ふと思うこともある

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今では、大きなショッピングセンターが近くに出店したおかげで、四路線に増えた学校経由の公共バスのどれかに乗って、週二日、出勤しています。この街で、二校目の学校で教え始めて、七年になります。この間の<学生気質>の変化は、何度かこの欄で触れてきましたが、教師たちにも、同じ様な変化が見られるのです。この一年ほどの変化でしょうか、自家用車で通勤される教師が増えているのです。

学校には北門、東門、西門にバス停があり、東と西の門の近くには、バスターミナルがあるのです。それだけ利用客が多いと言うことになります。その門から校内に入って、教室まで歩くのですが、多くの木や花が植えられあり、飛んでくる鳥たちが、さえずりで歓迎してくれるのです。以前は自転車置き場が、幾つもあったのですが、今では駐輪している自転車や電動自転車は、とても減ってしまいました。

そのかわり、校内の沿道には、所狭しと自家用車が駐車されているのです。かつては見られなかった光景です。教師の待遇が良くなったからでしょうか、利便性からでしょうか、それとも自家用車の所有が、一つの職業的誇りの表れになっているのでしょうか、その変化は歴然としています。

退職後、私の弟は、週に三日ほど、若い教師の相談相手や、彼も卒業生ですから同窓会の事務やクラブ指導の仕事をし続けているのです。そんな弟が、雨の日以外、自転車通勤をしている様です。健康管理のためでしょうか、多摩川を越えて、さっそうと出掛けているのです。

日本でも景気が良くなってきて、誰もが車を持つ様になってきた時期を迎えていました。そんな中で、地方都市におりましたし、仕事の範囲が広くなり、家族も増えて行きましたので、この私も<自家用車族>になったのです。兄から中古の車をもらったり、何台もの車を乗りつぶしてきました。ある時は、二台も車を所有していた時期がありました。ところが今は、車なしの生活をしているのですが、さすが、雨や嵐の日には、『車があったらなあ!』と思ってしまいます。しかし、こちらでは、運転をする自信がありません。

そんなこんなで、徒歩とバス、時にはタクシーの生活をしております。でも慣れたのでしょうか、ふだんは、なんでもありません。先日は、ジャガーという車をはじめて、こちらで見かけました。まさしく庶民の私には、<高嶺の花>、驚いてしまいました。いえ、欲しいわけではありません。もう恰好や見栄は、どうでも好くなりましたから。

(写真は、”WM”による、秋の風景です)

羽田飛行場

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東京オリンピックが開催されたのが、1964年(昭和39年)の10月でした。19才の青年期の真っただ中に、私もおりました。その年に、藤間哲朗の作詞、佐伯としをの作曲で、新川二郎が歌ったのが、「東京の灯よいつまでも」だったのです。

1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

まだ学生で、外苑や日比谷を、女友だちを連れて歩くような社会人ではなかったのですが、淡い火影の揺れる東京の浪漫を感じさせられて、よく歌を覚えています。とくに、「いとし羽田のあのロビー」と言う、鼻音で歌う箇所が印象深いのです。まだ成田空港ができていませんでしたので、この羽田飛行場が、外国への行き帰りや訪日外国人の日本で唯一の玄関口でした。

この歌が流行ってから、十年以上も経ってからのことでした。一緒に働いていたアメリカ人の企業家の家族を、この羽田まで車で見送ったことがあったのです。車を駐車場に停めて、そのロービーで、休暇で帰国する彼らを見送りました。そこは東京なのですが、そこはかとなく外国を感じさせられる所だったのが印象的だったのです。人も物も匂いも、そこは欧米色で満ちていました。

今のような海外旅行が盛んになる前でしたから、日本人の旅行者は少なく、あの狭いロビーでも十分だったのでしょう。多くの外国人が行き来していた、そのロビーで、この歌のフレーズを思い出したわけです。見送りでも、しばしの<別れ>でしたので、留守の間の責任の重さを、ズシリと感じて家に一人で帰って行ったのです。日本に戻って来られる時も、この羽田に、彼らを出迎えたのですが、その時のことはよく覚えていません。何年も何年も経って、羽田が何度か改装されて、今のような大きく立派になってしまったのには、昔を知っている私は驚かされております。なぜか、あのロービーの人、物、匂いは記憶に鮮明なのです。

