ツバキ

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公寓の庭の植え込みに植えられた「椿」の蕾が、このところ、膨らみを増してきました。暑さの中では咲かないで、木枯らしが吹く中に咲くので、「耐寒性植物」と呼ばれますから、「反骨の花」の様に感じるのです。中国の花だとばかり思っていたのですが、日本原産なのです。そうしますと、海を渡って大陸にやってきたことになります。

後輩が伊豆諸島の利島で働いていて、「遊びに来ませんか!」と誘われまして、子育て真っ最中に、家族で出かけたことがありました。船が着岸して、住宅のあるところまで、だらだら坂を登って行くと、「クサヤ」という魚の加工場がありました。これは、トビウオなどを開きにして、独特のタレに漬けて、天日干しをしたものなのです。だいぶ臭いのですが、実に美味しいのです。そこからすぐの所に、この方の家があり、高台まで歩いていくと、「椿畑」が山すそに広がっていました。

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熱海からだったと記憶しているのですが、そこから大島に船で行き、大島で乗り換えての船の旅でした。この島の主要産業は、この「椿」の種を原料にして絞り出した、「椿油」なのです。ほとんどの食料は、大島を経由して、運ばれてきていました。波止場の近くに泳げる場所があって、夏休みを利用して出かけましたので、防波堤で波の静かな内海で海水浴をして遊んだのです。

これと同じように秋から冬にかけて咲く花に「山茶花」があります。これも日本原産で、巽聖歌の作詞、渡辺茂の作曲による「たきび」の歌詞の中にでてきます。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

そういえば、濡れた手が北風にさらされてできる、「しもやけ」とか「あかぎれ」の痛痒さを、子どもの頃に覚えたことがありましたが、手袋をする現代の子どもたちには、もう見られなくなったようです。母用の「椿油」をすり込んでもらったことがありました。椿の膨らんだ蕾を見ていたら、そんな昔を思い出しました。

(写真上は「椿」、下は「利島全景」です)

男の好い顔

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男として、『好い顔だ!』と言うのは、この「高倉健」ではないでしょうか。カメラの前に立った時に、演じている顔ではなく、八十二年間生きてきた化粧のない顔です。その顔で、『ほとんどは前科者をやりました。そういう役が多かったのにこんな勲章をいただいて、一生懸命やっていると、ちゃんと見ててもらえるんだなと素直に思いました。』と、<文化勲章>受賞後の記者会見で話していました。

半世紀前に、初めてこの人の映画を観た時に、『不器用だなあ!』と、正直に思いました。でも、「八九三(やくざ)」の悪(わる)を演じていても、真剣に生きている男の「真実」や「意気」、小説風にいうと、「男気」を感じたのです。六十年近くも、「人の夢の代役」を演じ続けたことへの褒賞を得たことになります。ダムや橋梁やビルを作ったり、工業機械作ったりはしなかったのですが、「義理」や「人情」の冷えた社会に、人の「心情」を表現したことにも「文化的な意義」があるのでしょうか。

1976年に、日本で「君よ憤怒の川を渉れ」という映画が上映されました。濡れ衣を着せられる、地検の検事である、「杜丘冬人」を、高倉健が演じたものでした。この映画が、文革後の1979年に、中国で上映されたのです。驚くことに、数億人が見たと言われるほどの空前の人気を博したと言われています。それででしょうか、中国に来ました時に、『杜丘(duqiu)を知ってるか?』と聞かれて、何を聞かれたのか皆目分からなかったのです。その人は、若い時に、この映画を観た人だったのです。高倉健の名前よりも、主人公の「杜丘冬人」の名前の方が有名だったほどです。この映画を見た青年の一人が、「紅いコウリャン」を監督した「張芸謀」だったのです。彼を映画の世界に誘ったのが高倉健でした。彼の夢は、『いつか高倉健と・・・・!』とで、2006年に、高倉健の主演で「単騎、千里を走る。」を監督し、夢を果たしたのです。

中国の五十代以上では、圧倒的な知名度がある日本人が、この高倉健なのです。きっと、大きな活字で、文化勲章の受賞が報じられることでしょう。スクリーンを通してでも、日中友好が前進したことの強い証左であります。健さん、受賞おめでとうございます。

