若さ

.
.

 『 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。(1テモテ412節)』

 ナポレオンは、30代でフランスの指導者になりました。明治維新の原動力になったのも、主に30代の人たちでした。令和の日本の政治の世界では、いまだに六十代は「新人」、「青二才」だと言われます。もちろんそう言うのは、現状を憂えず、維持を願う年長の老人たちからですが。

 アメリカが、アイゼンハウワーの後任を選ぶときに、さまざまな裏のやり取りがありましたが、結果的には、アメリカの政治史上初の43歳のケネディーを、第35代大統領に選ばれました。当時私は、華の高校生でした。他国の大統領でしたが、一番驚いたのは、この方の若さでした。

 同級生が、新大統領の叫んだNew Frontier “ に感銘して、新宿駅前の喫茶店で熱く、その spirit を語ってくれたのです。繁栄のアメリカも例外なく抱えていた、平和と戦争、無知と偏見、貧困と豊かさといった問題に、ケネディーは就任に際して語ったわけです。この新大統領は、西部開拓者の子孫かと思ったら、アイルランドからの移民の商人、実業家の子だったのです。

 今の日本の総理大臣が、「新資本主義」を、よく語っているのですが、資本主義に、新旧があるのを知って、ちょっと戸惑っているのですが。何を意図して、そう言ってるのか、もう少し聞き続け、様子を見て行きたいなと思っております。

 室町幕府の足利尊氏は、33歳で征夷大将軍となっていますし、織田信長は、39歳で天下人となっています。近代の我が国初代の総理大臣の伊藤博文でさえも、43歳で就任しています。

 若く指導者となった方たちの生き方や、したことに賛成できない面も、多々あるのですが、経験だけが人の力ではありませんし、パウロがテモテに、《若さ》を軽く見られないようにと勧めたことには、神の意図がみられます。彼がキリストの教会の牧者とされた時に、パウロが勧めた言葉です。

 歴史を見ますと、若い人が用いられ、一国の危機を救った事例は多くあります。先代の非を改めて、善政を行った逸材がいたことを立証しています。若者が傲慢にならずに、先人への敬いを忘れずに、その知恵に聞いた例も多くあります。聖書に、

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。(レビ1932節)』

とあります。私の若い日々に、年配者がおいででした。よく人生訓を聞かせられ、どう生き、何を選択するかを教えてくれました。そうしてくださった方々のお顔や言葉が思い出されてまいります。今あるのは、そう言った方々からの金言、知恵があったからでしょうか。

.
.

情熱、夢、正義への愛、祖国愛、人間愛、気高さなどが豊かな時期こそ、社会的な責任を負い、果たすために相応しいに違いありません。融通が聞き過ぎて、誰か特定な人や集団の益にのみ思いを向けてしまうことのないのは、年齢的に老いる前の方が柔軟でいいのでしょう。もちろん、老成した者には知恵がありますが、彼らだけが知恵者なのではなく、若くても豊かな知恵を備えた人はおいでだからです。

老若が折り合いながら、補助し合いながらことがなされるのが理想なのかも知れません。高校の頃に一夏、湯河原の海で過ごしたことがありました。その時一緒だった上の兄の同級生で、運動部も同じだった方が、先頃亡くなられたと聞きました。バリバリの sportsman でした。有名な企業に就職し、役員をされた頃、兄の勧めで教会に来始め、信仰者となった方です。そんな年齢になったのだと思わされています。人生短しですね。

(キリスト教クリップアートから「ソロモンの知恵」、吉浜海岸です)

.

福井県

.

