くノ一

 

 「くノ一」というのは、漢字の「女」の筆順であって、別に「女忍者」のことを言ってるわけではないようです。少々恥ずかしい話なのですが、私は、「筆順」を学んでないのです。「女」は、「一くノ」と、横線の「一」をまず初めに書いて、「く」、そして「ノ」と書いてしまいます。また「進」は、初めに「」を書いて、次に「旁(つくり)」を書いてしまうのです。「遊」も「迎」も「邂逅」 だって、「辶」が先になってしまうのです同。もう小学校の頃から、かたくなにずーっと、筆順はそうと思い込んでいるのです。とくに、「女」の筆順は、最近、自分が間違って覚えていると気付いたのです。

 しっかり小学校の国語の時間に、学ばれたみなさんには、そういった基本的な間違いはなさらないのだと思いますが、われながら、ちょっとあきれ返ってしまいます。家人に言ったら、『もう、覚えたとおり確信をもって書いていたらいいわよ!』と言われてしまいました。実は、授業で板書しなければならなのですが、最近はまったく自信が無くなってしまって、チョークを持つ手が震えてしまうほど(!?)です。注意しながらですが、最近は、教科書通りに「くノ一」、「遊ぶ」も「旁」を書いてから「偏」を書くようになりましたが、実にぎこちなく、書き直してしまったりするのです。

 『なぜだろう!』と考えて思いついたのは、自分が生半可に鵜呑みをしてしまう、「オッチョコチョイ」であって、注意深く、先生の手の動きを凝視して習得することがなかったのだと気付いたのです。今頃気づいても、どうすることができなく、まさに、年取った犬に芸を教え込むのと同じで、至極困難だと思うのです。実は、もう一つ理由に思い当たるのです。小学校入学前に、肺炎を患って、町の国立病院に入院し、入学式どころか、一学期の間は、学校に行った記憶が、ほとんど無いのです。父が東京のデパートに特注して揃えてもらった学生服、帽子、編上げの靴、ランドセル、下履き入れを身につけて記念写真をとってもらったのは、退院してからでした。その時、死線をさまよった私は、3年生までは、風邪をひいては肺炎になり、『今度肺炎を起こしたら、覚悟してください!』と主治医に母が言われたほどで、病欠児童でした。休んでいたことのほうがはるかに多い小学生でしたから、授業で、「筆順」を学ばなかったのです。自分流で、筆順を決めて書き始めてから、直されずじまいで、今日を迎えた、そういう顛末であります。

 長野の「長」ですが、先日、「筆順サイト」を見て分かったのですが、初めに「l」を書いて、「一」を一本一本下に向かって書いていくのですが、私は、まず「一」を書いて、つぎに「l」を書き、「一」、「一」、そして、長い「一」を書いてしまうのです。病気で失った小学校の年月というのは、こう言った結果をもたらすのだと、言い訳と自己弁護をしております。「女」だって、さいしょに「一」を欠いたほうが、字が安定していいと思いますし、左から右に向かっての横書きの場合、「」を先に書いたほうが、字に安定感があると思うのですが、それは私だけの見解でしょうか。「字統」「字訓」「字通」という国宝級の辞書を編集された白川静博士が、もし生きていたら、一言文句を言いたいなと思ったりしていますし、文部省にも提言したい気分の日本の学年末の時期であります。中国文字の「汉字hanzi」と日本の「漢字」と違うのではないかと思って、調べたのですが、やはり、両国字とも筆順が違う文字が多いのです。ある本には、『筆順には複数あり、それはあって不思議なことでありません!』とありましたので、家人の言うように、確信を持って書くことにしようと、決心しました。

(この字は、「 中国汉字中笔画最多的文字」です)

切望

 昨年の3月11日に、大地震が、この日本列島を揺り動かし、だれも想像しえなかった大津波が、東北太平洋沿岸を突然に襲い、実に甚大な被害をもたらせました。亡くなられた方々、行方がまだ判らないでおられる多くの方々のことを思って、心が震えてまいります。またご遺族のみなさまのお気持ちを考えますと、どう気持ちを言い表してよいのか、見当が尽きません。ただ、衷心から同情とお慰めを申し上げます。この辛い経験を超えて、亡くなられたみなさまとの懐かしい思い出をもって、美しい郷土が、もとの「たたずまい」を取り戻し、その地で連綿と続けられてきた営みが、また引き続けられていかれますよう、切に願っております。

