日光

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 江戸時代、この地の代官をされていた方の子孫が、嘉右衛門町に住んでいて、その頃のさまざまな道具や家具や書類、駕籠(かご)まで残っていて、代官屋敷の門扉の中の様子が、一般公開されています。

 お代官の名前は、岡田嘉右衛門で、今も、そのお名前を継いで、栃木駅前で医院を開業されておいでです。住居は、この屋敷内なのです。お母さまが健在で、この屋敷の敷地の中にお住まいで、いろいろと説明をしていただいたことがありました。日光例幣使街道沿いに位置していて、この門前を歩いたり、駕籠に乗ったりして、日光の行き帰りを、例幣使も諸国の大名も庶民も、行き来をしたのでしょう。

 2年前に、水上町の「須川宿」を訪ね、そこでも記念館に行ってみました。越後国の諸大名の参勤交代で宿となった村です。雪深い三国峠は難所だったようで、『この三国街道沿いの温泉にも、旅人は入ったんだろうなあ!』と思ってみました。歴史ある養蚕農家の家並みが見られ、往時を偲ぶことができました。

 栃木宿とは違って、代官屋敷跡は見られなかったのですが、ここにも本陣とか脇本陣などがあって、山を登る人は覚悟をし、降りてくる人は、ホッとしたのでしょうか。長岡藩発行の「通行手形」も残っていて、車で、汽車、そして電車、そして新幹線で越えられる今は、旅情緒は全く違ってしまったのでしょうか。

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 週に何度か、この栃木の例幣使街道を歩いているのですが、先日、この代官屋敷の付近で、「防火用水」と彫られた水かめを見かけたのです。きっと戦時中のものなのかどうか判別できませんでしたが、なんか時代を感じてしまいました。この街も何度か大火もあったようです。
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 この道は、歴代の天皇の代理が、徳川家康の命日に、幣帛(へいはく/神に捧げる供物を言います)をもって遣わされた日光例幣使が、京都から中山道を経て、倉賀野宿から、ここ栃木宿を経て日光に至った街道でした。221年もの間、毎年励行されていたのだそうです。それほど日光、すなわち神とされ埋葬された家康の威光が大きかったということになります。

 先日、市民大学教養講座がありまして、出掛けたのです。今回のテーマは、その「日光の歴史」についてでした。元栃木高校の地理の教師をされた講師が講義をしておいででした。この日光は、古来、神秘的な土地柄とされてきており、とくに仏教の寺院が多くあった地で、「権現」となった家康の墓所とされた地なのです。かつて四万人ほどの人口があったのに、今は、その三分の一ほどになっているようです。

 一度も、家康は訪ねることのなかった地に、初めに埋葬された久能山から、改葬されています。風水という方位に適っていたという理由で、江戸の北方の下野国日光の地が選ばれたのだそうです。わが家のある栃木市から北に位置していて、日本にある多くの山並みと変わらなく、4階の玄関に立ちますと、その日光連山が眺められます。奥多摩や丹沢あたりも山並みに似ているように思われるのです。

 以前住んでいた町の家の大家さんが、家を新築した時に、一旦、別の地に移り住み、そこから越してきて、住み始めたのです。方位に拘る人は、そんなことまでするのを知って、ちょっと驚いたのです。まさに家康の自分の死後についての指示も同じでした。

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 死期を感じた家康は、『遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、(中略)一周忌が過ぎてから、日光山に小さき堂を建てて勧請せよ・・・八州の鎮守となるだろう。』と遺言しています。この八州とは、関東八カ国を指しています。

 「小さき堂」ではなく、莫大な資金を投入して、秀忠が東照宮を建て、家光は、それを取り壊して、荘厳な宮を新しく建て直しています。死しても江戸を守り、諸国に君臨したい願いが家康にあり、そう進言した、天台宗の僧の天海の思惑があり、彼の進言があって、家光が、祖父のために、徳川支配のために改築を断行したのです。

