しもつけ

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嘗てこの地を、「下野(しもつけ)」、群馬あたりを「上野(こうずけ)」と呼びました。中国の律令制度に真似て、全国を区分けしてから、そう呼ばれる様になりました。きっと住んだことのない方には、「下野」を正しく呼ぶことができないことでしょう。「上野」は、忠臣蔵に出てきます、吉良上野介にちなんで、「こうずけ」と言う人がいても、東京の「上野駅」が有名ですから、正しくは呼べなさそうです。

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栃木に住み始めてから、家の植え込みや垣根に咲く、白い花が気になっていました。ここにアップしました花が、「シモツケ」と呼ばれる、その花です。一説によると、この花にちなんで、「下野」と地名が誕生したのだろうと仰る方います。

この地の名物に、「しもつかれ」があります。鮭の頭を独特なスリコギ「鬼おろし」で擦った大根や人参を、粕漬けなどで煮込んだ郷土料理です。調味料を使わないのだそうです。きっと栄養源だったのでしょう、『しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと、中気にならない!』と言われているそうです。

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名主さんやお代官様が、鮭の実を食べて、残った頭の部分を、あまり豊かではないみなさんが、工夫して食べ始めて、美味しくて増え広がったのだとか、と想像しています。と言うのは、ブラジルに「フェイジョン」と言う豆料理がありまして、その経緯に似てるのではないかと思うのです。

農場経営者の下で、農作業をしていたアフリカ系のみなさんは、その豆料理に、牛や豚の内臓肉を加えて食べたのだそうです。肉は豊かな人が食べ、安い肉を豆や玉ねぎやニンニクなどを、香辛料で煮込んだのだそうです。家内の母親や妹がブラジルにいたことがあって、それを作って食べさせてくれたことがあります。うまいんです。

それを、「フェジョアーダ」と呼ぶのですが、淡白な「しもつかれ」とは味合いは全く違いますが、贅を凝らした食べ物でない食事は、より健康的で、栄養価が高かったのでしょう。

(上から「しもつかれ」、「シモツケ」、「フェジョアーダ」です)

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神秘なるかな天然

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 明治35年(1905年)、武島羽衣の作詞、田中穂積に作曲の「美しき天然」は、佐世保女学校が開校し、その音楽教育のために、校長が依頼して作られたものです。

1 空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音

聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや

2 春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布

見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや

3 うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ

見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや

4 朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな

仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや

 この様に、明治期の女子教育の教材に、創造の美や神秘を讃える歌を用いたことは、驚くことです。造陸運動や造山運動の結果、偶然に出来上がったものではなく、意図され、計画され、綿密に図られて大自然は出来上がっているのです。考えられないほどの知恵によってなる天然自然は、ただ畏怖するばかりです。

 同じく、明治期に、札幌農学校に学び、アメリカのアマースト大学に留学した内村鑑三は、後年、次の様に、「学ぶべきものは天然である」と言いました。

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 『人の編(あ)みし法律ではない、其(その)作りし制度ではない、社会の習慣ではない、教会の教条(ドグマ)ではない、有りの儘(まま)の天然である、山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、獣(けもの)である、是(こ)れ皆な直接に神より出(い)で来(きた)りしものである、天然は唯(ただ)天然ではない、神の意志である、其(その)意匠(いしょう、工夫を凝らすこと)である、其中に最も深い真理は含まれてある、天然を知らずして何事をも知ることはできない、天然は智識(ちしき)の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。』

 真っ赤に燃える様な月を、父の家の風呂桶の湯に浸かりながら、子どもの頃に眺めていたことがありました。母が、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 (ヨエル23節)」と教えてくれていましたので、その晩に、この世が終わるのかと、恐れ慄いて眺めていたのです。

 あの晩は何も起きませんでしたが、天然自然は、黙していても、何かを語りかけていることを学んだのです。太陽が燃えて輝き、その光を受けて月が輝いていること、その光で万物の命が保たれていること。何万光年の彼方から、星の光が瞬いていること、地球が中空に浮かんでいること、しかも自転しながら、太陽の周りを公転していること。

