近所付き合いを

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 私は、「世捨て人」ではありません。25から、真剣に聖書を読み始めて、神さまは、この世に呑み込まれないで生きる様にと導かれ、自分でも目標を掲げました。

 それ以前は、押し寄せてくる誘惑を払い切れずに失敗者になってしまいました。そんな轍(わだち)からなかなか抜け出せずに、自己嫌悪の中にいたのです。上手く言い訳をしながら誘惑の中にいる生き方を、それでもやめたかったのです。それで、あるきっかけがあって、この自分の周りにある世界の日陰から、日向に跳び出せた様に感じたのです。

 妥協することなどしないで、「肉の欲、目の欲、暮らしむきの自慢(1ヨハネ21516節)」に誘惑されない秘訣を獲得できたのです。それは、第三位格の神でいらっしゃる、「助け主」という別名を持たれる「聖霊」に助けられたのに違いありません。それで浮き上がらない生き方ができる様にされたのです。それは驚くべき体験でした。

 世から、世の誘惑から抜け出られたのですが、世は捨てませんでした。そこには愛する人、よくしてくださる人、懐かしく感じる人が大勢いらっしゃるからです。一緒に酩酊することも、猥談や噂話の仲間にはなりませんが、彼らの近くにいることにしています。


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 引っ越して四年、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と連綿と続く、この地域の隣り組、自治会のみなさんがいて、今やこの自治会の「福寿会」の会員、仲間になっているのです。一緒に蕎麦を食べに行きますし、老人の日には祝金一封と赤飯をいただき、先月には山間(やまあい)の蕎麦店に行き新蕎麦を食べ、ラジオ体操会に参加し、この日曜日には、礼拝を守った後、午後には、「カラオケ交流会」に誘われて、「Amazing Grace」と「Holy Night」を家内と二人で賛美し、みなさんから喝采を受けました。

 孤立してしまわないように心掛けているのです。ミシン屋さんで電気も扱う、九十二歳になられる会長さんが、「愛燦燦(美空ひばり歌唱曲)」を、シミジミと若い頃を思い出すかの様に、マイク片手で俯きながら歌っていました。とても素敵な風景だったのです。お病気の奥様を支えながら、現役で車まで運転されて働いておいでだそうです。

 この方とお会いし交れるだけでも、何か意味のある時を共有できた感じがして満足しています。自分たちの生き方、信仰を明らかにしていると、みんさんに受け入れられているのかも知れません。婦人会の忘年会にも、家内は招かれて、出席するそうです。

(「室」と印字された提灯、近所に咲く花、夕焼けで富士も見えます)

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事故のないことを切に願って

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 華南の街で、『もうすぐだから!』と言うので、付いて行きますと、なんと小一時間もかかって、目的地の親戚の家に着いたのです。『ちょっと山歩きを!』と誘われて一緒に出かけたのはいいのですが、険しい谷をおり、谷を鉄製の階段で上がる、けっこうな難コースでした。時間感覚、距離感覚、さらには年齢感覚というのは、国や地域によって違う様です。六十を出たばかりで中国に行きましたら、『爷爷yeye/お爺さん』と言われて、あたりを見回しました。まあけっこうお爺さんでしたが。

 帰国して、75を過ぎると、後期高齢者だと市役所から連絡がありました。お陰様で、保険の自己負担は一割、市内のバスも一律100円、恩典を被って、東奔西走の日々です。

 やはり高齢者は、年寄りなのでしょうか。先日、福島市の97歳の方の運転で、死亡事故が起こってしまいました。地方で生活し始めて、一番の不便は、交通です。何処かに行くにも、バス離線は縮小されていますし、「ふれあいバス」も路線はけっこうありますが、本数が少なく、利用者は極少です。またタクシーは金額が高く、「蔵タク(相乗りタクシー)」がありますが、時間通りには来てくれないそうです。

 歩くには関節や腰が痛く、自転車に乗るとよろけてしまう方が多そうです。とかく世間は、年寄りには住みにくくなってしまった様です。それで、自分よりも年寄り度の高そうなご婦人が、おぼつかなく歩いて車に行き、ドアーを開いて、乗って運転を始めて去っていきます。

 足がないので、若い頃に取得した免許証を持ち続けておいでなのです。視力や判断力、認知機能の衰えには個人差がありますし、病気の程度もいろいろです。今の道交法は、運転免許更新時に、70歳以上は講習、75歳以上は認知機能検査を義務化しているのですが、3年ないしは4年ごとにしか確認できないのだそうです。

 通院、買い物、親戚付き合いなど、どうしても自分で運転していくのが便利なのです。かくいう私は、60過ぎて、華南の街に住み続けて、車を運転する機会がありませんでした。帰国時に、13年間で3回ほどしか運転していませんでした。それで、免許の更新をせずに、運転を止めました。一番の理由は、『加害者にならないため!』でした。

 そうしましたら、家内の通院が大変難儀でしたが、慣れると、電車だって、バスだって便利で、もう何でもなくなります。でも雨や嵐の時には、『あったらなあ!」と弱音を吐いてしまいます。日光例幣使街道を、散歩で歩いて感じるのですが、江戸時代には、京都からここを通過して日光までの往復を、二本足で歩くだけでしたから、それを思えば、自転車はあるし、たまには人に乗せてもらえます。

 タクシー代を払う方が、また知人にお願いする方が、取り返しにつかない大事故を起こしてしまって、後で悔やむよりはよいのです。潔く、免許証の返納をしてしまう方が良いのでしょう。加齢も、咄嗟の反応が遅くなったことも、感謝感謝で生きることですね。ハイ!