 この東照宮の存在が、現在のキリスト教伝道を妨げている霊的な要塞であって、それを打ち砕くことが必要だ、と言う主張を、以前聞いたことがあります。私には、この宮の表通りを、バスや車で何度か通りながら、参拝している人や観光客の様子を見ても、日光白根山の爆発で焼失したり、必死になって、この聖地とされる地に建てられた建造物を保つために、色を塗り替え、増改築や修復を繰り返して、霊験あるさまに保っている区域にしか思えないのです。

 『人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言2925節)』

 死者を必要以上に意識することこそが、妨げであって、土に帰ってしまったものの霊的な影響力など、決してないのです。〈恐れる思い〉こそが、伝道を阻んでいるのであって、十字架に死なれて蘇られた、今も生きておいでの救い主イエスさまを、もっと知ること、ほめたたえることに精出すほうが健全なのではないでしょうか。

 大陸から伝来した、風水や方位の問題で、日光に、それを当てはめて、聖地にしようとした人たちには、こじつけや矛盾があるように感じています。〈初めに風水ありき〉で、日光の地形に当てはめても、不都合、合致しない点があるようです。そのようなあやふやさを持つものを気にしたり、恐れる必要はないのです。

 東西南北を定め、天の星々、星座を作り、その運行を定められた創造の神の御業を認め、賛美したほうが良いのではないでしょうか。日常の、自分の魂を委ねた群れ、教会の中で、多くの信仰者が作った讃美歌を歌い、「新しい歌」で賛美し、立てられた牧師の日曜日ごとの講壇から語られる説教を聞いて、礼拝を守るのです。週日は、日常の自然的な業に励み、家族を愛し、隣人を愛すること、これが一番ではないでしょうか。

 センセーショナル(sensational)な新しい啓示や運動が、人を落ち着かせなくさせて、振り回されてしまい、生活のリズムを狂わせ、日常を狂わせてしまうのことの方が、問題なのです。イエスさまは、「行って」と何度か言われています。それこそは、《日常の決まった生活をきちんとしていくことの勧め》なのです。

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 コロナ騒動の直前に、華南の街の友人夫妻が家内の見舞いに来られて、このお二人が、同じ街で出会った京都在住の同労者の方の通訳で、地元出身の方に誘われて、この日光を訪ねたのです。日光見学で、その東照宮の近くに、明治末期に、聖公会のガードナー宣教師が「日光真光教会(前身は、西参道付近に「変容貌教会」を建てています)」の会堂を建てていて、その教会堂を見て驚いていたのです。神として祀られた家康埋葬の地で、この聖公会は、明治8年には、《まことの神》の礼拝を始めていたという事実も知ったからです。隣国の基督者、同労者夫妻が驚いた地でもあります。

(表日光連山、例幣使街道栃木宿、防火用水、北斗星、日光真光教会です)

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昔の日々を思い出し

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 父が関わっていた会社の一つが、旧国鉄の車両のパーツを納品していたのです。電車の制動関係の部品で、車輪にブレーキをかけるための大切な部分の製品だったのです。そんな関係で、父の知人の国鉄の役員が、国政に出るために、選挙戦に立候補したことがありました。選挙戦が繰り広げられる中で、父は、全国を飛び回って、応援の仕事を担当していたのを覚えています。

 父としては、会社の命運のかかった取引先の役員の出馬で、その当選を期して協力をしていたわけです。その働きの甲斐があって、見事、立候補をされた方は国会議員に当選していたのです。まだ高校生ほどだった自分にも、国の成り立ちのある面は分かっていたと思うのです。

 たまたま東京に出て来て、二度目に住んだ街にも、国鉄の主要の路線が走っていて、日本通運の作業の引き込み線があって、その作業を、近くの空き地で遊びながら見て過ごしていたのです。また線路の保線区があったり、踏切があったり、同級生の家族が住む国鉄職員の社宅もあったりでした。

 上の兄の同級生が、お父さんが国鉄職員の関係で、「蛙(かわず)の子は蛙」で、国鉄職員の養成のための岩倉高校(運輸科だと思います)に通っていて、卒業して、電車の車掌をしていていたのです。小さい頃に、『準坊!』と呼んでくれて、一緒に遊んでくれた方でした。一度だけ、彼の乗車していた電車に乗ったことがありました。『格好いいなあ!』と思ったのです。

