不遇

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 幕末の戊辰戦争の頃からの流行歌(はやりうた)に、作詞が品川弥二郎、作曲が大村益次郎の「宮さん宮さん」がありました。

1 宮さん宮さん お馬の前
ひらひらするのは 何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの
錦の御旗(みはた)じゃ 知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ

2 一天万乗(いってんばんじょう)の 一天万乗の
帝王(みかど)に手向かい する奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す 薩長土(さっちょうど)
トコトンヤレ トンヤレナ

3 伏見 鳥羽 淀 伏見 鳥羽 淀
橋本 葛葉(くずは)の戦いは
トコトンヤレ トンヤレナ
薩長土肥(さっちょうどひ)の 薩長土肥の
合(お)うたる手際じゃ ないかいな
トコトンヤレ トンヤレ(以下省略)

 明治維新政府の要職には、ほとんど薩摩藩と長州藩の出身者が就きました。幕末の動乱を動かしたのは若い世代で、しかも身分の低い武士階級が、その動きの中心を占めていたのです。畑や田圃を耕し、行商をしなければ生きていけない階層でしたが、時の動きをしっかりと見て、国に在り方の変化を野心的に求めていたのでしょう、それで尊王攘夷に身を投じて行きます。

 そんな人たちの中に、島津藩の加治木島津家の分家に生まれた村橋久成がいました。上級国民の話題が多いのですが、この人は上級武士の子で、藩が、イギリスに遣わした留学生の一人でもあったのです。同行者の中に五代友厚、ロンドンにはすでに森有礼がいました。久成は、一年ほど「軍事」を学んだ後に帰朝しています。

 薩摩に戻った久成は、戊辰戦争で越後や東北に、大砲隊長として赴き、各地を転戦して行きます。さらに箱館戦争にも遣わされ、幕府軍の榎本武揚に降伏を持ちかけています。戊辰戦争後、郷里に戻りますが、東京に呼び出され、北海道開拓の屯田兵の創設を任されます。

 中央志向が強くなかったのでしょう、閑職に甘んじた人でした。明治維新政府では、はるかに下級であった黒田清隆の方が要職についています。大久保が暗殺された後は、薩摩閥の重鎮として、明治憲法が発布された折の内閣総理大臣にも就いています。

 一方、開拓使の久成は、札幌麦酒(現在のサッポロ・ビールです)を建て上げ、官営事業とします。ところが黒田らは民間への払い下げをしてしまいます。その後でしょうか、久成は黙して、表から消えてしまいます。そして、家も家族も捨て、托鉢僧となり、1892年に行旅病人として神戸で亡くなってしまったのです。

 この久成に何があったのでしょうか。家族を捨てなければならないほどの屈辱体験があったのかも知れません。男って、けっこう厄介ですね。下剋上でしょうか、維新政府を動かした、長州の伊藤博文も薩摩の黒田清隆も賢かったそうですが、醜聞や奇行が多かった様に聞きます。大国主義の中で、有望な人材が消えていったのは事実です。

 この流行歌の歌詞で、二度も繰り返して歌わせている「一天万乗」とは、〈全世界を治める位またはその人の意で、天子のこと〉なのです。実に世界制覇、野心的な歌であり、天子が担ぎ出された革命が、明治維新であったと言えそうです。作詞者の品川弥二郎も作曲者の大村益次郎も長州藩士でした。どうも祇園での遊びの中で生まれた歌の様に申し伝えられています。

 人の世は、とかく不遇をかこつ人が多くおいでです。歴史に《もし》と言うことはあり得ませんが、デンマークのような小国のままの国造りが、私たちの国でできたら、勤勉さや正直さや律儀さを生かして、別の形で立派な国が出来上がったことでしょう。そんな中で、石橋湛山の小国主義は気高く輝いています。

(札幌の市花の「鈴蘭」です)

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平和

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 「レビ人のうち、ケハテ族の人口調査を、その氏族ごとに、父祖の家ごとにせよ。それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。(民数記4章2~3節)」

 イスラエル民族の宗教の中心は、「幕屋(神殿)」でした。そこで仕える氏族は「レビ人」だったのです。彼らは、神によって選ばれていました。下働きから大祭司まで、人が選んでもいませんし、自ら志願することもできず、神よって選任されていたのです。さらに幕屋の建設も設営秩序も、一切のことが、細かく、神にって定められていました。