(写真は、文化の日に受賞した後の会見の模様<産経新聞>です)

だから(2)

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先週、一通の国内郵便を出そうと、近くの郵便局の窓口に行きました。封筒の表に、名前⇨住所の順で書き、自分の名前を左上に書いて出しました。そうしましたら、係りの人に、「これではダメ!」と突き返されたのです。中国でも、日本と同じで、住所⇨名前の順で書きます。日本の場合は、差出人の住所氏名は、封筒の裏に書くのですが、こちらでは、表の右下に書く決まりなのです。

アメリカの次女から届く、たまにくる手紙は、はじめに名前⇨住所の順序に書き、左上に、差出人の名前⇨住所の順で書いてあります。
⒈名前(名⇨姓)
⒉住んでいる建物の番号
⒊通りの番号
⒋住んでる市の通りや街の名称
⒌州名
⒍国名
こういった書き順なのです。ところが、日本や中国では、
⒈国名
⒉都道府県の名称
⒊市、郡ー町村名
⒋⚪丁目
⒌番
⒍地
⒎名前(姓⇨名)
で表記します。アメリカなどでは、自分⇨国、日本などでは、国⇨自分と言った、中心になるものの位置づけが真反対なのは、実に興味深いものがあります。欧米のように「個人主義」、「自己主張」が強い国では、中心は「私」、多くの「私」が国家をなしているという考えなのでしょう。ところが、日本では「国家主義」が強く、その自国を形成している一部分が「私」、と言った考えがあるからなのでしょうか。国の支配下に「私」が服していることになります。

国家の成り立ちや、個人の立ち位置の違いが鮮明です。欧米では、「狭い世界」⇨「広い世界」、「小」⇨「大」の順序なのです。「へそ曲がり」の私は反抗的分子なのでしょうか、決まりを守らないでいるのです。だから、封筒の宛名の書き換えを求められてしまいました。「これでいいのに!」と思うのは、「頑固者」の私だけのようです。

(錦絵は、江戸時代の箱根路を走る「飛脚(ひきゃく)」です)

蓮根

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十一月、別名を「霜月」、日本人は、この月をそう呼んできたのです。まさに、霜が降り始める月になったわけです。日本の暦には、「文化の日 」や「勤労感謝の日」などの祭日がみられます。いつも行くスーパーマーケットの野菜売り場で、「レンコン」が山盛りに売られていました。最盛期は、これからということなのでしょうか。ある新聞に、小学生の作った「俳句」が載っていました。

れんこんは とんねるいつつ あるんだな

「そうだったかなあ?」と思って、「野菜図鑑」を調べましたら、「レンコンの穴は通気孔、真ん中に一つ、周りに九つあるのが普通。晩秋が最盛期。」とありました。この作句者が「五つ」と言っているのは、間違えではなく、お母さんがレンコンを輪切りにして、半分にして調理したからなのでしょうか。子どもが穴の中に落ちて、その穴の底から見上げて、「高い穴だなあ!」と言ったと聞いたことがありました。レンコンの穴を「トンネル」というのと同じ観察眼なのでしょうか。

家内が、時々、母が作ってくれたのと同じように、「酢バス」を作ってくれるのです。懐かしい味がする、私の好物の一つなのです。「レンコンのきんぴら」もいいですね。いつでしたか、テレビで、泥田に胸まで浸かって、収穫している映像を見たことがありますが、大変な農作業に驚かされたのです。青果市場でアルバイトをしたことが何度もありましたが、東京市場ですと、近県の茨城産がほとんどでした。これから、正月にかけての入荷量が、うなぎ登りに増えてきそうです。

日にちを数えますと、今年も、残すところ「六十日」ほどになりました。「时间过了很快(時間の過ぎ行くのがとてもはやい)」、驚きです。こちらでは、霜の降りることはありません。それでも、陽が徐々に傾いてきているのを感じます。自然界の運行は、いつも神秘的なものです。そう、今月の「秋分の日」を忘れていました。アメリカでは「サンクス・ギビング・デイ(感謝祭)」、我が師が生きていたら、78歳になるのです。「離合集散常ならず」、です。

(写真は、柚子味のする「酢ばす」です、美味しそうですね!)

