上海

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 昭和14年に、北村雄三の作詞、大久保徳二郎の作曲で、ディック・ミネが歌った「上海ブルース」と言う歌が発売されました。私の生まれる何年も前の戦時歌謡曲だったのです。戦時中を懐かしんで誰かが歌っていたのを私が聞いて覚えたのか、なぜか歌うことができるのです。父が歌謡曲を歌っていたのを聞いたことがありません。息子たちに、愛だ恋だのと、親が流行歌(はやりうた)を聴かせるのをよしとしなかったからでしょうか。

1 涙ぐんでる上海の
  夢の四馬路(スマロ)の街の灯
  リラの花散る今宵は
  君を思い出す
  何にも言わずに別れたね 君と僕
  ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
  なぜか忘れぬ面影
  波よ荒れるな碼頭(はとば)の
  月もエトランゼ
  二度とは会えない 別れたらあの瞳
  思いは乱れる 上海の月の下

 この1月21日に、上海の「碼頭(码头matou)」、日本語では「波止場」とか「船着場」というのがいいのでしょうか、そこから大阪行きの船に乗りました。この波止場の近くの「四馬路」には、日本人街があったのだそうです。初めて上海に行きました時に、中国語と日本語を巧みに話す初老の韓国人の方が案内してくださって、「東方明珠テレビ塔」の展望台で、『あの辺りに日本人が住んでいました!』と指さして教えてくれたのです。父に聞きませんでしたが、きっと父も、この上海を訪ねたことがあったのではないかと思っているのです。戦後の日本人がハワイに憧れたように、戦前の日本人、とくに青年たちにとって「上海」は、一度は訪ねたかった「憧れの街」の一つだったからです。

 現在では、東京よりも多くの人口を持ち、さらに増え続けている上海は、アジア一、いえ世界一の近代都市になっています。昨年の夏に、しばらく街の中を歩きましたが、私の住んでいる街に比べて、少し違った雰囲気が残っているのを感じたのです。戦前には、欧米や日本の「租界」がありましたから、外国人の居住者の多い国際都市で、その名残があるからなのでしょう。この街で、1932年と1937年に、二回の「上海事変」がありまして、日本軍の支配下に置かれた時期がありました。その様な過去のある街、上海に、現在では3万人ほど(2011年の集計)の日本人が住んで、ビジネスや勉学をしているようです。彼らは戦争を知らない世代ですから、過去のわだかまりを知らないことになります。私の長女の会社の支店もあるようで、なんとなく親近感を感じております。

 この歌に出てきます、「リラの花」は、ライラックとも呼ばれていまして、実に美しい花です。今朝、若い友人がお二人おいでになり、しばらく交わりの時を持ちました。お昼になりましたので、友人の一人が、『今日は私がおごりましょう!』と言って4人で連れ立って昼食に出かけました。レストランまでの道の街路樹に、25度の初夏のような気温に、「辛夷(こぶし)」の花が、実に美しく花開いていました。もう春なのかも知れませんが、予報をみますと、今日は特別の高温だったようで、もう少し寒さを感じることになりそうです。

(写真は、「ライラック(リラ)の花」です)

『こんな地球にだれがした!』

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 息子の家で、「核燃料」の廃棄物の処理についてのテレビ番組を観ていました。同じ「ゴミ」でも、台所から出る生ごみは、高熱焼却炉で処理が可能で、その熱で沸かした温水をプールや風呂に利用している自治体だってあるようです。ところが、原子力発電に用いて出てくる「ゴミ」は、こういった処理ができないこと、時間と共に劣化していかないのです。永久に、どこかに厳重に格納して置かなければならないわけです。そうしますと「ゴミ」などと呼べる代物(しろもの」)とは違います。子々孫々までも処理できないままにされていくわけです。

 中学校の遠足で、茨城県東海村に行ったことがありました。そこには、1956年6月に、「原子力研究所」が設置され、原子力研究を行う中心地だったからです。その二年後、中2だった私たちは、バスに乗って見学に出かけたのです。画期的で最先端の燃料革命の研究事業の様子を、次代を担う私たち中学生に見せようとしたのです。あたりが閑散としていて、何もないところに大きな建物が建っていたのが印象的でした。その研究の成果があって、この東海村の動力試験炉で、原子力発電が行われたのが、1963年10月26日のことでした。