 東尋坊、水上勉、永平寺、同業で友人の故郷ですが、一度も訪ねたことのないのが福井県です。雪深く、真冬の漆黒の日本海は、荒波で、律令の下では、「五畿七道」、「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉、「七道」は東山道、北陸道、東海道、南海道、西海道、山陰道、山陽道で、福井県は、北陸道の若狭国、越前国と呼ばれた地でした。

 友人のお父さんが、ご自分で育てたお米や山に入って刈り取った松茸を送ってくださり、越前の味を楽しんだこともあります。三国(みくに)や敦賀(つるが)の港町は、「北前船」の寄港地としての役割を担っていたそうです。

 この「北前船」は、北國廻船のことで、江戸期に始まり、物流の先駆的な形で、日本海の港に寄港した商い船でした。物ばかりではなく「文化」も同時に運ばれたようです。荒波を越えていく命懸けの事業は、鉄道網が日本列島に広がっていく明治三十年代まで行われていたのです。

 人口76万で、県都は福井市です。県花は水仙、県木は松、県鳥はつぐみで、県魚は越前蟹、農業を中心とした県でしょうか。この越前蟹も一度も食べたことがありません。県花の水仙ですが、この花は、「雪中花」と呼ばれるのだそうです。作詞が吉岡治、作曲が市川昭介で、この花の歌があります。

風に風に 群れとぶ鴎
波が牙むく 越前岬
ここが故郷 がんばりますと
花はりりしい 雪中花
小さな母の 面影揺れてます

紅を紅を さすこともなく
趣味は楽しく 働くことと
母の言葉が いまでも殘る
雪をかぶった 雪中花

しあわせ薄い 背中を知ってます
いつかいつか 薄日がさして
波もうららな 越前岬
見ててください 出直しますと
花はけなげな 雪中花
優しい母の 笑顔が咲いてます

.

.

 水仙は、地中海を原産地とする花で、「絹の道」で 球根が中国に運ばれ、その球根が海に流れ出て、海流に運ばれて、日本列島の海岸に打ち上げられ、そこで花開いたのだと聞きました。この浪漫が好きなのか、花が好きなのか、巴波川の岸には、もう三週間ほど前に、花を開かせていたのを、じっと眺めていました。

 この花は、敦賀港にも漂着したのでしょう、同じ波に乗って、この港に運ばれた一団の人の群れが、戦時中にありました。リトアニアのマナウスの日本領事館で、領事館代理だった杉原千畝が、「命の visa 」を発給し、中国大陸を上海まで来て、ドイツの支配に服さない国に亡命しようとした多くのユダヤ人が、この敦賀港に上陸しています。

 『雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を横たえる。だれがこれを起こすことができよう。あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。(民数記249節)』

 敦賀市民は、着の身着のままだったユダヤ人のみなさんに、宿や衣料や食料を提供し、銭湯に連れて行き体を洗わせ、元気付けられた彼らは神戸港から、アメリカや南米などの国に逃れて行ったのです。まさに、昭和の「exodus エクソダス/脱出」でした。『この街は、《 Heaven 》のように思えた!」と、ユダヤ難民のみなさんが証言しています。1940〜41年のことでした。まるで水仙が水に運ばれて来た物語に似て、神の特愛の民が、敦賀に来て、安堵の地に逃れて行ったわけです。神の選ばれた民を祝福した敦賀市民は、万物に創造主からの祝福を被ったのでしょう。

 戦争に敗れて、中国大陸から祖国に引き揚げてくる一団が、引き揚げ船が着いたのが同じく京下の「舞鶴」でした。子どもの頃、引き上げて来られた方の消息を問合せ、知らせる放送が、NHKでなされていました。子ども心に、悲しさを覚えたのです。父は、旧満州や朝鮮半島にいましたから、私たちは残留孤児になった可能性だってあったのかも知れません。祖国に帰って来た方たちの喜びは、どれほどだったことでしょうか。

 私たちは、生まれた故郷に帰るのではなく、「魂の故郷」、天に備えら得た故郷に、帰ることができるのです。

 『 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル1116節)』

 それで私のペンネームは、「寄留者」なのです。以前、在華時には、「大陸寄留者」と名乗ったのですが、本物の「ふるさと」に帰るために、一時的に留まっている人として、自分を捉えているのです。生まれたのは《漢字の故郷》、これから帰るのは《ひらがなのふるさと》と区別しております。思い返しますと、いろいろな街や国の街や野を歩いて来たなあ、とおもうのです。
.
.