 ふと自分がチッポケなことを知らされて、足が竦(すく)んでしまったことがありました。ベランダの鉢の土の中で、あんな硬い種を破って、ひ弱な芽が出てきて、ズンズンと大きくなっていくミニトマトや朝顔の朝ごとに伸びていく芽を見ていると、《命の神秘》を、強烈に思い知らされるのです。

 それよりも何よりも、母のた胎に宿った私が、か弱な赤子として生まれ、ヒイヒイ言いながら、母に乳房をあてがわれて母乳を吸って大きくなったのを思い返しています。自分一人で大きくなったのだと、偉ぶって錯覚して、母や父に悪態をつき、反抗し、兄弟喧嘩をし、外で人を殴る様な小僧になっていったのを思い返すと、恥ずかしくて仕方がありません。

 賢い創造者の御業は、この地上に、天空に溢れています。人は、その精緻な有り様を知りながらも、『神はいない!』と言ってるのにも驚かされます。『ああ麗しきかな、神秘なるかな天然は!」

 

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仕事以上のこと

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『人はなぜ働くのか?』と言う人生上の命題があります。その理由は、一つは「愛されること」、二つ目は「褒められること」、三つ目は「人の役にたつこと」、四つ目は「人から必要とされること」だと言われています。

 これらは、仕事を持つことで与えられることですが、人の「幸福感」を満足させてくれる様です。ですから幸せに生きるためには、一つは、仕事が必要不可欠であるとのことです。でも、誰かを愛すること、誰かに愛される必要を私たちは、仕事以外に持つ必要があります。

 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、先年、お亡くなりになったアルフォンス・デーケンさんが、「人が持つ3つの特質」ということで、次に三点を取り上げておられました。          

① 考えること                         ② 選択すること                        ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。

 いろんな情報が錯綜していますから、正しい目と思いで判断をして、正しく判断する必要があります。やはり人には、「愛」が不可欠なのでしょう。本来人間は利己的ですが、その利己心を正しく収めて、思いを他者に向ける必要があります。

 有名な話に、「隣人愛」を題材にしたものがあります。

 『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書102937節)』

 結論は、人の必要に思いを向け、物を与え、時間を費やし、犠牲を払ってです。最後の人は、仕事の途上で足を止めたのです。仕事を犠牲にしてまでも、「あなたも行っておなじようにしなさい。」と言う勧めです。現代社会は、そうしてくれる人が必要なのではないでしょうか。

(もう咲き出してるでしょうか「ニッコウキスゲ」です)

 

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再会

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駅に行く道の路側帯の街路樹に、「栃の木」が植えられています。その木に咲く花に、引っ越して来て気になっていたのですが、一昨日、撮ってみました。以前住んでいた街は、ハナミズキの街路樹で、赤と白の花が咲いて綺麗でした。街も山も里も、どこもかしこも花花花で、素敵な初夏を楽しんでいます。

この「栃の木」は、栃木県の県木で、家具などに使う高級材になるのですが、いつか栃の木で作られた食卓で、水団(すいとん)を食べてみたいものです。そんな食事が似合いそうな木や花なのです。

昨日は、家内の叔母が、先月、104歳で亡くなりまして、家内に代わって、熊谷のお宅に、ご挨拶にお邪魔しました。叔母が10年ほど過ごした部屋に、百歳の頃に写した写真がありました。江戸っ子の気風の女性で、物言いがスパッとしていたでしょうか、家内は可愛がられたそうです。

日本人の習わしで焼香を、家内の従兄弟に求められましたが、丁寧にお断りをして分かっていただきました。ずっと年老いた母のお世話を、長男として果たしてこられたのです。奥様の手を煩わせないで、全てのお世話をした孝行息子でした。『よくなさいましたね!』と、労をねぎらい、お宅を辞しました。

四人の子の母親として生きて、叔母は生を全うしたのです。どなたもあっという間の一生を過ごすわけです。基督者の家内の姉が訪ねた折に、《永遠のいのち》に至る信仰を、この叔母が告白したと聞いています。これが人の一生でいちばん幸いなことであります。再会の希望があります。

