命をかけたもの

 


      あきらめましょうと 别れてみたが
      何で忘りょう 忘らりょか
      命をかけた 恋じゃもの
      燃えて身をやく 恋ごころ

      喜び去りて 残るは泪
      何で生きよう 生きらりょか
      身も世もすてた 恋じゃもの
      花にそむいて 男泣

 この歌は、「無情の夢(作詞・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一 、歌・児玉好雄)」で、昭和11年(1936年)に、一世を風靡した流行歌でした。この年は、二二六事件、広田弘毅内閣、国会での佐藤隆夫の粛軍演説、ベルリン・オリンピックなどが行われた年で、不穏な社会情勢の只中に、日本も世界もおかれていたようです。私の母は、まさに19歳、青春まっただ中にいたことになります。多感な乙女は、この年に大ヒットした「無情の夢」を、胸をときめかして聴き、歌ったのではないでしょうか。歌詞を見ただけでも、忘れられない人、いのちをかけた恋、燃えて身をやく恋、身も世も捨てた恋、男が泣くような思いで恋心を歌ったのですから、実に激しい恋の歌なのです。

 高校1年だったと思いますが、15の私は、『お母さんの若い時に流行った歌に、どんな歌があるの?』 、『歌ってみて!』とお願いしたのです。私の通った中学校の女子部に、同じ駅から乗車して、国分寺で下車し、バスや徒歩で通っているうちに、2年上の先輩が気になって仕方なくなりました。胸がときめくというのでしょうか、キューンとしてしまうほどに憧れてしまったのです。目元の涼しい大人の感じだったでしょうか、余所の高校生のナンパの対象だったし、まだ子供の私には、どう見ても高嶺の花でした。声をかけたことありませんから、ただじっと遠くから見つめるだけの片思いだったわけです。これが、青いレモンの味がする我が、人を恋そめし初めであります。

 

 母は、ほとんど躊躇することなく、『そうね・・・』と言って、この歌を歌ってくれたのです。私も思春期真っ盛り、異性への関心は最高潮の時期でしたから、この激しい恋の歌に圧倒されはしましたが、一生懸命に書き下ろして、節を覚えて歌い習ったのです。学校の遠足に、これを級友の前で披露したこともあるほど、背伸びをしていた時期だったでしょうか。母が、「母」であるだけでなく、ひとりの「女」であることを感じて、なんとなく不思議で、そんな一面を母のうちに垣間見ることで、さらなる親密感を覚えたのを、うっすらと覚えています。母が、いわゆる流行歌、歌謡曲を歌ったのを聞いたのは、それが初めてのことでした。それ以降は、二度と聞くこともなかったのです。母は、そういった青春期の思い出を封印してしまって、4人の気の荒い息子たちの「母業」に専心していたのではないでしょうか。

 そういえば、その頃の母の写真が、母のアルバムの中にあったのを見たことがあります。ワンピースを身につけ、洒落た毛のついた帽子をかぶり、口紅で唇を赤く染め、片方の手を腰に添えた、映画女優のような一葉の写真です。父に結婚を決意させた程のあでやかさがありました。兄の家に、きっと残されているのではないでしょうか。母は、私の娘たちに、自分の青春を語りたがっていたようですが、母の生活圏から遠い街で娘たちは育ち、学業で国を出たり帰ったり、アルバイトをしたりで忙しかったので、ついに、その機会はなかったのではないかなと思います。娘に恵まれなかった母は、息子の娘に思いがあったのかも知れませんね。恋でも、名でも、財産でもなく、「命をかけたもの」を、母は堅持し続けて、この地上の生涯を生きた人でした。

(写真は、昭和11年の東京上野の夜景です)

家族

 

 人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

 ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか

 これは「幸若舞~敦盛~」という、室町時代に流行した伝統芸能で演じられる作品で、織田信長が好んで舞ったと言われて有名です。これは、『人間の一生は、わず か五十年に過ぎない。人の世の時の流れにくらべたら、人生なんて、まるで夢や幻であり、この世に生を受けた者は、滅びないものなどあろうはずがない。』と いった意味で、さびしい人の世の悟りを告白したのでしょう。

 母の95歳の誕生日の晩、兄や弟や嫁や孫たちに、ケーキとカードと母の好きだった歌、家内とわたしの連名で送った誕生カード、子供たちの誕生カードも添え られて読まれ、誕生日が祝われたのです。それを母は、心から喜んで感謝したようです。その5時間後に、入所していた介護施設で、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。口から飲むことができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。大正6年3月31日の生まれですから、大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。その一生を閉じ、「永遠の故郷」に帰還いたしました。

 4月5日に、上の兄の手で「告別式」が行われ、弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶が行われました。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。 父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘に付した場所で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明されたとき、その中にあった母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、なんともいいえない不思議な思いに浸されてしまいました。