(”WM”による、当時の羽田飛行場の「国際線ターミナル」です)

賢さ

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地球は、大雑把にできているのではありません。人間が生息するために、信じられないほど綿密な構想や計画がなされているのです。地表に生活する人間のための<空気の濃度>は、奇跡的なものです。極点はともかく、通常の生活のための<気温>は、衣服で調整できる範囲に調整されています。雨の降る量も、適量です。燃料も、固形燃料から液体燃料、そして核燃料と、地表から掘り出せるところに埋蔵されてあります。驚くほどに按配されているのです。

そこにあるのは途方もない「知恵」です。造山活動や造陸活動がなされた時、無作為に作り上げられてはいないからです。メガコンピューター以上の計算や設計図があって作られているのです。「偶然 」などと言ったら、地球からごうごうの非難が上がることでしょう。当然の様に、毎日、いえ毎秒吸っている「空気」について、ちょっと調べてみました。その成分は、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素、ネオン、ヘリウム、メタン、他、です。その濃度も配合も、人間の体が必要としたものになっていて、100年以上吸い続けても無害です。賢く配合されているわけです。

こう言った地球環境に、適合した生物が生成され、生命を持ち始め、個体が出来て、愛したり赦したりできる人間に進化したのでしょうか。私の小さな脳みそでは、そんなことは考えられないのです。この「賢さ」は何なのでしょうか。私は、海が好きなのです。山の中で生まれたので、海への憧れが大きいのだと思っています。人生の一番好い時期(現在も最良と思っていますが、一般的に言って)を、四方を山で囲まれた地で生活した反動かも知れません。また父の家系の<海好きのDNA>を引き継いでいるのかも知れません。

上海の码头(波止場)から、黄蒲江、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海を渡って大阪港への船旅をする時、14410トンの「蘇州号」に乗るのですが、岸壁では 、『うわー、大きい!』と思うのです。ところが大海に出ると、木片の様な船、それに命を任し切っている、<人間の小ささ>を感じるのが好きなのです。海の掟に従って、船長が繰る船が、自然の摂理と争わないで、波濤を越えて、前に進んでいる姿が好きなのです。

そうすると、この地球が、宇宙と言う大海原を航行する<船>の様に思えてくるのです。マストもエンジンもスクリュウも操舵桿もないのに、毎日毎日、自転しながら、一年をかけて空中を回っている、<不安定さ>が好きなのです。海に海水が満ちています。太陽に照りつけられると気化してしまいます。ほどほどの量です。それが真水となって雨を降らせ、その水を飲んで、人は生きているのです。その水が大地に注がれて、人の食物を育てるのです。種は、どこから来たのでしょうか。それを受け止めて育む土の成分と滋養分は、どこから来るのでしょうか。

やはり、この地球は、<賢く>機能しているのです。今、その地球が、悲鳴を上げています。壊れ始めているのです。手を打ったり、対策を講じたり、いえ、反省しないと、終いには爆発してしまうのではないかと心配でなりません。

(写真は、”WM”による、月から見た「地球」です)

忘れていること

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私たちが、忘れていることがあります。この地球の内部には、<マグマ>があることをです。<マグマ>とは、”知恵蔵2014”によりますと、

「地下の岩石が融解して生じる高温の液体。それが地表から噴出するのが噴火。マグマが液体状態のまま火口から噴出したものが溶岩。マグマの大部分はケイ酸塩溶融物で、主な構成元素は、酸素、ケイ素、アルミニウム、マグネシウム、鉄、ナトリウム、カリウム。ケイ素の量は、マグマの流動性や、噴火のタイプを左右する。ケイ素が少なく流動性の高いものが玄武岩質マグマで、主に溶岩流として噴出する。以下、含有量が増えるにつれ、安山岩質マグマ、デイサイト質マグマ、流紋岩質マグマと呼称が変わり、流動性が悪くなり、爆発性が高まる。火口からの噴出温度は、玄武岩質が1200℃前後、流紋岩質が900℃前後。マグマの起源は、上部マントルの深さ100km付近かそれ以浅にあり、マントル物質の上昇流の中で、減圧融解により岩石が部分的に溶け、形成されるとみられる。形成直後のマグマはおそらく玄武岩質で、それが上昇する過程で、条件によって鉱物結晶が析出し(結晶分化作用)、また地殻物質と反応して、ケイ素の量が増えていく。」とあります。

