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 やっとできた主治医から、「正月明け」の通院日を決めて頂いて、この地の正月が〈美味しいもの尽くめ〉だと言われて、そっと注意を促されたのです。ところが暮れから正月にかけて、近年稀に見る「ご馳走」攻めで、もてなしを受けたせいでしょうか、下げた体重が、1kg また増えてしまいました。父の家や世帯を持った自分の家での生活ぶりを思い返していました。

 日曜日だけ休みで都内に通勤する会社持ちの父、そして三百六十五日の母が、私たち四人の男の子を、手抜きをすることなく、一人前に育ててくれたんだと、思い出しています。大変などと思わないで、喜んでしてくれたのです。ただ感謝している朝です。

 戦争中だか戦争が終わってからだか、東京の本社に出かけた時でしょうか、本社近くで撮った、黒いマスクをした父の写真が、arubamu の中にありました。小太りの父の頬が落ちているのが、マスクをしていても分かるほど、東京には食べ物がなくなっていたのでしょう、目の映るようなおじや(雑炊)を啜っていたそうです。

 親は食べる量を減らして、子どもたちに食べ物を用意し、満腹にしてくれ、それから自分たちが食べるような時が多くありました。そんな中で、母の嫌いなものがあったのです。父が、上京中に啜(すす)っていた「おじや」なのです。子どもの頃に、さんざん食べさせられたと言っていましたが、それが母の唯一の嫌いでした。

 そんな父の家でも、小麦粉を団子にして、野菜を入れた味噌汁で煮た「水団(すいとん)を食べる時もありました。かく思い出している私の家でも、その水団を、よく食べました。最近は、それが懐かしくて、時々食べるのです。これと同じものを、甲州人は、延板と延棒とで「ほうとう(生うどん)」を作って、味噌仕立てで、南瓜を入れるとご馳走になるといって食べていました。

 熊本の友人の教会で、牧師会をした時に、ご馳走になったのが、あの打ったままのうどんではない、団子にした小麦粉の塊を入れた「だご汁」でした。〈所変われば品変わる〉でしょうか、似たような郷土料理が、この狭い日本では受け継がれているのです。

 この正月、久しぶりにお会いした中国人の方の家庭で、中華料理をご馳走になりました。そこには、山東省の烟台や陝西省の西安の出身の方が、同席してtable を囲んでいました。「干し筍」の料理が出されたのです。華南の街でよくご馳走になった料理です。それが、「福州料理」で、広い中国の一つの郷土料理だったのです。広い国ですから、特産物の料理が、それぞれの地方にあるわけです。

 母の味噌汁で、具に一番多かったのが、「しじみ」でした。母のふるさとに、「宍道湖(しんじこ)」があって、そこの特産が、このしじみでした。父も母も好物だったのでしょう、よくしじみの味噌汁が出たのです。それで、私もしじみの味噌汁が好きで、よく作ります。ご飯に、それをかけてサッと食べるのが、一番の好物で、食事の締めなのです。

 栃木は、隣県の茨城の涸沼(ひぬま)が近いからでしょうか、その湖がしじみの産地で、そこから運ばれてくるしじみが売られています。それでよく買っては、それで味噌汁を作るのです。『何はなくとも、これさえあればいい!』なほどです。

 食習慣は、親譲りなのでしょうか。そこに戻るのでしょうか。招いてくださったひばりが丘の家で、ハンバーグを私が、ポテトサラダを家内が作って出したのですが、Macやレストランとは違う味に、『好吃(美味しい)!』と言って、お父さんは三つも食べてくれました。母が作っていたもののarrange でした。

 上京中、滞在先に訪ねてくださった友人の奥様が、「巻き蕎麦寿司」を持って来てくださったのです。美味しかったのです。どこの名物も美味しいもので、食を楽しむと言うには、創造主の祝福の一つに違いありません。

( 霧島酒造の「だご汁」です)

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