 それ以来、現在では、原子力発電炉が54基もあります。これまでの「使用済み核燃料」の「廃棄物」の総量は、2007年度の時点で、何と14870トンにも登るのです。しかも、それらは未処理のままにされているのだそうです。さらに、世界中の「廃棄物」が、同じ状態のまま、未処理のままにされているのです。日本では青森県の六ヶ所村で、再処理が行われてきましたが、最終処分場が、いまだないというのが現状なのです。さらに、各発電所には、使用済み燃料は、水槽内に残されたままなにされています。一昨年の津浪で、福島第一原発の貯蔵槽が、津浪のアタックを受けて放射線が漏れ出して大問題となり、その被害の実情は報告されていませんが、致命的な情況にあるに違いありません。このことを知るにつけ、驚きを禁じえません。

 最終処分ができないまま、「ゴミ」を出し続けているというのが、原子力発電の問題の核心なのです。電力エネルギーとして利用してきたかげで、問題を封じてきたことの責任が問われるのではないでしょうか。原子力発電の「安全神話」は、このことを見ても、全く根拠がないわけです。欠けがいのない地球が、このような「ゴミ」でいっぱいにされていくことに恐れを感じてしまうのです。

 人口激増、生産活動の爆発的拡大、物の消費量の増大など、様々な動きの中で、「電力」の需要は増しています。『原子力発電は仕方が無いんだ!』ではなく、人間の知恵を寄せ集めて、良い解決をしていかないと、この地球に住めなくなってしまうのではないでしょうか。このままでしたら、東シナ海の水平線に沈んでいく太陽の神秘さを、息を飲みながら眺める楽しみがなくなってしまいます。あの美味しいドリアンや水蜜桃だって食べられないのです。毎朝近くの木に飛んできて朝を知らせてくれる小鳥のさえずりだって聞けなくなってしまいます。『こんな地球にだれがした!』と全被造物が叫んでいるのではないでしょうか。

(写真上は、nasaが撮影した青い「地球」、下は、宮古島からのぞみ見る「水平線」です)

「戦争」の起こらないことを願う

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日本は、ふたたび「軍事大国」になっていくのでしょうか。そうなることが、国として不可欠なことなのでしょうか。もちろん、メソメソした国であることを願いませんが。しかし、剣や銃を振るった《強面(こわもて)の国》になることも願わないのです。私は父親が生きていて育ててもらいましたが、何人もの級友たちは、父親を戦死で亡くしていて、母子家庭で育っていたのです。私の「戦争観」というのは、子育てに励まなければならない父親を失わせるもの、家庭から父親や兄を奪うものといったものであります。

私の好きな政治家に、石橋湛山という方がいました。戦後間もない時期に短期間でしたが総理大臣を務めた方だったのです。日本が、欧米の列強に伍していける「大国」になろうとや躍起になっていた時に、新聞社の主筆をしていた若い時に、彼は「小国主義」、「小日本主義」を唱えたのです。国は世をあげて「大国日本」の建設に取り組む中での、この主張は勇気ある発言でありました。みんなに同調することなく、信ずることを主張し続けたという点で、私は石橋湛山が好きなのです。

多くの人は、「他と違う私」であることを恐れるのです。少数者の側に立つことによって、疎まれ嫌われ憎まれることを、誰もが願わないからであります。私は日本人の歴史を学んできて、『日本人とは何か?』との問に、『小心者!』と答えたいのです。いつも周りを気にして、びくびくとして生きてきたのです。『今日は何を着て出かけようか?』と考えると、窓を少し開けて外を眺めます。道行く人の服装を見てから、その日の着物を選ぶのです。ということは、「みんなと違う私」であることを恐れるからです。私に歴史を教えてくれた中学の時の担任は、『日本人は、鎌倉時代には、溌溂さと剛毅さを持って、生き生きととしていた!』と教えてくれました。

