いつまでもあると思うな

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 何度聞いたか分からないほど、口癖のように、私の父の言っていた言葉があります。

 『いつまでもあると思うな親と金 ないと思うな運と災難!』

 親に頼って生きてきて、やがて親元を離れて、一社会人として働き始め、いわゆる独立の歩をとり始め、そして家庭を持ちました。家内と一緒に、四人の子どもたちを育てることができたのです。親になった時に、何かくすぐったい気持ちを感じたのですが、彼らは育ての親からやがて離れていき、彼らが独立して、もう二〜三十年が経ちます。

 父と私、私と子どもたちとのあの「距離感」が懐かしいのです。具合が悪くなった家内を気づかって、今では孫たちが、家族チャットで発信してきては、様子を聞いたり、元気でいる様にと言ってくれるのです。昨日の散歩の帰り、暑くて、冷たいものが飲みたくなって、自販機で、サイダーを買ってしまいました。あの喉元の爽快感が欲しかったからです。

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 『ジジ、何が欲しいの?』と、前回の訪問の時に、買い物に行く孫ベーが言ったので、とっさに答えたのが《サイダー》でした。1リットルのボトルを買って来てくれ、何年、いえ十何年ぶりに飲んだ時、懐かしさが喉元を通っていったのです。その味を、昨日も思い出させられて、実に美味しく、500ml缶を飲み干してしまいました。

 自分の父が、やがて独立していく私に、訓戒のためでしょうか繰り返して語った言葉が、これなのです。その意味を、今になって思い返しています。明治の終わりに生まれ、関東大震災、日華事変、太平洋戦争、敗戦、戦災からの回復、高度成長の時代を生きて、これからと言う六十一の誕生日を、入院先で迎え、退院する、その朝に、あっけなく召された父でした。

 「いつまでもある」と思って油断していた時に、父が、無断で去っていきました。別れの挨拶、感謝もさせてくれませんでした。何度かしか泣いたことのない私ですが、勤め先から父が亡くなった病院まで、電車の中で泣き通しでした。これが、「いつまでもあると思うな父親」との辛い実体験でした。

 『これからは親孝行を!』と思っていた矢先だったのに、孝行相手は召されてしまったのです。父の一生も、「一場の夢」の如く過ごした日々でありました。父の六十年は短かかったわけです。今や老いて、父よりもニ十年も多く生きてきた自分が思い返すと、さまざまな父との場面が思い返されてくるのです。でも、あのことばは、忘れように忘れられない遺訓だったわけです。

 きっと、父も、自分の父から、そう諭されていたのかも知れません。そう言った教訓を、「道歌(教訓的な和歌のことです)」と言うのだそうです。江戸では「狂歌」として、巷で言い伝えられてもいたのでしょう。

 でも、私の人生の導き手が「運命」や「偶然」などではなく、創造者で、いのちの付与者である神さまであって、全行程の「導き手」であると信じることが、二十五の時にできたのです。ですから、人生に弄ばれ、意地悪をされるなどと思ったことはありませんでした。また〈幸運にも〉などと思うことも、まったくありませんでした。

「 『なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。  わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。  もし往きて汝らの爲に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。  汝らは我が往くところに至る道を知る』。(文語訳聖書 ヨハネ伝14章1-4節)」

 どうして生まれ来て、二親が、あの様に育ててくれたのか、あんな経験もこんなこととも、今の自分のことも、ありのままに受け入れています。そう、残された自分の時間も、そう長くはないかも知れませんが、どこに導かれていくのかが、分かっているつもりの猛暑、酷暑の七月であります。

(“ Christian clip arts “ の父と弟息子の帰還のイラストです)

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小鳥の囀りを

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 住んでいるアパートの西に窓があります。その外は、塾やNPO法人の作業所や美容室のある部分の平たくなっている屋上なのです。そこに、セグロセキレイが、ときどき飛んできて鳴くのです。

 川面を、餌取りで素早く飛ぶ鳥で、けっこう警戒心が強いのでしょう。餌付けをしてみたいと思っているのです。子どもの頃に、鳥を捕まえる仕掛けの「バッサリ」や「かすみ網」と言う捕鳥用の道具を、すぐ上の兄が仕掛けていたことがありました。

 獲ってきたことはなかったのですが、いつもなにかして遊んでいた兄でした。電気釜の底に残ったご飯を、お酒につけて、それを乾飯にして、撒いておくと、それを啄んだ小鳥が、酔ってしまって捕まえられるのだそうです。それは邪道ですからしませんが、子育て中に、籠で飼ったことはありました。