 

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夏は来ぬ

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 明治33年(1900年)に、作詞が佐佐木信綱、作曲が小山作之助で、明治期の唱歌として、私たちが親しんできた「夏は来ぬ」があります。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

この歌は、古きよき時代の季節感があふれていて、懐かしさが感じられます。ちょっと難しい言葉遣いがありますが、今の夏と少しも変わらない故郷に風情が蘇って来て、素晴らしいなあと思うのです。

 私の散歩道は、市内の街中の目抜き通りを一本脇に入った「日光例幣使街道」を、日光に向かって歩き始めています。その旧街道を離れて、「総合運動公園」に行く片道四千五百歩ほどのコースなのです。蔵の町を通り、代官屋敷跡、味噌問屋、肥料店などの前を通りますが、ほとんどは閉店してしまって、門が前だけですが。

 京の都から、年一度、旧暦の四月十五日(西洋暦だと5月26日だそうです)に、東照宮詣でをする決まりがあったそうです。そんな勅使の気持ちを味あおうと思うのですが、往時の佇まいは所々に見受けられる建物跡なのです。その気分に浸れないまま、道を逸れてしまうのです。

 その道は、けっこう車が通りますので、勅使が通過した当時にはなかった「排気ガス」を吸わなければならないのです。防毒マスクをつける代わりに、最近は、田舎道を見つけて、そこを歩いているのです。「部賀舟(ぶがぶね)」が登り下りをした巴波川の土手の上を五千歩行って、折り返して帰ってくるのにコース変更したわけです。

 藪の中でカラスの子が騒いでいて、産卵期でしょうか、鯉がバシャバシャと水音としぶきをあげていっしょいます。さらに鴨がうるさく声を上げているのですが、かれらも精一杯生きているわけです。この時期、茂みの青葉の木の中から、『ホーホケキョ、ケキョケキョ!』と鳴く声が聞こえるのです。信綱が言ったホトトギスの声です。

 この歌詞にある様な「忍び音」どころではなく、令和のホトトギスは、爽やかに、懸命に、まるで賛美しているように鳴いています。それに雲雀(ひばり)が、空を舞いながら鳴いているのです。夏よりも、まだ春を感じている感覚なのです。

 この写真は、巴波の流れの土手に咲いていた野花ですが、手折ってコップに家内が挿してくれました。矢車草が三色あったりで賑やかな春の色彩でしょうか。空には、獨協医科大学病院の《ドクヘリ》のプロペラ音がしています。

 農業用水の水路でもある巴波川の水が、田圃に引かれ、ぼちぼち田植えが始まったり、準備中です。早乙女の出る機会が、田植え機械の導入で見られない時代ですが、水路を整備していたお爺さんに、『おはようございます!』と言ったら、頷き返してくれました。やはり、「夏は来ぬ」です。

 

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ルピナス

.✳️ 写真を指で押すと写真が拡大します!


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「ノボリフジ(昇藤)」とも言われる花、「ルピナス」が、市内の惣社町にあると、友人が知らせてくださって、通院途上の道の脇の花園に咲いているのを、昨日は下車して見て来ました。

遠目で見た方が綺麗でした。まさに、垂れ下がって咲くフジの花が、逆方向に下から上に向かって咲いているように見えるのです。ヨーロッパの南部原産の豆科の花なのだそうです。実に綺麗でした。

 

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同胞愛

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 「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 (ローマ93節)」

 エステルが、自分の民族の絶滅の危機に臨んで、叔父のモルデカイの勧めで、禁を侵し、命を賭して、王に執り成しをしました。それで民族滅亡の一大事を回避しています。またデンマークの戦後の荒廃、国家消滅の危機の中に、36歳の元工兵ダルカズは、息子と共に立って、祖国の経済自立の基礎を据えました。