(日光例幣使街道を行く公家の一行です)

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麗しさはいつわり

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 見目かたちがよく、最近では肌や歯が綺麗なことが宣伝され、美しさの標準になっています。でも、みんな歳を重ねていくと、ちょっとやそっとではシミなんか取り除けなくなってしまい、歯だって入れ歯になったり、背も縮むし、みんなおばあさんとおじいさんになり、最終は骨だけにされます。

 大切なのは「心」です。お金をかけて得た加工された美貌は、元に戻ってしまいます。何十年も前に注入したシリコンが劣化して、美顔崩壊が起こり得ます。natural が一番、ちょっと歯が出てても愛嬌ですし、シミだって年輪のひとつですから仕方ないのです。背の高さだってキリンの横に立ったら誇れませんし、低かったら低地からの展望もまたいいものです。

 青年期に、驚き見入ったソフィアローレンとかエリザベス・テーラーとかオードリーヌ・ヘップバーンは、ミロのビーナスの彫刻のように美しかったのです。ところが、晩年になっての写真は、あの美しさは見る影もなく普通のおばあちゃんでした。男も同じです。

 ありのままが一番、歳なりの美や格好よさがあります。毛が薄くなってしまって、ちょっと、頂上付近が光り出してきても、いいおばあちゃん、いいおじいちゃんが、多勢います。かく言うオレだって、まだ捨てたものじゃあないのだと思っています。

 聖書は、『麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 (箴言3130節)』と言っています。

 まさに至言ではないでしょうか。イエスさまの弟子であったペテロが書き送った手紙にも、次のように記されています。『あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 1ペテロ334節)』、とです。

 「美しさ」、「強さ」、「優秀さ」を追い求めていくと、そうでない者が排除されてしまいます。でも、「弱い者」、「欠けた者」、「傷ついた者」に、愛や憐れみを向けておられる神さまは、誇らず、卑下せず、ありのままを感謝していくことを、私たちに願っておいでです。

 反神のナチスが、1936年に、〈レーベンスボルン(生命の泉)〉と言う政策を始めています。強く、美しい優秀なドイツ人から成る国家を形成するためでした。「アーリア人(ゲルマン人)」の人種的特徴(金髪・青い目・長身)を身に付けたナチス親衛隊員と、同じ特徴を持つ女性とを結びつけ、できるだけ多くの子どもを生ませ、それを将来のエリートとすることを目的として作られた、ナチス的な人種政策でした。

 ヒットラーの参謀のヒムラーの「超人種アーリア人」の妄想が原点です。ですから当時は、障害を持つ者、見劣りにする人を国には不要だとして抹殺されたのです。これによって生まれた子どもの多くは、1944年の段階で、推定40,000人ほどで、ほとんどが「私生児」だったそうです。あのナチスでも、このことを公然とは行わないで、秘密裏に行っていました。建国を目指した「第三帝国」に、優秀な人材を人為的に生み出そうとしたわけです。

 ナチスは、最も理想的なアーリア人として、ポーランド人に目をつけ、金髪碧眼のポーランド人の子を誘拐することもしたのです。でも、首謀者のヒットラーは自殺し、ナチスも、第三帝国も崩壊してしまいます。残された〈レーベンスボルンの子〉たちは、存在の意味をなくしてしまったわけです。私と同世代の彼らは、戦後をどう生きたのでしょうか。

 たくさんの悲劇がありました。社会に適応できない子どもたちが多かったのです。その一人、イングリッドについて次のように語られています。

 『「わたしはイングリット・フォン・エールハーフェンです。自分のことは、名前以外はまったく知りません」、自己紹介でこんな言葉を言わざるを得なかった彼女が味わった絶望の深淵は計り知れない。わたしならそのどん底でもだえ苦しんだ挙げ句に生きる活力を失ってしまうだろう。しかしイングリットは同じ境遇の仲間たちを得て、空疎な穴から見事這い上がった。それどころか最終的には、自分を無の存在にしてしまった(ナチス以外の)人々すら赦す。あまり愛していなかった幼い自分と弟のディトマールを危険を顧みずにソ連占領地域から連れ出してくれた養母ギーゼラのことを、イングリットは〝この上もなく勇敢な人〟と呼んだ。しかしそのギーゼラによって失われてしまった本当の自分を取り戻すべく、それこそ〝魂の命〟を落としかねない危険な旅路に敢えて出て生還し、ものの見事に本当の自分を見つけたイングリットも、ギーゼラ以上に勇敢で強い女性だ。』と告白しています。

