友人を持っていなかったことが、彼の一番の不幸なのです。何時でしたか、ある自動車会社の欠陥車が死亡事故を起こしたニュースで賑やかなことがありました。その欠陥を告発したのが内部者だったと伝えられています。『黙っていればいいのに!』と思われるでしょうか。会社やユーザーや家族を愛するがゆえに、言わざるを得なかった、その社員の苦渋の選択と決断と勇気をほめたいのです。凶器にも変わる自動車を作り、売る者が持っている当然の社会的責任を果たしたわけです。しかし、そうさせない組織のしがらみや重圧があり、嫌われたくない誘惑だってあったことでしょう。でも、それ以上の事故や事故死を出さないために、また企業で働く者と家族の生活のこと、さらには傘下にある関連企業の存続への配慮などを考えますと、内部告発されたことは最善だったのです。

 ある書物に、デーヴィッド王とサウル王の物語があります。この話には考えさせられることが多いのです。サウル王は聞く耳を持たないばかりか、言おうとする者の口を封じ、言えない環境作りをして来ていたのです。ところがデーヴィッド王には、罪や過ちや欠点を指摘してくれる部下や友人がありました。彼自身が、権威を横暴に振り回さないリーダーだったので、《メンター(教育的な配慮を持った助言者)》を持つ余地が心のうちにあったのです。サウル王は、自らの欠陥のゆえに滅び、デーヴィッド王は、それを克服して王の職務も生涯も全うしたのです。アンゼルセンの作った寓話は、様々に解釈されるのでしょうけど、自分で気付かないか、勇気が無くて間違った選び取りをしている私にも、実に教訓的なのです。

 久しぶりに家に帰ってきた娘が、『お父さん、さゆりちゃんに、あんなこと言っていの?ちょっと厳しすぎるよ!』と言われたことがありました。知人のさゆりさんと私の会話を聞いていて、後になって二人になったときに、娘が、そう言ったのです。それほどきついことを言った覚えはなかったのですが、男ばかり4人兄弟の家庭で育った私には、そういった〈人を傷つけない言い方〉への配慮が欠けていたのかも知れません。娘たちは、私の話ぶりで、多分傷ついて育ってきていたのでしょうか。人の気持を察する優しさが育っていたのです。これは私にとって少々難しい学びでしたが、『言葉に気をつけなかれば!』 と思うようになって、まさに、〈負うた子に教えられ〉の経験をしたのです。親の面子は立たないので、『子どものくせに黙ってろ!』と言いたい気持ちもなくはなかったのですが、親の欠陥を黙っていられなくて、言ってくれた娘の気持ちが分かって、かえって感謝を覚えたことでした。そういった義を学んで育った娘の成長ぶりに、これまで何度となく助けられてきたか知れません。

 『雅仁、あなたは、まだまだ裸ですよ!』と、事実を言ってくれる家族や友人が必要な、足りなさに気付かされる秋風の日曜日であります。溜息をつく代わりに、感謝を覚えたいものです。

(写真は、母馬におんぶされる子馬です)

揚げ足を取る

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  「揚げ足を取る」を、広辞苑でみますと、『相手が蹴ろうとしてあげた足を取って逆に相手を倒す意から、相手の言いそこないや言葉じりにつけこんでなじったり、皮肉を言ったりする。 』とあります。相撲の技の手の一つですが、豪快な上手投げとか呼び戻しなどに比べると、小技と言えるでしょうか。相撲の勝負にしろ、人間関係にしろ、姑息(こそく)なことだと言えるでしょうか。

 麻生太郎元首相が、国語力の弱さを糾弾されていたことがあります。学習院大学を出て、スタンフォード大学に留学した学歴を持っていても、語彙力が足りなくて、マスコミから何度となく槍玉に上げられていました。非難する新聞記者は、言葉に仕え、言葉で生きている業界人ですから、語彙力が豊富であって当然ですが、それを威の傘に、間違いを糾弾するとは、実に姑息で、卑怯な方便だといえます。かたや首相たる麻生太郎は、国政を預かる身です。漢字を読み違えたり、語り違えても、国事に当たる能力に関係があるのでしょうか。それだったら、国語学者が政治家にならなければなりません。