 あの鳴き声は、心が休まるのです。カラスの声は、ちょっと騒音気味ですが、小鳥の囀(さえず)りを聞くのはよいものです。セグロセキレイ、カワセミ、そしてカラスなどが懸命に囀(さえず)り、餌を啄ばみながら生きている姿は、尊いなと思わされます。

 それにしても、最近はカラスを見かけません。暑いからでしょうか、どこへ行ってしまったのでしょうか。野口雨情の作詞、本居長世の作曲の「七つの子」が懐かしいです。

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からす なぜ啼くの
からすは山に
可愛い七つの子があるからよ

可愛い 可愛いと
からすは啼くの
可愛い 可愛いと
啼くんだよ

山の古巣に
いってみてごらん
丸い眼をした
いい子だよ

 あのカアカアのかすれ声を「可愛い可愛い」と聞いている有情の優しさに驚かされますが、「山の古巣」に戻ってしまっているのでしょうか。秋になって、涼しくなったら、きっと帰ってくることでしょう。

(ウイキペディアのセグロセキレイ、カラスです)

オプティミストの勧めを

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 上智大学で、「死生学(死の哲学)」を講じた、アルフォンス・デーケンさんが、「老いと死とユーモア」という題で講演されたことがありました。その中で、「基本的な楽観主義を身につける」と言うことで、次のように言っておられました。この方の講義を受けることができたのは感謝でした。

 『もう一つ、Optimist(オプティミスト楽観主義者)とpessimist(ペシミスト/悲観主義者)では、同じ体験に対しても、全く見方が違います。ある人は物事をただネガティブにしか見ませんが、ある人はポジティブにそこから何かしら新 しい知恵を学び取ります。いま私はちょうどグラスの水を半分飲んでしまいましたけれど、この同じグラスを見ても、ペシミストは上の無い半分を見ますし、オ プティミストならまだ半分もあるというところを見ます。同じ対象を、ペシミストはいつも暗いメガネを通して見ていますが、オプティミストは、明るいいい面 を捉えます。ですから豊かな第三の人生を送る一つの大切なポイントは、基本的なオプティミズムを身につけることではないでしょうか。 

 生きがいに関して私の最も尊敬するドイツの哲学者、アルフレッド・デルプ神父は、反ナチ運動のリーダーの一人としてヒットラーの命令で逮捕され、37歳の若さでベルリンで処 刑されました。ベルリンの刑務所で殺される直前、彼は自分の生きがいについて、こんな美しい言葉を書きました。

 「もし一人の人間によって、少しでも多くの 愛と平和、光と真実が世にもたらされたなら、その一生には意味があった のである」。

 彼には5冊の著作があり、とても創造的な哲学者でした。彼は37歳で亡くなりましたけれど、人間はどれほど長く生きるかよりも、どれほど意義のある人生を送ったかのほうが、彼の評価の基準だったのです。

 これは今日の私たちが、意義のある一日を送れたかどうかを考えるときに、一つの基準にできると思います。 

 私の努力によって少しでも愛と平和、光と真実が 世にもたらされたなら、今日は意義のある一日だったと言えるでしょう。でももし愛の代わりに夫婦喧嘩をしたり、平和の代わりに隣の人と争いを起こしたり、 光の代わりにペシミズムを広めたり、真実の代わりに誰かの悪口を言ったとしたなら、意義のある一日ではなかったということを反省すべきです。

 そういう意味 でも、英語でlife review therapy ドイツ語でLebensbilanzと言いますが、自分の人生を定期的にちょっと振り返って、本当に意義のある生き方であるかどうか、見直してみることが 大切ですね。』

 悲観的な出来事ばかりの昨今に、必要なことに違いありません。暗いニュースではなくて、最暗黒なニュースの溢れた、いわば世紀末のような時の只中で、迎える新しい日に希望を持って生きることができる、これは勧めではないでしょうか。

(”Loose Drawing “noフリーイラストです)

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番傘さしと下駄履き

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 作詞が北原白秋、作曲が中山晋平の「あめふり」は、この季節になると思い出されてきます。竹製で油紙をはった番傘の時代、その傘をかざして、足には下駄を履いて学校に出掛けました。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 2019年の正月から、下駄の商いで栄えた街に住み始めて、6年目になりました。もう閉めてしまった問屋さんの家屋が、シャッターを下ろして、図書館への道の際にあります。桐や朴木(ほうのき)や杉が材料でした。きっと、杉並木の多い土地柄で、素材入手が容易だったからでしょうか、一般向けには、杉下駄が作られていたのでしょう。盛んだった頃が偲ばれます。