 東京郊外の高尾にある霊園に、母の骨を、母の好きな歌を歌いながら埋葬しました。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられた母の骨で すが、多くの人は、『今ごろ、和やかな歓談の時を送っていることだろう!』と想像をたくましくします。死んだ者同志が、どんなに生前親しくとも、交わりを もつことがあるとは思えませんが、近い将来、『起きよ!』との声を聞いて、父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちが立ち上がることでしょう。そして「永遠の いのち」に生きていき、彼らに再会できる希望を与えられております。

 信長の好んだ短歌に言う寿命の倍ほどを生きた母でしたが、『こんにちは!』を言ったら、すぐに『さようなら!』と言う、人生の短さに、改めて驚かされた次 第です。シンガポールの長女、アメリカにいる次女が二人の孫を連れて帰国して、母の葬儀に参列してくれました。『馬鹿な子ほど可愛い!』と言われるのです が、馬鹿な子の私は、母に可愛がられて甘やかされて育ったのを知ってる彼女たちは、一大危機だとも思ったようです。『親爺を支えなければ!』と思ったので しょうか。葬儀が終わって、長男と次男の発案で、もう一人のおばあちゃんの住む街に、孫たち4人を連れて、ひさしぶりの家族旅行をしました。その晩は近く のビジネスホテルに11人で泊まり、翌朝、曾祖母を訪ねたのです。介護をする義妹を誘って、子供たちが育った街で、よく食事をした「寿司屋」で昼食を一緒 にしました。その晩は、八ヶ岳のホテルに泊まり、『家族っていいなあ!』と異口同音、それぞれの感謝な思いを告白しました。

 子や孫や曾孫の誕生を喜び、母や祖母や曾祖母の死を悲しむ、この人の世の繰り返される悲喜こもごもの出来事に、一喜一憂は生きるということなのでしょうか。目黒川の両岸の満開の桜が、今日はもう散り始めております。

(写真は、2012年4月8日の目黒川河畔の「夜桜」です/次男撮影)

母の誕生日

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 「感恩」、gooの辞書によりますと、『[名](スル)人の好意や恩義に感謝すること。 とあります。昔の人は、親と、師と、君に感謝を勧めていますが、私は、これに「造物主」を加えるべきと思っております。「いのち」の付与者のことです。子どもの頃から、不思議でならなかったことが、いくつもあります。理科の時間に学んだ、こんなに重い土や岩や水の塊の地球が、何の支えもないのに宙に浮いていること。真っ赤に燃えている太陽が、地球からおどろくほどの距離にありながら、適度な温度を与えていること。しかもその距離が、少しでも遠かったら凍ってしまい、近かったら燃えてしまうといった均衡。

 「生命の誕生」、これが一番の不思議でした。父と母によって、自分が生まれてくるという、「無」が「有」を生み出すことが、微粒子のような原子が変異して出来上がるといった説には、私の頭はついていけなかったのです。そんな偶然はないからです。パソコンの部品を、洗濯機の中でかき回している間に、世界中の情報を手に入れ、自分のメッセージを地球の裏側のブラジルにも送れる機能を持った機械が出来上がるのと同じ偶然だと感じたからです。とてつもない「神秘」があること以外に、私の考えは答えを弾き出さないのです。そんな神秘の中で、母は私を身ごもり、この世へと産み出してくれたのです。そして「神秘」の秘訣を教えてくれたのが母でした。

 今日は、その私の母の95回目の誕生日です。大正6年3月31日に、島根県の出雲で誕生しました。生まれてすぐに幼女として出され、養父母の手で育てられた、と母から聞きました。相当のお転婆だったそうで、大きくなって「今市小町」と言われたほどだったと、母の友人に聴きました。東京で育った父の歯切れのいい「江戸弁」に惚れたと、母が言っていましたが、父もなかなかの好男子でしたから、気風や話し言葉だけではなかったかも知れません。4人の男の子をなした母は、兄弟姉妹がなく育った自分の孤独が、それで癒されたと言っていました。父を加えて5人の男の子の世話をして生きた人生だったといえるでしょうか。

 自動車事故、卵巣がんなどの長期入院を経て、それ以降は健康が支えられて今日を迎えています。自慢の母ですが、人としての弱さも併せ持っていたと思います。子である私にとっては容認の範囲内ですが。母からたくさんの愛を受け、教えを受け、励まされて、大きくしてもらいました。私の人生の危機に、何度も助けてもらったことを思い返しています。肺炎をなんども繰り返して、死線をさまよった私を、献身的に世話してくれました。学校を休んで寝ていると、お昼に決まって、引き売りの栗山のおじさんから、兄や弟には内緒で、「鮪の刺身」を買って食べさせてくれました。

