極意

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電動自転車が、人と自転車と車の間を、巧みにすり抜けて通って行きます。オートバイのようにエンジン音がしませんので、真横をスッと通り抜けて行く時には、「ウッ!」と何度も驚かされたのです。今では、慣れたので、歩きの進路を急に変えたりしません。もし進路を変えなければならない時には、ゆっくりとした動作をする様にしているのです。そうすると電動自転車も車も、こちらの動きを察知できるからです。これは安全のために身につけた「極意(ごくい)」です。ここ華南の街は、この電動車が最も多い街だと言われています。以前は大型だったのですが、数年前から小型化に規制されてきています。「便利ですよ!」と言われて、買うことを勧められるのですが、よく電動車同士やバスなどとの衝突事故を目撃していますので、乗りたくありません。

最近、切る風が冷たくなったからでしょうか、この電動車に乗る女性の服装が特徴的になってきています。長袖のシャツや上着を、反対に腕を通して、お腹に背の部分を持って来て着ているのです。風防の為です。初めて目にした時に、「変なファッションだなあ!」と持って眺めていましたが、瞬く間に流行しているのです。この街の風物詩の一つです。

この電動車に、家内は日本にいます時に、乗っていた時期がありました。こちらのは結構高速のスピードで風を切って行くのですが、日本製は速度制限があって、自転車並みの速度なのです。何時でしたか、下を電車が走っている高架になった坂道を、家内が登っていました。バッテリーが足りないのでしょうか、あえいでいて自転車の私の方が速かったことがありました。こちらのは、親子三人、友達三人で乗っても、坂道なども「平気の平左」で、ズンズンと登って行くのです。最近自家用車が増えていますが、夫婦と一人っ子が、一台の電動自転車に相乗りしています。さながら、マイカー以前の中産階級の家族の平均的な様子でしょうか。

時々、天気の悪い雨の日、大きな荷物を持っている日などには、「車があったらなあ!」と思うことがあります。40年も車に乗ってきましたから、ほとんどの時が「歩き」と「公共バス」、時々は「タクシー」、たまに「友人の車」で生活していますので、そんなことを思ってしまうのです。こちらの免許証を取って、自家用車で道路の繰り出しても、事故車同士の運転手が、口角泡を飛ばして、丁々発止とやり合う様子を見て、「これができなければ運転をしない方が好い!」と結論したのです。

「足から弱くなるから!」と家内と話し合って、「歩くことが健康管理に最高だ!」というのも、もう一つの結論なのです。でも、たまの休みに、郊外の大自然の中に行ってみたい時には、「ああ、車が・・・」と思ってしまうのです。

(絵は、木曽道中の熊谷宿の「駕籠かき」の図です)

秋眠

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今年の大陸の秋は、例年のように、朝晩は涼しく、晴れの日中は、夏のような日を見せております。酷暑の夏の名残でしょうか、日本では、十月になっても「真夏日」があったほどに、日本列島が涼しくならないそうです。秋の楽しみの一つは、「春眠暁を覚えず・・・」と同じように、夏の寝不足を補うかのような「秋眠」で、熟睡できることなのです。こちらでは「睡得好(スイダハオ)」」、「眠れて得をした様で好かった(?!)」で、寝覚めが爽快になってきました。ところが、日本では、なかなか熟睡できないのだと聞きました。夏の高温の余韻を体が感じたままなのでしょうか。暑すぎた夏、それも、いまだに暑いということは、「ストレス」ではないでしょうか。

汗かきの私ですが、こんなに大汗をかいた夏は、今までありませんでした。寝ていても、一晩に二度ほど寝間着を着替えるほどでした。蚊帳の中で寝ていますので、空気の動きがよくないのでしょうか。扇風機もあるのですが、空調も含めて好きではないので、就寝時には使わないのです。今夏も、いつもの夏と同じように寝ていたのですが、夏の睡眠が足りなかったことは確かです。家内は、中国のみなさんがされるように昼寝をするのですが、私は、滅多にしません。どうも、「半時間ほどの昼寝」が最適だと言われているようです。

国会議員が議場で、「居眠り」をしているのを盗撮されて、物議を醸したことがありましたが、私はしたことがありません。学校の授業中とか退屈な講演を聞いてもです。この「居眠り」は、日本人特有の睡眠習慣なのだそうです。しかし、ここ中国の店頭では、よく居眠りをしてる店主や店員さんがいます。決して「昼寝」ではないので、似ているかなと思っています。欧米人には、この日本人の「居眠り」は珍しいのだそうです。どうも、文献で調べた人の話ですと、平安時代には、すでにあったのだそうです。身分の高い人から庶民、仏僧まで、「居眠り」をしていたようです。