 さて、ここ福井県には、「県立恐竜博物館」があります。恐竜の化石が発見されたのが、豪雪地である「勝山市」なのです。巨大な動物が生息していて、草食だったと言うのに驚かされます。いつか行って見ることができるでしょうか。
.

愛でる

.

.

 『主は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。 地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。(創世記11112節)』

 毎年、春になると台所の洗い場( sink )の下の扉の中の冷暗所に、水を含ませた tissue paper を置き、その上に朝顔の種を蒔くのです。芽吹かせるためにです。芽が出てくるのを見て、土に植え替え、そして鉢に植え替え、庭やベランダに置きます。これをもう何年も何年も家内が続けてきました。華南の街のアパートのベランダでも、日本から持って行った種を植えたのです。

 まさに「婦唱夫随(ふしょうふずい)」で、green を愛(め)

でる思いが与えられ、ベランダ活用術を心得た私も、調理や食器洗いだけでは、種を蒔いたり、苗を植えたりしています。綺麗に咲くのです。今年も、もうすでに、寒風の中、ベランダでは何種類もの花が鉢の中で咲き、室内では、胡蝶蘭の鉢が四つもあって、もう10輪も咲き始めています。

 これを眺めていて、あんなに綺麗に咲く花に、時々水遣りをするのですが、土と水で、真っ白やビロード色の蘭が咲いてくるのが不思議でならないのです。花を咲かせている「力」は、どこからくるのでしょうか。あの色彩は、何が「作用」しているのでしょうか。わずかな水を吸い上げていくのは、どんな「ポンプ」が、花の根や茎に内臓されているのでしょうか。

.
.

 今住んでいるアパートは、5階建てで、台所や風呂場や洗面所の水は、pomp up したものを水圧を調整しながら、けっこう複雑な設備が上層部にあって、給水機能が維持されています。年に何回か、半日ほどかけて、清掃や整備が行われています。人が設備して、維持管理されていて、その水で先ほども洗面を終わったわけです。

 ところが、窓辺の胡蝶蘭は、ポンプもないし、点検もしないのに、今、10輪ほど咲き始めていて、芽は各枝に10個ほどあって、順次咲かせているのです。花芽でしょうか、花でしょうか、その配列も一定していて、茎の方から先端に向けて、順次咲いて、長く楽しませてくれるのです。 

 根の中に、何の細工もないのに、あんな細い茎を伝わって水分、栄養分を送り続けていくのは、何なのでしょうか。生物学者は、「根圧(または浸透圧とも言うようです)」と言うそうです。何が、その圧を加えているのでしょうか。植物の本能なのでしょうか。その本能は、どういう風に備わったのでしょうか。人は知らないのです。科学では説明できないことです。

 野の草でさえ、創造の御手によってできなかったものはありません。意図され、計画されて造られた一本の木や咲く花を、養い育てる、創造の神がおられ、このお方がなさった以外に考えられません。数ミリの胡蝶蘭の根や茎の中に秩序よく水を送り、養い育てておられるお方が、私をも生かしているのです。また新しい朝が来ようとしています。

.

與一様

.
.

 『祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。』、高校の国語で、「平家物語」を学んだ冒頭の部分です。この書の「扇の的」の段は、次のように記しています。

 『ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風激しくて、磯(いそ)打つ波も高かりけり。
舟は、揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふ事ぞなき。

与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、我が国の神明(しんめい)、日光の権現(ごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみょうじん)、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度(ふたたび)(おもて)を向かふべからず。
今一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢外させ給ふな。」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。

与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵(こひょう)といふ条、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要際(かなめぎわ)一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海に入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたを叩いて感じたり。
陸には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。

あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持ったるが、扇立てたりける所に立つて舞ひ締めたり。
伊勢三郎義盛(いせのさぶろうよしもり)、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定(ごじょう)であるぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸(くび)の骨をひやうふつと射て、舟底へ逆さまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。』

.