 社会に出て、未熟で短絡的な私が上司につまずくと、母の「愛読書」を開いて諭してくれました。母の青春期に歌われていた流行歌だって教えてくれました。その歌を、『あきらめましょうと・・・』と、私の前で歌って、教えてくれたのは意外でした。でも人間味があふれていて、母の別の面を見たようで、とても嬉しかったのです。ちょうど私が、女(ひと)を恋始めていた頃のことでした。

 今、母は入院中です。延命措置をせずに、自然死を迎える途上にあります。兄弟4人で決めたことなのです。この数週間、上の兄が毎日のように、母の様子を知らせてくれています。もう口からのものを受け付けないようです。目も閉じたままで、「愛読書」を読んだり、母の好きだった「歌」を歌い、呼びかけると、わずかに応答を示している、そう先程、兄が知らせてくれました。『誕生日まではむりかも・・・』と言われていた母が、95回目の誕生日を迎えたのです。

 頑張り屋で、泣き言ひとつ言わないで生きてきた強さを、人生のターミナルで表しているのでしょうか。母は、『女の子がいたら、と思ったことがあったわ!』と一度、私に言ったことがあります。それこそが母の本音だったのかも知れません。私は、母のために、娘になりたかったのですが、なる素質がありませんでした。出雲ではなく、「永遠の故郷」に、今まさに、帰ろうとしています。私はこれを、「凱旋」と呼びたいのです。人生の様々な戦いを終えての「勝利者の帰還」のことです。入院中の母に、ここ華南の地からこう言います。

 『お母さん、ほんとうにありがとうございました!俺のお母さんでいてくれてありがとう!喜びの国にお帰りください!14歳の時に出会った「造物主」のみもとで安らいでください!きっとまたお会いしましょうね。さようなら!』        

2012年3月31日、お母さんの三男より

(写真上は、出雲市の春の花「桜」、下は、出雲市の玄関「JR出雲駅」です)

しあわせ

      『過去に目を閉ざす者は、現代にも目を閉ざすことになる。』  

                 ヴァインゼッカー/敗戦40周年記念演説から

 私たちの国の過去に、思いを向けます時に、その時代の動きを冷静に捉えられないで、舵取りを誤ってしまったことが多くありました。時代の趨勢に抗しきれずに、正義を貫くことが出来ずに、不本意な決断を下した政治的判断がありました。隣国の国境を軍靴で侵して、多くの尊い命を奪った戦争の悲惨な過去があります。しかし、打たれて、何もかも失って、裸になって初めて自由や平和の尊さ、そして生きていることの喜びを知らされたのです。それで、本来の日本と日本人のうちに継承されてきた優れた面が、生かされる時代がやってきたのではないでしょうか。過ちは猛省し、二度と過ちを侵さない決意をして起ち上がったのです。奮起した父や母の時代に、先人から受け継いだ計り知れない知的、そして自然的な財産に感謝して日本再生に取り組み始めたのです

 私は、父と母によって、この世に生を受け、日本に生まれた幸福を味わっている一人であります。こんなに美しい国を他に知りません。これまで「ことば」に仕えて生きてきて、6年前からは、「日本語」を教える機会を、ここ中国の華南の地で得て、改めて感じるのは、言語が、与えらるのか、人の手で造つくられるのか知りませんが、情緒あふれる「詩的言語」、「肌で感じられる国語」なのです。書かれ話される日本語は、極めて「美しい」のです。人の心の知情意を表す言語は、あくまでも「やさしい」のです。そのようなことを感じて感謝が尽きません。

 さらに、自然景観の美しい国々は、地球上に多くありますが、このように「均衡のとれた美しさ」は他に類をみません。この日本の美しさを表現するのに、一番ふさわしいことばがあります。自然は「山紫水明」です。山や川や海、畑や田圃や里山、春を告げるひばりや秋を知らせる鈴虫などの小動物、これらを守り保ってきました。その恩恵は計り知れないものがあります。コツコツと耕した畑からは、私たちの命を支える食物が芽生え、次の収穫までの日々には、細かな配慮を施してきました。緑の原野を流れ下る川の水は、近海に滋養を供給し、魚や海藻を養いました。そこで収穫された水産物は、私たちの食卓を賑やかにしてくれ、骨を強くしてくれました。決して乱獲することなく海産資源を護ってきたのです。優れた民族性を表すためには「廉直勤勉」があります。地を耕し、木を切り、魚を採り、布を紡ぎ、道具をこしらえ、書を教え、国や村を守り、様々に労している人たちは、実に勤勉で廉直(私欲がなく正直なこと)なのです。