 その奉仕者のレビ人には、「仕事をすることのできる年齢」の規定がありました。当時と現代とでは、人の寿命や余命は比べることができませんが、三十歳から五十歳までの二十年間に決められていたのです。それが適正な年齢枠だったのです。わが国では一般的に「六十歳定年」が定められていますが、最近では定年延長の動きがあります。

 創造の神が、人と会われる会見の幕屋での奉仕は、容易なことではありませんでした。加齢によっての粗相のない様に年齢が定められていたのかも知れません。現代の一般社会でも、自営業の世界は違いますが、私たちの国では、公務員も、会社員も、団体職員も、ほぼ60歳で定年退職をします。

 まあ十分に働いて来て、子育ても終わり、社会的な責任も、後進に譲るには、肉体的にも精神的にも社会的にも、よい年齢なのかも知れません。年配の国会議員が、議事堂で居眠りをしている写真が出回っていますが、長時間にわたる議事、重大な案件の決定など、もう無理なのでしょう。

 「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄(平和)を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄(平和)は、あなたがたの繁栄(平和)になるのだから。(エレミヤ29章7節)」

 まだ余力のある間に、課せられた職を、潔く後進に譲るべきです。私も、四十代で、恩師の勧めもあって、次の奉仕への思いを抱きつつ、時節の到来をを待っていました。やっと61歳で職を辞しました。怪我をしてしまったので一年超過したのですが、後進に譲って、新しい地に出たのです。私の願いは、残された日を、父の世代の過ちの償いに当てようとしました。それは主の御心であったと信じたのです。そうしましたら、大陸中国への扉が一つ一つ開いたのです。

 戦前戦中、軍需産業の一翼を担った父は、爆撃機や特攻機の製造に関わりました。私が過ごしました華南の街には、「5000年の歴史」の中に日本軍による攻撃の記録も、大きな河川の壁に、石工の手で石板に刻まれていました。その街で出会った方が案内してくださって、あの戦争の戦時下の事実を知らされたのです。

 その隣街には、旧日本軍の航空隊があって、その飛行場から、日本軍の爆撃機が、中国各地に攻撃を仕掛け、建物を焼失し、多くの命を奪っていました。その石板には、爆撃されて亡くなられた、その街の方の数も刻まれていたのです。まさに父が関わった爆撃機の仕業だったわけです。

 教壇に立ち、講壇に立っても、過去の謝罪を私がしますと、『あなたの責任ではありません。あなたの前の世代の過ちですから、あなたは謝る責任はありません!』と言ってくださる方が多くいらっしゃいました。でも、日本軍の軍需産業の責任者として、父は俸給を軍、政府からもらっていて、それで産着や布団やミルクを、私はあてがわれていたのです。

 そんな思いで、住んだ街の「平和」を祈りながら、過ごした大陸での13年は、私の《人生双六》の上がりだったと、今思うのです。もう少しの命を、北関東の歴史ある街で、過ぎた日を思い起こしながら、これからの日をワクワクした思いで迎えたいと念じています。体は、年相応に弱くなってきていますが、心の思いはまだ強いかなと思っております。

(イスラエル共和国の国花の「アネモネ」です)

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しみじみと

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 詩人で歌人でもあった良寛さんが、「戒語九十ヶ條」を残しています。「ことば」を大切にされた方でした。自分を生み育ててくれた両親の「言葉」を、《身に包んで生きよう》とした人だったそうです。自分の寺を持たずに、「五合の米」の布施を受けて生きていたのです。

 越後出雲崎に生まれ、越後に生き、越後に没しています。僧でありながら仏法を説かず、質素な生活をし、子どもを愛し、童心を捨てず、格言を語りながら、人はどう生きるかを語ったのです。そうする良寛に、人々は、格別な信頼を寄せました。生活と言葉が一致していた、言行一致の人だったからです。

 「語」と書いて「ことば」と、良寛は読ませています。どの様に気を付けて語るか、九十の「戒(いましめ)」をまとめて「戒語」を書き残したわけです。そのうち、十七を取り上げてみます。