欧米人が、個人主義で生きていて、みんなそれぞれに個性的に生きているように見えるのですが、実は内心では、私たち日本人と同じです。「感謝祭」には、タ-キーをみんなが食べるので、『私の家でも食べます!』ということに決めます。食べなかったら、みんなから浮き上がってしまうので、それを恐れるのです。「降誕節」には、クリスマスツリーを飾ります。自分の家にないことを恥じるのです。人の行為の動機づけというのは、大なり小なり、こんなことに帰するのではないでしょうか。

私が勤めていたのは私立校でした。ある時、待遇改善を願って組合のようなものをつくろうとしたのです。30人ほどいたでしょうか、そんな中で、25才の私一人、これに加わらなかったのです。「宙に浮く」というのが、その時の私の置かれた情況でした。いじめられたり無視はされませんでしたが、好奇の目で見られていました。「圧力団体」に加わりたくなかったのはもちろんのこと、教育に専心しようとする青年教師の心意気が強かったからです。悩み抜いて、そうしたのではありませんでした。自分の信念に立とうとしたのです。そんな生き方ができた私は、結局、家も財産も名もなく、今を迎えています。家内が、私の生き方、歩みに同伴してくれるのは嬉しい限りです。

一昨年、大津波で家も車も記念館も、すべてがさらわれてく光景を、テレビで観ていました。人の築き上げた物が何もかも、一瞬にして奪い去られていくのを眺めながら、『こういった俺の生き方もまた良いことなのかも知れない!』と思わされたのです。今回の帰国で、私の弟が借家住まいをやめてマンション購入の計画を話してくれました。私と家内には帰る家がなく、子供たちにも実家がないので、『俺の家を実家にしていいよ!』と言ってくれました。その気持ちに、深い兄弟愛を感じて、こちらに戻ってきたわけです。老後に住む家よりも何よりも、それらを吹き飛ばしてしまう「戦争」の起こらないことを願い、平和を希求する、2013年の「春節」の渦中であります。

(写真は、「朝鮮戦争」で被害にあわれた家族の様子です)

踏青

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 春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあります。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日の浮き浮きした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯であります。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま~す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日のことが、昨日のように懐かしく思い出されてなりません。

 私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ!』と色紙に書いてくれたのです。長く牢につながれて、拷問を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長の重責を果たしておられてました。聞くところによると、先生は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。

 真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。

 踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。

 人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、造物主を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。

 それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。この2月10日は、ここ中国では「春節」、新しい年の始まりの伝統的な祝日なのです。この大陸では、春の到来の喜びは、何にも勝って貴く、欠け外のないもので、全国民一丸となって喜び迎える最大限の喜びなのです。帰国した夕べも今朝も、「爆竹」が、けたたましく鳴り響いておりました。春を喚起し、呼びこもうとする切々たる思いを感じて、騒音が、心地好く感じられるのは、在華七年目を迎えたからに違いありません。

 近いうちに「踏青」、川辺の土手を、萌え出でた青草を踏みながら散歩をしてみようと思っています。なぜなら自然界の復活の季節を肌身に感じたいからであります。

(写真は、春の代表的な草花の一つ「蒲公英(たんぽぽ)」です)

エスコート

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 今日の天気予報によりますと、気温は19℃、温かい一日なることでしょう。やはり「陽の光」の中に春が感じられるようになってきているにちがいありません。といっても今朝は曇天、太陽は顔を見せてくれません。昨晩、帰宅しました。3週間ほどの留守で、「住めば都」の言葉通りに、住み慣れた異国の街の借家が、「自分の棲家(すみか)」だと、改めて思わされています。祖国に帰国し、弟や息子の家に滞在し、居心地の好い接待を受けたのですが、決心して住み始めた、こちらの家を本拠としているのですから、里心を捨てて、ここを第一にしない訳にはいかないことになります。「第二の故郷」とはよく言ったもので、それぞれの理由で祖国から離れ、追われた人々にとって、いつまでも故郷は心の奥にしまいこまれているのですが、父が去り、母が逝ってしまった祖国の今は、思い出の中にだけあるようです。