 遙かなる歴史をいうのには「悠久不変」です。この地に、人が住み始めてから、文字で記録を残す術を知らなかった時代から、語り継がれてきた人の営みは悠久です。文字を教えて頂いてからは、様々な文芸が生まれて参りました。三十一文字に思いを表現する詩は、読んでも聞いても何と心地よいことでしょうか。様々な困難な壮絶な中を過ぎるも、穏やかな日々が戻ってきて不変でした。人との関わりをいうのに「謙譲」があります。他に譲る心がけは、覇権を競った時代の只中でさえ、人々の間でも行なれてきました。自己に勝る他を尊んできたのです。日常の所作を言うのは「隣りの三寸」です。他への親切な行為は程よくなされてきました、少なからず多からず、ちょうどの愛や善意が与えられ、貰われて、それが繰り返されてきたのです。将来を思う「進取」はどうでしょうか。保守的に見えますが、「工夫」と「改良」は、あらゆる営みの中でなされてきました。より好いもの、より善い人、より良い国を求めて、次々と目標を高めて、それに向かって鋭意努力してきたのです。

 今こそ自信喪失してしまった日本人が、その自信を取り戻し、誇りを持ち、この国に生まれた幸せを再確認すべき時に来ていると思うのです。私の愛読書には、「すべてのことに感謝しなさい」とあります。山から駆け降りたら海に入り込んでしまうような、窮屈な国に生まれたといって、落胆したり言い訳してはいけません。そのような国だからこそ、頂いた自然を大事に思い、長い年月、「美しさ」を培いあふれさせたのです。自然の猛威にさらされても、回復する遡及力が、この国の自然の中に内蔵されているのです。だから、私は、この国に生まれたことに感謝して、この時代の只中を、自然の摂理に従って生き、この地球を共有するすべての国で、ご自分の国の美しさを慕う人々と共に、幸福を噛みしめようと願うのであります。

(写真は、ブログ「立山に行こう!」から日本の渓谷美です)

一個の人

 

   自分は一個の人間でありたい。
   誰にも利用されない
   誰にも頭をさげない
   一個の人間でありたい。
   他人を利用したり
   他人をいびつにしたりしない
   そのかわり自分もいびつにされない
   一個の人間でありたい。


   自分の最も深い泉から
   最も新鮮な
   生命の泉をくみとる
   一個の人間でありたい。
   誰もが見て
   これでこそ人間だと思う
   一個の人間でありたい。
   一個の人間は
   一個の人間でいいのではないか
   一個の人間
     
   独立人同志が
   愛しあい、尊敬しあい、力をあわせる。
   それは実に美しいことだ。
   だが他人を利用して得をしようとするものは、いかに醜いか。
   その醜さを本当に知るものが一個の人間。

 1936年に、武者小路実篤が詠んだ「一個の人間」の詩です。1936年といえば、2月に「二二六事件勃発」、3月に「廣田弘毅内閣成立」、4月に「国名を大日本帝国に改める」、5月に「国会で斉藤隆夫の粛軍演説」、8月の「ベルリンオリンピック開催」などのあった年です。五十を過ぎたほどの年齢で作った詩ですが、人を「一人」と言わないで「一個」と表現するところに、何か作者の特別な思いがあるのでしょうか。

 人には「尊厳」があります。それは生まれや年齢、職業や仕事、社会的身分や健康状態には関係のない、「人の価値」のことです。私を教えてくれた先生が、「びわこ学園」を見学して帰ってきた時の講義で、まだ三十代の顔を紅潮させながら、『重度の障碍を持った方を、お湯に入れたり、日向で日光浴をさせると、普段、何の表情も表さないのに、何ともいえないうれしそうなか顔を見せるんだ!』と話したのです。新しい発見をして帰ってきて興奮しているようでした。きっと先生の人生観とか人間観を変えてしまうような、出来事だったのかも知れません。一見して醜く見え、全く価値の無さそうに忘れ去られ、お荷物のようにしか扱われない人のうちに、「可能性」があるんだと教えてくれたのです。人は生きている限り、計り知れない「可能性」があるという人間観に、私も共感したのです。

 愛読書の中に、『・・・あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してる』と書いてあります。ダイヤモンドや瑪瑙よりも価値があって、地球よりも重いのだというのです。市長や総理や大統領のように尊いのだということです。また、愛される価値などないのに、ありのままで、『愛している』と言ってくれるのです。「一個の人」の価値と尊さと愛らしさのことです。2012323日、私も「一個の人」でありたい、「一個のガラスのような人」でありたい、そう今晩思うのです。  

家族っていいな!

 最近の街中の様子に変化が見られます。「三寒四温」は冬の「季語」なのですが、こちらに戻ってきてからの天気は、ずっと曇天で雨の日が続いていました。この1週間ほど、それが嘘のように暖かくなってきています。暦の上では、「春分の日」も過ぎましたから、実に自然界は正直なことがわかります。いつものようにセーターを来て、ウインドブレーカーを羽織って、愛妻と一緒に、歩いて10分ほどのところに出来たショッピングモールの中の「回転寿司」に行ってきました。そういえば、家でばかり食事をしていて、今年初めての二人の外食でした。