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 子どもの頃に乗った、蒸気機関車の吐く白い蒸気の色と音、車軸が回転して出力を増し加えていく様子、そして時々鳴らす汽笛の音に、とてつもない力強さを感じたのです。まだ、立川から奥多摩に行く線に、蒸気機関車が走っていて、立川駅の一番端にあった、その路線のプラットホームで、ジーッと眺めていたことがありました。よく、汽車や電車の運転手にならなかったものだと、今でも思うほど、〈国鉄オタク〉だったのです。

 そんなことで、浅田次郎原作の小説が、1999年に映画化され、「鉄道員〈ぽっぽや〉」が上映された時に、普段映画館などに出入りすることなかった私でしたが、” Nostalgie “ でしょうか、もう興味深く観たのです。その映画で、蒸気機関車の『ぽっぽっぽー!』の音、車輪を回す蒸気の排出、黒煙、車軸の回転が、子どもの頃の情景をスクリーンに蘇えってきたのです。

 不思議なことに、今は、JRの両毛線、東武電鉄の日光・宇都宮・鬼怒川線(延伸の野岩鉄道や会津電鉄があります)の駅の近くに住んで、同じ鉄道の音や匂いを感じて、朝一番電車が、南栗橋方面、東京に行く光景も見られます。子どもの頃の光景が思い出されてならないのです。今年は、ここの駅から鉄路でつながる会津若松駅から、新潟県の小出駅までを結ぶ、JR只見線が、復旧開業しているのです。

 実は、この沿線が、〈昔の鉄道風景〉を残しているとかで、乗り継いでみたい思いに駆られて、満を持しているところなのです。男の “ sentimentalism “ なのでしょう。子どもの頃に、目に焼き付いた光景というのは、時が流れても、薄れはしても、消えてしまわないのかも知れません。きっと、もう車を運転することがなくなってしまったこともあって、鉄路への “ Nostalgia ” が沸々と持ち上がっているのでしょう。

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 東武電鉄の日光線と鬼怒川線の分岐駅が、「下今市駅」と言いまして、そこを時々、上下車してきたのですが、この駅に、蒸気機関車の週末運転を記念した「駅弁」が売られているのです。その駅弁に、スプーンがついているのです。この冒頭の写真ようなものです。きっと、蒸気機関に石炭を焚べるために使っている、シャベルを模したのだと思われます。

 『私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。 (詩篇1435節)』

    煤煙や煤の蒸気機関車は、かつては男の子の憧れだったのですが、歳を重ねた今でも、リニアに乗りたいなどと願いませんが、この蒸気機関車で、長い鉄路を旅をしてみたい思いは消えないのです。今日日、鉄路の 継ぎ目がなくなってしまい、心地よい『ガタンゴトンキィーン!』の音が聞こえないのには残念至極です。

 これからの時期、ローカル線は、もう何年かすると廃線で、バス路線になってしまいそうで、「只見線」だって例外ではなさそうな危機感を覚えています。どれほど自分の日が残されているか分かりませんので、この秋には、無理を言って、出かけてみたいと、積年の願いをと思うのです。

(「奥会津を行く蒸気機関車」、「只見線沿線の秋景色」、「スプーン」です)

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無線士が転じて

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 父の事務机の上に、「打電機(電鍵)」が置いてありました。それは、モールス信号で、情報を送信する装置でした。軍需工場の秘匿の情報を、軍部との間で交わすためには、電話ではなく、この装置を用いるほど、機密性を大切にしていたのでしょう。

 戦争が終わっても、父の机の上には、それが残されて置かれてあったのです。それが、どんなものか学校に上がる前に、不思議でならなかったのです。ツーツートントンツウこのモールス信号で、情報を受け取り、送ることができるのを、この上もない装置だと思ったわけです。

 父が、街中の事務所に、『桂、電報持って登って来い!』と連絡していたのを覚えているのです。子どもの私は、その「電報」が、「鉄砲」に聞こえて、覚えているのです。いつまでも兄たちにからかわれました。そんなことで、社長になったり、博士になるなんて考えずに、船に乗って「無線士」になろうと考えていたわけです。まだ56歳ほどで、それほど、将来の職業志望を強く願っていたのです。