 先月の21日の午後、友人の車に送られて、町の北にあるバスターミナルに向かい、そこから長距離バスに乗り込みました。余裕で上海に着くと思いきや、どこだか確認しませんでしたが、杭州の近くのインーターの近くに、そのバスが停車して、5時間ほど運転手たちが仮眠し始めたのです。『いつ出発するんだい?』と問われても、彼らは上の空でした。杭州で乗客を降ろし、上海に向かったのですが、船のチェックインに間に合うかどうか、心配で心配でなりませんでした。結局、乗船客の最後で、ギリギリに間に合ったのです。薄い頭が更に薄くなってしまったと思って、船の洗面室の鏡に頭を写してみたのですが、さほどん変わりようはありませんでした。

 同室になったのは、上の兄と同じ学年の方で、退職後、蘇州に住んで十数年といっておられました。3ヶ月に一度の帰国をしてきている大阪在住の方で、話し好きでした。名刺を交換したので、何時か訪ねてみたいと思っております。S大学の学生と風呂で一緒になり、交換留学を終えて、北京から上海に来て、そこからの帰国でした。なかなかの好青年たちでした。他人任せの旅には、もうコリゴリだなと思った私は、帰りの船便を1年オープンにして、帰路は大阪から飛行機にしたのです。

 その飛行機の中で、トイレから席に戻ろうとしていた老婦人が、乱気流の中でヨロリとしたのを見て、隣の席の今風の中国人青年が、すくっと立ち上って、そのおばあちゃんをエスコートして席に連れていくのを見ました。実にさわやかで、情愛のこもった行為をみて、『人って、上辺ではなく、心なんだ!』と思うことしきりでした。この中国人社会には、こういった感心する青年たちが多くいるのを目撃して、「孔孟の教え」が二十一世紀の今にも、脈々と生きていて、とくに青年たちによって実行されているのを知らされるのです。素晴らしいことではないでしょうか。

 夕闇の中、厚い雲をついての着陸でしたが、レーダーというのでしょうか、コンピューター操作で着陸できる時代だということを、改めて思い知らされました。「懐かしさ」、着陸してこの街の土に足が触れた時に、それを感じさせられたのです。多くの方々の善意で、念願の「査証」も発給され、もうしばらく、ここにいることが導きとの思いで、新たな一歩を記した次第です。東京の街に比べて、少々暗い夜でしたが、家内の待つ我が家にたどり着いて、ホッとしたのは家内も同じだったようです。

(写真は、飛行中の深セン航空の飛行機です)

《抑制の美学》

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1969年の大阪場所で、横綱・大鵬が、戸田と対戦した時のことです。戸田が横綱を破って金星を挙げた一戦でした。しかし、この判定は行司の誤審で、大鵬の右足が土俵に残っていたのです。その時、大鵬は、『横綱が、物言いのつく相撲をとってはいけない!』、と語って、勝ちを主張しなかったのです。NHKの相撲実況をしたアナウンサーで、相撲ジャーナリストの杉山邦博が、『これは《抑制の美学》だ!』と、書き残しているのです。まさにこれは、《王者の貫禄》ではないでしょうか。

私たちの住んでいた街に、「相撲」がやってきたことがありました。通っていた小学校の校庭に、土俵が設えられて、いわゆる「地方場所」が行われたのです。その相撲興行を行ったは、「二所ノ関部屋」でした。それ以降、兄たちの贔屓(ひいき)の相撲取りは、二所ノ関部屋の玉の海、琴ヶ浜になったのです。私も兄たちに倣って、彼らのフアンになったのです。娯楽の少なかった時代の相撲は、今のサッカー人気以上があったと思われます。この二所ノ関に所属していたのが、プロレスで有名だった「力道山」でした。

そして一世を風靡(ふうび)した、「大鵬」も、この二所ノ関部屋の力士で、「昭和の大横綱」と言われた人気力士でした。ウクライナ人の父親を持ち、その肌の白さや、外人のようなマスクに、子どもや女性から圧倒的な人気があったのです。一番上の兄と同年生までした。昨日のニュースで、この大鵬が亡くなったと報じていました。「平成」が、もう25年にもなりますから、また「昭和」が遠ざかっていくのを感じています。『決してえばらなかった方でした!』と言われ、日本を元気にしてくれた大横綱の死は、やはり寂しいものを感じさせられます。

(写真は、大鵬の出身地の近くにある、初夏の「摩周湖(弟子屈町)」です)