 『おいしかった!』のです。〈にぎり一皿二個・一貫12元〉ですから、他の食べ物に比べたら、だいぶ高い、昼にひとりで食べる「ルウミエン」は最近値上げされても7元ですから、やはり高いのですが。値段よりも鮮度と旨さを今日は求めたのです。二軒同じような日本料理店が並んでいたので、ちょっと迷いましたが、『自分で本を読んだりして学びました!』という日本語をしゃべる22歳の店員さんが、声をかけてくれたので、そちらに入ったのです。そこは、北京、広州、南京などにもあるチェーン店で、中国に来て初めて、旨い〈まぐろの握り〉を食べたのです。外資系のホテルにも日本食を食べさせてくれる店があって、2度ほどご招待を受けて入ったのですが、鮭の寿司がほとんどで、ネタも薄くて満足がなかったのですが、今日は違っていました。上客に見えたのでしょうか、「鮭の兜焼き」「フルーツセット」を、『サーヴィスです!』と言って、運んでくれたのが嬉しくて、さらに満足度がましたのです。

 この1月の帰国中に、会社の会議で日本に出張してきた長女と、仕事を終えた次男と新宿西口で落ちあって、喫茶店に入り、牛タン焼肉レストランと回転寿司をはしごしたのですが、あれ以来の寿司でした。家内は長女と一緒に美味しいものを食べていたのでしょうけど、やはり、日本で食べる寿司というのは、ひと味違うようです。ところで、今日のお寿司は、それに遜色ないほどでした。ちょっと誉め過ぎでしょうか。今日の外食は、妻の義兄との思い出話を聞きなが、懐かしく偲ぶ食事会にしたのです。「偲ぶ」を、goo辞書でみますと、『過ぎ去った物事や遠く離れている人・所などを懐かしい気持ちで思い出す。懐しむ。「故郷を―・ぶ」「先師を―・ぶ」 』とあります。なぜか妻は悲しがらないのです。肉親の死に直面させられると、通常、人は「打撃」「否認」「パニック」「怒り」といったプロセスを通過すると、上智大学で「死の準備教育」を教しえてくれたデーケン氏が言われたのですが、そういったところを見せないのです。妻は、一度兄を訪ねてブラジルに行ったことがありました。自分の鯉を飼っている大きな池の回りを、時間をかけて二人でそぞろ歩きながら、『やはり家族っていいなあ!』と、久しぶりの妹に再会した思いを、そう義兄が漏らしたのだそうです。

 人間って、亡くなると消えてしまうのでしょうか。お墓の中で休むのでしょうか。仏教ですと仏壇の中にいるのでしょうか。三途の川を渡って、彼の地に行くのでしょうか。それとも天国に行くのでしょうか。妻の確信は、『天の故郷に帰ったのです!』で、「再会」の約束があるのを確信しているのです。男系の家族が、召されていってしまい、家内の母親と3人の姉妹が残されて、それぞれに、あちらこちらと別れ住んでいるのです。悲しみを超えさせてくれる「希望」が、妻の心に宿っているのが確認されます。『〈死〉の答えを持っているのはいいな!』と思わされた次第です。寿司屋を出て買い物をして外に出ましたら、セーター不要、ブレーカ不要、若者はTシャツでした。もう『日本の高知では、桜が開花した!』と便りのあった、春三月の下旬であります。

豊島園にて

 東京には、「後楽園」「花やしき」「豊島園」「東京ドームアトラクション(旧後楽園)」「よみうりランド」「東京サマーランド」などがあり、近県にも、「東京ディズニーリゾート」「西武園」「富士急ハイランド」など、たくさんの遊園地(今ではアミューズメンドパークというのでしょうか)があります。やはり圧巻なのは、浦安に1983年4月に開園した、「東京ディズニーランド」でしょうか。早起きをさせた子どもたちを乗せて、開園時間前に着いてしまったことがなんどもありました。高い入場券を払わなければならなくて、財布の底を叩いて払いましたが、子どもたちの喜びようを見て、『決して高くないな!』と思わされ、くり返し連れて行くことになってしまいました。

 私は子どものころにも、子供たちが与えられてからも、地理的な位置関係からでしょうか、「豊島園」には、一度も遊びに行ったことはないのです。近くに同じような遊園地があったからかも知れません。西武線や東武東上線沿線に育った子どもたちにとっては、この遊園地は、思いっきり楽しませもらったようです。家人の家族は、西武線沿線に住んでいた関係上、ここに遊びに行ったことがあるのだそうです。上の兄が、弟と二人の妹を連れて、出かけたときの話の顛末を、家人が、時々話てくれます。優しいお兄さんだったようで、弟妹を一日楽しませようと、彼らを引き連れて「豊島園」で遊び、「かき氷」を食べさせようと思ったのです。注文をして、いざ支払おうとしましたら、お金が足りなくて払えなかったのです。それを払うと帰りの電車賃がなくなってしまう、おばさんには叱られる、『どうしよう?』、涙をいっぱいためて戸惑っていた義兄を、家人は覚えているのだそうです。新聞配達をしたり、自分で鶏を飼って、卵を近所に売り歩いては小遣いを稼いでいたのですから、きちんとした子どもだったのです。その日、電車賃、かき氷代、その4人分を用意して家を出たのにです。

