大寒

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 今日は「大寒」、最も寒い時なのでんですね。でも、樹々の蕾は、しっかりとついていて、膨らむ時を、じっと待っています。富士の上方星が寒そうに来る朝を歓迎しているようです。

大寒の 大平山は 風の中

白鷺の 驚き飛ぶや 大寒か

巴波川 氷もせずに 流れおり

大寒に 強く咲きおり ガーベラは

険しきか 女の道を 妻も来る

よろよろと 男の道を われも行く

吉右衛門(ひと)去りて 我も行くぞと 寒の朝

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汽笛

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 子どもの頃に聞いた「音」があり、それを最近では、全く耳にしなくなってしまいました。このブログを読んでくださる神奈川県在住の方が、『・・・話は変わりますが、夜中に家から 汽笛の音は聞こえませんか?実は私にはそれが懐かしいんです。』と言って来られました。JR両毛線と東武日光線の栃木駅の近くに住んでおいでで、朝な夕なに汽笛を聴いた記憶がおありなのでしょう。学校を終えて、東京に出て大学に通い、一仕事終えた同世代の方です。

 昔は、踏切、しかも無人の踏切が多かったからでしょうか、『ポーッ、ポーッ!』と、よく聞きました。中央線の線路が下に見える小高い丘の上に家はありましたので、電化する前の蒸気機関車の汽笛が、私にも懐かしく思い出されるのです。今は、風向きによって、踏切の警報音だけが、時々聞こえて来ます。

 機関士のおじさんが、運転台で、上から吊るされれた太めの紐を引いて鳴らすのです。あの紐は、憧れの的で、いつか引いてみようと思いながらも、叶わぬ願いを持ったままです。映画の中では、今でも時々聴けるのですが、あの車輪を回す、『シュッ、シュッ、シュッ!』という「音」も、もう聞けません。数年前に、東武日光線の下今市駅の基幹区に、週末に走行するための準備でしょうか、蒸気を出している機関車「大樹」が、線路上に停車していました。

 かつて中央線の立川駅に、五日市線のホームがあって、そこに停まっていたのを見て以来、この目で見たのは、半世紀以上ぶりの機関車でした。客車を牽く機関車では、石炭を燃やして蒸気機関を動かしていたのですが、その煙の「匂い」がしていました。冬季の学校の教室で焚いていたストーブも、石炭やコークスだったので、同じく懐かしい「匂い」だったのです。

 中央線も東海道線も福知山線も山陰線、母のふるさとへ行った旅で乗った列車は、トンネルを通過すると、窓の隙間だか、連結部分からか、「煤(すす)」が入り込んできました。線路のレールの繋ぎや切替箇所を通過する時には、『ガタガタ、ゴト、ガタ!』と、振動と共に「音」がしていました。今では、レールに繋ぎ目のない「一本レール」に溶接された物が敷かれているので、その音がしなくなりました。


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 鉄道 fan(フアン)には、〈乗り鉄〉と言われる人がいるようです。運行がやめられる路線の最終列車に、その知らせを聞くと、どこに出かけてでも乗ろうとする人たちがいるのです。また、電車の行き先板、plate platform で撮ったり、電車や蒸気機関車の曲がり角や、山の上や、鉄橋から走る列車にcamera を向けて撮影をするのを〈撮り鉄〉と呼ぶようです。rule を守らない者がいて、大きな問題になっているようです。

 華南の街から、鉄道関係の雑誌の特集号が発刊されるのを知って、弟に mail をして、買い置きしてもらったことがありました。駅弁の特集が組まれていたからでした。昨年の秋頃からでしょうか、いくつものスーパーマーケットで「全国駅弁即売会」があって、駅伝ブームが起こっているようです。それを買って帰って、家内と二人で懐かしく食べたのです。駅弁を食べて旅をした当時を思い出して、その「味」も「音」も「匂い」も懐かしかったのです。

(下は父も乗った南満州鉄道の「あじあ号」です)

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文化習慣

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 華南在住の折、アパート群の中に住んでいて、向かい側の南向きの棟のベランダは、わが家の北側のベランダの窓越しに見えます。そこには洗濯物が満艦飾のように干されてあるのです。大きなシーツが、下の家の半分ぐらいを塞ぐようにして干してある家が何軒もあり、我が家の目の前にも、時々、それがありました。「わが王道を行く〉、なのでしょう。