岩石が液状化した極めて高温な物質のことなのです。『北海道も、アラスカも、マダガスカルも、自然が溢れていて、感動的な美がある!』と言われて、誰もが行って見たい観光の名勝地なのです。私が生まれた村のそばにも、奇岩の山があり、岩の間からは滝が流れ下り、実に神秘的な美の世界があるのです。その最たるものは、南米に仕事で出かけた時に、連れて行って頂いた「イグアスの滝」なのです。『地球上に、こんな自然があるのか!』と、足がすくみ絶句したほどでした。

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そんな美と神秘の景観の下には、この<マグマ>がうねっているのだと言うこと、何度も見上げて来た「御嶽山」の昨日の噴火で思い出させられたのです。緊張している国際関係も、仁川で行われているアジア大会も、シリアの空爆も、この<マグマ>の上で行われていることになります。一旦、吹き出せば人命も、築き上げて来た文化財も、美しい紅葉も消し去ってしまうのです。これから冬になると、「日向ぼっこ」をしたくなりますが、真夏には猛暑をもたらす太陽が、少し斜めに射してくると、『暖かい!』と感じるのですが、実は、その太陽も燃えているわけで、<火の固まり>なわけです。

『日本列島には、110もの活火山がある!』、物凄い自然の中で、人が生きている、いえ生かされているわけです。ある人が、『自然界は人がして来た所業にたいして怒っているのだ!』と言っておいでです。開発、便利さ、富、そう言った物を追い求めて、自然を傷つけて来たので、地球が揺れ動き、風呂桶をひっくり返した様な暴雨が降っているのではないか、そう思えてなりません。人間の強欲と傲慢と非礼への<しっぺ返し>かも知れません。

(写真は、”Goo”による噴煙を上げる「御嶽山」、”九州大学”による「地球の構造」です)

秋は夕暮れ

 

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高校の「古文」の授業で、清少納言の「枕草子」を学んだことがあります。その初めのところに、次の様にありました。

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春は曙・・・夏は夜・・・
秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)                                冬はつとめて(早朝)                  「青空のホームページ」より

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秋の美しさや趣を感じられるのは、「夕暮れ」時が際立っていて、山際に沈んで行こうとする夕陽が、ことのほか感じ入るのだと言っているのでしょうか。東京から香港に飛び、香港から寝台列車に乗って北京に来たのが、2006年の八月の下旬でした。そこにバスで迎えてくれ、天津のアパートまで連れて来てくれたのが、ドイツ人の夫妻でした。

着いたのが夕刻でした。食事に連れて行ってくれ、すっかり用意してくださった部屋に入った時は、ベッドも作られていました。この若い夫妻が、用意しておいてくれたのです。すでに日本から送った物が、部屋の隅に置かれてありました。そこで天津での生活が始まったわけです。

七階の陽当たりの良い部屋で、日の出から日の入りまで、ベランダで眺めることができました。大平原に落ちて行く、大陸の夕陽を見た時、紅のような赤さと、見たことのない大きさに度肝を抜かれたのです。日本では見たことのない壮大で、神秘的な様だったからです。その時に思い出したのが、中村雨紅の作詞、草川信の作曲の「夕焼け小焼け」でした。

1 夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘が鳴る
お手手つないで みな帰ろう
烏(からす)といっしょに 帰りましょう

2 子供が帰った あとからは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢を 見るころは
空にはきらきら 金の星

日本の自然の美しさと違った、中国大陸の大きさと美しさに圧倒されてしまったのです。『長安の都で、宮仕えをした、安倍仲麻呂も、同じように感じたにだろうか?』などと思ってみたりしました。やはり、この大陸でも、秋には「夕陽」が一番似合うと言うことに納得したわけです。そのベランダの目の前に、高い煙突がありました。暖房の温水を作り、アパートの各部屋に配水する施設のものでした。十月の中頃には、もくもくと煙を吐き出していたでしょうか。

その煙突が、やけに思い出されるのです。あの近辺では一番高いアパートの七階だったので、視界が大きく広かったのです。そこで夕陽や月を眺めたのですが、煙突が屹立(きつりつ)して、頼もしかったわけです。