 未曾有の天災、関東大震災で帝都東京が、壊滅的な被害受けました。東洋一の首都に復興するために、後藤新平が果たした貢献は実に大きかったのです。奥州水沢藩士の子でしたが、家は貧しかったそうです。しかし反骨心の旺盛な新平は、医学を学んで医師になります。その後、政界に入り、外務大臣などを歴任した後、東京市長に就いたのです。そこで、その才腕を奮ったのです。

 後藤とほぼ同世代の内村鑑三は、「日本の良心」を保った点で、後藤に劣らない働きを、都市にではなく、人の一生に関わる影響を与えています。多くの明治期の青年たちを啓発して、日本に「義の精神」をもたらし、「神を畏れる人」を、日本の社会に輩出したのです。それは隠れた貢献とでもいうのが宜しいかと思います。

 このパウロの迫真の《同胞愛》に驚かされます。これは国粋主義でも、自分の民族への過大な誇りから出たものではありません。「キリストの愛」が迫った結果のパウロの強固な決心でした。「キリストの心を心とせよ」、まさしくパウロは、その心を宿していたのです。 

 キリストの迫害者からの見事なパウロの転身は、人間的な決心にはよりませんでした。それこそ聖霊の御業でした。裏切られようとも、嫌われようとも、捨てられようとも変わることなど全くないパウロの同国人への愛を、私は持っていません。同胞の救いのために祈りますが、足りません。

 「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』(マルコの福音書1615節)」

 ところが、同国人でない日本人の救いのために献身し、来日し、膝を折って跪き、涙を流して祈っていたのが、私を育ててくれた宣教師でした。この方を日本宣教に促したのが、私の母教会を始めたアメリカ人宣教師でした。太平洋戦争に従軍し、日本軍と戦った経験があり、戦後日本に駐留した兵士でした。

 戦場での残忍な日本人と、進駐軍で任務について、戦後、日本で接した、優しく親切な日本人との違いに驚いたのです。その驚きの中で気付いたのが、日本人に何よりも必要なのは、「福音」だという結論に至ります。それで聖霊に促され、準備をして日本にやって来たのです。

 その初期に出会ったのが、家内の母親と上の姉でした。家内の家族は、けっきょく宣教師の住む街に転居しています。街の路上で義母と出会った私の母は、その教会に導かれたのです。多くの人がキリストと出会い、信仰を継承してq生きました。そして、家内や私は二代目、今や三代目、四代目の世代になっています。

 

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薔薇を頂く

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《芳香》、家内が昨日いただいた、ほのかに香る薔薇です。近所のご婦人が、ご自分の家の庭に咲いて、見頃になった枝をたおって、持って来てくださったのです。もう死んでしまった飼い犬との出会いを通して、始まった交わりの家内と同世代の方です。

この二人が路上で出会うと、手を取り合って喜び合うのだそうで、《乙女帰り》の姿を想像して、微笑んでいる私です。コロナで家に上がってもらうことを避けているご時世ですが、むつくけき男とは違って、『女性っていいな!』と思います。

路上で、白髪のジイジ同士が手を取り合っていたら、醜聞になってしまうのですが、柳の様に、しなやかに生きている女性には許されることでしょうか。ちょっと羨ましいのです。

わが家のベランダと、客間と食堂兼用に部屋にも、花が咲いていて、《小花園》なのです。そこにミニトマトや紫蘇や茗荷に種が撒かれて、ベランダを占有しています。命の音が聞こえて来そうな週始め、金曜日、家内の通院日の朝です。

今、上の息子が、病院の送り迎えの親孝行のために、ちょうど今、到着したところです。暑い初夏のような一日だそうです。

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命の神秘

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 「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇1391516節)」

 どうしてこうも違うのでしょうか。同じ学年、戦争中の2ヶ月ほど違う生まれ、同じ時代の空気を吸い、あの時代の物事を同じ様に感じて生きていたのです。敗戦後、必死に働いてくれた父母のもとで、同じ様に育てられ、同じ平和教育を受けたのです。

 この人は、博多で生まれ、博多で育ち、この私は中部山岳の山奥で生まれ、東京で育ったのです。この人は、2016年にノーベル学生理学・医学賞を受賞し、私は無名無冠の只の人で、関東平野の片隅に住んでいます。