赤バット

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私たちの子どもの頃、大人にも子どもにも「夢」を与えてくれたのが、読売巨人軍の一塁手、背番号「16」をつけた「川上哲治」でした。この憧れの名ヒッターが、この10月28日に亡くなられたと、ニュースが報じていました。

父が、戦前からの巨人軍贔屓(びいき)でしたので、兄たちも同じく、このチームのフアンでした。まだ後楽園で試合が行われていた頃に、水道橋の駅から降りて、兄たちに連れて行かれて観戦したことがありました。今の様にテレビが普及していない時代でしたから、押すな押すなの超満員だったのです。その人の波に圧倒されてしまいました。

あの時代、「紅梅」とか「カバヤ」とか言う菓子の会社があって、箱入りの飴を製造していました。駄菓子屋の店頭に並べられてあって、小遣いをもらっては、買いに走って行ったものです。「森永」とか「明治」と比べると1ランク下のメーカーで、美味しくなかったのですが、その箱の中に、相撲の力士や野球選手の「カード」が入っていて、そのカード欲しさに買っていました。その中で、一番人気は、「川上哲治」だったのです。このカードを、「飛ばしっこ」や、手の平で「起こしっこ」をして、ゲームをしました。空き缶の中に、ずいぶんあったのですが、どこへ消えてしまったのでしょうか。

川上哲治は、「赤バット」を使っていた時期があったので有名でした。私はしなかったのですが、すぐ上の兄は、甲子園を目指した野球小僧でした。兄の憧れも、巨人軍の選手で、やはり川上だったのだろうと思います。そんなことを思っている私も、時々、小走りをするのですが、やはり走るのがしんどくなっています。キャッチボールを教えてくれたり、グローブやバットを買ってくれた父も逝き、父の贔屓の巨人軍の名選手・川上哲治も逝きました。父が亡くなった同じ病院で、川上哲治も召されたのかも知れません。一日一日、一人一人、やはり「昭和」が遠のいていくのを感じております。やはり寂しさを禁じ得ません。

(航空写真は、川上哲治が活躍した頃の「後楽園球場」です)

秋深し

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先日、いつものバス停で降りて、大通りに面した門から、アパート群の敷地の中に入って、我が家に向かって歩いていました。建物の角を曲がったところで、聞き覚えのある音楽が聞こえてきたのです。「ちいさい秋見付けた・・・」の曲ではありませんか。まさか、日本の童謡が聞こえるとは思いもよりませんから、驚いたり、嬉しかったりだったのです。立ち続けの授業を終えての帰りでしたから、日本の歌にねぎらわれたようでした。木々は緑の葉をつけ、日差しも暑さを感じ、時々汗ばむような、こちらの秋なのです。それでも吹く風に、なんとなく秋が感じられ、朝晩は、「冷やっ」とした感覚はあります。その曲を聞いた瞬間、日本にいるような錯覚に襲われてしまいました。こう言った歌を知っておられる方がいて、時季に叶ってネットから聞いているのでしょうか。この辺には日本人がいるはずがないのです。

今、PCに向かっているのですが、台所の開けた窓から、正門の隣にある「幼稚園」から音楽が聞こえてきます。この連続する音楽で、園児が踊っているのです。その定番が、「ちびまる子ちゃん」のテーマミュージックなのです。上海万博でも、谷村新司が、「昴(すばる)」を堂々と歌ってもいました。もう少しさかのぼりますと、「北国に春」が、この国で大流行していて、多くの人が、今でも口ずさんでおいでです。「好いもの」には、国境がないのでしょうか。過去のいきさつを度返しして、受け容れる度量の大きさや広さを、こちらのみなさんに感じるのです。

私には、「中国の歌」が、日本で歌われていた記憶がないのです。「蘇州夜曲」や「上海ブルース」などは知っていますが、これらは「曲名」だけで、日本人が作った歌です。それで、私は、この街のみなさんが、自転車をこぎながらでも、店の前にスピーカーを置いて流していても、よく歌っている歌を覚えたのです。大陸の歌ではなく、台湾の歌手が歌って、以前大流行した歌なのだそうです。一緒に教え子と歌ったこともあります。「愛拚才会赢(aipincaihuiying)」という歌で、恋愛の歌のようです。実は、これは「台湾語(福建省の南の<闽南话>の方言と同じです)」で歌われている歌ですから、耳で聞いて覚えたのです。授業の時に、一度だけですが歌いましたら、拍手喝采を受けたほどでした。日本の「歌謡曲」、「演歌」と同じで、聞きやすく、歌いやすくもあるのです。