(レーベンスボルンの少女たちです)

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大分県

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 同級生が、大分県の別府の街の出身で、『温泉がいいぞ!』と言うのを聞かされた私は、その街の温泉に入ろうと寄ったのが、19の夏でした。そうなんです、ここ大分県は「温泉県」と言える様です。それから何年も何年も経って、四国の愛媛県の八幡浜からフェリーで、この別府に上陸して、九州を縦貫して熊本を訪ねたことがありました。 

 関門海峡を国鉄の列車で、九州に入るだけではなく、海路をたどって上陸することもでき、もちろん空路も可能でした。旅の趣きで、いちばん面白いのは船ではないでしょうか。でも、もっとも原初的は方法は、地面の上を歩くことに違いありません。また車や列車で移動することができます。その船、そして飛行機です。
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 たしかに福岡や熊本や長崎や鹿児島は脚光を浴びていますが、大分は、ちょっと遠慮がちの九州の一つの県でしょうか。この県で有名なのは、「青の洞門」ではないでしょうか。菊池寛の作品で、「恩讐の彼方に」に出てくる、仏僧の禅海が、かつては難所で遭難者が多かった邪馬渓(中津市)で、ノミと槌だけを使って岩壁を掘ったのです。なんと30年もの歳月を経て、元和元年(1764年)に貫通させています。

 この大分は、狭い地形の中に、開墾した田圃が多かったことから、「多き田」と呼ばれていたのだったそうで、それが転じて「おおいた(大分)」と呼ばれるようになったと言うのが、県名の由来だそうです。律令制下では、筑前国の一部とこの地を「豊国(とよのくに)」と呼ばれていて、豊前国(ぶぜんのくに)、豊後国(ぶんごのくに)の二国だったのです。

 

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 戦国時代は、大友氏の所領であったのですが、江戸時代には、中津、杵築(きねず)、日出(ひじ)、府内(大分)、臼杵(うすき)、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠/くす)の八藩が分立していました。この他に、日田(ひた)は、幕府の直轄領でした。現在の人口は人110万強、県都は大分市、県花と県木は豊後梅、県鳥はメジロです。産業形態では、農業生産がめざましいものがあります。

 華南の街の日系企業の社長をされていた方の奥様が、日田の出身で、先日も、『故郷から〈かぼす〉が送られてきたので!』と言われて、お裾分けしてくれました。このご夫妻は帰国されて以来、今に至るまでお付き合いがあります。水産業も、工業も盛んな県なのです。

 慶應義塾を始めた福沢諭吉は、中津市(中津藩)の出身です。大阪の藩の屋敷に、下級武士の子として生まれますが、父親は儒学者でもあった様です。その父親が、諭吉一才の時に死去後、中津に戻り、やはり学問を好んだ人で、長崎にも出掛けています。遣欧使節の一員として出掛けた経験から、『天は人の上に人をつくらず・・・と云へり。』で有名な、「学問のすすめ」を著しています。
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 私の青年期に出会った女性が、日田の出身で、福岡のとある協会で働いていました。九州弁の訛りがあって、まさに日田美人でした。背が高くて、実に素敵な方でした。上の兄のいた街に一緒に行き、その後に、太宰府を案内してもらい、出張を終えた時を過ごしたのです。歌の歌詞にあったように、『指も触れずに』、別れて帰京したのです。旅の若者は23歳ほどでした。

 あの後、しばらくしてこの方が上京して来たのです。弱冠の私でしたし、まだ結婚は考えられませんでしたので、会えば、そんな話が出そうで、奥手の私は、そのままにしてしまったのです。何通か便りを受け取ったのですが、返事もせず仕舞いでした。ちょっと後ろめたい思いもあったのですが、諦めてもらうしかなかったのです。そんなことがあった二十代前半で、ほろ苦い青年期の思い出の一つです。

 家内と結婚してから、由布院(湯布院)に出掛けたことがありました。熊本で、牧師会が開かれて、そこに参加の途次でした。その湯布院に、知人のお父さまの湯治用の家があって、右肩の腱板断裂の怪我をして、手術後にリハビリをしていた頃でしたので、1週間ほど、その家をお借りしたことがありました。大きな湯船に、温泉供給の栓を開いて温泉を入れて、実に快適な1週間でした。必要な物を近くのお店で買い求め、台所で調理をしてもらいながら、湯布院の湯は快適でした。温泉街を散歩したのですが、のんびりとした湯治場で、よく見られるケバケバしさは見られませんでした。