過去

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 『前任者色(しょく)を一掃しろ!』との指令が出ました。つまり新任者は、過去を抹殺して、再出発をしようと考えたのです。前任者が使った机も椅子もロッカーも茶碗も皿もコーヒカップでさえも捨てられてしまいました。すべてを新しくしたのです。前任者が背任行為を働いたのでは、決してなかったのです。ただ野心がなかったので、大躍進することなく、それでも忠実に責務を果たしていたようです。その指令に戸惑いながらも、新任者の考えに従わざるを得なかった社員には、落ち度はなかったのだと思います。ただ混乱したのだろうと思います。

 今があるのは、過去が積み重ねてきたからであって、もし過去を否定してしまうなら、今が実に危うくなることは必至です。これは国でも企業でも、家庭でさえも同じだと考えられます。どんなに愚かな父親でも、お金も経験も地位もある他人よりは、実の父親には比べられないといわれています。前任者は、開拓者として出掛けて行きました。彼に動機を与えたのは、彼の前任者の言葉があったからでした。『あなたの仕事を若い人に任せて、あなたは別の所に出ていきなさい!そうしたら働きは拡大していくからです!』とです。それで、難しい企業環境にある会社に、一切の肩書きを捨てて、「協力者」として関わり始めたのです。
 
 一国の主(あるじ)でい続けるなら、安定した生活を送れるのですが、それに飽きたらない彼は妻の手をとって出ていったわけです。もちろん、彼を導いた方の言葉に、背中を押されたのですが。『私の過去を葬らなければ、会社を経営していけないと思った後任者と、彼のスタッフの気持ちは分かります。だが・・・』と、私の知り合いが漏らしていました。

 有史以来、様々な出来事を積みかさなねて、今の「日本」があります。私たちが歴史を学ぶのは、過去を否定するためではなく、過去に学ぶためであります。戦争をせざるを得なかった日本の実情、国際関係や国内の事情を知るときに、戦争を肯定もしない代わりに、過去も否定しません。『「日の丸」の掲揚は軍国主義につながるからしない!』、『「君が代」も軍隊を連想させるから・・・』という理由で否定されていて、日本人には国旗も国歌もなくなってきてしまい、実に脆弱(ぜいじゃく)な「国家意識」が出来上がっているのではないでしょうか。「桜」や「菊」だって、昔から国花ではないでしょうか。それなのに、春には「桜」を愛でて花見をし、秋には、「菊」を愛でて鑑賞会をしています。それは、まさに国民的行事のようでもあります。背骨をなくしてしまった国民が、自分の国を愛して、国作りに励むことなどできないのです。

 七年の海外生活で忘れるどころか、産み育ててくれた父母の国に対して、心からの愛着が湧き上がっています。私は過去を否定しません。会ったことのない叔父は、南方で戦死しています。家族や親族や友らを守ろうと、純粋に戦った叔父だったのです。当時の対戦国の兵士たちも、同じような思いで戦ったのです。勝っても負けても同じ志を持ちながら亡くなられていったのです。彼らの死を無駄にしてはいけません。私の尊敬する方で、父の世代の方がいました。特攻隊の生き残りの彼が、『戦友たちの死を無駄だと言われたくない!』と言っておられました。戦争の後、平和を願って生きておられた方でした。もう一度言います、私は過去に学んで、今日を生きようと思っています。

(写真は、「桜(ソメイヨシノ」です)

農暦

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 先日、学校の先生と話をしているときに、『来年、26才になります!』と言われたので、2014年に、26才になると思っていましたら、そうではなかったのです。今年、すなわち2013年に、26歳になるのです。この話の行き違いを説明しますと、中国では「農暦、nongli(旧暦)]を使いますので、2013年の場合は、2月10日が、「春節」の新年の「元旦」になりますから、この人の言った、『来年・・・』とは、来月に「正月」を迎えてからのことを言ったことになります。

 話の中で、『誕生日は何時ですか?』とお聞きしますと、私たちは、「西洋暦(新暦)」で答えると思って、『そうですか12月17日なのですね!』と答えると、実は旧暦の「12月17日」のことを言っているのです。それで、『公の証明書などの誕生日は、いつになるのですか?』とお聞きすると、「西暦」で記入するのだそうです。