 ところが、遊園地のような場所は、「特別料金」が設定されていて、『えっ、ラーメンって、こんなに高かったっけ!』と驚いたことが、どなたにもあるのではないでしょうか。街場のかき氷代で計算したので、ぎりぎりのお金を握って飛び出した、小学校6年生に義兄には、そこまでの判断ができてなかったわけです。それで、すごく叱られた、これが理由でした。新聞や卵で稼いだお金を、お母さんは、困っている人に上げてしまったことも、家人がしてくれたことがあります。お父さんからもらったお金でではなく、自分の労働で得たお金である、その意味が分かったら、あのおばさんだって、『いいよ、安くしとくよ。さあ食べな!』と言ってくれたかも知れませんね。義兄にとっては、厳しい実社会の現実に直面させられた、貴重な体験だったのではないでしょうか。

 一般的な日本の家庭が中流になるには、まだまだ年月が必要な時期、自分の手で得た報酬で、弟妹を楽しませようとは、素晴らしい「心意気」ではないでしょうか。その「心意気」と「辛い経験」を秘めて、横浜の港からブラジルのサントスに、『一旗揚げて、故郷に錦を飾ろう!』と勇んで、1950年代の末に出かけたのです。出来た義兄で、いつも級長をしていたのですから、大学にだって行きたかったようですが、両親には何一つ言うことなしの移民の決断だったようです。『そのかき氷はどうしたの?』と私が聞いたら、『食べなかった!』と家人が答えていました。そんな懐かしい思い出話が山のようにあるのだそうです。今しがた、ブラジルに家人が電話をしていました。義姉に『兄をありがとう!』『ご苦労様!』『お元気で!』『ゆっくりしてください!』と伝えるためにです。

(写真は、「としまえん」の入り口付近です)

義兄

 もう何年前になるでしょうか、アルゼンチンで、日本の企業人を招いて、「企業研修」が行われました。私の上の兄も同業者でしたので、彼に誘われて参加をいたしました。それは実に長い飛行機の旅だったのです。東京から、カナダのトロントに行き、乗り継ぎの事情で、そこでしばらく市内見学をしました。その後に、ブラジルのサンパウロに向かったのです。サンパウロから、再び乗り換えてアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着したのは、東京を発ってから35時間後だったと記憶しています。年配者もいましたから、旅の疲れは、研修どころではなく、12時間の時間差、南半球といった旅先に慣れるには、数日を要したほどでした。トロントで一泊し、それからブエノスアイレスに向かったら、これほど疲労困憊することはなかったのではないと思ったのですが、後の祭りでした。まだ若かった私でしたが、「眠気」に、あれほど襲われたのは初めてのことでした。

 実は、18の時、アルゼンチン移住を夢見ていた時期がありました。「日本アルゼンチン協会」から、パンフレットを取り寄せて、眺めていましたら、ラテンの国の情熱が伝わってきて、まだ見ぬ国、南十字星の見える南半球に、『行く!』と決めたのです。決定的だったのは、メンドサという街の紹介の中に、アルゼンチン美人が、手招きをして『おいで!』をしていたのです。18の私は、いっぺんに頭に血が登ってしまったのでしょうか、心に決意し、スペイン語を学び始めたのです。彼女に会ったら、スペイン語で求愛しようと準備したのです。これって「ハシカ(麻疹)」みたいなもので、結局、動機の不順な私は、大学受験をして、補欠合格した大学に進学してしまったのです。儚い一場の夢でした。

 その研修旅行の帰りに、一行から離れて、私は、サンパウロを訪ねたのです。そこには、高校卒業と同時に、ブラジルに農業移民した、家人の兄・義兄がいましたので訪ねたのです。サンパウロから車で1時間半ほどの街に住んでいて、車で空港に出向迎えてくれました。始めての対面でしたが、優しい義兄でした。一緒に移民してきた若者の中には、その過酷な労働と、約束と違った処遇とで自殺をした仲間が何人も出たそうです。その異国で亡くなった旧友のために、墓を掘って埋葬もしたのだそうです。日本にいたら、決して味合うことのなかった、多くの辛い経験したのです。ついに農業開拓を諦めた彼は、手先が器用でしたので、時計の修理技術を教えてくれる人がいて、彼から学んで、その街のマーケットの中で、「宝石販売と時計修理の店」を開業したのです。地道に努力した義兄は、広大な土地を手に入れ、そこに家を建て、両親を日本から招いたのです。義父は、彼に見取られて天に帰り、義母は日本に帰国しました。