.

 これは、源義経の命を受けた「那須與一」が、平氏の軍との一戦、「屋島の戦い」で、海に浮かぶ舟の扇を、一矢を放って射抜くという話です。日本史の中の逸話として有名な話ですが、与一は、下野国(現在の栃木県)の那須岳の近くの出身でした。

 その武勲によって、兄たちは平家に与(くみ)したので、家督相続は、那須佐久山の父・那須資隆の十一番目の子の「與一宗隆」が継いでいます(佐久山城の那須地域では、領民は誇らしく、「お殿様」として接したのでしょう。

 大田原市では、この那須与一を「郷土の誉」としています。那須岳から吹き下す冬季の雪は冷たそうですが、郷土の名を挙げた人材だったわけです。ここ栃木では、誇る人や事物や名産や歴史的事件などに、「様(さま)」を付けるのです。例えば、宇都宮は「雷都(らいと)」と呼ばれるほど、雷で有名なのですから、これに、様をつけて「雷様」と、怖いものなのに愛称をもって呼んでいます。

 それで「與一様」と、親愛の情を込めて呼んでいるのです。「与一温泉」と名のついた温泉もあったり、マンホールの蓋にも描かれ、西瓜にも、その名をつけてています。『あるかな?』と思って探してましたら、「与一栗饅頭」がありました。

 すみよい街として、栃木県下では高く評価されているのです。この那須の出身で、若き友人のお話によると、夏場は涼しいので、都会からの移住者が多いのだそうですが、寒さの厳しい冬がやってきますと、みなさん尻込みをして、去っていく人もあるのだそうです。甲州八ヶ岳の麓の別荘地は、boom の頃は乱立するほどですが、やがてそれが去って、廃屋が点在していたのと似ています。土地の人は、寒さに耐えて生き続けてきた強さがあるのでしょう。

(美味しい「与一西瓜」です)

.

春来

.

.

 東側の窓を開けましたら、太陽の光が差し込んできたと同時に、四階の窓下は予備校の屋上で、そこに雪がうっすら積もり、その上を、陽を浴びて雪がキラキラと輝きながら舞っていたのです。奥山深山に行かなくても、旧宿場町のここでも、そんな光景を目にできて、喜んだ朝です。

 こんな朝、つい唇からついて出てくる歌があります。高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「春が来た」です。

春が来た 春が来た どこに来た。
山に来た 里に来た、
野にも来た。

花がさく 花がさく どこにさく。
山にさく 里にさく、
野にもさく。

鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
山で鳴く 里で鳴く、
野でも鳴く。

まさに窓に、屋上に、春の日差しがやって来たようで、やはり、ウキウキとした気持ちがあふれてきます。「聖書」に、季節を作り、四季を備えられた神のみ業が記されてあります。

『わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。(エゼキエル34章26節)』

太陽と地球に距離、地軸の傾き、地球の自転などなしには、春もやってきません人を楽しませる創造の神が、そうされた以外に、考えられない天然の理によるのです。どの村にも、どの辻にも、日本の神々がいて、それが分かると、習慣的に歩を止めて、合掌しては祈っていた男が、創造の神、摂理の神、義なる神と出会って改心し、基督者となりました。彼は生涯、その信仰を続けて終えたのです。それが内村鑑三でした。彼が、「寒中の木の芽」と言う詩を残しています。