もう一つ、「狸寝入り」というのがあります。眠ったふりをして敵を撹乱する、あの狸の習性からきているのだそうですが、事実でしょうか。そういえば、父が、よく狸寝入りをしていたようです。いびきをかいて寝てるからと、親父の悪口を言っていると、それを聞いていたらしいのです。こっぴどく怒られたことがありました。母が、「お父さんのは、狸寝入りなんだから!」とよく言っていましたが。今日も日中は暑かったのです。それなのに、熱い麺を、「小吃店(間口が一間ほどの食堂のことです)」で、大汗をかきながら食べてしまいました。晴れれば、まだまだ暑い華南の街であります。

(写真は、秋の味覚の「柿」です)

人間度

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「能力」、「風力」、「理解力」など、「力」のついた言葉は多くあります。ところが最近、ある事件のニュースの記事を見ていて、「大人力」という表現があって、ちょっと驚きました。有名な元プレーヤーから暴行を受けたタクシーの運転手と彼の会社の対応に、この「大人力」が見られるというのです。机上の辞書にはありませんでしたので、早速、Googleで検索してみました。ゲームソフトに「大人力検定」と言うのがあって、そこから流行り出した言葉のようです。もう六年も前に発売されたソフトで、こう言った世界に疎(うと)い私には、新発見でした。

そうしますと、社会生活を送る上で、人が身につけているかどうかが問われる多くのことに、この「力」をつける傾向があるということなのでしょうか。夫の成長度や完成度を測るのに「愛情力」、会社員の貢献度や充実度を測るのに「仕事力」、人としての成熟度を測るのに「人間力」などという言葉が生み出されるのでしょうか。ちょうど私たちの体重や胴囲や血圧が、計測器で計られているのと同じに、能力や価値観や貢献度だけが問題になっているのでしょうか。誰もが長所もあれば短所も併せ持っているのですから、計量数値の他に「プラスアルファ(α)」があるはずです。その辺に、人の面白さ、生きることの輝きがあるのではないでしょうか。

もう一つの言葉も、ちょっと気になっています。それは「民度」なのです。「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。テレビ番組の内容が時代、地域の民度と連動しているとの考えも存在する。」と辞書にあります。「国民」とか「市民」の「民」の度数を言っているようです。例えば、「日本人の民度は高いのか低いのか?」という言い方をします。

何時でしたか、講演会に出席していた時のことです。一級国道の脇に建物があって、道路と建物の間に空き地がありました。観光バスが道路に止まって、乗客を降ろしたのが見えました。降りて来たのは男性客ばかりでした。道路が高いところにあったので、彼らは階段を下りて来て、こちらに背中を向け道路に向かって一斉に放尿し始めたのです。「立ち◯◯◯」です。東京の街中でも、昔はよく見かけました。一つの理由は、公衆道徳の低さだけではなく、「公衆便所」が、ほとんどなかったことも問題だったのです。ああいうことが見られなくなったのは、「東京オリンピック」が行われた1964年以降だったのです。とくに様々な施設が、街中に設けられたこともありましたし、「世界の水準に、日本人の生活の仕方が達しているかどうか?」が問われ始めた時でした。みなさんに「自覚」が生じたので、「民度」が高くされてきたのでしょう。

今の私の最大の関心は、やはり「人間度」なのです。これを測る計測器があるはずですが。国籍や人種や言語を意識する以上の自分を見つめたいですし、さらに高めたいと願うのです。「自分の<人間度>が高いだろうか?」と問いながら、生きて行きたいと思っております。

(写真は、四川省に行った時に山間で撮ったものです)

先輩後輩

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    「◯◯良いとこ 誰言うた 櫟林のその中に 粋な学生がいると言う 一度は惚れてみたいもの、都立公立 古臭い・・・」、「僕は◯◯の一年生 紺の制服よく似合う あなたは女子部の白百合よ 紺のセイラーがよく似合う・・・」、これらは替え歌の文句で、上級生が教えてくれたものです。中学に入学して、隣の校舎には、おじさんのような高校三年生がいて、クラブ活動には、大学生や社会人が出入りしていました。また高校の教師が、中1の私たちを教えてくれたのです。とくに同じ学校の先輩と後輩というのは、近く親しく感じるものなのです。ああ言った関係が、とくに強かったと思います。

