旬の筍の味覚を

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 「主食」と「副食」という組み合わせが、日本食には、特に強いかも知れません。米飯とおかずという考え方です。昔から、中国でも、南方は米食、北方では粉食が一般的だと言われています。ところが現在では、食の流通がなされて、南でも、餃子、餅(ビンと呼ばれる小麦粉で作った薄焼きの様なもの)、饅頭(小麦粉製の拳大のパンの様なもの)、麺が好まれる様で、街中の食堂は、<◯◯面(麺の代わりに使う漢字です)>という看板の食堂が多くありました。やはり一番目立つ看板は、近隣の田舎の名前をつけた食堂が多く、その田舎の出身者が、好んで利用していたようです。

 それで米食の南方の人に比べ、北方の東北人は背が高いのです。大連に、友人を日本から訪ねたことがあります。知り合いの方が、古着を配布したいとのことで、大量に日本から持参したのです。大連の税関で、官吏に難しい顔で調べられ、結局持ち込みが許されたのですが。

 その時、街中を散策したのです。何と、大連人は、顔が一つか一つ半ほど、背が高かったのです。そんなことがあって、南方に来ましたら、そこに住むみなさんは、それほど高くないので、その地域差に驚いたのです。

 日本人が「餃子」を食べますと、それは「おかず」になり、米飯を食べ、味噌汁を飲み、野菜の煮物、葉物のおひたし、漬物などで食事を摂ります。ところが、中国のみなさんは、「餃子」は、小麦粉の皮に、肉、野菜などが入っていますので、<主食と副食>が一まとめになっていますので、茹で汁をスープに、酢醤油に大蒜(ニラ)を入れた薬味で食べて、食事にします。帰国以来、餃子を作りましすと、〈水餃子〉ばかりなのです。

 焼きそばも、お好み焼きも、餃子と同じで、主・副込みの食事なのですが、日本人は、米食がないと物足りないわけです。ずいぶん昔、アメリカ人の事業家と一緒に食事をし、私がカレーを作ってもてなしたことがありました。つまりカレー・ライスにしたわけです。そのカレーには、「馬鈴薯(じゃがいも)」が入ってましたので、『ライスをつけると、重複してしまう!』と、彼が言ったのです。米飯と馬鈴薯では、重過ぎるのでしょう。

 そういえば、母がうどんを作った夕食に、米飯も添えてあり、おかずも添えられていたのを思い出します。母も根っからの日本人だったわけです。米飯に、いただいた美味しい南瓜をオリーブオイルで焼いたもの(ホクホクしていました)、豆腐をフライパンで焼いたものに生姜醤油をかけたもの、そしてホーレン草のおひたしで、肉・魚なしの夕食の時がありました。どうしても、〈炭水化物過多〉の食事になってしまうのは、今や時代遅れでしょうか。

 昨日は、〈100円バス〉に乗って、道の駅に、「枝垂れ桜」を観に行き、そこの売店で、搗き立てのお餅を買って帰りました。夕食に、お雑煮を作ったのです。桜の咲く時期にも美味しく頂けたのです。一昨日の作り過ぎの酢豚がおかずで、二晩連続になってしまいました。にぎやかだった子育て時代を思い出しながらの二人の夕食も感謝であります。そうそう、近くに住んでおいでの方から、筍を頂きましたので、皮をむいて鰹節などで味付けをして添えました。これも旬(しゅん)の春(しゅん)の味覚を満喫したのです。

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青森県

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青森県をイメージするイラスト画像

 

 私が生まれた翌年の秋に、サトウハチローの作詞、万丈目正の作曲で、「りんごの唄」が発表され、焼土日本の隅々に、軽快なメロディーが流れ、あふれ、無色の日本に、赤い色彩が色塗られたのです。《りんご王国》と呼ばれる青森県、弘前市は、長くりんごの産地です。

赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

あの娘よい子だ 気立てのよい娘
リンゴによく似た 可愛いい娘
どなたがいったか うれしいうわさ
軽いクシャミも トンデ出る
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

朝のあいさつ 夕べの別れ
いとしいリンゴに ささやけば
言葉を出さずに 小くびをまげて
あすもまたネと 夢見顔
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

歌いましょうか リンゴの歌を
二人で歌えば なお楽し
皆なで歌えば なおなおうれし
リンゴの気持ちを 伝えよか
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ

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 東北本線の始発駅であり終着駅でもある、青森駅は、高校の修学旅行で、青函連絡船に乗るために、初めて訪ねました。人は「北げる(にげる)」ために上野駅から夜汽車に乗って逃避行をする、そんな小説の舞台の一つでもあります。私たちは、極北寒冷の地に生活してきた日本原住のアイヌのみなさん生活を見せていただくため、また、明治の開拓者たちの営みを知るために、その足跡を追いながら、オホーツクに海を見るバスの旅をしました。