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 そんなことで、大分県は、けっこう身近に感じられているのです。いただいた、日本一の生産量を誇る「かぼす」が、まだ冷蔵庫に残っているでしょうか。香りが高く、味も良くて、サラダや、揚げた魚にかけて食べるのです。時々、日田名物の和菓子、羊羹をいただくのですが、ことのほか美味しいのは、懐かしい、ちょっと申し訳のない思い出があるからなのでしょうか。

 一昨日、19の夏の九州旅行を一緒にし、別府の温泉にも一緒に入った友人のご夫人から、彼の訃報が届きました。カバンを持って校門で待っていてくれて、一緒に帰った友でした。お父さんが、Tailor をされていて、何着かの背広を作ってもらったことがありました。国文科に進学して、中学校の国語教師を勤め上げたのです。退職後は、あちらこちらへの旅行先から、よく版画絵を擦り込んだハガキをもらいました。もう仲間や友人が亡くなってしまう年代になったと言うことでしょうか。

 旅先のことも、一緒に時を過ごしたことも、遠い昔のことですが、学友、遊び友だちがいなくなると、さらに思い出が遠のいてしまったようです。人生には、「至る處青山あり」だと言われてワクワクしていたのに、青山は紅葉に変わり、やがて落葉してしまいます。でも、木々の葉が落ちると、すぐに、来季の芽吹きの準備に入るのは、自然界の驚異です。
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 人は再生の命ではなく、「新生のいのち」に預かることができると、いのちの付与者である創造主が、私の若い日に、聖書で語ってくれました。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ316節)』

 友人の他界と、大分とは関係なさそうですが、一緒に温泉につかった懐かしいことも、楽しかったことも、過去へ追い返されてしまいますが、私の前には、「永遠」があるのだと確信しながら、人生の旅を締めっくくる準備、「収活」をすることにしましょう。

(豊後梅、大分全図イラスト、青の洞門、カボス、由布岳、別府です)

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ひもじかった頃のこと

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 芋をかじって、食糧難の戦後を、生きていた人がほとんどだったのです。その芋でさえ食べずに、餓死してしまった裁判官がいたと、小学校の授業で聞いたことがありました。闇で違法に入手ずる食糧に、手を出さない遵法者だったからでした。

 そんな状況下で、1949年(昭和24年)8月に、ロスアンゼルスで「全米選手権」の水泳競技会が開かれました。そこに招待されたのが、古橋廣之進でした。400m自由形で4333800m自由形で93351500m自由形で18190の世界新記録を出したのです。アメリカの新聞は、《The Flying Fish of Fujiyama(フジヤマのトビウオ)》と言って、称賛しています。

 敗戦後の日本は、戦争責任を取らされて、国際水泳連盟から除名されていたのですが、国際水泳連盟に復帰した直後のことでした。この快挙ほど、敗戦国日本を沸かせた出来事は、他にありませんでした。浜松の出身で、日本大学の学生だった古橋は、誰もがひもじさを味わっていた時でしたから、「サツマイモ」で作り上げた記録、まさに《戦後の英雄》であったのです。古橋、二十歳の時でした。

 

 年齢的にピークを越えていた古橋は、ヘルシンキで行われたオリンピックでは、期待されながらも勝てませんでした。でも、まだスポーツの世界は、健全さが保たれていた時代だったのでしょう。今日日のオリンピックが、本来のオリンピック精神から逸脱してしまって、莫大なお金の動く〈 Business chance 〉になってしまった今とは、違っていました。

 そういえばスポーツ界が、才能や努力の時代から、名コーチや名門クラブで、専門的なトレーニングを受けなければ勝てない時代になってしまったと言われています。例えば、高校野球の名門校の選手は、中学校の野球部の出身者は少なく、ほとんどの選手が、名門クラブに所属しているのには、驚かされます。

 テニスにしろ、水泳にしろ、サッカーにしろ、学校スポーツでは名選手にはなりにくい時代になってしまったのは、スポーツが、Business になっていて、まだ十代の若者が、金を産む卵になって、億単位の契約金がもらえるのですから、これまた驚きです。

 もう純粋な意味でのスポーツが、心身の鍛錬の機会を見失ってしまっている現今の様子は、スポーツをかじった私には悲しかったり、また寂しく感じてなりません。選手が、お金を使って作り出されていき、まるでスポーツの robot のように思えてなりません。いい時代なのでしょうか。裕福でなけてば、ある大きな犠牲を払わなれば、スター選手は生まれないのでしょうか。Technic を持った人造的、人工的な学者だって、医者だって、公務員だって生まれてきそうです。いや生まれてるのでしょう。

 こう言うのは、年寄りの懐古主義や、はたまた、ひがみなのかも知れません。または、お金に縁のない者の負け惜しみでしょうか。でも事足りている今に、感謝しなければなりません。お昼に薩摩芋を食べているせいでしょうか、そんな思いがしてきました。あっ、「ひもじい」とは「空腹」を意味する言葉でした。

(古橋廣之進へのインタビューです)

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かくの如き信仰者が

 