    「面倒をみる」とか「可愛がる」とか「奢(おご)る」とか言った関係でつながり、私たち後輩は、それを受けていたのです。もちろん、その中には、今では問題となっている「ビンタ(張り手のことです)」もありました。「制裁」とか「共同責任」とかで、頬を張りとばされたのです。「暴力」に違いないのですが、何だか「大人扱い」をされた気持になり、先輩への従順や敬意でさえ感じました。家庭や友達との間にはなかった真新しい世界の「上下関係」だったのです。中には、怒り心頭で殴った先輩もいましたが、例外でした。

    十歳も十五歳も年上ですと、戦時中に教育された先輩たちもいましたから、「軍事教練」を受けた世代になるのです。そんな先輩たちだったことになります。教師たちは、それを伝統とみなして、認めていたのです。教師の中には、OBもいましたから。「早く大人になりたい!」と言った願望で思いの中が溢れていました。ですから吸収力が旺盛で、いいことも悪いことも教え込まれた時でした。民主主義の教育を受けたのですが、古い価値観も残っていたことになります。

    あの時一緒に練習をした同級生たちと一緒に、都内の高校で試合があると、ボール運びと応援で連れて行かれました。帰りは、決まって新宿で下車して、西口の線路ぎわの小汚い食堂で、ご馳走になりました。美味かったのです。肉と言っても、何の肉だか分からないものだったのではないでしょうか。そんなことを考えなかった時代でした。仲の良かった友人は、四十前に亡くなってしまいました。同じ帽子と制服で紅顔の美少年だった仲間たち、先輩たちは、どうしていることでしょうか。全てのことが、昨日のように感じられてしまいます。

    (写真は、1960年頃の「新宿の街」です)

  • 運動会

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    「中高一貫教育!」を掲げた私の母校は、「武蔵野の櫟(くぬぎ)林」の中にありました。東京の多摩地区では、歴史もあり、まあまあの教育実績を上げていたのではないでしょうか。「大正デモクラシー」の時流の中で、教育事業を始めたことが、学園の学校案内の「沿革」に記されてあります。私たちが入学した頃には、幼稚園も小学校もありましたし、今では大学・大学院もある総合学園になっております。東京、京都と言った国立名門大学への進学者は少なかったのですが、私学の名門校「早稲田」の合格者はまあまあいたでしょうか。とくに大学進学の名門ではない「のんびり屋」の多い校風の進学先は、いわゆる「東京六大学」や「東都六大学」が多かったようです。

    そんなことで、卒業生たちの大学の「応援歌」が、秋の運動会には歌われていたのです。中学に入った年には、中高六年の合同運動会が行われていました。縦割りでしょうか、「白組」と「紅組」に分かれた「紅白対抗」で、競技が行われたのです。運動会が近づくと、校庭に集合して、応援歌の練習が何週にもわたって行われました。声変わりのしていない中学の新入生の私たちは、声をふりしぼって歌わされたのです。それで声変わりが始まった者もいたくらいだったのです。「武蔵秋空、希望に高く、意気と深紅の血と燃え盛る・・・・」、「紺碧の空、仰ぐ日輪、勝利・・・・・」などを歌わされた記憶があります。

    ああ言った伝統は、男子部と女子部が統合され 、男女共学の今も受け継がれているのでしょうか。「運動会」の思い出は、小学校よりも、中学入学の頃の物めずらしかった「母校愛」の意識を強くされた時のものです。「バンカラ(yahoo辞書によりますと<[名・形動]身なり・言葉・行動が粗野で荒々しいこと。わざと粗野を装うこと。また、そのような人や、そのさま。「ハイカラ」に対する造語。「―な学生」「―を気取る」とあります)」な気風が、まだ残っていたでしょうか。こちらの中学生や高校生に聞きますと、私たちが参加したような「運動会」は行われていないようです。 子どもたちの幼稚園や小学校の頃の「運動会」は、日曜日に行われていまして、日曜日に忙しかった私と家内は、やっとのことで、朝早く家内が作っておいた「昼ごはん」をもって、午前の部が終わった頃に駆け付けるのが常でした。校門(運動場に面した裏門でした)で、上の三人が首を長ーーーーくして、私たちを、いえ「弁当」を待っていたのです。そんなことの連続の年月でした。彼らを気の毒に思った級友のお母さんが、弁当を分けてくれようとしたこともありましたが。私たちを見つけた時の喜んだ彼らの顔が、今も思い出されます。もう孫の時代の「運動会」になってしまいました。思い返しますと、日本の学校教育には、独特で伝統的なイヴェントが多くあったように思うのです。やはり圧巻は、幼稚園のそれでした。「こんなに大きくなって!」と言った感慨で、多くのお母さんたちが泣いていたからです。今も、そうでしょうか。日本では「体育の日」の休日、連休も終わったことでしょう。 (写真は、今も残る「武蔵野の雑木林」です)