 驚いたのが、ご婦人の下着の干し方なのです。日本では、ring の物干しに、周りに手拭いなどで目隠しをして、内側に干されてあったりしますが、あちらでは、ベランダの真横に、堂々の内衣、しかも真紅なものが干されているのです。大体、どこででも同じような干し方で、『あれって何なんだろう?』と思って、ある方に聞いたことがありましたが、答えてもらいませんでした。

 冬になると、とくに今頃の「春節」を迎える頃になると、真紅の上下揃いのシャツとタイツのようなものが、箱に入れられて山のように積まれて、多くの店で売られているのです。men’s ladies’ もです。縁起担ぎや魔除けなのでしょうか、確かに「紅」は健康色なのでしょう。

 一度、買おうと思いましたが、躊躇して、手を引っ込めてしまいました。温泉好きの私は、帰国して銭湯に行っても、入浴施設に行っても、真っ赤な下着を脱ぐ姿を想像しただけでも、好奇の目に晒されてしまいそうで、できないなあでした。そんなこと構わないではいられない日本人の窮屈さなのでしょうか。

 見ようとして、見たのではないのですが、隣家のご婦人が、わが家の物干しの真横に、それを干していて、洗濯当番の男の私は、どこに目をやっていいのか困ることしばしばでした。日本人は、〈恥じらい〉を美徳のように思うのでしょうか、大陸の女性は、おおらかなのかも知れません。文化や習慣なでしょうか、〈紅旗〉を掲げる国情もあって、中国のみなさんにとっては、独特の意味合いがある色彩なのです。

 今住んでいる家の南側に、駐車場を隔てて、立派な二階建ての家があります。子育てが終わったて、孫を持つ身のわれわれ世代のご夫婦が住んでおられます。もう亡くなったのですが、飼っていた犬の散歩中に見かけた家内と、話が始まって以来、交流が始まったのです。旅行のお土産や頂き物のやり取りをしたりする仲です。先日の上京中、『洗濯物が、一週間も干されていなかったので、どうしたのかなと思っていました!』と、路上で会って言ってたそうです。こちらは、『ご主人の車が、朝早く動かないので、どうしかたな?』と思っていたとのやりとりで、双方が〈見守り》をし合っているのです。

(住んでいたアパートの七回から向こうの棟を撮った写真ものです)

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烏山頭ダム

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 『日本統治の時代には、家に鍵をかけなくても、泥棒が入ることなどなかったんです!』、これは私が、台中訪問の折に、服の縫製と輸出をされれいる方が、お茶を立ててくださった時に聞いた言葉でした。駐在さんがいて、街を守っていてくれたので、平和だったのだそうです。日本が敗戦で、撤退した後は、元の木阿弥(もとのもくあみ)、で、昔の台湾に戻ってしまったのだそうです。

 日本の侵略だけが取り上げられる中で、日本支配の優点を、台湾のみなさんが、前の世代から語り継いでいた日本への好意でした。台湾の南西部の農地は、塩分濃度が高かったそうです。それで、米などの収穫量が、他の地域に比べて少なかったのです。そんな嘉南平原が、農地の生産力を強化して、穀倉地帯に変わっていった理由があります。日本人の八田與一が、農業用水確保のために、灌漑用ダムを建設したからです。

 それが、「烏山頭水庫wushantoushuiku」と呼ばれた農耕用の貯水ダムなのです。これを設計し建設した、八田與一は、石川県の現在の金沢市で生まれ、東京大学で土木工学を学び、台湾総督府の土木部門に就職しています。1918年に、台南の嘉南平野の調査を始めています。旱魃があって、農地としては使えない状況であるのが分かって、灌漑事業の必要性を感じ、国家公務員の職を辞して、一介の技士として、ダム建設に当たったのです。

 1920〜30年の間、途中日本本土の東京を中心と開いた関東大震災(1923年に起きました)の最中も、ダム建設に励んだのです。八田與一は、ダム建設の実務だけではなく、共に働く仲間の福利面に気を使った人だったのです。宿舎・学校・病院なども建設整備しています。温情あふれる指導者だったからでしょうか、顕彰碑(胸像)などが、今でも烏山頭水庫の岸に建てられています。

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 台湾映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」が、2014年に、台湾で製作上映されたのですが、その映画にも、八田與一が登場する場面がありました。嘉義農林学校の野球部を、甲子園中等学校野球大会に出場させた、元松山商業の監督・近藤兵太郎が猛練習の指導をして、台湾代表として出場したのです。共に、台湾で活躍した代表的な人物でした。