(写真は、文中の天津の「煙突」と「夕陽」です)

運動の秋 2

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中高の六年間通ったのは、男子校でした。替え歌で、『♭・・・櫟林(くぬぎばやし)のその中に 粋な男がいると言う・・・♯』と歌っては、むさ苦しさを掻き立てていたのです。その学校は、「大正デモクラシー」の自由な時代の風を受けて、<体と頭を動かす教育>をしたいとの初代校長の教育理念の結晶だったようです。そんな教育のあり方に感じ入った父が、『雅、行ってみるか!』と言って入れてくれた学校でした。12才の子供と18才の大人の<六年の年齢差>は大きかったのです。ヒゲの濃い、いかつい高三から小学生に毛の生えた様な中一が、同じ敷地の中で学んだのです。

今頃は、運動会に向けて、午後は、中高の縦割りで、応援の練習が校庭で繰り広げられていました。早稲田や明治の応援歌の替え歌を歌わされました。大きな班旗がふられ、『♭ 紺碧の空 仰ぐ日輪・・・♯』とか『♭ 武蔵野秋空 希望に高く 意気は・・・♯』を、『声が小さい!』と叱咤されて大声で歌ったのです。風薫る季節、真っ青な秋空、バンカラな感じが相まって、運動会の当日よりも、それまでの練習の日々のことが、実に懐か思い出されます。

籠球部(バスケットボール部)に入部したら、高校のインターハイや国体の東京都予選の応援に駆り出されては、ボールを持たされて、先輩の後をついて回りました。九段、小石川、両国などの高校巡りをしたのです。それでも、帰りには、<ご苦労さん会>で、食事をご馳走してもらいました。決まって、新宿の西口の線路際の、棟割長屋のような小さくて小汚い食堂に連れて行かれたのです。空きっ腹に、実に美味しかったのです。どの先輩がおごってくれたのか覚えていません。

また、秋だったと思いますが、マラソン大会がありました。高校二年だったでしょうか、送球部(ハンドボール部)に入っていたのです。一番ビリで走り始めて、何人抜けるかを試したのです。ちょっと小生意気でしたが。この時だけ、同じ敷地内にあって、金網で仕切られてあった女子部の生徒が、沿道から応援をしてくれたのです。『マサヒトさーーーん!』と声を掛けてくれたのです。そうしたら鞭の入った競走馬のように、韋駄天(いだてん)で走り抜けたのです。そんな声が掛かったのは、自分ひとりで、『マサ、もてるじゃあねえか!』と、みんなに羨ましがられたことがありました。

焼いた秋刀魚(さんま)の匂い、その白い煙りが、薄暗がりの運動場にたなびいていました。勉強はあまりやらなかったのですが、いやー、みんな昨日のことのようです。

(写真は、秋の旬の味「秋刀魚」の塩焼きです)

東京ラプソディー

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1936年(昭和11年)に、当時の東京の繁華街を歌い込んだ、「東京ラプソディー」が流行ったそうです。父が二十代、母が十代の頃になります。門田ゆたかの作曲、古賀政男の作曲で、藤山一郎が歌いました。

1 花咲き花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

2 現(うつつ)に夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの 鐘も鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

3 明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

4 夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

5 花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京

銀座は、何と言っても、日本の流行の先端を行く華やかさを持った街で、昔も今も日本一の街です。これに倣って、地方都市の一番繁華な辺りを、「◯◯銀座」と呼んで、人を集めるようになっていました。神田は、その周辺に大学や女子大や専門学校などが多く、<学問の府>と言えるでしょうか。学生たちの向学心や青春が渦巻いていた街でした。浅草は、映画や演劇の娯楽の街で、週末は人で溢れかえっていたそうです。そして新宿は、もともとは 甲州街道の宿場町でしたが、昭和初期に、ボツボツ人気の出て来た新興の街だったようです。

父は横須賀生まれでしたが、大森(羽田空港の近く)から、旧制中学に通っていて、東京の空気を吸って生きていたようです。母は出雲の出身ですから、はるか に憧れの目と心を、この東京に向けていたのでしょう。北京にも上海にも、私たちが住んでいるこの街にも、人気と伝統のある街があります。どうも、ここでは日本のように、都市や繁華街を歌で歌うようなことはないようです。