    小さな出来事

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    昨夕、家内と路線バスに乗って出かけました。その訪ねた家で夕食をご馳走になって、10時過ぎまで話をして過ごしました。遅くなってしまい、帰路についたのですが、もうバスの運行時間が終わってしまっていました。それでタクシーに乗って帰って来たのです。アパートの前の果物屋さんに明かりがついていましたので、みかんと葡萄を買って道路を渡ったのです。私たちの後ろから一人のご婦人が歩いて来られ、何か話しかけてきました。小声だったので私は聞き取れなかったのですが、「いい夫婦ですね!」と言っていたそうです。こちらの方は、そう言った言葉を、見ず知らずの私たちにも、気軽にかけてこられるのです。

    久し振りに寄る店で、懐かしそうに店主が話しかけてきます。「どうして知ってるのですか?」と聞くと、「一年前に買い物に来たじゃあないですか!」と答えます。私たちのことを覚えていてくれたのです。これは時々あることです。「意外と見られているんだ?」と思い、言動に気を付けないといけないと感じています。群衆の中に紛れ込んでいるように感じても、見ている人がいるわけです。最近では、すっかり中国人になったように感じるのです。顔の色も表情も仕草も、少しも変わらないのですから。それでも、ちょっとした違いがあり、みなさんから少しばかり浮いて見られているのかも知れません。

    日本男児の私は、妻でありながら、なかなか腕を組んだり、手をつないで歩くのに躊躇してしまうのです。アメリカ人のようにできたら好いのですが。人の目を気にするからでしょうか。でもこちらに来て、だんだんと年を重ねて、足元がおぼつかなくなってきたこともありますし、夜道は日本のように明るくないし、段差もありますので、最近では、腕を組んでくる家内を受け止めて歩いているのです。そう言った様子を見て、好ましく感じられたのでしょうか、そのご婦人が、そう語り掛けてきたわけです。仲睦まじい様子は、好いことなのですね。「日本人の老夫婦が助け合って、異国で生きているんだ!」と思ってくれるのは、対日感情のなかなか好転しない中での少しばかりの「一歩前進」になるのでしょうか。多くの人たちが、いまだに「日本鬼子」と思っておられる昨晩の巷での小さな出来事です。

    (写真は、「夕日」です)

    ちいさい秋

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    「四季の歌」の「秋」を歌う歌詞に、

    秋を愛する人は 心深き人
    愛を語るハイネのような ぼくの恋人

    とあります。与謝野鉄幹は、「人を恋うる歌」の中で、

    ああ われダンテの 奇才なく
    バイロン ハイネの熱なきも
    石を抱(いだ)きて 野にうたう
    芭蕉のさびを よろこばず

    と歌っています。ハイネの詩は、明治以降の近代化の中で、多くの若者に好まれたようです。しかし、青年たちを啓発して、夢や理想を詠み込む詩ではなく、「恋愛詩」を作ったのですが、当時の大人は、「何と軟弱な!」と感じたのではないでしょうか。与謝野鉄幹も、ご婦人には至極甘かったようですし、政治でも教育でも実業の世界でも、指導的な立場にあった人たちの多くもまた、鉄幹に似た生活をしていたようです。それを「よし」とするものが何時の世にもあるのでしょうか。

    「秋」は、「物思う季節」だったり、「人生を探求する季節」なのではないでしょうか。作詞がサトウハチロー、作曲が中田喜直の「小さい秋見つけた」は、

    1 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      目かくしおにさん 手のなるほうへ
      すましたお耳に かすかにしみた
      呼んでる口笛 もずの声
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    2 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      お部屋は北向き 曇りのガラス
      うつろな目の色 溶かしたミルク
      わずかなすきから 秋の風
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    3 だれかさんが だれかさんが
      だれかさんがみつけた
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた
      むかしのむかしの 風見の鶏 (とり) の
      ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつs
      はぜの葉赤くて 入り日色
      ちいさい秋 ちいさい秋
      ちいさい秋みつけた