 一週間ほどの滞在中に、彼がサンパウロに、仕事の道具や商品を仕入れに行くというので、連れていってもらたいました。街中で売っている昼食をご馳走になっり、私たちの「銀婚式」の指輪をイタリア系の店に注文して、それをお土産がわりにくれたりしました。義兄の友人で、和歌山から母子で移民して来た親友がいて、リンゴ栽培していました。彼が昼食にレストランに招いてくださって、ものすごい量と種類の料理で歓迎してくれました。彼の作った「サンふじ」も、一箱、親友の義弟の私に届けてくれたのです。移民仲間の家族の葬儀に出たり、カトリック教会の集いに出たりしました。家の敷地には、大きな池があって、一廻するにも大変な時間がかかるほどでした。優しい義兄で、大きな声を出すこともなく、細い太い声で、『雅仁さん・・』と呼びかけてくれた声が聞こえそうです。義姉は、池の魚を刺身にしてくれたり、大おもてなしの一週間でした。

 この義兄が、食道がんを患っていて、手術後快復し、仕事にも復帰したのですが、昨日、不帰の人となりました。一度も帰国することがなかった義兄です。これが「人の世の常」とは言いながらも、あの優しい表情と寡黙、太い声を聞くことができないのは、一抹の悲しみを覚えてしまいます。家内は、兄との沢山の思い出を、昨日から語ってくれています。心からの哀悼を捧げ、義姉と三人の甥と姪の家族の上に、心からの慰めをお祈りします。

(写真は、ブラジルのサンホッケの「収穫祭」と「花」です)

日本の改革

 東北地方の日本海側に、山形県があります。その新庄市からやってきた同級生がいました。彼は東京での生活を始めて、『東京の冬は寒い!』と言いました。寒さを代表する東北人の彼が、そう言ったので驚いた私は、『どうして?』と彼に聞いたのです。彼の答えによりますと、東北では、寒さ対策が周到になされているのだそうです。もちろん屋外は寒いのでしょうけど、屋内は、暖房が効いていて、東京のような寒さをは、上京して初めて経験したのだそうです。そういえば、天津の街で1年過ごしましたときに、紫金山路沿いの河は、パンパンに氷が張って、大学生たちがその上で遊んでいる姿を、よく見かけました。ズボン下をはかないで過ごすことは絶対にできないほどでしたが、屋内には、「暖機」という、温水の暖房機が設置されていて、Tシャツでも大丈夫なほどでした。アパートの30メートルほど先にでしょうか、大きな煙突があって、その下では温水を石炭で沸かし、周り中のアパートの部屋に、温水を送っていたのです。太い温水管がはりめぐされている光景は、夏場に初めてやってきた私にとっては、『何だろう?』と不思議に思った初めての街の様子でした。

 華南の地にやって来てからは、街中に、その「送水管」が見当たらなのです、実は、黄河以南には、「暖機」はないのだということが分かったのです。ですから暖房は、それぞれの家が責任をもつのでしょうか、多くの人は室内で、外で着用している分厚いコートを着込んで、生活をしていましたので、これも驚かされたことでした。幸い、我が家には、電気温風ストーブが二基ありますので、コート無しで冬場の生活をすることが出来ています。

 この学友を思い出して、同じ山形県で活躍した、一人の人物のことも思い出したのです。この山形県に、米沢という街があります。そこに「米沢藩」、江戸時代に全国から注目されていた藩がありました。名君と謳われた山内鷹山(ようざん、17511822)が藩主で、その彼の行政改革、産業改革、教育改革、社会改革が優れていたからでした。莫大な借金を十数年で返済し、その後は藩の財政が、驚くほどに潤い、その手腕が注目されたのです。倹約質素を旨とし、一汁一菜の食事で鷹山は過ごしたと言われています。この鷹山の優れていた点は、家庭にありました。

 米沢藩に男子の後継者がいませんでしたので、鷹山が、婿養子として藩主となりました。結婚しました婦人は、知的な能力が10歳ほどだったそうです。鷹山は、心からの愛情と尊敬を持って、この妻を愛したのです。妻に人形を作って与え、遊び道具を工夫して与えて喜ばせたのです。20年間、妻の亡くなる日まで、その愛は変わることがありませんでした。世の常として、「跡取り」が求められ、子を産めない妻に代わって、ただ一人、10歳年上の「側室」をもちます。その人を米沢に置きましたが、妻に代わる権限を移譲することなどありませんでした。そのように妻に対しての用意周到な配慮を、おろそかにしなかったほどの人でした。

 与えられた子どもたちの教育についても特筆すべきことがありました。鷹山は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』『貧しい人々へ思いやりの心をもて』『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』『徳を高めなさい』と子どもを教えました。また、嫁いでいく娘には『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』との言葉を残しています。こう言った理想的な家庭を建設した人ですから、藩内で行われていた「売春宿」を禁止してしまいます。このような社会改革を行った藩は、この日本では他に見られません。『犯罪が起こるのでは!』との反対意見がほとんどでしたが、そのような心配した事件は、一件も起こらなかったと記録が残されています。

 17歳で藩主になって、70歳で召される日まで、彼の生き方、在り方は変わりませんでした。彼の葬儀が行われた日、領内から数十万人が送葬の式に参列し、自分たちの祖父の死を悲しむように、哀悼を表したと言われています。日本の政治改革、行政改革が叫ばれる中、「二十一世紀の鷹山」が、この日本の若い人の中に、すでに用意されているのではないでしょうか。

(写真は、米沢城をめぐる「堀の桜」です)

されど人生短し!