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 どう生きたのか、同じような絶対主義下の時代にあって、基督者として信仰を守るか、信仰を曲げるか、それを迫られたのです。国家権力を恐れて、国が国民に求めた「日本人」として生きるか、聖書に従って「クリスチャン」として「信仰」を全うするかを突き付けられた時代がありました。

 そのような時代の動きを掘り返した本が、同志社大学から、昭和43年に、「戦時下抵抗の研究(みすず書房刊)」と題して刊行されています。その中には「無教会」があり、改革派、プリマス・ブレズレン、きよめ派、美濃ミッション、個人として抵抗した「森派(森勝四郎に始まる群れで後に〈耶蘇基督之新約教会》」の後継者の野中一魯男(いちろう)、寺尾喜七らがいました。

 その「踏絵」を踏まずに、生きる窮屈さ、孤立化、非国民と言われ、仕事も名誉も時間も失っても、潔く信仰に生きることを選び取った一人が寺尾喜七でした。この方の選び取りや生き方に、二十一世紀に生きる私は、思いを引き付けられたままでおります。

 この寺尾喜七への「尋問聴取」が残されていて、その記録を読んで驚かされているのです。寺尾が「国体」に反して、自分の信仰を貫いたのを、私は、「沈黙(遠藤周作著)」に出てくる〈キチジロー〉や、戦時下の賀川豊彦と比較してみたのです。〈井上筑後守〉や〈特高警察〉の取調べや拷問や脅しの怖さの中で震えて、踏み絵を踏んでしまうキチジローたち、そして江戸で改名させられて幕府の監視の元を生き続けたロドリゴ、彼らとは違って、転ばずに海浜の十字架で溺れて刑死していく《モキチ》たち、信仰を守り通すか、棄教しても生きて、できれば告解して悔い改めるか、彼らの心の動きを思い出しています。

 大学の教職を追われた方との交わりが、かつてありました。学生のみなさんに福音を語ったと言う違法で失職してしまったのです。未公認の群れの指導者となっている、隣り街の集いに呼ばれたことがありました。失ったものは大きかったのですが、得た立場を、教会の主から頂いて喜んでいた、この方の生き方が強烈に輝いていました。

 以前なら、この方は収容所行きだったのでしょうけど、職や教授の立場を奪われただけでした。また、もう40年近く前に訪ねた街に、主に従ったが故に、13年も収容所で過ごした方の導いておいでの群れを訪ねたことがありました。タクシーを二、三度乗り継いでの訪問でした。溢れる様な人の中で、証しさせていただいたのです。再び収容所送りになることを恐れずに、群れのお世話をされ続けておいででした。筋金入りの伝道者でした。

 「キリストの福音」に仕える決心の強さを持たれる方が、迫害が強くなれば強くなるにつれ、主に仕える生き方に留まり続けるのを見てきました。初代教会に、ヨハネに学び従ったポリュカルポスと言う人がいました。キリストか火あぶり刑かのニ者択一を迫られて、『これまでよくしてくださったキリストを捨てることはできません!』と言って、殉教を選びとった人がいました。

 恐れずに、キリストの教会に仕え続けること、例え命を奪われても、職や人権や権利を奪われても、《教会の主》に忠実であり続けたみなさんの様に、この私は、果たして生きていけるでしょうか。国は、再び絶対的国家になったり、強権行使の政府が誕生したり、世界には、世界統一政府が国々を支配し、隣国が侵略して吸収していくのでしょうか。

 聖書は、終わりの日の困難さに触れています。北からの軍隊、連合軍が、エルサレムに侵攻してくること、驚くほどの力を持って世界を支配する者の台頭があること、キリストでもあるかの様な支配者が出て、世界の難問を解決していくのかも知れません。この者が世界中で崇められ、礼拝される日がくることでしょう。不法の者の出現が間も無くあるかも知れません。

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。 (イザヤ411320節)』

 『恐れるな!』と、聖書は繰り返しています。王の王、主の主であるイエスさまが、天の万軍を引き連れて、この地を統治される日が定まっているのです。私も、『マラナ・タ μαράνα θά. –Maranatha 主よ来りませ/ 1コリント1622節)!』と言って、おいでをお待ちしていましょう。