 震災をまぬがれた私たちは、犠牲になられた方々のことを忘れず、また、人の力では抗しがたい自然の力の前に、驕りを捨てて謙虚になるべき時なのかも知れません。人間の飽くことのない欲望が、自然界の均衡を崩してきたことを顧みて、その摂理を侵さない努力も必要かと思われます。災害の死をまぬがれた私たちには、なにか、重大な使命が託されているように感じてなりません。

 ドイツでは、この日本の大震災を「教訓」にして、2020年の「脱原発」を、政府決定したと聞きました。私は、日本経済を支えていくために、『工場の稼働を、是が非でも続けなければならない。そのためには、どうしても原発は必要!』と考えていましたが、もう1つの重大な問題を見落としていたのに気付かされたのです。 

 「原子力発電所」で、使い終わった燃料ウランの処理問題です。これは、再利用できませんし、処理することもできない、これが現状です。「ゴミ」として、人里離れた「格納庫」に貯蔵する以外ないのです。人類が滅亡しない限り、地球の何処かに、置かれているだけで、その量が増せば増すほど、その危険度は増し続けていくことになります。電気の恩恵をうけて、快適な生活を営んでいる今の私たちは、プラスの面を享受しています。しかし、マイナスの面は、私たちの子や孫の世代に先送りしていることになります。

 先進工業国の電気消費量も、年々増えていきますし、今や後進国と呼ばれていたアフリカやアジア諸国の工業化が進み、先進国の生活水準に近づいてきております。本来、空調設備を、最も必要とするのは、赤道直下の諸国でしたのに、経済力が乏しかっために、その恩恵に浴すことが、長くありませんでした。しかし、今や経済力を高め、欧米並みの生活をし始めている、これらの国々では、おびただしいほどの電力生産が必要とされています。これが世界の今であり、将来であります。

 私たちの父母や祖父母、先人たちは、私たちの幸福を切々と願って、貧しさや不自由の中を辛抱し、明日の光明を信じて励んでくれました。それによって、様々なよきことを受け継がせてくれたのであります。こんな素晴らしい国を形作る「特権」に預かっているのは、私たちの世代の業績ではありません。その役をになわされただけであります。今度は、次の時代の幸せを、私たちが願わなければなりません。多くの「つけ」を、孫子の世代に残してはいけません。多くの教訓、金言、そして「美しい日本」を、さらに、この掛け替えのない「地球」を、造物主と先人から受けたのですから、孫子の世代に残してあげなければと切望しております。

(写真上は、鈴木康夫氏の撮影された「霞ヶ浦の自然~夕日~」、下は、「鉄道情景への旅」から岩手県・岩泉線の駅舎の雨上がりの美しい光景です)

 私が以前、住んでいました街に、国立大学があって、その工学部の大学院に、中国の青海省の省都・西寧から留学生が来られていました。わが家に食事にお招きしたりして、親しく交わりを持っていました。お父様は、青海省の政府の要人だそうでした。そういったことをおくびにも出さないで、スーパーマーケットでアルバイトをしながら、博士号をとられたのです。家から送られてきた、本場の「月餅」を頂いたりしました。当時、『中国に行かれませんか。父に話しますから、西寧の大学で日本語を教えてくださいませんか!』と頼まれたことがありました。仕事の責任があって、その時は、せっかくのご好意でしたが、お断りしなければなりませんでした。彼女は今、北京の国の政府の要職にあって、世界を跳び回っておられるご婦人です。

 彼女の招きによってではなく、6年前に中国にやって来ました。住所録に記してあった彼女の連絡先に電話を入れましたら、『そうでしたら北京に来られませんか。我が家から奥様と一緒に学校に通われたほうがいいでしょうから!』と、また誘ってくれたのです。そのときには、こちらの学校で教える責任があって、それも断わらざるを得なかったのです。

 この方のことを思い出したのは、今日が3月10日だからです。昭和20年(1945年)の終戦の年のこの日、東京大空襲が、最も激しかった日だそうです。「帝都東京」は壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出し、美しかった街が焼土と化したのです。我が家は、中部地方の山の中にありましたので、空襲にあうことはありませんでした。それでも父は、仕事の関係で、東京を往復をしていましたので、空襲下に晒されることもあったようです。ですから、東京都民は、『この日を忘れないようにしよう!』『戦争の怖さを語り継ごう!』と声を上げ続けています。

 