 「ことばの多き」  言葉数の多さは聞く人を疲れさせ、『もう少しまとめて話して欲しい!』と思う話し手がおいでです。思い出すのは、ナチス・ドイツの攻撃の中で、“ Never,never,never give up !” と、イギリス国民に語ったチャーチルの言葉です。これほど簡潔で人を得心させた言葉はありません。

 「鼻であしらう」 人を人と思わないで、小バカにした冷淡な口ぶりの人がいます。相手の置かれた状況など全く考えないで話す人です。

 「口のはやき」  聞き取れないほどに、早く話す人がおいでです。内容は良くても、思いが通じません。話し言葉には抑揚が必要ですし、間(ま)が必要です。噺家の聴きやすさは、この間があるからに違いありません。

 「とわずかたり」  相手が聞いてもいないのに、聴きたいとも思わないのに、話してくる人がいます。ご自分だけが納得している話し手ってときどきおられます。

 「さしで口」  自分の立場や役割を弁えていないのでしょう、話をしている間に侵入してきて、話し出す人です。場所や空気を読めていない人です。
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 「手がら話」  自慢話のことです。ああもした、こうもしたと手柄を話したがる人がいます。人に褒めさせるのがいいと教わりました。

 「己の素性の高きを人に語る」  自己陶酔型の人がおいでです。家系や姓名を誇るのです。私は進化論者ではなく、創造論者なので、人類は、エデンの園で罪を犯し、楽園を追放された者の子孫だと思っています。でも、罪を十字架で贖ったお方を信じて、私が受けるべき裁きと死とを処罰してくださった方を信じて生きてきました。

 「人の物言い切らぬうちに物言う」  話の途中に、言葉を挟んで、話の主人公に入れ替わってしまう方がおいでです。いつも自分を中心に物事を考えてしまう人が、そうされます。

 「よく心得ぬことを人に教うる」  自分で理解してないことを言って、ついに支離滅裂になってしまう方です。何を教えられたのか全く分からず、思いの中に何も留まらないのです。

 「物言いのきわどき」  物騒なことや、危ぶまれる様な物言いをする人がおいでです。聞き手に恐怖を与えてしまう人の話っぷりを言うのでしょうか。

 「人の話の邪魔をする」  こちらが話し終わらないうちに、口を挟んでくる人がいます。上の空で話など、相手の語ることを聞いていないで、自分の言いたいことだけを言おうとする人です。

 「親切らしく物言う」  親切さを装って話されるのですが、その思いは非難だったり中傷であったりで、その動機が正しくない言葉の人がおいでです。

 「さしたることもなきことを細々言う」  そんなに重要でないことや、話題にも上がらない様なことを、根掘り葉掘りと細々と言う方がおいでです。

 「好んで唐言葉をつかう」  江戸時代に、おもなる外国は中国でしたから、唐言葉(中国の言葉)を得意がって使う人がいた様です。現代では、カタカナ語を得意がって使う人で、最近もある留学経験のある大臣が英語らしき語を言っていましたが、私にはチンプンカンプンでした。

 「悟りくさき話」  坊主でも伝道者でもないのに、説教風な話し振りをする人です。なんでも知っていると言う態度で、ご自分の悟りの高い境地から話をされます。

 「学者くさき話」  学識が多くて、難しい表現も好きなのでしょう、聞く人が学生の様に見えて、知識を披瀝する知ったかぶりの人です。

 「すべて言葉はしみじみというべし」  人の心を揺さぶる様に、感謝が湧き上がる様に話せたらいいなと思います。心と胸とを打たれる様な説教の言葉を聞いたことが何度かあります。上手だったのではありません。心がしみじみ(沁み沁み)とされる様な語り口で、内容でした。

 「舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。(ヤコブの手紙3章6、8~10節)」

 話をする上で、どんな言葉を語り、どんな風に語るかは、実に大切なことに違いありません。人柄も、出自も、価値観も、倫理観も、なんと言っても人格が、よくても悪くても、語る言葉に表れてしまうからです。舌先三寸、天下を取った人も、命を失った人もいます。私たちが、舌を正しく制御できたら、どんな富や地位を得るよりも素敵なことに違いありません。