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「る」語

 最近、「辞書に載らない日本語(北原保雄編著、大修館書店2012年刊)」を手に入れて、ニヤニヤしながら読んでいるところです。

 例えば、「る」を語尾にした動詞が出てきます。

 「姉る」 [態度やしぐさ、口調などに威厳があり、同年の人に対して歳上の様に振る舞う。『あの人かなり姉ってるよね』

 ☆わが家は、〈姉さん女房〉ですから、時々、姉っていることが、たしかに見られました。

 「釜る」  家族揃って食事をする。『週末は必ず釜る。』※「同じ釜の飯を食う」から。

 ☆もう釜ることがなくなってしまった〈空の巣〉ですが、時々訪ねてくる方と、一緒にテーブルを囲むのを、〈テーブルる〉と言ってもいいでしょうか。

 「網る」  インターネットを使って調べる。買い物をする。『それなら網ったほうが早いよ。』、「ネッピング(ネット+ショッピング)」。

 ☆翌日配送が時々あります。でも買い過ぎてしまうので注意しないといけません。

 「ドミる」  怒られている人のトバッチリが周囲に波及する。『あいつが掃除をサボったせいで、先生の怒りが、こっちまでドミってきたよ。』※ ドミノ倒しから。

 ☆世界が、ロシア(プーチン)のせいで、ドミっているのが現状ですね。

 「イキる」  〈いきり立つ〉の略。怒って興奮すること。『たかしはイキって枝を折った。』

 ☆若い頃は、たしかにイキることが多かったのですが、正直に告白しますと、今でも時々、イキるのです。困ったものです。歳をとると、そう言った傾向もありそうです。

 「みんなぼっち」   友人同士でかたまっていても、本当はみんな独りぼっちであるという。   

 ☆そう言えば、集団の中で、人と人とのつながりが求められないで、関係づくりが避けられている時代の様です。ひとりぼっちよりも、「みんなぼっち」のほうが寂しそうです。

 「菅ばる」  〈的外れな頑張りを見せる〉。民主党の菅直人氏が、首相をしていた時に、東電の役員や部長に対して怒鳴って接していたことがありました。権威の濫用に見えましたが、そんな行為を、そう言ったのでしょうか。

 ☆そうすると、「森ばる」 とか、ウクライナを侵略する「プーチンばる」、80になっても「バイデンばる」なんかもよさそうですね。ロケットやミサイルをメッタやたらと打ち上げるのを「金ばる」でしょうか。

 ✳︎ そこで「爺(じじ)る」はどうでしょうか。白髪が目立ってきたり、年をとってきて足腰が痛くなったり、躓いたり、ひっくり返ったり、こぼしたり、チビったり、そんなソソウが多くなってきているので、〈爺る〉この頃です。

 「鬱る」  コロナ禍、物価高騰、恐怖や不安が人の心をとらえています。

 ☆どうも一億総鬱病の時代を迎えた様な感がしてきました。首都圏の電車の人身事故も急増して、電車運行の遅延の知らせが増えています。

 そうですね、もう「がんばる」も「つっぱる」もない年齢になってしまい、「ひきこもる」ことのないように、チョクチョク外に出かけています。そろそろ「さむがる」になりそうです。

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ふるさとを想う

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 作詞が山口洋子、作曲が平尾昌晃の「ふるさと」を耳にしたのは、長男が産まれた翌年の1973年でした。私のふるさとに、宣教師のお供で帰って来ていました。私が産まれたのは、後に町村合併した山深い村だったのです。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

 兄たちが八十代、弟と私が七十代後半、父が召されたのが六十一歳でしたから、《これからの親孝行》ができずに、父を天の御国に送ってしまいました。ゲンコツをもらい、小遣いをもらい、restaurant に連れて行ってもらった子どもの頃、長じてから教育を受けさせてもらい、財産は、小さな家を残しただけの人で、太く短い一生でした。

 でも、父の大きさ、何でも知ってる、恰幅やカッコのよさ、教育を受けさせてくれたことなどは、子どもの私の誇りでした。故郷は、やはり、人を抜きにしては語れないのではないでしょうか。大平山を越え、群馬の赤城山、埼玉の秩父山地、信州に連なる山また山を越えたあたりに、私の生まれた山村があるのです。

 石英採掘の仕事を任されて、山形からでしょうか、軍命で転勤になったのでしょう、三十代初めに赴いた地で、私と弟が生まれました。父の仕事に関わった方でしょうか、父だけではなく、私の名前を覚えていた方と、その村の宿泊施設で、偶然会って、あちらも、こちらも驚いて見つめ合ったことがありました。

 自分を覚えていた方がいたら、そこが故郷なのでしょうけど、父の世代の方でしたから、もうとうにお亡くなりになっていらっしゃることで、縁者は皆無です。とすると、小学校時代を過ごした街こそが、「ふるさと」と呼べるのでしょうか。ウサギを追ったことはありませんが、ヤマメの魚影を見たり、ハヤを捕まえたり、トンボやホタルを追ったりしたことも、栗やイチゴやイチジクやドドメ(桑の実)を積んだこともあります。

 夕日を見たり、墜落した米軍機の破片を見付けて持ち帰ったり、怖い場面を見たり、祭りの囃子に誘われて、小屋掛のチャンバラ劇の舞台を見たり、カンテラの灯りのもとでヨウヨウをつり落としたり、綿飴を買って頬張ったり、たい焼きを買ったりしたのです。