一、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰(なぐさめ)あり

二、花散りて後に
  葉落ちて後に
  果失せて後に
  芽は枝に顕(あら)わる

三、嗚呼(ああ)憂に沈むものよ
  嗚呼不幸をかこつものよ
  嗚呼冀望(きぼう)の失せしものよ
  春陽の期近し

四、春の枝に花あり
  夏の枝に葉あり
  秋の枝に果あり
  冬の枝に慰あり

自ら、かつては、「憂に沈むもの」、「不幸をかこつもの」、「冀望(きぼう)の失せしもの」であったのに、喜ぶ者、幸福なる者、希望ある者とされた喜びが、内村に与えられたのです。基督者であるが故の不都合な事態があっても、自らの弱さがあっても、友や弟子に裏切られ、娘を亡くしても、青年期に出会った義なる神、救い主キリストと離れることはありませんでした。

内村は去り、時は移り、季節は巡り、令和の御代になっても、天然自然は不変に、忠実に運行されています。

(2月17日朝、家内が朝日の中に雪の舞う様子を撮りました)

.

本地の歴史

.

.

 ここ栃木市は、かつて足利藩だったことを知って驚きました。足利は、日本史で学んだ足利氏の支配した地で、室町幕府(1337年)を起こす前、清和源氏の流れを汲み、下野源氏の一族でした。鎌倉幕府の時期には、御家人の要職にあったのです。下野国の足利庄に在を置き、「坂東(ばんどう/関東地方の古称です)の雄」でした。鎌倉幕府を滅した後、あの足利尊氏が征夷大将軍に着き、京都に幕府を開いたのです。

 数年前に、足利学校を見学しました。平安時代に初期に創設され、「坂東の学校」として前途有為の若者を集めたようです。宣教師のザビエルも、その国元のイスパニアに書き送った書状で紹介しています。日本中から学ぶ者がやって来て、論語などから孔子の思想を学んだのです。

 イギリスのオックスフォード大学は、1096年に、最初の講義が行われたそうですから、それよりもはるか昔に、足利学校は開校されていたことになります。日本最古の高等教育機関だったことになります。足利市民は、ここを「足利様」と親しみを込めて呼んできたのだそうです。庶民からの支持があって、応援が飛んでいたと言うことでしょうか。

.

.

 源頼朝も足利尊氏は、元々は、源義家(平安期)を祖とした一族で、源氏の天下は長く続いてきているわけです。ですから、「驕る平家」は、日本に全土に、落武者となって散っていき、農業に従事して、二度と天下を狙うことはなかったわけです。県北の湯西川には、落人部落だったと言われ、温泉で注目されています。室町幕府も、15代まで続くのですが、織田信長によって義昭が追われ、その時点で滅びています(1573年)。

 農民も商人も職人も、覇権競争の外にあって、畑地は踏み荒らされたり、家は焼かれても、再び地を耕して種を巻き、稲を植え、家を建て直しては住み続けて、営々と生活を続けてきているわけです。散歩道に巴波川の流れを眺めるのですが、舟運に従事した人々は、荷を舟に載せたり下ろしたり、舟の櫓を漕ぎ、舟を曳きながら生きていたのを思ってみますと、農も商も工も、日常は平凡な労働の繰り返しだったことになります。

 政権交代が繰り返され、足利藩だった栃木にも、皆川氏が、市の北の地に城を設け、その後、栃木に城を新たに建てるのですが、幕府の改易で、皆川氏は退いてしまいます。そして足利藩の支配下に置かれて、明治維新を迎えるのです。散歩で歩く日光例幣使街道も、道沿いの商人も農民も、支配者が変わろうと、日常を営々として続けてきたわけです。いつの世も、民百姓は健気に、逞しく生き続けてきたのです。市内に「城内町」という地名があるのは、その名残なのでしょう。

.
.

皆川城址や湯西川温泉に行ったりしたら、源平盛衰の余韻や、室町時代の空気を感じることができるでしょうか。古い日本が残されて、今があるわけです。

(皆川城址、足利学校、湯西川です)

.

流行病

.
.