 これまで、多くを語らなくとも、核心を語った方と出会ったことがあります。まるで見ることができ、触れそうに語った方です。命を与えられ、将来と希望をくださった方です。この書を開くと、今でも命が溢れています。「キリストのことば」、「聖書」です。まさに沁み沁みとして参ります。

(“ 新潟永住計画 “ の冬の出雲崎の海、新宿御苑の庭です)

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種痘

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 Covid-19対策で、コロナ・ワクチンの接種が、私たちの国でも始まりました。
 「函館市文化スポーツ振興財団」のサイトに、日本で最初に種痘を行った「中川五郎治」の記事がありました。

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 明和5年(1768年)陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。

 働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。

 シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。

 というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。

 イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。

 5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。
その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。

 30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。

 五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。

 五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。

 五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。

 弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。

 明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。

 五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。

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 「そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト15章26節)」

 ヘブル語では、聖書の記される主なる神を、「アドナイ・ラファ」とも呼ぶそうです。風邪でも、新型コロナでも、精神疾患でも、人を癒すことのできる神がおいでです。母は癌から癒やされて95まで、義母は肺結核から癒やされて101まで生き、それぞれの寿命を全うして、天の故郷に帰って行きました。医者に見放されたのですが、主なる神は、『我はヱホバにして汝を醫す者なればなり!』と言われて、触れてくださるのです。

 この神は、医者を通しても、また数奇な人生を導かれた一介の足軽の佐七(中川五郎治の本名)を通してでも、人を癒し、疫病の攻撃を阻むことができる、命の創造者であり、付与者であり、回復者でいらっしゃいます。

(佐七の生まれた青森県川内町の町花の紫陽花です)

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野の花の如く

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 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイの福音書6章28~30節)」

 私たちの国には、〈無我夢中〉な時代がありました。封建徳川が終わって、明治維新政府は、大きな遅れを取り返す様にして、「富国強兵」を貪欲に推し進めようとしました。そのために欧米諸国から様々な分野の技術者を雇い入れ、また多くの人材を西欧諸国に送り出して、学ばせました。

 結局は、その貪欲な覇権国家を作り上げようとした日本大国主義による国家建設は、「無条件降伏」で終わりました。国際社会に伍そうとしたのは、産業や軍事ばかりではありませんでした。住み良い国を作ろうとした人たちが、多くいました。貧困や差別をなくそうとして「社会改良」をしていこうとしたのです。

 戦前は、社会改良は、社会主義や共産主義を奉じる者のすることであって、国の発展を大きく損なう者たちが企てていることの様に考えられて、思想統制をし、その働きを弾圧しました。私の恩師は、優しい方で、社会の弱者に目を向け、貧しい人や心身に不自由を覚えている人たちが、幸せになり、生きる歓びを持てる様に願っていた方でした。

 この恩師が、『野の花の如く!』という一筆をしたためた色紙に、野花のスケッチも添えて、卒業して行く私にくださいました。恩師の願う社会改良が、国策に合わないとの理由で、監獄に収監されました。その監獄で拷問を受けたせいでしょうか、お身体が虚弱で脚が不自由でした。でもその目は優しく輝いていました。私は、野に咲く名のない花の様に、咲いて生き様と決心したのです。

 その独房の窓から、飛ぶ鳥を見、囀る鳥の声を聴き、獄の隙間から、わずかな土に咲く花を眺めたのでしょう。その境遇を神の御手から受け、天然自然に慰められ、励まされて生き延び、戦争が終わって解放され、教壇に戻ったのです。そして私たちに多くのことを教えてくださいました。

 この恩師と雰囲気の似た方に、その後お会いしたのです。神学校で長く教えてこられ、その師の最終講義を聴かせていただきました。どんなことを話されるのか、興味津々で聞き耳を立てたのです。師が開いたのは、「申命記」でした。
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 「隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。
あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。
もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。
日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。
貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。
彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。
父親が子どものために殺されてはならない。子どもが父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。
在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。
思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。
(申命記 24章10~22節)」
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 これは《弱者救済の規定》です。生きる手段を持たない、持つことのない人たちを虐げることを禁止し、優しく彼らに接し、共に生きる様にとの勧めです。イスラエルの神、天地万物の創造と統治の神は、社会的弱者に心を向け、手を差し伸べる神だと講じたのです。