 それが中学に入ってから、担任が社会科の教師で、小学校でも社会科が好きで、興味津々だった私は、俄然、その教えに殴られたようになったのです。地理だったと思うのですが、「水に流す」と言うことを、長い時間をかけて説明してくれたのです。岩手県の北にある「弓弭の泉(ゆはずのいずみ)」から流れ下って、石巻に流れてくる北上川(旧北上川)は、蛇行している河川だと言うのです。

 その蛇行の地点に、地蔵が、多く置かれているのです。それが、天候異常の冷害で起こる飢饉で、それでなくとも東北地方の貧しい農村部では、食べることに窮して、生まれてくる子どもを、どうしても育てられないで、口減しをしていたようです。どうするかと言うと、北上の流れに流してしまったのです。

 そのようにして流された嬰児の亡骸が、蛇行地点にとどまっていたのを、その周辺の地の住民が、その亡くなった命を弔う意味で、地蔵を作って置いたのだそうです。「日本のチベット」と呼ばれた地域の悲しい東北地方の歴史を学んで、私は衝撃を受けたのです。担任の担当教科の社会科で、貧困や疾病、人柱や自殺、様々な社会の暗部を教えられたのです。

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 それが切っ掛けだったのでしょうか、この担任のような、社会科の教員になろうと考えたのです。この担任は、地理を教えるときも歴史を教えるときも、教材の掛け軸などを、両手に持って、教室にやって来て、淡々と教えてくれたのです。先輩から聞くと、東大出だそうでしたが、偉ぶることもなく、テカテカになった背広を着ていました。この先生の家に、級友たち45人で訪ねた時は、吉祥寺のお兄さんの家の二階にお住まいでした。りんご箱の上に、奥様がお茶を淹れ茶碗を置いてくれたのを思い出すのです。

 昭和30年代の初めでしたから、まだまだ日本は貧しい時代でした。後に校長となられた担任の先生でしたが、悪びれずに、生意気盛りの中学生を迎え入れてくださったのです。難しい本を読むように推薦してくれたことが何度かありました。何年か前に、無くした、一冊の本を読みたくなって、古書店から買って、読み直したこともあります。可能性を見て、子ども扱いをされない、叱る時は叱り、落ち込んでると、呼んで励ましてくれた先生でした。

 『三つ子の魂百までも!』と言われますが、一度立てた志は叶えられて、教員になることができたのです。これも能力ではなく、コネ( connection )ででした。コネだって、人生の財産かも知れません。もう一生懸命に授業の準備して、教室に行き、生徒の前に立ちました。そして精一杯教えたのです。あんなに充実していた日々はなかったほどでした。

 しかし、17歳の信仰告白後の曖昧な生き方から、真正のクリスチャンになったのです。パウロやペテロがそうであったように、主に仕える生き方に導かれてしまうのです。25歳の時でした。そんなこと、一瞬たりとも思ったことのない、キリスト伝道のために生きる願いでした。資格や能力を度外視した、不思議な迫りを感じたのです。ちょうど、ガリラヤ湖で網打つ漁民だったペテロたちが、『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」(マルコ117節)』と、人の意思を度外視した、突如の招きによって、キリストの弟子とされたようにでした。

 宣教師の後の教会を、家内と共に,訓練期間と伝道牧会を34年ほどし、61歳になって、海を渡ったのです。省の大学の日本語学科で、日本語を教えながら、主の働きをさせていただきました。それも、驚くほど、考えられないほどの尊い経験でした。家族のように、彼の地の兄弟姉妹に支えられ、励まされて、13年を過ごせたのです。中学3年間の担任が、挨拶を交わす時、教壇から降りて、生徒と同じ高さにこだわったように、それを日本でも隣国でも、教室で励行しました。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 ああ、人生とは、何と神秘的ではないでしょうか。神の恵み、恩寵は何と素晴らしいことでしょうか。母に宿った信仰を継承したこと、幼い日の願いを二転三転させて、主に仕えることができ、意味ある生を、糟糠の妻と共に送れたのは、望外の祝福でした。こんな私にも、子や孫にも継承され、限りない憐れみ、溢れかえる恩寵、一方的な選びに預かることができたことに、衷心よりの感謝を覚えるのです。