 さて、この方が留学されている間に、何度か旅行をされたそうです。広島にも、興味津々で行かれました。そして、昭和20年8月6日の原爆投下の被害を、後世に語り継ぐために建設された、「原爆記念館」を見学したのだそうです。彼女は、この広島で、特別な思いがあったようです。私に、その見学体験の感想を話してくれたのです。『日本は、〈被害者〉として、原爆の記念館を建設して、その被害を忘れないようにしていますが、それは片手落ちです。あの戦争では、日本は〈加害者〉でもありました。ぜひ、広島の記念館の隣に、「戦争加害の記念館」を建てて、加害者であったことも忘れないで頂きたいと思いました!』と、少々激して言われたのです。それを聞いて、中国のみなさんの本心を話してくれたのだと思いました。だれにでも話されなかったのですが、私には心を許して、そう語ってくれたわけです。

 日本の学問水準の高さを認めて、アメリカ留学の機会を、選べたのですが、日本の大学院で学ぼうと決心してやって来た彼女でしたが、思いの深いところには、お父様やお母様、おじい様やおばあ様の世代に被った、辛い体験を聞いてこられたのが分ったのです。こう言った思いがありますから、一国の政治の指導者の靖国参拝は、容認できないのでしょうか。 

 この彼女の広島旅行の話しを聞いて、中一の私たちに、「奥の細道」を教えてくれた高校の教師の話を思い出すのです。中国戦線の前線で戦った、この方の〈武勇伝?〉は、12歳の私には衝撃でした。どうしてそんな酷い体験談を話したのか、今でも解せないのです。この大陸で、人道に反した蛮行を繰り返したことの、それは独白であります。

 私たちは、『戦争だったから仕方がない!』とか、『過去のことだから!』と言い訳をするのではなく、真摯に、父や祖父の時代の「血の責任」を、考えるべきだと思っております。そのような思いで、こちらで生活をしていますと、『過去のことであって、先生には、責任がないのですから、いいのです!』と、学生のみなさんが言ってくれます。そうですね、償いをしようとしても、私のような者にできることではありません。ただ、一人の日本人として誠実に、みなさんの間で生きる以外なさそうですね。まだ卵をぶつけられたことなど一度もない私たちですが、後どれだけ、こちらにいられるでしょうか。

(写真は、大空襲後の東京の街の様子です)

はやく来い!

 『もう、そちらは暖かくなってきたことと思いますが・・・』という便りを、先週受け取りました。ところが、ここ華南の街で、この季節、ほとんどの人が、まだ冬用の厚手の「大衣(dayi)」、コートを身に着けて街中を歩いています。『いつものこの時期と、ちょっと違うよね!』と言っていたら、『こんなことないんですよ、やっぱり異常です!』と、こちらの方が、言っておられるのです。ニュースによると、アメリカも異常気象だそうですし、日本でも例年になく大雪が降ったりで、寒波の襲来も度々あったようです。帰国中は東京にいましたし、屋内にばかりいたような気がしていますので、日本海側の様子は間接的にしか分かりませんでしたが。やはり『おかしい!』と思うのです、気候がです。

 太陽が雲隠れしてるのでしょうか、日照時間を合計しても、ほんのわずかだと思われます。そのかわり、曇天で、ときどき小雨が降る日が続き、ある晩は雷鳴が轟き、豪雨もありました。台所側のベランダから、となりのアパートが見えるのですが、満艦飾の洗濯物がベランダに干されてあって、『乾かないなあ!』という、洗濯物たちの声が聞こえてくるようです。わが家も同様ですが。

 今朝、なんとなく外が明るく感じたので、カーテンを開けましたら、その明るさは、私の願いだったようで、矢張、いつものような曇天でした。公園の樹木は、雨の多いのを喜び、「辛夷(こぶし)の花」も咲き始めているのですが。まだまだ、シベリヤの奥から吹いてくる風は、冷たく感じるのです。2003年だったでしょうか、『いい歌だなあ!』と思って、森山直太朗 が歌った、「さくら(作詞作曲も直太朗)」を聴きました。

   僕らはきっと待ってる  君とまた会える日々を
   さくら並木の道の上で  手を振り叫ぶよ
   どんなに苦しい時も  君は笑っているから
   挫けそうになりかけても  頑張れる気がしたよ
   霞みゆく景色の中に  あの日の唄が聴こえる
   さくら さくら 今、咲き誇る  刹那に散りゆく運命と知って
   さらば友よ 旅立ちの刻  変わらないその想いを 今