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 街のおじさんたちの仕事っぷりを眺めたり、桶屋のヒノキのカンナっくずに鼻を当ててかいだり、電車の踏切の遮断器の上げ下げに手をそわせてもらったり、保線区の工具を触ったり、バタ屋のおじさんの手伝いで小川に入って鉄屑を拾ったりしました。かくれんぼ、鬼ゴッっこ、宝島、馬乗り、馬跳び、メンコ、ベー駒、三角ベース野球、防空壕跡の探検、貝塚で土器の破片や鏃を拾ったりしたのです。

 遠ざかっていく様で、寂しい思いがありますが、《永遠のふるさと》が、私にはあるのです。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 ペンネーム「寄留者」の私にとって、ここへの帰郷こそが、私の旅の終点です。セピア色になり、うすはかなくなった地上のふるさとは見えなくなりますが、この私を迎えてくれる「永遠の都」が待っていてくれます。ここへの憧れに浸る今なのです。

(石英の原石です)

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死に損ないの生き様

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 『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(ルカ2343節)』

 自分は、《死に損ない》だと思ってきました。いえ、死のギリギリの瀬戸際で、何度も生還してきたからだと思います。肺炎を起こして入院、死線を彷徨いながらも、ペニシリンと諦めないで治療に努めてくださった医師、母の祈りと篤い介護で、死なずにすみました。高校2年の夏、台風接近の湯河原の吉浜の海で泳いでいて、強烈な潮の引く力に陸に戻れずに死を覚悟した時、波に運ばれて陸に打ち上げられました。二十歳の頃、アルバイトをしていた時、落雷のあった木の下に直前までいて、他の場所に移って、落雷を免れたのです。

 中部地方の盆地のマンションの二階に住んでいた1980年の7月、上階の家がガス爆発をして、住んでいたご婦人が亡くなられたのです。消防署の検査の折、『よく引火しないですみましたね!』と驚かれて言われ、ベランダの籠の中の小鳥も洗濯物も見えてしまって、窓ガラスが総崩れで吹き飛びました。家内のお腹には、そに翌月に出産を予定していた次男がいましたが、家内は爆発の瞬間の様子を、覚えていないで胎児への影響はありませんでした。私だけが砕け飛んだガラスの破片を頭に受け、外科医で30ほどの破片を取り除いてもらったのです。

 中央道を走行中、笹子トンネルを出て、諏訪方面をオーバースピードで走っていて、カーブの先、渋滞の車の制動灯の赤いランプが見えて、急ブレーキを踏んだのですが、間に合いそうにありませんでした。速度違反の追突しそうな私の車は、前車の20cmほどで止まったのです。その前の週に、新しいタイヤの交換をしてなかったら、玉突きをして死傷事項を起こし、自分も追突死は免れなかったことでしょう。

 まさに、『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。(哀歌322節)』、何度も死なずに、今日まで生き続けてきたのには、「神の恵みと憐れみ」があっただけで、ずいぶんと thrilling な生を生きてきたのでしょうか。

 すでに両親も帰天し、お世話し、教えてくださった宣教師のみなさんも、主の安息の中に帰えられ、同世代の中にも、既に召された方が何人もおいでです。死別を繰り返し、病者を見舞い、お亡くなりになられたみなさんの告別の式を司り、今日を迎えています。

 華南の漁村、東シナ海を遥かに見下ろす小高い丘の上に、知人がご両親のために作られた墓があります。そこに、家内と私も、亡くなったら、遺骨を葬ってくださるとおっしゃってくれています。でも、私は、「散骨」にしてもらえる様に言ってあります。

 生まれてきた私たちは、必ず死を迎えるわけです。私は聖書を読んできて、説教をさせていただいてきて、死には、「二つの死」があると信じています。一つは、「肉体の死」、もう一つは「永遠の死」です。やがて死んだ全ての人が、神の前に立ちます。自らが罪人であることを認め悔い改めて、その罪を悔いて、神の御子イエスさまが十字架の上で、その罪の身代わりに死んでくださったと信じるなら、その人に約束されたこと、赦しと、子とされ、義とされ、聖とされ、やがて栄光化されるのです。

 それと並行して、信じた者には、『父の前で弁護する方・・・義なるイエス・キリスト(1ヨハネ21節)』がいてくださると聖書にあります。宣教師のみなさんは、『自分が生きている間に、主の再臨があり、私は《空中軽挙(1テサロニケ417節)》されたい!』とおっしゃって、その望みを強烈に持っておいででした。果たして、私の時代に、主は空中に再臨してくださるでしょうか。神のことされた方たちは、次のように言っています。

  『蝶はせまってくる死にいささかもうろたえない。自分が生まれてきた目的ははたし終わった。そして今やただひとつの目的は死ぬことである。だから、トウモロコシの茎の上で、太陽の最後のぬくもりを浴びながら待っているのだ。(フォレスト・カーター「リトル・トリー」)』

 『老いゆけよ、我と共に!最善はこれからだ。人生の最後、そのために最初も造られたのだ。我らの時は聖手の中にあり。神言い給う。すべてをわたしが計画した。青年はただその半ばを示すのみ。神にゆだねよ。すべてをみよ。しかし恐れるな!と。(ロバート・ブラウニング「ラビ・ベン・エズラ」より)』