 今、住むアパートの以前の大家さんは、下駄屋さんだったそうです。家も道具も、木で作る日本では、木から作った紙も、生活の中で重用されてきました。触っても、つかんても、嗅いでも、唇で触れても、何にでも馴染むのは、木、草、藁からなる日本文化なのでしょうか。

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 実は、あるご婦人からいただいた木目の美しい下駄を持っているのです。亡くなられたご主人が履こうと、しまっておいた物だそうです。これを履いて外出したいのですが、アスファルトの上では、けっこう大きな音がするので、履きそびれて、宝の持ち腐れでおります。もう目立ちたがりたい年齢ではないからなのでしょうか。

 通学で、新宿駅の乗り換えの地下道、西口と東口を結んでいた通路があった1960年代の中頃、この下駄履き(弟の朴葉下駄を借りて)で、通学したことが何度かありました。高下駄で、鼻緒を足指で掴んで、カランコロンと音を立ててでした。目立ちたがりの年頃だったのでしょうか、恥じずに自慢げに履いていたのを思い出すと、赤面の至りです。

 まるで江戸や明治の時代に、タイムスリップしてしまいそうな話ですが、六十年も前の話は、おとぎ話か、異星人の話のように聞こえそうです。

 お隣の国にいた時に、公園の中の売店に、この傘が売られていました。買おうか、買うまいか悩んだ末、諦めてしまったのです。日本だって、浅草辺りに行けば、下駄だって番傘だって、もしかしたら、雨具の簑(みの)だってあるかも知れませんね。

 昔の道具や日用品が懐かしく思い出されるのは、それだけ歳を重ねてきたからなのでしょうか。鋳型で作ったプラスチック製の履き物が、ベランダの出口に置いてありますし、ゴミ捨てに行く時に、ちょっとつっかけて履くために、玄関にもありますが、ごく近距離移動用です。そのかわりに下駄を玄関に置いてみましょうか。

(ウイキペディアの傘張り風景です)

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散歩道の七月の花々

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 昨日は、通院日で、散歩ではなく、電車で外出しました。何と気温が36℃もあって、驚かされてしまった〈うだるような〉暑さだったのです。駅にも電車の中にも、暑そうな賑やかな高校生たちで溢れていました。何せ、乗車駅は、JR両毛線と東武日光、宇都宮線の「ハブ駅」で、七つも高校があるからです。

 そろそろ期末試験の頃でしょうか。はるか昔、制服姿で通学した日を思い返して、『こんなに暑くなかったよなあ!』と、思わされたのです。来八月にかけて、このまま猛暑が続くのでしょうか。夏人気の「かき氷」が食べたくなってしまいました。鹿児島の天文で食べた「しろくま」を思い出します。本番の夏に到来です。

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一億台の一台に思いを寄せて

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 高校の頃、クラブの仲間が、夏休みの練習日に、オートバイで学校にやって来たのです。みんなは駅から歩きでの登校なのに、彼だけは、お父さんのバイクに跨ってやって来たわけです。それは1958年に生産開始したHonda製の「原付バイク/カブ(スーパーカブ)」でした。

 まだ珍しいし、当時は、足や腕を屈伸したり、指を握って一本づつ開いていくようなテストで合格できる「許可証」で乗れたのです。彼は、それを持っていて、やって来たわけです。『乗っていいか?』と言ったら、『いいよ!』と言うので、乗って走ったら、ブレーキをかける方法を教えてもらわなかったので、校舎の壁に追突してしまったのです。

 カブも校舎も壊してししまったのですが、怪我なしでした。彼は何も言わなかったのです。それは、わが最初の交通事故でした。まだ製造販売間もない頃のことでした。こがず、押さずにエンジンで動くものに、自分の操作で初めて乗って、失敗したので、許可証を取らずに過ごしていました。宣教師さんのお供をして出掛けた街で、長男が生まれて、必要を感じて、原付自転車の免許証をまず取ったのです。

 それで、『使っていないから!』と言って貸してくださった、カブを使っていていました。知り合いの弟さんが乗らなくなった、若者用のHonda製・ゴリラをもらって、乗っていました。それは、燃費がよく丈夫でした。車に乗るようになって、教会に来ていた若者に上げてしまいました。

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 高校生だった自分の夢は、国産大型の陸王、アメリカ製のハーレイ・ダヴィッドソンを手に入れて乗り回すことでした。でも、その夢も叶わず、近所の方にただいた800ccのToyota製のパブリカと言う車を持ち始めて、中古車ばかりを乗り継いで、免許証返上の今です。

 でも、あの「カブ」には特別な思い入れがあるのです。世界で一番売れたバイクだそうで、《一億台》も売れています。散歩や買い物で、ほとんど歩きか自転車利用になったからでしょうか、さらに、この13年、隣國で過ごしたからでもありますが、街の様子が変わっていくのに気づくのです。