 こう言った日本人が、占領下で、政治的な思惑とは関わりなく、人道的な行いをして、活躍したと言うことこそ、21世紀の私たち日本人が忘れてはいけないことに違いありません。上の兄に誘われて台湾訪問をしたのですが、台北から高雄まで、台湾新幹線に乗って、幾つもの街で降りて、兄と私は別々の教会を訪ねて、特別集会を持たせていたのです。

 すっかり台湾贔屓になって、3、4kgも体重が増えてしまいました。美味しい中国茶を飲みながら、日本統治時代を聴かせていただき、いつか家内と一緒に訪ねたいと思っていたら、大陸に導かれてしまい、13年も過ごすことになった次第です。

(烏山頭水庫の全景、八田與一の家族写真です)

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 年明けと共に、北国や日本海側では、大雪に見舞われ、去年の夏の異常な暑さと共に、この冬の降雪量には驚かされます。子どもの頃に、冬になると、雪が降るのを待ちわびたり、雪中で、「ゆき」を歌いました。降っていると綺麗ですが、降り止むと道路や水道管が凍結したり、車の tire slip 事故や、転倒事故が多く見られます。

1 雪やこんこ あられやこんこ
  降っては降っては ずんずん積もる
  山も野原も わたぼうしかぶり
  枯木残らず 花が咲く

2 雪やこんこ あられやこんこ
  降っても降っても まだ降りやまぬ
  犬は喜び 庭かけまわり
  猫はこたつで 丸くな

去年の夏に出かけた群馬県の水上で、三国街道の須川宿の宿に泊まったのですが、朝の散歩で、山を見上げて、この険しい道を、江戸期や明治期には、しかも冬季には、どんなに難儀して越後長岡、佐渡に向かって登って行ったのだろうか、と思っていました。朝早く発って、猿ヶ京から三国峠に向かい、越後の雪深い街道を歩いたのを考えると、昔の人の健脚さには驚かされるのです。

国道が整備され、高速道路も敷設され、新潟新幹線、上越新幹線ができ、空を飛ぶ空路もできた今では、三国峠を越える当時の旅は、想像するだけでも、尻込みしてしまいそうでした。

江戸時代の後期に、「北越雪譜」と言う本が、1837年(天保八年)に、江戸で出版されています。「こしひかり」の発祥地であり、産地の魚沼近辺の様子を、鈴木牧之が記したもので、「青空文庫」にも所収されています。出版されると人気を博して、best seller となりました。冒頭の図は、雪片の図で、科学者のように観察し記録しているのに驚かされます。

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雪道を歩くガンジキや簑(みの)などの図も描かれています。雪深い越後国に生活ぶりが、雪の少なかった江戸などでは想像することもできないほど過酷だったことが、江戸町民の興味の惹き起こしたのでしょう。三国街道の山岳部の険しい山道を、進んで三国峠を越えて行くのは、冬場は、並大抵なことではなかったのでしょう。

新潟の農業学校の校長をされた方が、私の最初の職場においででした。好々爺といった感じの方で、三十代の課長の下で、『はい!」と言って、従っていたのが印象的でした。一緒のバトミントンを、昼休みに楽しんだのです。青二才の生意気な私を可愛がってくれ、生き方を教えてきださったのです。私が知ってる越後人は、この方が代表でした。

今年は、歩いて三国峠を越えてみたいなと思っています。もちろん雪などない、初夏がいいのですが。こしひかりのおにぎりに、竹の水筒(みずずつ)を腰に引っ提げて歩いて、昔にの旅人の思いを辿ってみたいものです。できるでしょうか。

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夢wax

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 よく見る夢があります。精神分析で夢判断をしたら、何か、心の中に潜んでいるものが明らかにされてしまうかも知れません。その夢というのは、〈waxがない〉と言う切羽詰まった状況に置かれている自分なのです。いつも決まった夢です。『どうしよう?』と苦悶しているのです。でも、どうすることもできない状況にいる自分が登場します。

 長い間、真夜中に、スーパーマーケットの床清掃の仕事をしていました。ちょうど、子どもたちが進学しようとしていた時期に、不思議な形で与えられた機会だったのです。学校に行ってる頃に、都内の外資系のホテルでアルバイトをしていた時に、polisher (床などの洗浄機)を使ったことがあったので、その経験が役立って、月に二度の定期でする仕事でした。