(「打電機」、「北上川」です)

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主の赦しと祝福と栄光と

 

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 ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革の動機を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。

 寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストに座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。

 また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどと非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。

 私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。

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 17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。

 これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。

 ある著名な牧師が、パウロに、尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。みんな「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。

 『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ1415節)』
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 福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。

 宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。

 例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。

 『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ1711節)』

 それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。

 ジュネーブの教会の牧師のカルバンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564年5月27日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。

 人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。

(「水のバプテス」、「聖霊降臨」、「ジュネーヴの風景」です)

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再びエルサレムの平和を祈る

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 『ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(詩篇147節)』

 『エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」 私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。(詩篇122篇~9節)』

 『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者(イザヤ41:14)』

 『わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。 (ヨエル3章2節)』

『 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」 (イザヤ31章5節)』

 『あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記123節)』

 『諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 (エレミヤ31章10節)』

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お米の話

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『主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。(詩篇111篇5節)』

 ここ関東平野の北の栃木では、黄金色に実った稲の収穫の季節を迎えて、ほぼ刈り取りが終わりかけています。ここでは、「西方米」が美味しいと言われていますが、わが家は「四つ葉生協」のお米を食べていて、結構安全で美味しいのです。といっても、一カップを二人で分け合うほどなのですが。

 華南の街の街角の商店に、「秋田小町」と名札をつけて、お米が売られていたのです。早速買い求めて、炊いてみました。とても美味しく食べたのです。お米をいただくことが多かったのですが、それ以来、買う時のは、この「秋田小町」に決めていたのです。

 どこで作られていたのかと言いますと、東北部の黒竜江省だと、袋に印字されていて、日本米の栽培が行われてきているのを改めて知ったのです。そう言えば、この地域には、戦前は、日本人が開拓団を組んで入植し、お米の栽培をしてきていたわけです。

 そう言った旧満州国時代に、この地で行われていた農業は、その後も受け継がれていったようです。とくに、戦後、1980年代にはいると、田中稔を団長とする日本稲作技術団の田中稔を団長として、この地にやって来られて、ビニールハウス・箱育苗・機械田植技術(大棚箱育苗機械田植技術)が導入されています。5年ほどの間、田中稔は毎年訪問して農業指導をされたいたのです。

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 この田中稔は、冷害に強くて、低温の中に生育する「藤坂5号」と言うお米を作り出した人で、「稲の神様」と言われる、日本の米作の貢献者の一人なのです。夭逝したお父さんの出身地の山形県の高擶村(現在は天童市です)で大きくなり、三重高等農林学校で、遺伝学とともに、稲作栽培法を学んだ方で、卒業後、農林省に入られ、その後、秋田県大館市にある陸稲試験地で稲の品種改良の仕事に従事しています。

 そんな経歴の後、農林省が、「凶作防止試験地」を各地に設置した時に、その一つが「藤坂村(現在の青森県十和田市藤坂です)」で、そこで産み出されたのが「藤坂1号」だったのです。日本の米作は、冷害によって、収穫減に見舞われたのですが、画期的な米作が行われ、「藤坂5号」が生産され、今日に至っています。

 ササニシキは、この「藤坂5号」の系列で生み出された人気のお米なのだそうです。戦後の食糧危機にも、このお米が、日本の食糧危機から救ったと言えるようです。きっと、母が炊いてくれたお米も、この種の物があったことでしょう。今夏、そして秋にかけての猛暑は、このお米にも影響を与えていて、秋田でも、今年の収穫されたものは、一等米の評価はわずか1.4%だと報告されています。これまでは90%以上だったのに、生産者は減収になってしまうようです。あの「秋田小町」もそうなのでしょうか。

 食欲の秋、先日家内の友人が、新米を持って訪ねてくれました。炊こうかどうしようかを思案しながら、まだ、そのままにしてあります。長い桶目を食べてきた日本人の私も、《塩おにぎり》や、お米の上に、新鮮な魚の切り身を載せた《寿司》は、何よりも、『うまい!』を覚えてしまう、根っからの日本人の裔(すえ)なのです。