 旧約神学の研究者で、長く研究と教授をされてこられた方ですから、終講には深遠な神学論を話されるのだとばかり思っていましたが、この世で忘れられ、疎んぜられている人たちに心を延べ、手を伸べる神さまをお話になられて、驚いてしまいました。神学とは、こう言うことだと諭されたのです。それで、この師の様な思考の奉仕者、説教者になりたいと心に念じたのです。

(野の花、アメリカのある風景、オオアマナ〈べ

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待ちつつ急ぎつつ

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 1842年、ドイツのバイエルン州の田舎の村、メットリンゲンに、一人の若い女性のゴッットリービンが、精神錯乱で苦しんでいました。それ以前に、お兄さんも同じ様な問題を持っていたのです。しばらくすると、彼らの住む家から、『ゴーン、ゴーン!』と言う異様な音が村中に響き続ける様になります。この事態に直面した村長や教会の牧師や長老たちは、話し合いをします。そして、この「悪霊」の仕業に挑戦していく覚悟を決めます。

 その戦いはしばらく続きましたが、ある日、『イエスは勝利者だ!』と告白して、その若い女性は、束縛から解放されてしまいます。神がお造りになった人が、闇の力の支配に束縛され続けることを許すまいとする決心で、一人の若い女性の尊厳の回復のために、果敢に信仰を持って挑戦し、祈り、賛美した結果の「勝利」でした。その戦いを続けたのが、ブルームハルトでした。

 このゴットリーヴィンの解放は、心霊上の救いだけではなく、全人格的な全人間的救いであり、力をもって働きかける神の働きの現れでした。精神医学や心理的カウンセリングでは解決し得ない、心の闇の問題は、創造主から解き放たれる「神の力」による以外になかったのです。罪と死に勝利した《キリストの御名による力強い働き》によったのです。

 そう言った霊的な「戦い」に立ち上がった父と、家で牧師夫妻を助ける様になった、闇の力に「勝利」したゴットリービンのいる家庭で、一人の少年が成長していき、父の後の教会の奉仕を受け継ぐのです。クリストフ・ブルームハルトです。パートボルの教会に移った彼の奉仕、牧会の中で、多くの人たちの病が癒やされ、霊的束縛からも、多くの人が解放されていくのです。

 そればかりではなく、広くヨーロッパ中から多くの人たちが、ブルームハルトを慕い、信頼して集まって来たそうです。後に政治の世界にも進出しますが、教会指導の優れた器でありした。有名なバルトも、若い日に、このブルームハルトの感化を受けています。

 この教会の空き地には、数限りないほどの医療補助器、松葉杖などが山の様にうず高く積まれていたと記録されています。さながら新約聖書の時代の様な、目覚ましい奇跡が現されたのです。バルト神学の研究者の井上良雄の著された「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」に、そのことが記されてあります。

 この本を読んで、感銘を受けた四十ほどの私は、著者の井上師に、手紙を書きました。そうしましたら、丁寧なご返事と、ドイツ語のシュバーヴェン方言で書かれた、ブルームハルトの著作の原文のコピーが送られて来たのです。『簡単なドイツ語方言ですから、学んでみてください!』と言われてですが、ドイツ語を学んだことのない私は慌ててしまいました。それで、ある方に翻訳を依頼したのですが、その後その方もコピーも行方不明になってしまったのです。本当に申し訳ないまま、井上師は帰天されてしまいました。

 この子ブルームハルトには、面白い逸話が残っているのです。彼の家の玄関には、いつも馬に繋がれた馬車が置いてあったのだそうです。ベンツの自家用車などない時代でしたから、遠出には馬車だったのでしょう。なぜかと言うと、『イエスさまが再臨された!』と言う知らせを聞いたら、すぐに馬に鞭打って駆けつけるためだったそうです。

 「再臨待望」の強い想いを表すクリストフ・ブルームハルトの玄関の馬車に倣って、私はこのアパートの自転車置き場に、自転車を置いてあります。もちろん、買い物用の自転車で駆けつけられることなどできませんが、同じ思いで馬車の代わりに自転車を置いて、主の再臨を待ち望んでいたいからであります。