 仙台の病院で、鼓膜の再生手術をしたことがあり、市内の将監(しうげん)で、四日ほど入院しました。退院した足で、青葉城に登ってみたのです。そこは伊達政宗の居城で、彼を「独眼竜」と呼びます。戦場で負った傷だったとばかり思っていましたが、実は、幼少期に罹った「天然痘」で、右目を失明していたのです。

 古代エジプトに起源のある「天然痘」は、長く人類の敵として、数多くの命を奪ってきました。日本には、大陸からの渡来人によって持ち込まれたと言われています。1796年に、「近代免疫学の父」とよばれたジェンナーの人体実験によって「種痘(牛痘接種)」という、ワクチンが誕生したことによって、制圧されるまで、続いたのです。

 日本人は、古来、突如として襲ってくる「流行病(はやりやまい)」に見舞われて、どういったふうに、対処してきたのでしょうか。近代的な疫学の研究や保健衛生などのない時代、先人が残した知恵や、多分《閃き》、天来の知恵と言ったらいいでしょうか、それらで対処してきたのでしょう。

 少なくとも、global な21世紀の日本列島で生きている私たちは、そのたびたび襲ってきた流行病をくぐり抜けて、命を受け継いできていることは確かです。例えば、私を産んでくれた母は、生まれて間も無く、流行った、〈伝染病〉に感染することなく、95歳まで生き抜きました。

 幕末から明治には、1850年に、アメリカのミシシッピー号という船の乗組員によって、長崎に持ち込まれた、「コレラ」が流行っています。

 日向国(現宮崎県)高鍋藩では、この流行病を、「ころり病」と呼び、次のようなおふれが発行されています。

 『「臍の両脇一寸五分のところに折々灸治をして身を冷やさぬ」養生や、「少しでも吐瀉・腹痛など、いつもと違う症状のあるときには、はやく寝所に入り、飲食を慎んで体を温め、「芳香散」(漢方薬)を服用し医師へみてもらうこと」・・・』

 この「コレラ」は、1880〜90年代にわたって、大流行したのです。大正時代に入ると、「赤痢」、「発疹チフス」が流行しています。大正期7年に、インフルエンザが流行り、それを「スペイン風邪」と呼びました。

.
.

 この「スペイン風邪」による全世界の患者 6 億人で、死者 が2300万人でした。日本では、国民の 5 人に 2 人に当たる 2100万人が感染、発症しています。なんと死者は38万人 にものぼっているのです。母は、島根県出雲市で生活をし、前年の1917年の三月生まれですから、感染の可能性はあったわけです。

 新コロナ感染症(Covid19)では、〈三密回避〉とか 〈 social distance 〉とか言われて、〈マスクの着用〉が求められています。当時、どんな対策があったかが報告されています。

1 多数人の寄る所,ほこり立つ所へは行 かぬがよろしい

2 悪性感冒の病人には接近せぬように注 意せられよ

3 せきをするとき,ハンカチで口を覆い, また,たんを吐き散らさぬようになさい

4 鼻毛をそらぬよう,また胃腸をこわさぬように用心せられよ

5 日々丁寧にうがいをし,口内,のどを清潔にせられよ

6 うがい液御入用の方は本会事務所ヘビ ール瓶お持ちあれば差し上げます

7 食振るわず少しでも身体だるく,また 熱あると思えば,早く医者に治療を受けられよ(大阪府衛生会)

 100年後の今と、あまり変わらない生活上に注意事項だったわけです。人類の歴史は、飢餓や戦争と共に、この流行病と闘ってきた歴史と言えるでしょうか。きっと、新型コロナ感染症も制圧され、流行の終息を迎えることと信じています。

 私たちに必要なのは、正しい科学的な知識であって、基本的な予防なのでしょう。親に言われて、家に帰ると、手洗いやうがいをするように言われて、身につけた生活習慣を守ることなのでしょう。結局は、《注意深さ》なのでしょうか。もう一つは、「自粛警察」的な社会的な責任追求や責め、さらに「ケガレ」とされる〈差別〉があるようです。だれにでも起こることであって、地域社会全体、国全体、地球的な規模での協力と理解でしょうか。

(独眼竜の政宗、マスク姿の古写真です)
.