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主を賛美するために平和を祈る

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『しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現れ、
窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。
主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。
捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。
人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。
また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。(詩篇 102篇12~22節)』

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『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。(詩篇122篇6~9節)』

(“ Christian clip  arts “ より)

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新しい一歩を踏み出して

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 この写真は、この秋、次女の子(私たちの最初の孫)が、学校に入学して、入寮したdomitory と、自分に割り当てられた部屋の様子を撮って送られてきたものです。この寮は、彼の家族が所属する教会が、若者たちのために長く運営しているものなのです。彼の両親や叔父や叔母が、青年期に、ここで過ごしていました。ここへは家から通えるのですが、18の彼は自分で願って、家族から離れて、test されて入寮したのです。といっても、学校にも、教会にも至近な距離にあり、今晩は、入学以来初めて帰宅したのだと、娘が言ってきました。

 部屋の中を撮った写真の中に、壁に三つのものが掲げられています。一つは、「色紙」です。墨を浸した筆で書かれた書で、彼が生まれた時に、彼のお父さんが教えていた、長野県南部の高等学校の年配の先生が、彼の誕生を祝して書いてくれたものだそうです。

「桃李不言 下自成蹊」、「史記」の中に、司馬遷が書き残したものです。「桃李(とうり)ものいはざれども、下おのづから蹊(こみち)を成す。」と読み、その意味は、『桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち・小道)ができるという、李広将軍その人を讃えた故事である。桃や李は、人格者であることのたとえで、そのような人物は黙っていても、徳を求めて人々が集まってくる。』

 同僚の子の誕生に際して、立派な人格者となるように願って墨書してくださったものを、自分の家の部屋に架けていたのです。それを持ってきたわけです。英語で、” Way Maker “ と言う、この書の「成蹊」は、彼の救い主イエス・キリストが、そうしてくださることでしょう。

 二つは、「リンカーンの肖像画」です。彼の曾祖父のオフイスの壁にあったものを譲り受けたのです。南北戦争が行われたゲティスバーグの地でのリンカーンの演説が残されています。私たちが学んだのは、  government of the people, by the people, for the people ” が有名だったでしょうか。9歳の時に亡くなった母ナンシーは、『あなたは百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となりなさい。』と語っていたそうです。また、次のようにも言っています。

 『息子よ、まずこの家の家計を考えねばなりません。わたしたちは裕福ではないのです。家族みなが食べてゆくことさえ思うままになりません。そんな状態なのに、あなたはきれいな服が欲しいと言えますか?自分の家の状態にふさわしくふるまいなさい。いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。他の人の言葉にいじけてはなりません。自信をもって生きなさい。自信こそすべての成功の根源です。』

 さらに、リンカーンの継母サラは、母ナンシーの亡くなった後、2年ほどで、父親のところに来ています。『お母さん!」と呼びかけ、一緒に、しかも毎日、聖書を共に読んでくれたのだそうです。貧しい家庭で、公教育を受ける時間は一年足らずでしたが、独学をし、弁護士となります。その生涯で、奴隷解放をした、今でも、もっとも慕われるアメリカ合衆国大統領になったのです。このリンカーンの優れた人間性に、孫は感銘を覚えているようです。実に humble な人だったのを認めているのです。

 そんな humble  な人になる願いが、孫にあるのでしょうか。この孫は、ドイツ系とフランス系アメリカ人のお父さん、日本人のお母さん、自分自身はアメリカ国籍のアメリカ人で、アメリカ人である「誇り」と共に、自分の内に流れる日本人に家系の意識も強固なのでしょう。そう言った意味で、「日の丸」を壁に掲げたのです。今夏の家族での訪問時に、どこかで手に入れたのでしょうか。両親の元を離れて生活の一歩を過ごす自分に部屋(もう一人のルームメイトと共用です)、その部屋の壁に、もう一つの「誇り」を掲げたのです。

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 彼の専攻は、” liberal arts “ で、教壇と学生席の教室ではなく、円卓を囲んで、“ debate (対話形式授業)で学んでいくのだそうです。娘によると、” Great books curriculum (グレイト・ブックス・カリキュラム)をテキストに学び始めているようです。34人ほどの学生数ですが、歴(れっき)とした大学で、自分で選んだ学校を楽しんでいくことでしょう。