 日本でも、『今年、〈数え年〉で17才です!』という場合が、昔はありました。私の父は、『数えで・・・』と言っていたのを覚えています。西暦で、1月7日に生まれたら、旧暦の正月が、一月か二月にあります(毎年変動しています)から、その正月を迎えると、生まれて一月もたたないうちに、もう2歳になってしまうわけです。今では、ほとんど「数え年」を使わなくなり、ほとんどの人は「満年齢」で数えるようになっていましたから、私のような者でも、旧暦の考え方のできない世代だということを知らされているわけです。

 ですから誕生日をお聞きしたら、『それは〈農暦〉ですか?』と聞くことにしているのです。このへんが、急激に西洋化してしまった日本人の私の「文化的葛藤」なのであります。面倒なことでありますが、自分の国に伝わる伝統を守るのは大切なことなのかも知れません。日本人の男性、武士階級は「羽織袴」、それ以外の男性も女性も、帯をしめた「着物」を普段着て生活をしていましたが、「欧化」の中で、いっぺんに着る衣服を、欧米式に変えてしまいました。頭髪もそうでした。「ちょんまげ」から、「ざんぎり頭」に変えたのです。法律によってでした。こういった急激な変化をしていくのが、明治以降の日本人の特徴の一つなのです。大工などの職人は、「角刈り」にイキにし、戦後、「太陽族」と呼ばれて青年たちは、「慎太郎刈り」をしていたのです。「ざんぎり頭」になっても、様々に工夫をしている、これも日本人の特徴でしょうか。

 そういった文化と伝統の中で育ってきた私のような人間ですが、歳のせいでしょうか、懐古趣味が、なんとなく首をもたげてきているのを感じるのです。『この街を下駄でカラコロと歩いてみたい!』と思っているのです。そうしましたら、西湖公園のお土産屋の売り場で、何と中国風の下駄が売っていたのです。聞きましたら、『昔は下駄も履かいていたんですよ!』と言われたのです。それで、もし私が下駄で、「五一路」を歩いていたら、きっと石が跳んでくることでしょうから、やめにいたします。

 間もなく、「春節」がやってきます。ヨーロッパ人が、太陽の光が帰ってくる「冬至」を待ち望んだように、中国のみなさんもまた、春の到来を待望しているのです。そんな期待感が、店頭に並び始めた「正月用品」に見られるようなってきました。「春天快要来」の新暦一月の中旬であります。

綺麗

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 先週の金曜日に、私たちが住んでいます「公寓」と道路の間が、制服を着た5~6人の役人の一声で、すっかり綺麗になりました。5階のベランダから、その様子を眺めていました。様々なものが乱雑に置かれたり放置されていたのが、すっかり片付けさせられていました。そこに橙色の制服を着た清掃員が10人ほどやってきて、ゴミを綺麗にしていきました。土曜日に、無料送迎バスで、少し離れたところにあるスーパーに買物に行った道沿いも、すっかり綺麗にされていたのです。昨日の日曜日の午前中も、家内とバスに乗って出かけたのですが、そのバス通りの両側は、以前とは全く見違えるほどに、綺麗にされているではありませんか。7年の中国での生活の中で、金曜日以降の激変振りに驚かされています。

 以前、師範大学で中国語を学んでいた時も、ある週に、校舎や校庭が、すっかり整頓され、花で飾られ、破れや壊れが修繕されていました。私たちの胸には、「◯◯師範大学」というバッチが付けられることになったのです。どうしてかといいますと、中央から学校の視察があるのだそうで、そのための備えだったのです。普段と一変していく様子を、興味津々で眺めていました。そんなことを思い出しながら、『この週末に、どなたかかが視察に来られるのにちがいない!』と確信したのです。普段、道路も歩道も横断歩道も、様々なものが置かれていて、歩くのに支障がありましたから、『これはいい!』と大歓迎しています。家内は、『ずっとこのままであって欲しいわ!』と言っておりました。