    です。実に素朴で、ホッとさせられる詩ではないでしょうか。この歌に出てきます「だれかさん」や「鬼さん」の顔を、真っ赤な夕日やモミジが照らしているように感じられるのです。広場に集まって、「鬼ごっこ」や「宝とり」を、キャアキャア言いながら集団で遊んだのは、つい昨日のようです。そういえば、「集団遊び」も「広場」も、日本では見られなくなりました。ここ中国では、夕方になると、幼稚園くらいの子どもたちが、さまざまに掛け合いながら遊ぶ声が、アパートの壁に反響して聞こえてきます。ずいぶん影が長くなってきて、ここ華南の地も、もう「ちいさい秋」です。

    (写真は、中国四川省稲城の「秋」です)

    願い

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    この写真は、「外孫」たちの小さなころの後ろ姿です。兄貴が妹をコロに乗せて、家の周りを連れ歩いてるところです。もう二人とも小学生になってしまいました。彼らには、いとこが日本にいて、ほぼ同世代です。私たちの「内孫」になります。曽祖母の葬儀の折りに再会をして、遊んでいるのを見て、血の繋がりの近さをみせていました。自分の子どもたちは、なかなか大きくならなかったように感じたのですが、孫たちの成長の早さには、驚かされます。養育の責任はないし、会うといってもほんのたまなのですから、そんなものなのでしょう。

    先日、その長男の息子が、神妙に目をつむっている姿を撮った映像が送られてきました。何かを心込めて決心したと言った「本気顏」をしていて、「わー、成長したんだ!」と思ったのです。まだピカピカの一年生なのにです。ジイジの私など、あの年齢の時には、ハナを垂らして、ボーッとしていて、あんな表情をしたことはなかったのです。感心してしまったのは、ジイジの欲目でしょうか。

    異常気象、原発事故の放射性物資の拡散、残虐な事件の頻発、人心の荒廃、人口や食糧の問題、将来への不安、イジメなど、大変に困難な時代を、孫たちは生きて行くわけで、「何をして上げられるだろうか?」と、小さな頭で考えて見ても、何も思いつきません。ただ、「どんなことが起こっても、感謝の心、慌てない冷静さ、勇気をもって問題に立ち向かえる、強い心でいてほしい!」と願うだけです。

    "Come back “

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    「親分、ポリ公の野郎が来やがりやした!」、日頃、警察官を快く思っていない子分が、親分に、警察官を侮辱語で「ポリ公」と「野郎」と呼び、来たことも「来やがった」と歓迎しない迷惑な思いを込めて言っています。ところが「親分」には敬意を込めて、丁寧に語り掛けているのが対照的で面白い文章です。きっと悪巧みを計画しているか、悪さをした後の話し振りに違いありません。三十年ほど前に、世話をした少年が、警察官を、隠語で「マッポ」と言っていました。

    そう言えば、何時の頃からでしょうか、街中や住宅街で、「巡査(警察官の別名)」を見掛けなくなりました。駅前とか、賑やかな所では、「こんなにいるの!」と思うほどいるのですが、住宅街などの「派出所(交番の別名)」には人影がありません。何時でしたか、拾い物をして届けた時に、呼んでも返事のない、不用心な交番がありました。一体、どこに行ってしまったのでしょうか。小学校や中学校に通っていた頃、留守番をしていると、「お巡りさん(警察官の別名)」が、子どの私にも敬礼して、「お母さんはいますか?」と尋ねられたことが、二、三度ありました。母が犯罪を犯したからではありません。そうやって「警邏(けいら、見回ること)」や「巡視(じゅんし)」をしていたのです。地域担当の「巡査」が、住民の安全を確認したり、防犯のために時間を割いていたのです。

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    昔と比べて警察官は減っているのでしょうか。それとも、事務的な報告書の作成などの雑務が増えてしまって、パソコン操作などで忙しくなってしまっているのでしょうか、警察官を見なくなっているに気づくのです。地域密着型の警察でなくなっているのです。殺人事件は、駅前とか、飲食街で起こることがほとんどでした。ところが去年でしたか、吉祥寺の住宅街で殺人事件がありました。そして、先ごろ、その隣の三鷹でも殺人事件が起こったのです。こう言った事件と、警察官を見かけなくなってきている傾向と、何となく相関関係があるのではないでしょうか。