(シュヴァーベン方言の乗馬禁止の表示です)

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 窓辺の花の鉢から、直径3〜4mmくらいの大きさの花が咲き出しました。こんな小さな花は、これまであまり見たことがありません。野の花、雑草なのでしょうか。そんな花でも、暖かな環境の中で命を躍動させているのに、心が震えます。見られる花も、見ているものも、同じ命に祝福に預かっている共通点があります。

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帰還

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 「わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 (創世記17章8節)

 私の父は、自分の生まれた軍港・横須賀の家や土地に、特別な思い入れを持っていたと思います。と言うのは、自分の祖先が鎌倉武士で、源頼朝から拝領した土地を持っていたと言う父の誇りを、私に語ったことがあったからです。

 しかし父は、生まれた時に、家督相続のない庶子として戸籍に登記され、その家屋敷地は、後添えの子、母違いの弟に決められたのです。決して家督相続への執着など持たなかった父は、旧制中学の時に、その家を出て、親戚の家から学校に通っています。自分で人生を切り拓こうとしたのでしょう、鉱山学部のある旧制専門学校に進学し、鉱山技師として生きて行きます。

 旧満州やソウル近郊、山形、山梨などで仕事をしながら終戦を迎えています。戦時中に、母違いの弟(私たちにとっては叔父)は、南方で戦死してしまいます。戦後の新しい相続法で、父には財産権があった様ですが、それには関心がありませんでした。

 それで、何年か前に、父の子の私たち四人に、相続分があると言って来たのですが、私たちは誰も相続しませんで、書面で放棄したのです。父には、産まれて育った家や土地に連なる、鎌倉武士の末裔であることは拠り所でもあったのでしょう。

 「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル11章16節)」

 この私も父と同じで、血筋や血統などには関心がありません。ただ神の国、この国籍と市民権を与えられたことの誉は強烈に覚えて、感謝で溢れています。それは、「キリストとの共同相続人」であると信じていますので、この地上への執着はありません。

 やがて近い将来、父が慕った地や、私の生まれ育った地でもない、「さらに優れた故郷」、「天の故郷」に帰る日を、雲のような商人たちと共に、憧れ、切望しているのです。

 ただイスラエル民族は、父祖アブラハムに約束された「カナンの地」への思いは強烈です。この写真は、エチオピアから帰還した親子が写っていて、母親は祖先に約束された地に帰って来て、まずしたのは、跪いて、約束の地に接吻をしているのです。ユダヤ民族のカナンの地への憧れは驚くほどのものがある様です。

(“ bridge for peace “ からの最近の写真です)

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春花

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 サンフランシスコ湾の海辺の公園に咲く花だそうで、昨日送信してくれました。春を感じた自然界は、いっせいに花開き始めています。閉じ籠り症候群の私たちに、長女が綺麗をお裾分けしてくれています。もう何年も前に、サン・ホゼに行った時に、案内していただいて、サンフランシスコに、ジャイアンツのアメリカン・リーグの野球の試合を観に行きました。

 この街にある一帯は、多くの日本人や中国人の農業移民の地で、多くの移民のみなさんの汗と涙を受け止めた地なのです。作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、渡辺はま子が歌った「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」と言う歌があります。

桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン 夜霧に濡れて
夢紅く誰を待つ 柳の小窓
泣いている 泣いている
おぼろな瞳 花やさし霧の街
チャイナタウンの 恋の夜

桑港のチャイナタウン燃えて
泪顔ほつれ髪 翡翠の篭よ
忘らりょか 忘らりょか
蘭麝(らんじゃ)のかおり 君やさし夢の街
チャイナタウンの 恋の夜

桑港のチャイナタウン 黄金(きん)門湾の
君と見る白い船 旅路は遠い
懐しや 懐しや
故郷の夢よ 月やさし 丘の街
チャイナタウンの 恋の夜

 この街は、浪漫チックに歌われたのですが、日本人や中国のみなさんの勤勉と我慢が作り上げたと言えるでしょう。来る春くる春に、美しく咲き出す花は、移民のみなさんを慰め励ましたことでしょう。

 
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