 蝶ではないし、青年でもありませんが、残された日々を数えながら、今までの全てを感謝しながら、今を生きるように努めています。

(「キートンのキリスト講座」からです)

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長崎県

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 対馬海峡に壱岐(いき)島があります。長崎県の島嶼部になります。24000人ほどの人口があり、島の周辺に小さな島が多くあるのです。日本の古書の「古事記」や「魏志倭人伝」にも出てくる島で、律令制の下では、「壱岐国」と呼ばれていました。江戸期には、平戸藩の統治の下にあり、松浦氏の居城がありました。

 私の最初の職場に、父ほどの年齢で、この壱岐出身の上司がいました。よく連れ歩かれて、お供をしたことがありました。故郷の話は聞きませんでしたが、杉並の阿佐ヶ谷のlお庭に、タイサンボクの花が咲くと、枝を手折って、電車で持ってこられて、年配の女子職員(どこかの省庁で初めて女子部長になった経歴のある方でした)が職場の玄関に飾っていました。

 長崎県と聞きますと、いつもこの上司を思い出してしまいます。学校に行っていた時に、九州旅行をして、この長崎を訪ねたこともありました。原爆の爆心地の長崎市に参りました時に、平和祈念像を見ましたのが、1964年の夏でしたから、爆心地も、すでに綺麗に整備されていました。原爆投下当時の長崎の人口は、24万人ほどでしたが、およそ74000人が亡くなられているのです。

 戦争は、今も昔も、被害者の立場でも、加害者の立場でも、共に極めて悲惨なものであることを、心に銘記された長崎訪問でした。長崎から、平戸口という港町に行きました。そこは日本の鉄道の最西端の駅で、今ではJR線から、第三セクターの松浦鉄道会社の「たびら平戸口駅」になっています。そこから船で平戸に渡ったのですが、今では架橋されていて、橋で渡ることができているようです。


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 江戸期には、長崎の「出島」が、海外との貿易や文化のためにひらかれた唯一公認の港だったわけです。医学を学ぶためにも、商用のためにも、現代人の好きな旅でも、多くの人が全国からやって来て賑やかだったことでしょう。鎖国下の江戸期には、「西国への憧れ」があったのでしょうか、「ギヤマン」、「ボンタン」、「ジャガタラ」など、長崎にまつわる外来語が象徴する地であったようです。

 この平戸を舞台にした、江戸初期の悲しい物語りを歌った歌があり、小学生の頃によく聞きました。昭和14年(1939)10月に、作詞が梅木三郎 、作曲が佐々木俊一の「長崎物語」と言う歌が発表されたのです。

赤い花なら 曼珠沙華
オランダ屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる ジャガタラお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

坂の長崎 石だたみ
南京煙火に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ流れ行く
ララ 流れ行く

平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ ジャガタラお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ 鐘が鳴る

 ここで歌われた、「ジャガタラお春」は、実在の人で、父親がイタリア人で、日本人のお母さんから生まれた子どもでした。現在のジャカルタにいたお春は、徳川川幕府による鎖国政策のために、帰国することが禁じられる中、望郷の念に駆られて書き送ったとされる「ジャガタラ文(ぶみ)」が残されています。明暦元年(1655)頃に、日本に届いたとされています。悲しい物語を残す点でも、長崎は、公式には、外国への唯一に窓口だったわけです。

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 長崎県は、県都は長崎市、県花は雲仙ツツジ、県木はヒノキとツバキ、県鳥はオシドリで、人口は128万人です。古代には栄えた地で、県下に500もの古墳を残しています。律令制下では肥前国、対馬国、壱岐国で、国府は備前佐賀にありました。県下の五島列島は、大陸との行き来の寄港地で、遣隋使、遣唐使の船が寄港した歴史があります。

 上海から船で、大阪港までの航路で、あの上海港から船出して、最初に見える日本の地は、この五島列島でした。一昼夜、海ばかりだったのが、緑が濃い島影が見えた時は、『アッ、日本に帰ってきたんだ!』という思いが、やはりしてきたのを思い出します。カモメが飛んでいて、それも見えなくなり、飛び魚が船の脇を飛ぶ姿しか見えなかったのが、島影が見えてくるとホッとしたのが昨日のようです。
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 船には強い方ですが、何時でしたか、台風接近の中を、上海を出た船が前後に大きく揺れて、船酔いなどとは縁のない船員さんたちも酔ってしまったほどで、当然の様に自分も吐いてしまうほどでした。大会をゆく船など、木の葉と同じで、波に任せながらも、台風にはかないませんでした。

 私の母も、「ジャガタラお春」ではなく、「タイワンのおたか」になるところを、警察に保護されて、難を免れたことがあった、と聞きましたから、歌にはならない戦争前の危ない時代を生き抜いたのだと思います。さて、今日の長崎は雨でしょうか。

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