 NHKのベテランアナウンサーでも、時には間違いをすることもありますし、いわんや新人アナウンサーでしたら、ちょくちょくあるようです。この私も、覚え間違い、書き順間違いの漢字が沢山あります。何時でしたか、「にいがた」という字を間違えて書いていました。『広田さん、にいがたの「かた」の字が違うと思うのですが?』と指摘されたのです。彼女は、私を陥れようとしたのではありません。間違いを訂正してくれたのです。その時から、「新潟」の「潟」の字を正しく書けるようになったのです。小学校の時に、きっと病欠で休んでいて覚えなかったのでしょうか。40を超え、次男が新潟の高校に入学した頃のことだったと思います。彼が新潟に行かなかったら、覚えないまま今日にいたっていたのだろうと思います。語彙力と人格、語彙力と行政能力と、ほんとうに相関関係があるのでしょうか。

 一国のリーダーを揶揄し、侮辱し、すなわち、「揚げ足取り」をしていることは悲しいことではないでしょうか。子どもたちに、『日本の国のリーダーは馬鹿なんだ!』と教えていることになります。そのようなことですから、日本の国を愛し、国を思う思いが、この時代の子どもたちのうちに育たないのではないでしょうか。ある国で、女性が、姦淫の現場で捕まえられました。その罪は「石打ち刑」だったのです。ひと騒動起こったとき、ある人が、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。すると彼女を取り巻いていた人のうち、年長の者からはじめて、一人一人その現場を去っていくのです。人を糾弾し、避難できる人は、間違いを犯したことのない者だけだというのが、この物語の伝える1つの原則です。だれが麻生元首相を非難できるのでしょうか。できるのは金田一京助か白川静ならできそうですが、お二人とも物故者です。

 先日も、ある閣僚が、〈問題発言〉をしたと言って、マスコミが騒いでいました。この方の友人が東日本大震災の津浪で亡くなったです。その彼を、『逃げなかったバカな奴!』と言った言葉がマナ板の上にのせられたのです。私は、この言葉を聞いたときに、〈反語〉だと思ったのです。『あいつは馬鹿だよ、逃げていれば助かったのに。逃げないで余計なことをしたからだ。惜しい友を失った。残念!』という風に聞こえたのですが。正しいのかどうか分かりませんが、私は善意で聞くことができたのです。閣僚のポストは、そんな一言で失うほど軽いものなのでしょうか。支持しようが支持しまいが、一国の閣僚の任に当たっている方への〈敬意〉が全く感じられないのです。もちろん、私は以前の首相のあり方に賛同できませんで、批判をしましたが。それは、国を憂えたからであります。揚げ足をとったのではないと確信しています。

 〈言葉の暴力〉、この時代のマスコミがしていることではないでしょうか。私たちの国の首相の在位期間が非常に短く、めまぐるしく政権が交代する裏に、マスコミの関与が強力にあるように感じてなりません。どうして、国民の総意として選ばれた人材を育てていこう、支えていこうとしないのでしょうか。私は前の首相は好きではなりませんでしたが、選ばれたからには支えていこうと決心しました。しかし、器ではなかったことは、誰もが認めざるをえない露呈された自明の事実だったからです。

 昔、小兵(こひょう)の鳴門海とか若葉山が、高位の巨漢の横綱や大関の足をとって、勝った相撲がありました。あれは小気味の良い足取りでしたから、賞賛に値しますが、言葉尻を取り上げての姑息な〈揚げ足取り〉は大っきらいです。マスコミの猛省を促す!

(写真は、江戸期の大相撲の錦絵です)