バスの運転手も日本の歌を口笛で吹いていますし、文化的にも中国と日本の距離は、至近にあることになります。山の中にある「森林公園」に連れて行っていただいた時も、信州や上州の山奥に分け入ったと同じ雰囲気がして、枯葉を踏みしめた感触も、立ち上る枯葉の匂いも、みんな「懐かしい!」思いがしたほどでした。自然の植生が似ていて、同じ米の飯を食べ、特に華南では「海鮮料理」が好まれ、同じように煮込んだ「うどん」もあるほどです。油分が少なかったら、全く同じではないでしょうか。

もう路傍では、「焼き芋」が売られています。ドラム缶を加工したものに車輪をつけて、引き売りをしているのです。あの独特な匂いが鼻をくすぐります。やはり、ここも秋深しで好いのでしょう。もう、明日からは「十一月」ですから。

だから

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最近、美味しい「フレッシュジュース」を飲んでいます。私たちの住むアパート群の真正面にある「モール」の一郭にある店で、10元払って飲んでいるのです。「注文ナンバープレート」を持って、二階に上がり、階下の作業場が一目瞭然に見下ろせる席に陣取ります。商業用の大きめなジューサーに、「林檎」と「人参」を手ごろに刻んで入れて作っているのです。それは、まさに100%本物の生ジュースです。水を加えたり、瓶詰めのジュースを足しているような仕草は見られません。実に美味しいのです!

喫茶店ではないのですが、ちょっと寛げる「日式レストラン」です。お好み焼き、たこ焼き、味噌ラーメン、唐揚げなどを注文できます。家内と初めて入った時、「日本人吗?」と聞いてきたので、「对(そうです)」と答えたら、店長が出て来て日本語で話しかけてきました。沖縄と東京で修行をして帰国して、店を開いたのだそうです。ジュースの他に、お好み焼きとたこ焼きを頼みましたら、しばらくたってから、「唐揚げ」が運ばれてきました。「这是什么?(これなあに?)」と聞いたら、「送您们(サーヴィスです)!」と答えたのです。初めての客なのに、こんなサーヴィスをしてもらたのは初めてのことでした。それで、「ありがとうございます!」と感謝したわけです。

一昨日は一人で、この店に行って、味噌ラーメンと「りんご&人参ジュース」を頼んだのです。再び、「生ジュース」は美味しかったのです。その時、一人の若い方が、日本語で話しかけてきました。実に流暢だと思ったら、「淡路島出身です!」と言っていました。

そんな日を送っている昨今、関西の有名ホテルで、料理の偽装なのか、不当表示なのか、ネットのニュースで話題になっています。その「フレッシュジュース」が、瓶詰めジュースだったことも発覚して、中国の「小吃店」の方が、はるかに正直な営業をしていることが分かった次第です。この問題の根は深いと思います。寿司屋のネタでも、米でも、大豆でも、日本も「偽装天国」なのでしょう。「儲けは、正直だと上がらない!」という商業理念があるのでしょうか。商人が、三割ほど掛けた料金は、正当なのではないでしょうか。人件費、サーヴィス料、原価の償却費用、運送費、ロスなどを計算して、価格設定するわけでしょう。もし厳選された「本物」だったら、少々高くとも、お客さんは満足して支払うのです。私だって払います。でも、「不正直」な裏切りはいけません。

この街に、美味しい「水餃子」の店があります。バスを乗り換えなければ行けません。それに代金も少々高いのです。諸物価高騰のみぎり、是とすべきでしょうか。でも、いつ行っても味が変わらないのです。「誇りを持って作っている!」からです。だから、いつも小さな店は満員なのです。

(写真は、「りんご」です)