 夜11時に、仮眠から起き出して、機材を車に乗せて出かけるのです。4人ほどのアルバイトをお願いしたでしょうか。11時半頃から床を掃き出し、通路にある商品を片付けて準備をするのです。0時の閉店を待って、床にジョウロで洗浄液を撒き、しばらく置いて、polisher  を回して洗浄します。その水を吸水機で吸い取り、その床を mop で2回吹くのです。その作業が終わると、バイト料を払ってみなさんには帰ってもらいます。そして、私が一人で、床に wax を二度塗りするのです。初めの頃は1回目の床の乾燥が十分でなく、powdering が起きて、床のwax が粉化してしまったのです。何度か、そんな失敗があって、順調に作業ができるようになりました。20年近くしたでしょうか。

 その収益は、子どもたちに教育を受けさせることができ、みんなが卒業した後、しばらく続けて、中国に行く2年ほど前に終えました。chain 店が10店舗ほどあって、それを請け負わないかとの会社からの話があったのですが、会社を起こすこともできましたが、本職第一主義の私は、その依頼は断ったのです。

 夢に出てくるのは、最後に仕上げ作業をする段になって、wax が見当たらないのです。どう手配しても間に合わない。午前7時の開店が迫っているのに、ないのです。市内の同業者に連絡しても真夜中なので、連絡できない。そこで目が覚める、そう言う夢です。強迫状況なのです。あの仕事をした年月には、牧師仲間の助けもありましたし、静岡や東京から電車で来てくれた方もいました。機械の断線、人不足などもありましたし、腎臓手術で入院中は、兄や友人たちが助けてくれたことがありました。

 二度ほど、実際に wax がなかったことがあったのです。急いで、車を走らせて、倉庫(教会の物置)に取りに行って間に合ったのです。もう一回は、注文を忘れて在庫切れだったのです。店には詫びて、清掃をし直したことがありました。そんな経験が、心の中にしまわれていて、時々夢に見るのでしょうか。ベッドの中で、モゾモゾしていたら、目が醒める、そんな夢だったのです。

 その店は、日本中から注目されていた有名店でしたので、大挙して見学者があるので、そんな日の前日には、飛び入りで床清掃の依頼をされることがありました。夜通し働いて、道具を片付けて、山に向かって走って、山間の温泉の湯船で、一晩の仕事の緊張と疲れをほぐした日々が、思い出されて懐かしいのです。中学生だった娘が、翌日学校があるのに、人が足りなかった時、助けてくれたこともありました。現場が、歩いても5、6分の所でしたから、できたのでしょう。

 暮れになると、家族でしました。店長さんが、店の福袋を、子どもたちにくださったり、けっこう楽しい思い出があったようです。最後の記念の作業日には、次男が助けてくれたのが感慨深く思い出されます。

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美学

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 『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(ヘブル人29節)』

 同年生まれ、同学年の波野達次郎、歌舞伎俳優で、先日亡くなられた中村吉右衛門は、日本人の「誉れ」を象徴する「人間国宝」になっています。それなのに、私は、小学校5年時に、工作と絵とで、街の展覧会で銅賞をもらっただけ、それっ切りで勲章も賞状も感謝状も、全くもらうことなく、今日に至っています。

 〈無冠の凡人〉、ちょっと寂しい気持ちがしないでもないのですが、これが実力、実績で、まあこれでいいかの私なのです。いつ頃からでしょうか、「国民栄誉賞」と言う表彰が始まったのですが、それを辞退した人が何人かおいでです。一番面白い辞退の理由が、ちょっとつぶやいたことばの方が大きくなって、『そんなもの貰ったら、タチショウベンもできへん!」と言ったとか、福本豊(阪急ブレーブス野球選手)で、なかなかの好人物です。本音をはっきり言える、この方が羨ましいなと思ったのです。

 この上の素敵な赤色を配した陶器は、河井寛次郎の作です。この方は、島根県安来の出身で、母のふるさとと近いこともあって、素晴らしい作風に魅入られているのです。ここ下野国には、有名な陶器の町があります。「益子(ましこ)」で、この街の窯で焼いたものを「益子焼」と呼ばれています。江戸の末期に、笠間で修行をした大塚啓三郎が始めています。東京が近かったこともあって、日用の釜や壺などが作られて、今日に至っています。