   今なら言えるだろうか  偽りのない言葉
   輝ける君の未来を願う  本当の言葉
   移りゆく街はまるで  僕らを急かすように
   さくら さくら ただ舞い落ちる  いつか生まれ変わる瞬間を信じ
   泣くな友よ 今惜別の時  飾らないあの笑顔で さあ

   さくら さくら いざ舞い上がれ  永遠にさんざめく光を浴びて
   さらば友よ またこの場所で会おう  さくら舞い散る道の
   さくら舞い散る道の上で

 さすが、お母さん子で、歌唱の表現力も上手だと思いました。学び舎を後に、巣立っていく若者たちへの「激励歌」で、「平成の名曲」です。何よりも、こちらの公共バスの中で、この曲が流れてきたときは、ほんとうに嬉しかったのです。桜の木は、こちらではほとんど見かけないのですが、かつて観た桜の満開の風景を彷彿とさせてくれたのです。記憶に残る映像が、こんなに鮮明だということを知って、目の前で、桜が〈パッ!〉と咲いたように感じたのです。

 これって、今の心境です。『早く、暖かな春がやってきてほしい!』と願ってやまないのです。去年の板橋・小豆沢公園の満開の桜は、実にみごとでした。家人の術後に診察に行った日に、アイスクリームを食べながら、桜を見ましたが、やはり、『はやく来い!』の今です。

(写真は、2011年の春、板橋/小豆沢公園の「満開の桜」です)

週末

 

 週末の土曜日だったのですが、昨年末に開店した、近くの商業施設(モール)に出かけて、マクドナルドの店の奥の椅子に陣取って、仕事を始めました。作文の添削作業です。こちらでは、「麦当劳(マイダンラオ)」と漢字で書きます。日本ではカタカナを外来語表記に使うのですが、こちらではアルファベットも使わないで、欧米語を漢字表記するのです。時々、類推できない表記に戸惑うのですが、後になって、『アッ、そうだったのか!』と思うことがよくあります。昼頃になって、客の出入りが激しくなってきて、長居しているのを気兼ねして、1時過ぎに出てしまいました。土曜日だという意識がなく入店したので、客の出入りの多さに、改めて週末を感じたのです。

 前も横の席も、入れ替わり立ち替わり、親子連れ、とくに、仕事の休みのお父さんと学校や幼稚園の休みの子どもさんのカップルが目立ちました。実に美味しく食べているのを見て、微笑ましく思い、我が家の4人の息子たちと、こんなふうにラーメン屋などの行ったことを思い出していました。日本のように、まだ遊び場所の多くないこちらでは、新規開店のモールは絶好の親子の交わりの場なのでしょうか。このモールですが、ホノルルのアラモアナショッピングセンターにひけを取らないほどの、実に超大型のモールで、アメリカのジーンズのメーカーが、数店入っていますし、さながらシンガポールか香港、ホノルルのような趣きがあります。こちらから向うの端を見て、霞んで見えるほどの距離がありそうです。飲食店階には、日本の回転寿司と和食の料理店が入っており、一階には、「無印良品」の店もある、驚くほどの物量と客数のモールです。

 マクドナルドですが、私の恩師のアメリカ人が、ここが大好きでした。私たちが共に過ごした町の中心に、県内一の百貨店があって、その南の角に、このマクドナルドが、県内の第一号店として開店していました。用があって街中に出て行ったときに、私は2回ほど、家内も数回、この恩師が、一人でテーブルに着いて、このハンバーグを食べているのを見かけたことがあったのです。これはアメリカの文化であり、味であり、嗜好なのですから、彼としては、懐かしく、また当然のようにほおばっていたのでしょう。日本人の奥さんの手料理も好きだったのでしょうが、この味は、子どもの頃に覚えた「祖国の味」なのでしょうね。そういった一面を見て、人間として彼に安心を覚えたのを、昨日のことのように思い出されます。