勘違い

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小学校の時に、「賞状」をもらったことがあります。街の文化祭に、絵と工作とが出展された時でした。優等賞も皆勤賞もらったことはありませんし、これからももらうなどありませんから、生涯ただ二枚の賞状です。「銅賞」でしたから、第三位で佳作の一つ上です。そんな賞状も、なんども引越しをしているうちになくなってしまいました。

そこに「右者」とありました。これを、多くの人は、「みぎのもの」と読むのです。昔の校長や教育長は、「みぎは」と、正しく読んだのですが、「誤読」されやすい漢字の一例です。国語学者の大野晋が、国語力や漢字力の低下について、ご自分の経験を通して、「私の師である橋本進吉教授に比べると、私の・・・」、「橋本先生もその師に比べて・・・」と述べています。年々低下傾向にあることになります。作家で戯曲家の井上ひさしが、「難読漢字」に触れた記事を書いています。「読めない漢字が私にも多くあるのです!」と謙遜に言っています。そうしますと、幼稚園の頃から漢字だけで養育を受けている中国のみなさんの「漢字能力」が、いかに高いかということに感心してしまうのです。

「誤用」も多くあるそうです。「辞書の日」である10月16日(米国の辞書編修者、ノア・ウェブスターの誕生日/1758年)を記念して、「間違った意味で使われる言葉ランキング」と「言い間違いされる言葉ランキング」を発表しています(ウエブスターは、 英語辞書で最も有名で高く評価されている辞書の編集者で,「アメリカの学問と教育の父」と言われています)。例えば、
「ハッカー」➡「インターネットなどの知識が豊富で詳しい人」という意味です。
「確信犯」➡「信念に基づいて『正しいことだ』と思い込んでする犯罪」のことです。
「破天荒」➡「だれもなしえなかったをすること」のことです。
「姑息」➡「一時しのぎ」のことです。
「失笑する」➡「思わず笑い出す」ことです。
などがあります。

私の母が勘違いして、訪ねてきたおじさんと話をしていたのを、父が聞いていて、よく、その話の間違いの言葉、「スクラム、スクラム!」と言っては母を困らせていたことがありました。「そうですね!」と相槌をうっていたおじさんも、よく分かっていなかったようです。「また、そんなことを、お父さんは言って!」と、母がやり返していました。いたずらな父でした。その父が、第一版の「広辞苑」を買ってくれました。この辞書を引いては、言葉を覚えたのです。

(写真は、大野晋の編纂した角川書店刊の「類語新辞典」です)

「普通の人」

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「ミーハー」を、yahooの辞書で調べると、「[名・形動]《「みいちゃんはあちゃん」の略。ふつう「ミーハー」と書く》軽薄な、また、流行に左右されやすいこと。また、その人や、そのさま。「―な発想」「―向けの商品」」とあります。しかし、「ミーちゃん」は、女性の好物の「あんみつ」のことであり、「ハーちゃん」は、女性に圧倒的な人気のあった「林長二郎」、後の長谷川一夫のことだそうです。随分な人気だったそうで、父よりも二歳上でした。 普通の男性なのですが、作り上げられた「憧れのスター」は、いつの世にもいるようです。

自分にも、自分の配偶者にもできないようなことを、銀幕やテレビの中で代わって演じてくれる「俳優」や「歌手」さらには「スポーツ選手」に、とくに女性は血道を上げるのでしょうか。以前、大挙して「韓流ドラマ」の俳優を訪ねて旅行のツアーが行われていたことがあったのですが、「アレ!アレ!」と言った思いで眺めていました。平凡な家事に明け暮れている主婦の心の中が見えてきそうでした。裏返すと、夫と違って美男子で仕草も洗練されている姿を、スクリーンやテレビの中に眺めて、ついている「ため息」が聞こえてきそうでした。

そういえば男性も同じです。級友に「高倉健フアン」がいて、彼に誘われて、新宿だったでしょうか、映画館に連れて行かれたことがありました。昔の剣劇、時代劇の昭和バージョンと言えるのでしょうか、「アウトローの世界」の活劇でした。チョンマゲををつけていない時代劇です。二十歳前後の私たちと同世代、おじさんたちも大勢いたでしょうか、男のムンムンとした息が溢れている映画館でした。普通に生きている学生やサラリーマンにとっては、足を踏み入れられない任侠の別世界だから、そこに距離があるからこそ、日常性を超えた世界を求めているのだと思わされたのです。映画がはねて、ゾロゾロと出てくる男たちは、みんな「健さん」でした。「出来得ないことの代役」を俳優が演じてくれるので、いつの時代もスターが消えては出てくるのです。