 この河井寛次郎は、「文化勲章」を辞退したことでも名を馳せた人でした。栄誉や名誉を得ることが、陶作の動機ではなかったからです。こう言った人の生き方を、「固執しない美学」と言うのだそうで、師を持たなかった人で、今の東京工業大学の窯業科で学んで、陶作に励んだのです。科学的な方法で陶芸に打ち込んでいた方でした。

 十字架に刑死して、墓に葬られたイエスさまは、「・・・死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。」と聖書にあります。罪のないお方が、罪を赦すために、代わって死なれ、苦しまれたので、「誉れ」を受けられたと言うのです。天地の創造主である父なる神からの名誉の付与であります。

 何も取り柄がなく、『ただ生かされてある!』と言うのが、くすぐったくなくていいのでしょうか。この気持ちで、今年は生き始めています。きっと、人の生き方に見られる《美学》は、そんな風に生きる凡々たる生き様なのでしょう。アッ、訂正があります。子どもたちから感謝されたことがあったのを忘れたことがありました。

(陶芸家の河井寛次郎の作品です)

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長野県

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 次女は、結婚してから、婿殿が、英語教師として、長野県の南信地域のいくつかの県立高校で、3年ほど働いていた時期がありました。それは、「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」、外務省,総務省,文部科学省,(一財)自治体国際化協会(クレア)の協力のもと,地方公共団体が,諸外国の若者を地方公務員等として任用し,日本全国の小学校,中学校や高校で外国語やスポーツなどを教えたり,地方公共団体で国際交流のために働いたりする機会を提供する事業です。

 その在任中に、私たちの最初の孫が、飯田市立病院で生まれたのです。当時、私たちは甲府に住んでいまして、中央自動車道を走っては、飯田の interchange で降りては、休みの日に、家内と二人で出かけました。孫が生まれる以前から、訪ねると、彼らは、南進地域にある、温泉などに連れて、よく案内してくれたのです。

 その長野県は、多くの人たちが、戦前から、満蒙開拓に出かけた地でした。農村は貧しく、農地に比して農業人口が多くて、「人減らし」の政策がとられ、新しい生活を求めて、多くの方々が参加したのです。飯田市の隣に、阿智村(現在では飯田市に編入されています)には、「満蒙開拓記念館」があり、開拓の悲しい歴史を伝えています。国民学校の教師で、阿智村の僧侶の山本慈昭は、団長となって、少年たちを連れて、終戦の年の1945年に、満州に渡りました。ところが、鍬を振るう間なく、ソ連軍の侵攻で、シベリヤ抑留の身となります。

 2年間の抑留生活の後に、帰国して分かったのは、開拓団で出かけた80%の人たちが未帰還であることを知り、満蒙に残留した人たち、とくに孤児の日本帰還のために、山本は奔走したのです。彼自身、多くの子どもたち連れて行った、その責任を感じたからでした。そんなのことで、「中国残留孤児の父」として、中国の黒竜江省に、何度も出かけています。


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 貧しい県であったので、この長野県人は、「教育」を受けることによって、それを克服しようとした県であると聞いています。社会貢献した有名無名の多くの人たちを輩出した県だと言えます。私たちの隣家のご婦人も、長野県人で、高校教師をされていて、とても理知的な方でした。

 そう言えば、木曽や馬籠、妻籠などの旧宿場も訪ねました。映画化もされましたが、農村歌舞伎で有名な大鹿村にも、観劇に連れて行ってもらったのです。初めての歌舞伎が、大鹿村で上演されていたもので、その熱演に感動した私は、みなさんがしていた「おひねり」を、舞台目掛けて投げたのが、昨日のことのように思い出されます。あの歌舞伎は、もう一度観てみたいと思っています。

 朝な夕なに山梨県側から見上げ、冬場は〈八ヶ岳降ろし〉で凍えさせられた八ヶ岳、学校のクラブの合宿で白樺湖に出かけたり、ドライブをして妙高高原、休暇で松原湖、義兄のいた松本市を訪ねたりしたことがあります。諏訪湖の周辺は、「日本のスイス」と呼ばれて、時計などの精密機器の工場が多くあったのです。


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 登山もしたこともありました。一番印象深かったのは、「入笠山(にゅうがさやま)」だったでしょうか。登山付きの方が教会にて、連れて行ってもらったのです。雨降りの翌日、晴れていたので家内と二人で、この山に登ったのです。麓はよかったのですが、登るに連れて、北側の斜面は、雪でした。登るほどに雪の積雪量が多くて断念し、登山道から出て、途中の林道を下山をしたのです。