 その人が、大隈良典さんです。私が、中学時代に、『入りたい!』と思っただけでしたが、一時は本気で目指した東京工業大学、その学校で、栄誉教授として教育指導と研究をした方なのです。大隈さんが受賞されたのは、タンパク質が物質内に宿す「Autophagy/オートファジー(自食作用)」を発見されたからでした。動物の体内にあるタンパク質に、そんな驚く様な働きが隠れている事を知って、実は驚いたのです。

 私の知っている「タンパク質」の知識は、炭水化物、脂質とともに、「三大栄養素」で、私たちの身体を作るために重要な役割を果たしているくらいです。それなのに、不要になったタンパク質は分解されて、他の用のために用いられて行くという働きを聞いて、生命科学の世界の高さ深さ広さ深さに、畏敬の念さえ覚えさせらたのです。

 これほどの働きを体内の物質が持っているとするなら、その様な作用を計画された設計図があるのではないかと思ってしまうのです。今、ブログを書いている“iPad"ですが、アップル社では、まず設計図が書かれ、そのための部品の材質や大きさが決められ、実際に部品が作られ、それが一箇所に集められて組み立てられ、製品化されて売り出し、次男が買ってくれて、いま手元にあって、実に有用な仕事をしてくれているのです。この発見も、何をかいわんやです。

 買って持っているのではなく、生まれながらに持っているタンパク質が、人の意識外で、この肉体の中で、休む事なく働き続けているのだというのは、《神秘》に違いありません。それを、大隈さんは、顕微鏡を覗き続けて、見つけ出されたというのにも、驚かされます。同じ中学で、いつも制服の上に白衣をつけて、化学室で何かの実験をしていた二級上の「ヤギ先輩」のことを思い出してしまいました。

 『お前の血液型を調べてやる!』と言って、耳たぶから血液を採って顕微鏡で覗いて、『お前はAB型!』と言ってくれました。ずっと、そう信じていて、何かの検査で血液検査が必要で、『AB型ですからしなくても・・・』と言ったら、『念のために!』と言って調べてくれたのです。何と、"O型"に変わっていたので驚いたのです。『あの先輩も、きっと顕微鏡を覗き続けてきているのかな?』、などと思ってしまいました。

 建築か土木をやりたかったのに、全く別な道に進みました。そして、考えもしなかった日本語教師をさせていただきました。それぞれの人生があって好いでしょう。褒賞とは縁のない世界で生きて来ている人の方が、はるかに多い現実で、先週、姪が手術を受け、兄と義姉から、『お祈りを感謝します!』と電話がありました。

 手術をした姪も、まだ深刻な病状ではない家内も私も、一人一人の体内では、「オートファジー」の働きがなされているのだと思うと、生きている意味が実感させられてきます。命の創造者がいて、命を保持していてくださるお方がいる以外に、命は語れません。

 

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微笑みながら

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 「しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。    生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。 (詩篇29節、2210)

 詩篇の記者は、私たちの誕生までの一切を定めた方こそ、万物の創造者だと告白しました。命の保持者も、この神さまなのです。生命誕生の神秘さは、私たちを驚かせます。

 戦時下、中部山岳の山奥で、母は、3人目の男の子の出産で、私を産んでくれました。十ヶ月の間、母胎に私を宿し、祈りつつ、私を主に委ねて過ごしています。真冬の間借りして住んでいた旅籠の別棟で産んでくれたのです。

 朝4時45分の出産だったと、父が記録をメモ帳に残してくれました。宮本村の村長夫人が産婆をして、産湯につけてくれたそうです。エアコンも電気ヒーターもない時代、寒かったことでしょう。二年後、同じ様にして弟も生まれています。

 「彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。
彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。『しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている』と。(箴言31章25~29節)」

 それから、結婚するまで、母の手で世話されて、私たち四人は過ごしたわけです。九十五年の生涯を終えて、命の付与者の元に帰って行きました。

 結婚した私の家内も、同じく四人の子を産んで、育ててくれました。母への感謝は尽きません。

 

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