 アパートの正門の右側に「幼稚園」がありまして、多くの園児が三々五々と登園してきております。外庭で遊戯や隊列を組んで行進したりしているのですが、おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんたちが、孫子見たさに、塀の外側に黒山のようになって覗き込んでいる光景も、「一人っ子」のわが子、わが孫を、宝のように宝贵baogui)、大切にしているからでしょう。両親と子供一人、両親が働いてる家には、どちらかのおばあちゃんが、田舎から出てきて、一緒に住んで、その子の送り迎えと世話、家族の食事の準備をしているという生活の世帯が多く見かけられます。

 こういった様子を眺めていると、「公団住宅」ができたころの、高度成長期の日本の雰囲気を思い出してしまいます。私たちが過ごした東京都下には、1958年に、日本で有数の「多摩平公団住宅」が竣工し、広大な農地を造成して、あっという間に、一大近代型の街が造り上げてしまいました。入居者の多くは、都内に勤める新婚世帯で、子育て真っ最中だったのではないでしょうか。幼稚園や公立小中学校、高校、図書館、スーパーマーケット、病院、レストラン、ラーメン店、映画館などが次々に建てられて、今までになかった街作りがなされていました。機能的に造られていたのですが、いわゆる「団地サイズ」で、一間六尺が180cmであるのに、170cmのサイズに縮尺された部屋作りでしたから、『うわー狭いなあ!』というのが、初めて訪ねたときの団地の印象でした。

 あのころに建てられた団地は、住んでいた人は、すでに子育てを終え、子どもたちはそれぞれに自活してしまい、老夫婦が残り、おばあちゃんだけの世帯、世代が変わって息子たちが住む、そういった世帯が多くなっているのが最近の様子なのだそうです。それででしょうか、老朽化した団地を壊して、新たに高層の公団住宅を建て替えているようです。私の弟も、建て替えられた公団住宅の高層階に住んでいて、奥多摩の山なみを遠望できて、とてもロマンチックで、住み心地は快適のようです。

 さて、一昨日でしょうか、『パッパパラリラ、ピーヒャラピヒャラ・・・』と、その幼稚園から聞こえてきたではありませんか。どこかで聞き覚えがあると思ったら、「ちびまる子」の歌、それも日本語のCDから流れてきたのです。リズミカルのメロディーは、万国共通なのですね。夜になると、いくぶん年をとられたご婦人たちが、輪になって旗を持ったり、手を打ったりしながら、音楽に合わせて、道路を挟んだ向こう側の広場で、踊り始めています。やはり春三月、夜気は、まだまだ冷たいのですが、春待望の踊りを繰り広げておいでです。そんな音楽の中に、あの「北国の春」が流れてきますから、「ちびまる子」にしろ、日本なのかと、一瞬錯覚してしまいます。

 この月末、家人の母親が百一歳、私の母が九十五歳の誕生日を迎えようとしています。上の兄からの連絡によりますと、私の母の認知度も進み、食べ物を飲み込む力(嚥下えんげ)が弱くなってきているようです。もう十分に生きてきて、最後のステージにある母ですが、やはり長生きして欲しいと思いながらも、「尊厳」も考えねばならない、苦渋の選択の時に、そろそろ差し掛かっています。四人の息子の感謝と愛、そして「孝」を、それぞれに、どう母に向けていくかの「正念場」を迎えております。考え思うほどに難しい課題であります。帰国時に、義母を訪ね、義妹に会ったのですが、ちょうど、その時は、主治医の回診日でした。二人の看護師を従えておいででして、「胃瘻(いろう)」の是非を尋ねてみました。長短所をお話くださったのですが、医療者と家族では、考えのスタンディングが違うのでしょうか、賛成も反対もされませんでした。

 街のおじさんを振り向かせ、視線を釘付けにしたほどの母ですが、これが人の一生なのでしょうか。こちらの幼稚園の園児のような時期が母にもあり、幼い私たちを精一杯に育ててくれた母も、いまや「老い」の只中におります。幸い、14歳で見出した「永遠のいのち」への道の上に母はおりますし、「憧れの天上の故郷」への帰還の望みを持っております。されど人生短し!

(写真は、母の故郷の近くの日本海の「日御碕・稲佐の浜〈jazzmineさんの旅行ブログ〉」です)