 危なく遭難しかけたのは、今では笑って話せますが、身の危険を感じたのです。家内の手を引いて、滑ったり、転んだりで、『中年夫婦の遭難!』と言うニュース記事にならないで、やっと駐車場に辿り着くことができました。林道には獣の足跡が残っていたのです。それでも、八方が見渡せる入笠山は、もう一度再挑戦してみたい山、頂上に立つと、気分を爽快にしてくれるからです。

 律令制下では、「信濃国」、また、「信州」とも呼ばれてきました。県花が「りんどう」、県木が「白樺」、県鳥が「雷鳥」、県獣が「ニホンカモシカ」、県人口が「205万」、県都が「長野市」で、山岳県の中に、盆地があって、安曇野や飯田は山々に囲まれて、果物も美味しく素敵な県です。飯田から諏訪湖に向かって、車で走ると、国道沿いの蕎麦屋さんがあって、そこの「蕎麦がき」が美味しかったのです。purine のように練って作られていて、それに出会ってからは、その店に何度も通いました。それは逸品でした。

 そう、一時期は、「駒ヶ根」が気に入ってしまい、《終の住処》は、ここにしようと思ったほどでした。でも、そこには道が開かれず、若い日に思いのあった、そしてずっと思いの中に蘇ってきては消えて行った、「中国行き」の道が開かれたのです。聖書を届けた呼和浩特(フフホト)の街の伝道者が、『来てください!』と言われた声が、思いの中に大きくなって行ったからです。

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ことば

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 時は敗戦後、場所は結核専門病院の診察室、特効薬も栄養価の高い食べ物も手に入らない患者に、こちらも敗戦で混乱していたのでしょう、その担当医師が、『君、もう治らない。だめだよ!』と診察の所見を話したのです。一縷の望みを繋いで病院に通っている女子大生は絶望し、次からは病院に見えなくなり、同病の友人から亡くなった旨、義母が聞いたのです。

 病友の死を知った義母は、『人の生死を握っている医師のあなたが、そんな決定的なことを語った結果、彼女は死んだのです。軽率なことばに気をつけてください!』と、その医師に語調荒く抗議したそうです。筑後女(美しくて、気が強く、粘り強い)だからでしょう。

 権威ある立場、専門の立場にある人の語る「ことばの力」の大きさを学んだのです。義母は、戦後、マッカーサーが遣わした宣教師が、伝道で配布した文書を、長女が駅前でもらい、持ち帰ったものを読んだのです。その小冊子に、次にように書かれています。

 『太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。(約翰傳113)』

 これを読んだのです。医師の語ったことばの重さを痛感していたので、小冊子に記された「言」に目を止めたのだそうです。そこに記された住所に、アメリカ人宣教師を訪ね、「ことば」について質問します。納得できるまで訪ね続け、「ことば」である、イエス・キリストを知って、「救い主」と信じて、baptisma を受けて、基督者になったのです。 

 ブラジルで伝導してきた一人の老牧師が、私たちの招きで来られたことがあります。若き日に、『〇〇、満州!』、「△△、ブラジル!』と、監督の「ことば」に従って、すぐに任地に出かけた時代、この方はブラジルのサントスへの船に乗って、日系人伝道に赴いたのだと言っておられました。また、『行け!』と命令を下した上官の「ことば」に従って、いく百万もの命が、戦場の露と消えていきました。

 「ことば」は、人の一生や生死でさえおも決定します。義母は、義父と共に、高校を出たてで、ブラジルに移民した長男を訪ねて行きました。命に至る「ことば」を伝え、子どもの頃に告白した信仰を確かめるために出かけたのです。自死した移民仲間の亡骸を埋葬したり、移民者の辛酸を舐めた義兄は、私が訪ねた時、信仰を失ってはいませんでした。