 異国の地、京都で病んで、入転院を繰り返して、最後の入院先の東京の病院で召され、師は日本の土となられたのです。65歳の生涯でした。彼もまた、眼の涼しい人で、日本語の流暢な方でした。何冊もの本をアメリカと日本で書き、出版されました。内村鑑三が、名著「後世への最大遺物」で、人の生涯で、後世に残すものがあるとして、次の4つを上げています。1つは「金」、2つは「事業」、3つは「思想」、そして「勇ましい高尚なる生涯」です。「書」とは「思想」になるのでしょうか。手元に師の本があります。彼自身は、この地上にありませんが、「書」の中に、彼の価値観、人間観、人生観などが書き残されていますから、内村の言葉を借りますと、それこそ「後世への最大遺物」と言えるに違いありません。彼の一番弟子を自認する私も、「書」を残すことができるのでしょうか。読んだ「書」の中にある、知識のや思想の切れ切れを、あの本、この本から切り取ってつなぎ合わせる作業はできそうですが、終始一貫した「思想」は、なかなか残せるものではなさそうです。そうかと言って、「勇ましい高尚なる生涯」など、おこがましくて全く無理です。それならば、かろうじて、「正直に生きる」ことだけはしてみようと考えるのみです。

 マクドナルドの奥の席で、仕事をしながら、こんなことを思っていた、三月最初の週末であります。次には家内を伴って来るときには、三階の「回転寿司」に入って、その席に座し、我が祖国の味に舌鼓を打ちながら、思いにふけることにしましょう。

(写真は、帰国中度々買ってきてくれた代官山「SASA」のハンバーガーです)

師と詩

 

 

 今年頂いた、挨拶状の中に、「ブラウニングの詩」が記されているカードが挟まれてありました。このロバート・ブラウニング18121889年)は、イギリスの詩人で、教育を受ける機会が少なかったにもかかわらず、彼の作った詩は、今でも多くの人の魂を揺り動かしてやまないものがあります。私たちは、中学か高校の国語の教科書(「時は春、日は朝・・」の一節だったでしょうか)に、彼の詩が載っていて、それを学んだのです。挨拶状の詩は、次のようなものでした(英語の原文が印刷されていました)。

Grow old along with me

the best is yet to be

the last of life for which the first was made”

我とともに老いてゆけ!
最良のときはいまだ来たらず。
人生の終わりのために、人生の始まりは作られた。  

     

 この詩をカードに記されたのは、私に「社会思想史」という講座で教えてくださった恩師なのです。 それは、私の在米の先輩へのカードでしたが、恩師を共有する私に、師の消息を知らせてくださるために、添えてくれたのです。学校で一番大きな教室を満杯にするほどの人気講義をされており、私たちが学んだのは、師が三十代だったのではないでしょうか。『こんな澄んだ、きれいな目をしている大人っているんだ!』と感心させられたのです。師は、『みなさん、詩心をもって、これからを生きていってください!』と、最後の講義で話されたのです。今思い返しますと、師の愛唱の詩が、ブラウニングだったのでしょうか。写真に写った80代半ばになられた師の目は澄み、表情は穏やか、その心もまた、ブラウニングに感動させられていらっしゃいます。それよりも何よりも、ブラウニングの詩を心の中に宿しながら、詩心を生きておられるということになります。

 私は、学んだブラウニングを全く忘れてしまっていましたが、家人は、いまだに口ずさむことができるのには驚かされてしまいました。彼女の教師は、『素晴らしい詩ですから、暗記しなさい!』と勧めたそうで、それを守ったからなのです。

 実は、『詩人たれ!』と師が言われた言葉が、この挨拶カードで、やっと理解できたのです。なんと46年ぶりに修得できたことになります。この師から、このひと言を託されたからこそ、私は、受け、授けることのできた教育に、大きな感謝を持っております。幸いなことに、再び教壇、しかも異国の教壇に立たせていただいているのです。こんな素晴らしい機会(とき)はありません。白髪三千丈、昔のことばかりが思い出される今こそが、「最良のとき」とブラウニングが言っているのですから、師に啓発されて、もう一度ブラウニングを読み直したい気持ちにされております。

(写真は、ロバート・ブラウニングの肖像画です)

有徳

 

 今朝は、所用で、師範大学の旧キャンパスにでかけて来ました。予報は『小雨』ですから、『濡れていこう!』の春雨でしたが、やはりこの時期は濡れると寒く感じますので、小型の傘を携行しました。泣きそうな重い雲が立ち込めていたのですが、案の定、帰りがけには降り始めて、傘のおかげで濡れずに、昼過ぎに帰宅することができました。