 アイヌの民さんの集落にも行きました。まだ観光地化する以前でしたので、普段の生活に触れることができ、木彫りの熊を、家族への土産に、札幌で買った、バター&チーズの飴と一緒に買って帰りました。アイヌは、元は本州にも住んでいたのですが、追われて、海を渡って、北海道に住み始めたと言われています。

 さて、県下に鯵ヶ沢という町があって、ここの出身の方が、土木の仕事をされていて、通りがかりで、私たちの素人工事を眺めて、協力を申し出てくれたのです。ユンボを借りてきてくれて、基礎工事を助けてくれたのです。お嬢さんが、上の娘の同学年で、家への行き来もあったのです。いつの間にか、どこかに越して行かれましたが、工事開始の当初に出会った、漢気のある、同世代の方が思い出されます。

 私たちの母教会に、青森出身の方がおいでです。多くを話さない方で、うち溶けて話し合ったことは、あまりないのですが、実のある方です。私の家内を、聖会が行われたキャンプ場から、家内一人では帰すことが心配になられて、わざわざ別方向のわが家に送り届けてくださったことがありました。

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 母教会の下車駅の駅前に、まだ田んぼがありました。そこに大きな看板があって、それを借り受けて、「教会案内」を書いて欲しいと、兄に頼まれて、1週間くらいかけて描いたことがありました。何しろ、看板を道々に立てる広告代理店のアルバイトで、穴掘りはしたことがありましたが、描くのは初めてのことでした。描いては、駅のホームに行っては眺めて、描き終えたのです。

 そこに、[あなたの人生に勝利を!]をと、大描きしたのを、この方がご覧になって、教会にやって来られた、信仰を告白し、バプテスマを受け、素敵な姉妹と結婚をされ、お子さんたちを立派に育てられ、教会の中心的なメンバーとなられたのです。朴訥な津軽人が、東京に学びに出てこられて、お仕事をし、クリスチャンになられたわけです。

 今は駅前の区画整理で、看板はありませんが、下手な素人が書いた、《人生勝利》の主イエスさまを信じられたのは、献身直前の私への励ましでもあったのです。

 律令制下では、陸奥(みちのく)は、「陸奥国」と「出羽国」とに分けられていて、今の福島、宮城、岩手、そして青森が、「陸奥国」でした。多賀城が国府で、国分寺は、そこから離れた現在の仙台に建てられています。平安末期には、奥州藤原氏の支配に服した地でした。栄耀栄華を極めて、欧州平泉には、往時を偲ぶことのできる中尊寺に「金色堂」が残されています。源頼朝に征服されて滅びでしまっています。

 江戸期には、転譜などがあって、津軽氏が弘前藩を治め、明治維新を迎えています。県都は青森市、県花は「りんごの花」、県木は「檜(ひば)」、県鳥は「ハクチョウ」で、人口は120万人ほどです。やはり果実のリンゴを代表とする農業県で、1891年に、上野青森間に鉄道が開業してから、青森は注目され始めています。その交通網を利して、漁業も農業も発展して来ているのです。

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 「三内丸山遺跡」は、平成4年(1992年)から始まった発掘調査で、縄文時代の前期から中期(紀元前約3,9002,200 現在から約5,9004,200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土し、「世界文化遺産」に登録されています。

 大きな集落があって、秋に収穫された栗の実などが収められた貯蔵庫も発掘されています。霧の木を植えて、栗栽培が行われていたとも考えられています。それ以外にも、海産物も大き収穫されていたようです。大きな共同体があったからでしょうか。南の九州の吉野ヶ里遺跡、北の青森の三内丸山遺跡、私たちの祖先の生活の営みがあったことになります。

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「青い森のメッセージ〜青森県民の歌〜」があります。作詞が山内美空、補作詞が伊藤アキラ、作曲が鈴木キサブローで、2001年元旦に発表されています。