 そう言えば、わが家にお客様が来るときには、普段以上に綺麗にそうじをするので、街の中の変化を、他人ごとのように眺めて観察していてはいけないなと思わされております。街の驚くほどの変化がみられます。そう言えば、日本も「東京オリンピック」を境に、ずいぶんと変わっていったのを思い出します。新宿や渋谷の路地裏は、同じようだったからです。何らかの外からの刺激によって街は変化していくのでしょうか。人だって同じですね、様々な刺激があって、人は変えられ、新たにされていくのでしょう。そんなことを思う、週の初めの朝であります。

社会的貢献

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 私が、ほとんど毎日アクセスするブログがあります。昨日配信された記事に、「社会的貢献」のことが記されてありました。どの企業も、業績を上げていかなければなりません。社員がいて、そこには妻や子、家族があるわけです。しっかり食べさせ、冬には防寒服を着せ、雨露をしのげる住まいに住ませ、学齢期になったら子弟に教育を受けさせなければなりません。学びたいのなら高等教育も受けるようにする必要があるからです。企業の責任、企業の役員の責任は、そういった意味で、企業をさせる人々のためにも、『収益」を上げていかなければなりません。これは当然のことです。

 ある人が勤めていた会社が、営業不振で、部門の縮小をせざるを得なくなりました。その部門の責任をしていた方が来られた時、『◯◯さんには、何十人もの部下がいらっしゃり、それぞれ家庭があります。彼らが路頭に迷うことがないように、再就職の世話をしてあげて下さい。それからあなた自身のことを・・・!』と、相談に答えたのです。『そうしたら、きっとあなたの再就職先が、必ず備えられますから。あなたの責任は、部下と部下の家族にあります。彼らを守ってあげ、最善の身の振り方をさせてください!』と勧めたのです。ところが彼は、ノイローゼのようになっていて、その勧めに反して、だれよりも先に退職してしまいました。親族の系列の会社に、根回しをしていたのです。

 企業や上司とは、部下の全生涯にかかわらなければならないからです。子供たちが世間並みに、衣食住が備えられ、教育を受けられ、市民としての最低限度の文化的な生活を過ごせるように配慮する責務があるのです。松下電気が苦境にあった時、役員たちは従業員の「首切り(解雇)」を提案しました。ところが、社長の松下幸之助は、『今まで苦労を共にしてきた仲間を解雇することはできない。この時期を忍べばきっと業績も改善するだろう!』と考え、役員たちの勧めを拒んだのです。昔のような輝きが少なくなったのですが、この企業の輝き、繁栄は、そういった経営者の理念があったからだと思われるのです。ソニーにしても、障碍を持たれた方が働ける職場、部門を設けて、その社会的な貢献を果たしてきて、世界に冠たる企業となったのに違いありません。今、そういった儲けにならない部門、「社会的貢献」を疎かにしているのではないでしょうか。韓国などとの国際競争力が落ちたのは、技術の流失だけのことではなく、このへんにも原因があるのではないでしょうか。

 「楽天」という会社があります。三木谷という方が社長で、「ネット販売」で急成長を遂げているのですが、この会社は、儲け主義ではなく、社会との共存を考えているのだそうです。ブログに、そうありました。この「執行役員」の中には、この「社会的貢献」担当がいるのだそうです。このように、《志を高く持って生きる企業人》がいるのを知って、なんともほっとさせられます。

 国も、《国益》とは、国の利益ではなく、国を構成する《国民の利益》のことであって、弱者切り捨てではないのです。弱者に、手厚い施策をしてきた国は、雨の後の筍のように急成長はしなかったのですが、堅実な国家が作り上げられててきています。そうでなかった国は、いつの日にか崩壊してきています。中学の歴史で、「スパルタ」というギリシャの都市国家のことを学んだときに、身体や頭脳の能力の高い者たちだけが国家の益になり、弱者を切り捨てた国だったことを学んで、理想的な国家は、弱者救済に力を注ぐ国であることを知ったのです。全体主義国家であった、かつての日本やドイツが滅びたのは、これを蔑(ないがし)ろにしたからにほかなりません。弱者への《労(いたわ)り》こそが、国や企業を高く上げることになるのではないでしょうか。

(写真は、「品川シーサイド楽天タワー(楽天本社)」です)