「池袋・・・」とか「長崎・・・」とか、その町の思い出や特徴を歌い込んだ歌は、日本独自のものなのでしょうか。この日本人の手にかかると、「サンフランシスコ」も「パリ」も「上海」も、「釜山」でさえも歌で歌ってしまうのですね。「思想」も「演説」も、歌で主張する歴史がありました。

「わらべ歌」や「童謡」や「唱歌」も日本の文化であり,独特な日本人の心の動きや表現なのでしょうか。先月、二人の小学生の女の子が、手のひらをパンパンと触れ合いながら、無言で遊んでいました。それを眺めていた私は、『日本にも同じ遊びがあるんだ。だけど、歌を歌いながらするんだよ!』と言って、『せっせせのよいよいよい、夏も・・・』と歌って上げたら、不思議そうにしていました。こう言った遊びの違いや共通性を調べたら面白そうですね。

(写真は、”WM”による富士山を望む「東京」です)

天高く馬肥ゆる秋

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「天高く馬肥ゆる秋」です。<天が高い>と言うのは、空気が澄んで爽やかでしのぎやすさを意味しているのでしょうか。<馬肥ゆる>と言うのは、美味しいものがたくさん収穫されて、食欲が増進し、健康的な季節を意味しているのでしょうか。まさに秋なのでしょう。

ここ華南では、日本で、生まれた時から感じ取って来た秋とは、だいぶ違ったものなのです。何しろ時間的に短いのです。『あっ、秋だ!』と感じたらすぐに、冬の到来なのです。1〜2週間ほどでしょうか。それでも夜間は、長袖や薄手のうわぎが欠かせないので、温度の日較差が段々と大きくなるのに注意しないと、風邪を引いてしまうのです。よく、こちらの方に、『注意してください!』と言われてしまいます。

「馬肥ゆる」と言っても馬ばかりではありません。気候が快適で、食欲が進んで、何でも美味しいので、人が肥えてしまうのです。自分にとって禁物なのが、「柿」なのです。ドリアンもマンゴスチンも美味しいのですが、日本に古くからある果実、この「柿」が、大好物なのです。今日も出かけてからの帰り道の小型スーパーで、「柿」が並んでいました。一旦は素通りしたのですが、もどって来て、買ってしまいまいました。日本で食べていた「次郎柿」に形がそっくりだったからです。まだ渋そうでしたが、家で皮をむいて、食べましたら、色の割には美味しかったのです。

でも、最盛期の「富有柿」とか「御所柿」に味には及びません。まだ早生なのかも知れません。もうしばらくして、涼しくなったら、甘くて食べると果汁が滲み出るような「柿」が出てくることでしょう。去年は、それにありつけたからです。そうしたら、「人肥える秋」になってしまうので、注意しないといけませんが、この食欲に勝つためには、相当な意思力が必要なようです。こちらの友人知人には、<柿好きな>であることを誰にも言っていません。日本では言ってしまって、毎年秋には、柿を頂くことになってしまったので、言わないのです。

『あっ、柿だ!』、山路で美味しいそうな「柿」を見つけて、みんなで採って食べたことがありました。食べ終わったら、そこは柿畑だったのに気づいて、罪意識を覚えて、そそくさと引き返したのです。あの中に、私の恩師もいました。<柿ドロボー>をさせてしまったのは、本当に申し訳ないことしてしまったのです。その恩師も、もう召されて12年になります。

(写真は、”ぐるなび食市場”による「御所柿」です)

読書の秋

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「読書の秋」、今頃は、図書館の閲覧室は、座る席がないほど混み合っているのでしょうか。帰国する度に、兄の自転車を借りて、市内の図書館に、よく行きました。ある時は、多摩川を渡って、隣の市の図書館にも行ったことがあります。 学校に行っていた頃は、立川や青梅の図書館にも行きました。それは、試験の前の<ノート写し>のために、4〜5人が集まっては、黙々と写していたのです。