 ほぼ決まった時間に、配達に來てくださる、新聞配達や郵便配達の方の乗り物の音が聞こえなくなったのです。警察署でも、公用車でありました。昔は、配達や警邏には、その「カブ」がほとんど使われていました。低燃費で、操作も優しかったので、自分も乗ったことがあったのです。大変便利でもあったので、蕎麦屋さんの店屋物、新聞、そして郵便などの配達に重用されていました。

 今は、軽自動車での配達が多くなりましたし、いつの間にか、郵便配達には電動自転車が、代わって使われているのです。あのモーターの音、ギヤチェンジの音がすると、郵便が届いたことが分かったのです。昨今は、無音で来られるので、あの音が懐かしく思い出されるだけです。

 昨今のニュースによりますと、「スーパーカブ生産終了」なのだそうで、あの独特の音が聞こえなくなるのだと知って、やはり寂しい思いがしてきたのです。あれは「昭和の生活音」だったでしょうか。

(ウイキペディアのスーパーカブ、陸王です)

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水辺にたたずんで

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 この6月半ばに、今上陛下・徳仁さまは、今回のイギリス訪問を前にして、会見をされていました。その時、次のように話されたと、ニュースで報じられていました。

 『今でも留学から帰国した後にまとめた研究論文を読み直すと、テムズとともに過ごした日々の記憶がありありと蘇ってきます。テムズ関係の資料集めに奔走したこと、研究で疲れた私を癒やしてくれたテムズの緩やかな流れと周囲の美しい景観。テムズを見ながら川沿いをジョギングした日々など、数え上げたらきりがありません。』

 堀の水の周りに皇居があって、流れる川を眺められるのは、お出かけの時だけなのでしょう。水の流れに、心が癒された経験がおありなのでしょうか。川の側に立ちますと、瀬(せせらぎ)の音が聞こえてきます。母の胎内にいた時の「羊水」の音の記憶を思い出させるのだそうです。それで、なつかしく誰もが感じるのだそうです。

 「水」や「水問題」は、人の生活と不可分の関係にあります。生まれた山奥には、山から流れ落ちる渓流がありました。東京に出て住んだ街にも、一級河川があって、水泳や魚釣りをしたのです。隣国の華南の街の中心を、大河が流れていて、歩いて五分ほどで流れのほとりに行くことができました。

 そして今は、江戸期から明治期までに、「舟運」で、主に江戸の街との交易が盛んに行われていた川の近くに住んでいます。この巴波川の河岸では、栃木から江戸には、米や大麻、薪炭、そして鍋山の石灰等を運んでいました。そして、江戸から栃木への帰り舟には、砂糖、干鰯、酒・酢・油などを積んで、この地域の必要に届いていたのです。文化の交流も、川を介してあったようです。

 どの時代も、統治者の責務は、民を治めるには、水を治め、水問題を解決することが、最も必要でした。たとえば飲料水の確保、下水道の整備、灌漑用水の提供、水害時の対策などでした。江戸の街はよく治められていて、ことのほか水利は、賢く計画されていたことで知られています。

 あの主要な河川であった、利根川の流れを変え、江戸川を掘削し、周辺地域との舟運の物資の運搬を行ったのです。宇都宮も、水戸も、栃木も、そして川越も、利根川や荒川を利用して、生活が成り立っていたわけです。

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 346kmのテムズ川も、多くの役割を担い、そして、それを果たしてきた、長い歴史がいあるのでしょう。ちなみに、日本第二の長さを誇る利根川は、332kmあり、この二つに川の長さはほぼ同じです。豪雨、線状降水帯で、わが家の脇の川が、また氾濫しないか心配ですが、恐れたら何もできませんので、護られるようにと過ごすことにしています。

 強い雨が降った後は、溢れるほどに増水することがありますが、普段は、静かな流れで、鯉や鴨が泳いでいるのです。川の流れの中の水草に、尾鰭を激しく打ち叩いて、雄と雌の鯉が産卵をする光景が見られましたが、この一、二年は見かけません。川底をブルトーザーでさらって浚渫(しゅんせつ)したからでしょうか、産卵場所が変わってしまったようです。

 聖書に出てきますケバル川のほとりで、主の幻を見、語られる声を聞いた預言者エゼキエルのことを思うことがしばしばあります。これから、この地上に、何が起こるのでしょうか。これからの日、世界中で起こることを、しっかりと見極めながら、主のおいでをお待ちしたいものです。マラナタ。

(巴波川の流れ、ウイキペディアのテムズ川です)

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