「娯楽」は、yahooの辞書に、「[名](スル)仕事や勉学の余暇にする遊びや楽しみ。また、楽しませること。「―施設一つない山間の地」「―映画」「装飾は人の心目を―し」〈逍遥・小説神髄〉」とあります。昔は、踊ったり歌ったり、または人の踊りや歌うのを見聞きすることが、明日の平凡な生活を生かして行く力だったのでしょうか。年中行事の「正月」や「桃の節句」や「夏祭り」や「秋祭り」などは、庶民にとって待ち遠しかったのです。日常性に大きな変化をもたらしたからでしょう。ところが現代では、「もうすぐお正月だ!」と言った待望感がなくなってしまい、毎日が娯楽している時代です。好いのか悪いのか・・・・。

息子さんのことでインタビュウーを受けていた有名人の顔が、「普通の人の顔」だったのを見て、テレビの中の顔が、「営業用の顔」だったことを知らされて、今更という感がしました。有名人も日常は「普通の人」なのです。でも、同じ顔で、何時でも生きていける幸せもあるのだと気付かされた秋でもあります。

(写真は、私の好物「あんみつ」です)

街のおじさん

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しっかりネクタイをしめて出勤、授業が終わって、のどの周りに窮屈さを感じたので(と言ってもネクタイが嫌いなだけした)、ネクタイを外して、ワイシャツのむねのポケットに入れたのです。クラス担任もしていませんでしたので、「これで終わった!」と一段落したからでした。それで職員室に戻って机に座っていた時に、私の真正面にいた教頭に、「先生、ネクタイをするか、何処かにおいた方がいいですね。」と注意を受けました。映画俳優でもありませんし、職場に似つかわしくない服装に見えたからです。「はい!」と頷いた私は、机の引き出しにネクタイをしまったのです。弱冠25歳の時でした。と言っても、国会議員に立候補できる立派な大人の年齢でした。背広に白のワイシャツ、それに地味なネクタイは、教壇に立つ時の模範的な服装でした。

生意気な私は、人生の先輩たち、いわゆる「街のおじさんたち」から、よく「小言」や「注意」を言われたのです。どちらが上か分からないのですが、弟にもです。今になって、その頃のことを思い返すと、生活にけじめがつかないで、だらしなかったのはともかく、「言われ易いタイプ」の人間だったのでしょうか。今でも、慌てて何かをすると、「慢慢点儿(マンマンデアル)」と言われるのです。つまり、「ゆっくり!」との意味です。4歳の私に、母が言っていたのと同じ言葉がかけられてくるのです。すこしも成長も、改善もしていないので、嫌になってしまうことがあります。だから、家内からも少々セーブしながら、言われることがあります。これって、どうも一生のことになりそうです。

現代の青年たちは、我々の時代とは忠告や指示を受けた時の反応に仕方が違うのです。反抗的で、ある時は攻撃的になる傾向があるようです。以前、名古屋の南山大学の林雅代という先生が、NHKのラジオで、こんなことを言っていました。電車に乗っていても、道を歩いていても、若者たちの言動に対して、人生の先輩として大人の私たちが忠告をしたり、叱責しなければならない時には、どう言ったらいいかということことです。一つは、「感情的に言ってはいけない!」、二つは、「注意しない!」ことだそうです。それで、どう言うかですが、三つは、「事実だけを言う!」のだそうです。どうも今日日の若者たちは「幼児的な反応」だったり、「動物的な反応」をするようです。

あの頃に比べて、私が少し改善されているとしたら、あのおじさんたちのお蔭に違いありません。「よその子のことだから、ほっとけば好い!」と無関心を装わないで、敢えて「小言」を言ってくれたからです。「見て見ぬ振りをする!」、こんな傾向にある現代社会で、勇気を持って、自分の子や孫に言うように、「事実」を語れる大人でありたいと思うのです。

(写真は、中国の「霞浦」です)