 私たちの孫たちが、《神と人とに愛される人》となって生きていけるのを願っています。聖書を読み、祈り、主を賛美し、隣人を愛し、主を畏れて生きていって欲しいだけです。

(「円卓」のイラストです)

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今こそアメリカのために

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 このところ、アメリカ合衆国の様々な面で、危機に迫られているのを感じてなりません。政治的にも、国際影響力にも、国内の経済状況も、青少年の非行の激しさ、家庭の崩壊など、山積している問題で溢れているからです。

 私を8年もの間、忍耐して導いてくださった宣教師が、聖書研究の中で分かち合ってくださったことで、大統領付きの chaplain の語られたことで、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を、再び思い出していたのです。1つは、建国の父たちの祈りとその祈りを祈っている現代のキリスト者たちの存在、2つは、献金をささげて、多くの宣教師を海外に送り出してきている宣教、3つは、アメリカの使命や存続のために海外のクリスチャンたちが祈っている祈りだそうです。

 そのアメリカで、わたしたちの四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。彼らが学びつつ教会生活をさせていただいた教会と牧師さんへの感謝をこめて、そのアメリカ北西部にある教会を訪問した時、この教会の牧師さんが、その日曜日の礼拝で、証詞をする機会を与えて下さったのです。何をお話しようかと考えていました時に、《自分の過去と今とアメリカとの関わり》について話すことにしました。

 私は、アメリカから来日された宣教師が建て上げられた教会で、信仰を持ち、献身したこと。その後任の宣教師が、母教会から100キロメーターほどの距離で、開拓伝道をされると言うことで、開拓地を選ばれました。そこは私の生まれ故郷でした。そのお手伝いをさせて頂きながら、私は伝道者となるための訓練を受けたこと。聖書の読み方や解釈の仕方、説教の仕方も伝道の仕方も、家内の愛し方も、この宣教師から学ばせて頂いたことを思い出しながらお話ししたのです。

 そして、子どもの頃の経験もお話ししたのです。戦争が終わった後、この国から送られた「ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)」が贈られ、滋養に富んだ粉ミルクを飲ませていただいたこと。そして、この国で作られた映画を、teenager の時に観て、夢が育まれたこと。とくに、ジェームス・ディーンが主演した「エデンの東」や「理由なき反抗」や「ジャイアンツ」などを何度も観たことを、感謝を込めて話したのです。

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 そのような感謝は、教会であるみなさんを激励するのでしょう。戦後の日本の教会の復興は、経済援助だけではなく、霊的な復興でもあったのです。何もかも失い、より頼むものをなくした多くの人が、福音を受容したのです。その後の信仰の歩みは、私には分かりませんが、家内の家族は、その宣教の働きでクリスチャンホームとなっていました。

 『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 (コロサイ118節)』

 それは、教会の主のお働きです。私たちの母教会を始めた宣教師の奥様は、病弱でした。陽当たりの悪い、山の陰に教会堂を建てられたのですが、宣教師の住まいの部屋の屋根の一部をガラス張りにされて、奥様の健康をお考えになられて居場所を作って、伝道をされたのです。

 家内の最初の聖書は、この宣教師夫人から頂いたのだそうです。また彼女が病んだ時、毎日、回復のために良い飲み物を作っては届けてくれたのだそうです。その受けた愛が、彼女の信仰を強固なものにしたのでしょう。

 教会に何が起こっても、主が立ててくださった牧師と、自分の牧場である教会から離れずに、所属し続けたのです。大人になって、宣教師の強さも、人としての弱さも、全てが分かっても、信頼と感謝を揺るがすようなことはなかったと、彼女は言っています。

 やっぱり、その地方にある教会は、“ on the way(完成への途上)にあって、赦し合ったり受け入れ合ったり、時には訓戒し合ったりして、それらが成長しながら、主の体である教会が、形作られていくのです。そのために労してくださった宣教師さんを送ってくださった、アメリカの再建、とくに霊的な再建のために、主を賛美し、祈る必要を感じております。多くの祝福を受けたからです。