そういえば、図書館には独特の<匂い>があります。本のインクと年月を経た紙の匂いでしょうか。あるいは<本の虫>が運んで来る<読書好き>の匂いかも知れません。最近では、コピー・サーヴィスがあるのですね。また、珈琲や軽食のとれる一郭があって、一日中、空調の入ったところで<読書三昧>で過ごせるのです。そういえば、昔の図書館は暗かったのではないでしょうか。採光が好くなかったのと、電灯が少なかったし、照度も低かったのです。今は、どこでも好く設計されて整えられています。でも書庫が高くて、<仄暗さ>のあった頃が懐かしいですね。

また、近頃は、ネット回線の図書館が開かれています。よく開くのは、「青空文庫」です。著作権に制限を受けない作品が、ネット上で読むことができますし、ダウンロードも許可されているのです。夏目漱石や田山花袋や芥川龍之介、魯迅までも、その名作が読めるのです。

本と言えば、何時でしたか、古本屋で買った本の中に、<五百円札>を見つけたのです。板垣退助の肖像の新札でした。このお金の旅が、その本の中に封印されて、どこにも動きを取れない運命だったのです。『いつか家内とコーヒでも!』と、挟んだのでしょうか。それを忘れてしまったまま亡くなられて、奥様の手で古本屋に、その本を蔵書とともに買い取ってもらい、それが私に買われてやって来たのでしょうか。『本もお金も丸ごと買ったんだ!』、『しめた!』で好かったのでしょうか。でも、ちょっと正直になった私は、古本屋さんに連絡して、『かくかくしかじか!』を伝えたのです。店主は、『好いんじゃないですか、お使いになって!』と言う返事でした。

今度帰国したら、古本屋巡りを、どこか地方都市でしてみたいものです。そうしたら、過ぎ去った時代の人の<ものの考え方>や文化習慣と出会うことができそうですから。そう言えば昨日は、「秋分の日」でした。こちらの暦には祭日の印がなかく、授業がありましたので、忘れていました。

(写真は、”横浜金沢観光協会”の「金沢文庫」です)

 

昭和は遠くなりにけり

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中央自動車道を、新宿に向かって走る上り線で、遠くに多摩川の流れが視界に入ってくるあたりで、左側のバスの車窓から、私の母校が見えます。校庭の広さや校舎の建て位置は変わっていませんが、校舎も周りの風景も全く変わってしまっています。校舎がコンクリートの耐震建築だと言うことが分かります。あの頃は、木造で、冬になるとストーブの薪が足りなくて、校舎の端の板を剥がして燃やしてしまったこともあったのです。

そこは、二年の二学期から卒業まで通った小学校です。通ったのは事実ですが、低学年の頃は、病欠児童で、通学日数が極めて少なかったのです。それでも四年生の後半ごろから、元気になって、体育の時間には、『おい廣田、みんなの前で跳んでみろ!』と言われて、跳び箱の試技をやらされたりで、元気に回復していたのです。

三つの小学校に通いましたが、最初の学校は入学式も、その後の授業もほとんど受けませんでしたし、二番目の学校は分校でした。ですから、懐かしいのは三番目の卒業した小学校なのです。校長が小池先生、最初の学級担任が内山先生だったのを覚えています。内山先生には褒められたので、小池校長は、校長室に立たされたので覚えています。

中村草田男が、こんな俳句を詠んでいます。

降る雪や明治が遠くなりにけり

久しぶりに、草田男が母校を訪ねたのです。草田男が小学校に通ったのは、明治の終わりから大正の初めでした。昭和になっての訪問だったようです。母校の佇まいは、ご自分の通学時と変わりませんでした。その同じ校舎の中から、子どもたちが、いっせいに校庭に飛び出し来たのです。その時、草田男が見た後輩たちに、<明治の少年たち>の姿がなかったのです。『ああ、一切は過ぎ去ったのだ!』、『明治と言う懐かしい時代は永久に過ぎ去ったのだ!』と、彼は瞬間に思って、そう詠んだ句なのだそうです。

高速道を高速で走る車窓から眺めて、その変化を感じているのですから、校門をくぐって、校庭に回って、そこに立って校舎を眺め、校庭で運動をする後輩たちを見たら、『ああ、昭和と言う懐かしい時代は遠くなりにけり!』と、つぶやくのではないでしょうか。最初の小学校は、廃校になり、二番目の分校は、本校に吸収されてありません。人生短し!

(浮世絵は、葛飾北斎の描いた「武州玉川」です)