 近くに全国展開をして、急成長の「ショッピングモール」が、昨年末に開店したからでしょうか、バスの便がとても便利になってきたのです。いままでは乗り換えをしなければならなかった、師大の旧キャンパスにも、私が教えている学校にも一本で行くことができるようになったのです。もちろん、街中に行くのにも、動物園や博物館や森林公園に行くのにも、直通のバスがありますし、空港への「リムジンバス」の発着する市内のホテルにも、至便の距離にあるのです。ちょっと郊外型の住まいは、かえって中心街よりも便利になってきているのは、日本ばかりではなく、こちらの地方都市でも同じになってきています。

 今までは、バスの中には、FMのラジオ放送が流れていて、たまに日本の歌が聞けて、『オヤッ!』と思う楽しみがあったのですが、最近では、その楽しみを奪われてしまい、バスの中でテレビが見えるようになっております。運転席の後ろと降車口の2箇所に、テレビが設置されているのです。サーヴィスがすごく良くなってきて、心なしか運転もラフではなくなってきているのは、嬉しいことです。このバスのテレビですが、帰りのバスで、日本のテレビ放送の合間に、「公共広告機構」が、募金や社会活動の案内などを放映し、広報や訴えをしているのですが、これと同じような内容のスポット映像が映し出されていました。

 それは、大雨が降っている中、交差点の赤信号で大勢の人が、「青」になるのを待っています。道路に目をやりますと、枯れ葉が側溝の水落の格子をふさいで、みるみるうちに道路が水で溢れ始めているのです。そこに一人の青年が飛び出して、しゃがみこんで枯葉を取り除くのです。すると溜まっていた水が、『スーッ!』と引いていき、みなさんが靴を濡らさずに歩道を渡れるようにしたのです。拍手が上がったでしょうか、この青年はずぶ濡れになりながら、満足そうな表情を見せている、そういったものでした。「公徳心」を褒めるというのでしょうか、みなさんに、『同じように!』と訴えるのでしょうか、中国のみなさんが、かねてから大事にしてきた「有徳」の行為でした。

 中国と中国のみなさんが大好きなのですが、時には、『嫌だなあ!』と思うことが、正直に言いまして少々ありました。ところが、そういった思いを、最近ではしなくなってきているのです。国が経済的に財政的に豊かないなるに連れ、人の心も、以前にもまして温かくなっているのを感じるのです。素晴らしいことであります。以前住んでいまた、学校の寮の近くに、『美味しい麺を食べさせてくれる店があるんですよ!』と、師大で日本語を教えていた、私と同じ学校の卒業生の先生が、食べ物情報を提供してくれた店(今は店主が変わっている)があるのですが、寄り道をして、そこで、ちょっと早めの昼食をしました。どこで食べるよりも、肉も野菜も小さな牡蠣もあさりも、多く入っていて、〈この街一番の味〉だと認めている麺で満腹になって、スカッとさせられた映像を見ましたので、私も満ち足りて過ごしている月曜日であります。

(写真は、こちらの住民が生活水のために汲み上げた「井戸」です)

いのちの重さ

 

 韓国語で、トゲウオ(棘魚)のことを、「カシコギ」と言うのだそうです。この魚のオスには、独特な習性があって、それを題材に、韓国で小説が書かれました。もちろん題は、「カシコギ」で、韓国ではベストセラーを記録したそうです。その反響の大きさを知って、関西テレビが、この小説が映画化されたものを、日本版に「リ・メイク」しています。そ題名は、「グッドライフ」で、その番組のサイトに、次のようなイントロダクションがありました。

父親と子供の距離は永遠の探り合い。その伝わらない“もどかしさ”、“切なさ”こそが父と子の物語そのものだと言えるだろう。父性とは、自然に備わるものではなく、子供のために奮闘することで獲得するしかないものだとしたら、父親という生き物は、何と不器用で、哀しく、愛おしい存在ではないだろうか? 子供と一緒に過ごせる時間に限りがあると知った時、 父親は子供に何をしてあげられるか?2000年、韓国で200万人が涙し、“カシコギ・シンドローム”を巻き起こした 話題の韓流ベストセラーが原作の感動のヒューマンドラマ。 息子から自分に向けられた愛に気づいた父親が、白血病と闘う息子を献身的に看病する、 親子の哀しい運命を描く、無償の愛の物語