    「君、幾つ?学生証を見せてください!」と尋問されたことがありました。生意気なくわえ煙草で歩いていた時でした。<未成年者の喫煙>だと踏んでの職務筆問だったのです。私は、やおら学生証を提示したのです。それを確認した巡査(そんなに年齢は違っていなかったと思われますが)は、敬礼をして、「お気をつけて!」と言いました。私はタバコを、「スパッ!と吸って、彼から離れたのです。年齢に見えない「童顔」だったので、これに似たことがいく度もありました。

    犯罪が凶悪化していることは事実です。ニュースが伝える殺人事件の多さに驚かされるのです。昔の映画の「シェーン」のラストシーンで、"Come back “と少年が叫んでいました。同じように、「戻って来て!」と、住宅街が叫んでいるのではないでしょうか。お巡りさんが住宅街に復帰することをです。

    (写真は、「現在の交番」と「1938年当時の交番」の比較です)

    碧空

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    「抜けるような空」のことでしょうか、秋空を、「天高く」と形容するようです。台風接近を知らされた日は、まさに「碧空(へきくう)」でした。私たちの住んでいる華南の街は、中国で、「最も自然環境に恵まれた街」とのお墨付きをいただいているそうです。それなりに、長年の植樹や環境保全を続けてきたことがあっての今なのです。多摩川を挟んで東京の西にある「川崎」は、京浜工業地帯の一角で、大企業から零細企業まで、多くの工場がひしめき合って、日本の工業化の要をなしてきた街の一つでした。空気の悪さでは、日本一だった街で「喘息」の発病率も群を抜いて高く、ここから長野や山梨の山村に、疎開した児童も多くいました。「川崎公害」と言われたほどです。石油のコンビナートができ、様々な物資のための運送業のトラックの排気ガスは半端ではなかったからだと言われています。

    かつて北京の空も、天高く抜けるような青さだったのですが、最近では「外出を控えてください!」と警戒情報を発するような事態です。まだ、暖房用の石炭を燃やし始める時期にはなっていませんが、電力消費量が急増し、火力発電に頼る中国に電力事情によって、大気が汚染しているのです。それに加え、自家用車の普及があげられます。 二酸化ガスの排気量の増加も半端ではないからです。我が家の上の階のご婦人も、運転免許証をとられて、このところ自動車も手に入れておいでです。駐車スペースが足りなくて、私たちの住む公寓(アパート)の敷地内は、車がひしめいて、植え込み中にも駐めるような現状です。「中国一」の自然環境を誇る街のこちらも、ゆくゆくは排気ガス天国になってしまうのでしょうか。

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    実は、「公害対策費」は莫大な資金が必要なのです。静岡県下に富士市があって、紙パルプの製紙工場の街です。「垂れ流し」を住民から指摘されてから改善に取り組んだのですが、その経費は驚くほどの出費だったそうです。新聞購読者が減って「紙の時代」が終焉を迎えようとしている今、製紙工業の行く先も心配ですが。これから中国は、「公害対策」が、最大の課題だと、世界から指摘されています。そのためには、それだけの資金の準備が不可欠でしょうか。そうでないと次の世代に、好い「住環境」を渡せなくなってしまいます。

    中国に来る前に住んでいた日本の街は、「自然要塞」のように、巡りに山が林立し、真冬には山颪(やまおろし)の北風がきつかったのですが、空気も水も農産品も抜群に美味しかったのです。とくに山間(やまあい)に分け入ると、「湧き水」があり、それを両手ですくって飲むのですが、ミネラルが豊かで、「うまい!」と声が出てしまうほどでした。人が増え人家が建ち、物流が増えて自然が破壊される、お決まりのサイクルなのですが、「逆サイクル」にすることはできないまでも、「これ以上は…!」の決心で、自然を取り戻したいものです。

    二十数年前に、北京から「万里の長城」の観光に出掛けた時に、頂上から見上げた空が真っ青だったのを覚えています。その時、中国で何軒目かの「マクドナルド」が、駐車場の脇に開店営業したばかりだと聞いたことが、なぜか記憶に残っております。

    (写真上は、「秋の空」、下は、2006年の冬に天津のアパートのベランダから撮った「暖房用温水施設の煙突」です)