 人と人とを繋ぐ「ことば」は、関係を築き上げもすれば、容易に壊すこともできます。人を激励し、生を肯定する「ことば」は、落胆した人の頭を上げます。

 『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。(イザヤ408節)』

 連れて行かれた教会学校で聞き、高校生の頃に教会に特別集会に行って聞き、学校に入った時に、入学祝いに、母に聖書をもらって読み、「神のことば」に耳を傾けてきました。神の啓示の書、預言の書、訓戒の書、生きる道を示す書なのです。漢訳聖書は、この「ことば」を、「道dao」と翻訳し、ギュツラフ訳の本邦で最初の聖書は、「かしこきもの」と翻訳しました。人格を持たれた、人となられた、神の子のイエスさまを言っています。それは当を得た翻訳だったのです。聖書は、キリスト・イエスが、どなたかを記した書であります。「ことば」によって、ご自身を啓示されています。

(聖書の「死海写本」の一部です)

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 やっとできた主治医から、「正月明け」の通院日を決めて頂いて、この地の正月が〈美味しいもの尽くめ〉だと言われて、そっと注意を促されたのです。ところが暮れから正月にかけて、近年稀に見る「ご馳走」攻めで、もてなしを受けたせいでしょうか、下げた体重が、1kg また増えてしまいました。父の家や世帯を持った自分の家での生活ぶりを思い返していました。

 日曜日だけ休みで都内に通勤する会社持ちの父、そして三百六十五日の母が、私たち四人の男の子を、手抜きをすることなく、一人前に育ててくれたんだと、思い出しています。大変などと思わないで、喜んでしてくれたのです。ただ感謝している朝です。

 戦争中だか戦争が終わってからだか、東京の本社に出かけた時でしょうか、本社近くで撮った、黒いマスクをした父の写真が、arubamu の中にありました。小太りの父の頬が落ちているのが、マスクをしていても分かるほど、東京には食べ物がなくなっていたのでしょう、目の映るようなおじや(雑炊)を啜っていたそうです。

 親は食べる量を減らして、子どもたちに食べ物を用意し、満腹にしてくれ、それから自分たちが食べるような時が多くありました。そんな中で、母の嫌いなものがあったのです。父が、上京中に啜(すす)っていた「おじや」なのです。子どもの頃に、さんざん食べさせられたと言っていましたが、それが母の唯一の嫌いでした。

 そんな父の家でも、小麦粉を団子にして、野菜を入れた味噌汁で煮た「水団(すいとん)を食べる時もありました。かく思い出している私の家でも、その水団を、よく食べました。最近は、それが懐かしくて、時々食べるのです。これと同じものを、甲州人は、延板と延棒とで「ほうとう(生うどん)」を作って、味噌仕立てで、南瓜を入れるとご馳走になるといって食べていました。

 熊本の友人の教会で、牧師会をした時に、ご馳走になったのが、あの打ったままのうどんではない、団子にした小麦粉の塊を入れた「だご汁」でした。〈所変われば品変わる〉でしょうか、似たような郷土料理が、この狭い日本では受け継がれているのです。

 この正月、久しぶりにお会いした中国人の方の家庭で、中華料理をご馳走になりました。そこには、山東省の烟台や陝西省の西安の出身の方が、同席してtable を囲んでいました。「干し筍」の料理が出されたのです。華南の街でよくご馳走になった料理です。それが、「福州料理」で、広い中国の一つの郷土料理だったのです。広い国ですから、特産物の料理が、それぞれの地方にあるわけです。

 母の味噌汁で、具に一番多かったのが、「しじみ」でした。母のふるさとに、「宍道湖(しんじこ)」があって、そこの特産が、このしじみでした。父も母も好物だったのでしょう、よくしじみの味噌汁が出たのです。それで、私もしじみの味噌汁が好きで、よく作ります。ご飯に、それをかけてサッと食べるのが、一番の好物で、食事の締めなのです。

 栃木は、隣県の茨城の涸沼(ひぬま)が近いからでしょうか、その湖がしじみの産地で、そこから運ばれてくるしじみが売られています。それでよく買っては、それで味噌汁を作るのです。『何はなくとも、これさえあればいい!』なほどです。

 食習慣は、親譲りなのでしょうか。そこに戻るのでしょうか。招いてくださったひばりが丘の家で、ハンバーグを私が、ポテトサラダを家内が作って出したのですが、Macやレストランとは違う味に、『好吃(美味しい)!』と言って、お父さんは三つも食べてくれました。母が作っていたもののarrange でした。

 上京中、滞在先に訪ねてくださった友人の奥様が、「巻き蕎麦寿司」を持って来てくださったのです。美味しかったのです。どこの名物も美味しいもので、食を楽しむと言うには、創造主の祝福の一つに違いありません。

( 霧島酒造の「だご汁」です)

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