 多くの小説がテレビ化、映画化、舞台演劇化されていますが、「母子物」がほとんどで、このように「父子」の関係を取り上げるのは珍しいのではないでしょうか。1週間に一日、私は「脱力日」をもうけて、珈琲を飲みに出かけたり、PCで日本の映画やTVドラマを配信しています、こちらのサイトで観たりします。昨日は、この「グッドライフ」と偶然に出合って、つい10本全編を観てしまいました。いやー、とても良かったと思います。親子、夫婦、家庭、それぞれの在り方に、一石を投じていて、子育てを終えた私ですが、足りなかったことを教えられたりで、メモまでしてしまいました。

 これを観ていましたら、次男が、小学校5~6年の間に、帝京大学病院に6回ほど入退院を繰り返し、手術をしたことがあったのを思い出してしまいました。小児病棟にいて、同じ時期に、白血病の「だいちゃん(?)」がいて、同室でしたし、一緒にプレールームで遊んでいたのを覚えています。病気治療のために、学校を休んで入院しているといった、同病者にしか分からない、同じ境遇の子どもたちの「連帯感」の強さや「友情」の輝きを見せてもらったのが、とても懐かしいのです。テレビの主人公の羽雲(わく)と同じように、次男の病友が、キモセラピーの治療後に、嘔吐していたのを、見舞ったときに見てしまったことがありました。あの「だいちゃん」を、ときどき思い出しては、『どうなったんだろう?』と思っています。羽雲の同室の病友は、「たいちゃん」でしたが、彼との死別体験もありましたから。あれから20年以上も経ちます。

 この「トゲウオ」というのは、淡水魚で、オスは、メスが産み捨てた稚魚を必死に育て、子が成長していくと自らは死んでいくのだそうです。この不思議な習性のように、白血病に冒された主人公の羽雲を、父親として守り励ましていくのです。自分の父親が自殺をしてしまうといった辛い過去を持ち、それをはねのけるように、彼自身も、「敏腕ブン屋」の仕事人間だったのです。そういった背景ですから、人間関係の構築のできない彼は、妻と離婚してしまい、部下を自殺未遂にまで追い込むほどの上司だったのです。羽雲を男手ひとつで育てていく中で、父の役割、父性を呼び覚まされていくのです。そんな中で彼自身が、「肺癌」に冒され、余命半年の宣告を受けます。この病を息子にも元の妻にも語らないまま、過ごしていくうちに、多くの人間関係も回復させていくのです。一番の回復は、彼自身が自分、自分の過去と面と向かって、その関係を回復していく課程が描かれているように感じたのです。

 ちょうど「死生観」について講義をしようと調べ物をしていましたので、このタイミングに驚いてしまいました。こういった健全なテレビ番組を、もっと多くの人に観ていただきたいと思いました。それよりも何よりも、私自身が、自分の「いのち」、「病」、「死」について、しっかり見つめ直してみようと思わされたのは、素晴らしい機会でした。『あなたの余命は半年です!』と言われないとも限りませんから、しっかり面と向かって、来し方に思いを向け、将来にも思いを振り分け、「いのちの重さ」を再認識させられている小雨の週末であります。

(写真上は「グッドライフ」の父・澤本大地を演じた反町隆史と息子・羽雲を演じた加部亜門〉の一場面、下は、トゲウオの一種です)

椿

 

 昨年の夏から住んでいるアパートの中庭に、実にきれいな「椿」の花が咲いています。戻ってきた私を歓迎するかのように、咲いていましたが、もう花の盛りは終わるのでしょうか。日本で見たのは、ただ真っ赤な椿ですが、ここに咲いているのは、日本よりも赤色の濃いものや、紅白絞りの斑色のもので、『アッ!』と息を飲むようなの美しさです。

 私の父が、とても好きだった歌に、「アンコ椿は恋の花」というのがありました。作詞・星野哲郎、作曲・市川昭介、歌・都はるみで、1964年、東京オリンピックの開会された年に流行ったものです。    

   三日おくれの 便りをのせて
   船が行く行く ハブ港
   いくら好きでも あなたは遠い
   波の彼方へ 行ったきり
   アンコ便りは アンコ便りは
   ああ 片便り

   三原山から 吹き出す煙
   北へなびけば 思い出す
   惚れちゃならない 都の人に
   よせる思いが 灯ともえて
   アンコ椿は アンコ椿は
   ああ すすり泣き

   風にひらひら かすりの裾が
   舞えばはずかし 十六の
   長い黒髪 プッツリ切って
   かえるカモメに たくしたや
   アンコつぼみは アンコつぼみは
   ああ 恋の花