明日

.

Green Tree with red Apples. Vector Illustration.

.

 九歳の親鸞が、詠んだとされる和歌があります。

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かむものかは

 この歌を、上の兄に教えられたのです。その意味は、『美しく咲いている桜が、明日も見ることができるだろうと安心していると、夜中に強い嵐が吹いてきて、花びらを散らししまうかも知れない!』と言ったのです。道を成す人の幼い日の垣間見せた賢さに驚かされます。親鸞は、自分の命を桜の花に例えたのです。「今」の大切さを心に期して、生きた人だったのでしょう。

 1958年、中学生の頃であったでしょうか、石原裕次郎が、「明日は明日の風が吹く」と言う歌を歌って、それが映画化されたのです。その前年でしょうか、「ケセラセラ」と言う、スペイン語の歌が和訳されて、『明日はなるようになるさ!』と歌って、流行っていました。

 新美南吉も、「明日」と言う詩を書きました。

花園みたいにまつてゐる。
祭みたいにまつてゐる。
明日がみんなをまつてゐる。

草の芽
あめ牛、てんと虫。
明日はみんなをまつてゐる。

明日はさなぎがてふになる。
明日はつぼみが花になる。
明日は卵がひなになる。

明日はみんなをまつてゐる。
泉のやうにわいてゐる。
らんぷのやうにともつてる。

 明日はないかもしれないと言うように、哲学的な捉え方をするか、それとも、『どうにかなるさ!』と気楽に、しかし実態のなさで捉えるか、明日って、そんなに漠然としたものなのでしょうか。

 明日、世界が終末を迎えようとしても、『私は、リンゴの木を植えよう!』としたと言われている(出典の確証は無いようです)ルターや、イスパニア(スペイン)にまで足を伸ばし、福音を宣べ伝えたいと願ったパウロのように、明日に望みを繋いで生きたほうがいいのです。

 明日は不確かに思えて、どうなるのかの不安が、地の表を覆っている今日日、29歳で結核で亡くなった新美南吉は、蛹(さなぎ)や蕾(つぼみ)や卵は、きっと蝶になり、花開き、鶏にかえると信じて、明日を捉えていた人だったのです。次の season が、必ず来ると言う《待望》って、とても快い生き方ではないでしょうか。

 中国語は、人から離れる時に、『明天見mingtianjian』と言う表現を使います。それは《願望》です。明日への《肯定》なのです。『だから元気でいてね!』の《祝福》でもあるのでしょう。

.

詩人

.

.

 JR中央線の豊田駅の発車時に、ホームで流れる〈発車melody〉は、「たきび」です。弟が住んでいまして、コロナ前はよく乗り降りをしました。岩手県で生まれ、東京都下の日野市で亡くなるまで生活をした詩人の巽聖歌(たつみせいか)が作詞をしています。作曲は、「不思議なポケット」にも曲を付けた渡辺茂です。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

かきねの かきねの
きたかぜぴいぷう ふいている

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

そうだんしながら あるいてる

 この巽聖歌は、岩手県盛岡市に隣接する紫波町(旧・日波町)に生まれ、父が生まれ育ち、父の祖父がいた横須賀海軍工廠で働きつつ、作詞をしていた方です。戦後、日野市で生活をしました。私は、結婚してから、同じ日野市に住みまして、弟も同じ日野市の旭ヶ丘に、結婚後に住んでいるのです。

 若い日に、教会に導かれた人でした。北原白秋に師事し、新美南吉と親しい関係があって、新美が亡くなる頃には、よく世話をしています。私の恩師は、卒業していく私たちに、『詩人たれ!』と一言語ってくれました。多才な人だった寺山修司は、自分を「詩人」だと言って自己紹介をしていました。

.
.

 やはり、「感性」が飛び抜けて鋭かったり、豊かだったりする人なのでしょうか、「詩人」って。最近、家内が図書館で、谷口ジローの「歩く人」を借り出してきて読んでいました。椅子の上にあったので、私も読んでみました。緻密な描写の漫画で、言葉数は少ない一編一編の日常を、散歩する主人公が、東京都下の北多摩郡の街を歩いているのだと、北多摩で育った家内が、『見慣れた光景が描かれていわ!』、そういっていました。

 詩のような漫画で、人気作家であることに納得しました。物や風景、人の営みなどに無関心ではないような生き方が、「詩人」にはあるのでしょうか。それでいて、どこか夢を見ているような理想家でもありそうです。そんな人になるように、恩師は願ったのでしょうか。横須賀にお住まいでした。実に重い Thema をもって生きるように激励され、それが何かをまだ考えつつある今なのです。

(豊田駅の古写真、「歩く人」の一コマです)

.

Never give up

.

.

ヨーロッパが、ナチス・ドイツの世界制覇の野望のもと、危機的な状況下にあった、そんな時に、イギリスの首相に就任した、ウインストン・チャーチルは、イギリス国会の下院で、次のように演説をしました。

 『我々は最後までやるつもりだ。我々はフランスで戦う、我々は海で戦う、我々は日々大きくなっていく自信と力でもって空中で戦う。我々はどんな犠牲を払おうとこの島を守る。我々は海岸でも戦うだろう。我々は水際でも戦うだろう。我々は野で、街頭で、丘で戦うだろう。我々は決して降参しない。例えこの島やその大部分が征服され飢えに苦しもうとも、私は降参を信じない。我々の陛下が海の向こうで英国艦隊に守られ、陛下の全ての力と権力によって、神のよき時代の中へ、彼らを古きより救い新世界へ解放する歩みを進めるまで、努力を続けるだろう(1940年6月4日)。』

 やはり光輝ある大英帝国の政治的な指導者の決意は、違っていました。決して揺るぐことも、ずれることもなかったのです。しかも英国一国だけを守備するだけではなく、ヨーロッパ全体に思いを向けていたのは、驚くほどでした。その度量の大きさは、さすが英国国民の長でした。そして、チャーチルの言葉で忘れられないのが、

 “Never, never, never, never give up(決して、決して、決して、決して諦めない)!

.
.

 私も、『最後まで諦めない!』で、与えられた一度きりの自分の人生を全うしたいと願っています。年をとり、肉体は衰え、例え病気がちになったとしても、そして息子や婿や孫に背負われても、最後の日まで、諦めないで、<双六(すごろく)>のゲームのように、《上がろう》と決心しています。私も抱えている、「魂の闇」に負けないで、この馳せ場を走り抜き、光り輝く中を昇華したいものです。

 思い返しますと、ずいぶん長く生きてきたものです。6歳で、17歳で、19歳で、35歳で、そして59歳で、何度も何度も死の危機に直面しながらも、生きることが、許されての今日なのです。ですから、老いの明日に夢を繋いで生きて行こうと、改めて決心しています。

 ヨーロッパでは、風雲急を告げそうな様相を呈していますし、北関東ではまた雪も舞いそうですが、確実に春が来ようとしています。年齢的に、もう十年生きられるでしょうか。でも残された日を、意味あるものにして生きていきたいと思うのです。人生のあちこち痛い晩年を過ごしている今、孫たちの成長ぶりが伝えられてきています。英検合格、水泳大会の活躍、高校合格、baseball の新season 開幕など、青春を謳歌しているのです。孫たちの結婚式出席や、ひ孫を抱くことなど、まだすべきことがありそうです。

 明日に夢を繋いで、今日を輝いて、家内と一緒の時を生きていきたい、そんな思いの2月です。誕生日にもらった胡蝶蘭が、窓辺で第三期目の花を、四つの鉢で5輪ほど開きました。もう春の陽は、強く差し込んできているのです。私も Never give up  なのです。

.