 多くの人が、よく歌った歌を、「流行歌」とか「歌謡曲」と言いましたが、いつごろからか、これを「演歌」と呼ぶようになりました。中国や朝鮮半島にも、似たようなメロディーの歌がありますが、日本から輸出されたのか、もともと大陸で歌われた歌だったのでしょうか。こちらの学校で日本語を勉強していたときに、一人の先生が、台湾の歌で、「爱拼才会赢」を教えてくれたことがありました。恋愛の歌なのですが、まるで「演歌」と同じメロディーで、福建省の南部の方言の「闽南话」で歌われているのです。この言葉は「台湾語」と同じです。

 文化的なつながりは、日本と台湾と「闽南」は、ひとつの線で結び合わせられるのかも知れませんね。父が、16歳の都はるみが歌う歌謡曲を、目尻を下げながら聴いていたのを思い出します。なにか郷愁を誘われたのではないでしょうか。それは、ちょっと意外なことだったのです。父は、私たち子供の前で、歌謡曲を歌うのを聞いた覚えがないのです。ただ、童謡でしょうか、父が子どもの頃に歌った、「めんこい仔馬」や、祖父に連れられて出入りした場所で、みんなで歌った歌を、思い出して口づさんでいるのは聞き覚えがあります。

 そういえば、都はるみに似た女性が、こちらにはおいでになります。仕草までそっくりなのは、ルーツを共有しているからかも知れません。「歌は世につて、世は歌につれ」と言うそうで、田植歌や漁師歌、収穫や大漁を喜ぶ歌など、歌い継がれている歌は、世界中にあるようですね。労働の厳しさと、働く喜びを歌うのは、人の常なのでしょう。今だって、窓の外から聞こえてきているのは、「北国の春」です。そういえば、今日も20℃の気温が予報されていましたから、こう言った選曲になるのでしょうか。歌い、そして聴く歌を、中国と日本で共有する私たちは、やはり、どこかで、しっかりと繋がっているに違いありません。

兰州(蘭州)

 私たちのアパートの前の道路沿いに、「兰州拉面(蘭州ラーメン」の店が、留守しています間に、新規開店しました。昼前に、出先から戻ってきた私は、その店に入って「牛肉焼飯」を注文したのです。実は、いつものように、メニューを見ては、『麺にしようか、御飯にしようか?それとも・・・』と、5分くらい迷ってしまって、やっとチャーハンに決めた次第です。とんでもなく辛いものがあって、注文したけど食べられなかったことがありましたので、選択が慎重になっているのでしょう。

 さて、どうしてつられて入ってしまったのかといいますと、この店の屋号にひかれたからです。シンガポールに行ったときに、同じ屋号の店に、時々食べに入ったことがあったのです。長女の贔屓の店で、地下鉄の駅の近くに「中華街」があって、その中にあります。今朝は、朝御飯を抜いていましたので、おなかがすいて、家に戻って自分で作るのを躊躇してしまったのです。そこで食べたチャーハンの御飯に、実は芯があって、ちょっと重たかったのですが、味付けも具材もまあまあだったので、けっこう食べてしまいました。

 この「兰州」というのは、中国の西北部にある甘粛省の都市で、322万人ほどの人口を擁しております。青海省と寧夏自治区の間に南北に長い省です。テレビで見たことがあるでしょうか、小麦粉から麺を創るときに、包丁を使わないのです。こねた粉を何度もなんども振りながら、倍々に細くして作るのです。この麺で作るのが、甘粛省の名物の「兰州拉面」です。シンガポールの店で、その様子を見ていて、とても気に入りました。何度目かに行ったときに、写真をとってくださって、今も店内の壁に張り出されているのです。日本の『食べ物紀行」のテレビ番組などに、時々出ている有名店で、ご主人も奥様も、実に気さくな方で、親切です。

 

 次回、家の近くの店に行ったときには、「兰州拉面」を迷わずに注文しようと思っています。店で働いていた少年が、新疆の回教徒がかぶる白い丸い帽子をかぶっていましたので、きっとイスラム系の人が「老板(ラオバン・店主)」で、日曜日なので息子が手伝っていたに違いありません。味は、シンガポールの方が、口にあっていますが、ここのものも好きになりそうです。一皿7元でしたから、日本円で85円くらいの昼食でした。そういえば、メニューに、「刀削面(山西省の名物で、ナイフで削りながらお湯の中に入れてゆでる麺です)」が載ってましたから、次回は、どうしよう・・・・・。