あなたが花になれば 私は草になろう
毎日少しゆれて 話を続けよう
氷や雪になれば 私は空になろう
こごえた指をとかす 言葉をみつけようそして春夏 秋冬がめぐり
森は大きく きのうより明日この森から lalala 夢は始まる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 人はかがやく
青い 青い森のメッセージだれかが山になれば だれかが川になって
流れる雲を招き 絵巻をつくるだろう
小枝や鳥になれば 私は水になろう
かわいた胸にしみる 雫をあつめようやがて宇宙に 星たちがめぐり
人と人とが 森になる季節この森から lalala 道はひろがる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 歌は生まれる
青い 青い森のメッセージ
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 素敵な市の県民歌です。「じょっぱり」と言われるようで、まさに《我慢強さ》が、青森県民の県民性だと、自他ともに認められていているそうです。津軽、南部、下北との違いも大きそうですが、どこの県にも頑固者もいますし、融通性のきく人もいるからです。
 高校生の頃に、弘前市の出身の石坂洋次郎の作品を、岩波文庫で読みました。活字を追いながら、出来事を想像しながら、面白くて、笑いながら、次から次へと読んだのです。街の銭湯に、学校の先生たちが入って来て、風呂屋の子が語る談義が面白くて、大笑いをしてしまいました。
 弘前高等女学校の教師をしていた経験から、学校もの、青春ものが多かったでしょうか。読書しながら、難しくて考え込むような内容ではなく、当たり障りのない日常を読み取って、至極楽しかったのです。ですから、青森県の印象は、ずっと好いことばかりでした。
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 家内は、八甲田山の麓に住む同級生を訪ねたことがあって、家人と旧級友とがする会話が、全くわからなかったのが印象的だったと言っていました。厳しい自然の中で、なるべき大きな口を開けないでしゃべるので、やはりくぐもっていたのでしょうか。基地があったり、廃棄物処理場、今では、〈原子燃料サイクル施設」と呼び替えているのですが、村の経済のためにも、そうせざるを得ずに、今の時代に必要に応えておいでです。

 さて染井吉野の桜前線が北上して、桜名所の弘前城の桜が見頃になるのは、いつ頃になるのでしょうか。

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春の色と香りと味とを

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 巴波川の土手を散歩していましたら、菜の花に手を伸ばしてる方がおいででした。挨拶をすると、『白和えに美味しいんですよ!』と言われたのです。『では、私も!』と答えると、新芽をたおって三つ、四つ下さいました。『土手沿いには、避けた方がよろしいようで!』ということばに従って、帰り道の土手沿いに、倣ったようにして摘んだのです。

 家に持ち帰って、水洗いをして、ザルに上げておいたのを、ゆがいて、辛子醤油で、夕食の食卓に載せました。家内も『美味しい!』と言って、春の旬を食べていました。枝垂れ桜も染井吉野もタンポポも、春いっぱいの弥生三月も残すところ三日になりました。

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令和の青年よ、立て!

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 同志社大学を起こした新島襄の伝記の中に、開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚えさせたのは、主でいらったに違いありません。

 アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしたかったのです。彼自身が自由と自治の国で学んだからでした。私は、この大学に入りたかったのです。

 実は、中学の修学旅行で、京都に行った私は、数日間、私たちをガイドしてくれたバスガイドの「京ことば」に魅了されたのです。男4人兄弟の中で育ち、男だけの中学校で学んでいた私は、その優しい話し振りの彼女に、ほのかな恋心を覚えたのです。それで、『大学は京都に来る!』、中学3年、14才の私は、そう決心したのです。それが志望の動機でした。  

 ところが、中学生の淡い恋は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年がたとうとしていた時に、進学を考えたのです。そうしますとB学院の入学案内が目に飛び込んで来たではありませんか。

 その表紙の写真に、楽しそうに笑っている綺麗な女子大生がプリントされていて、やけに私に微笑みかけて、『入学して、一緒に勉強をしませんか!』と誘っている様に感じたのです。それを断りきれなくて、入学させてもらいました。でも、補欠入学でした。ちょっと悔しかったのですが、結構、その4年間は、恋をしたり、泣いたり、笑ったり、楽しく過ごさせてもらいました。『勉強をした!』と言うよりは、残念ながらアルバイトをして学費を稼いだ年月だったのです。でも、本を読んだり、渋谷や新宿の「ル・ノアール(喫茶店)」で、未熟な考えで議論したり、ケンカしたりでした。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したりの意義の有った4年でした。

 振り返ってみますと、これまでの日々のすべて!が、その様にお導き下さったのだと、痛切に感じるのです。人の考えや思いをはるかに越えた主のみ心が、そのすべての歩みにあったわけです。主を信じて「神の子」とされるなら、自分の生涯に起ったすべての出来事に、意味や価値のあることが分るのです。

 新島襄の青年期の転機は、密出国の準備中に、函館で、「漢訳聖書」を読み、創世記の巻頭の「初めに、神が天と地を創造した」を読んだ彼は、『この神こそ真の神に違いない!』と信じたと言われています。上海に上陸した時に、どうしても買い求めたかった「新約聖書」を手に入れています。

 日本の行方に暗雲が立ち込めつつあります。不穏な空気が充ちつつあるように感じてなりません。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、新約聖書を読んで、信仰を持つ人たちが生まれて、明日の日本を憂える人が起こるようにと願います。令和の新島よ、立て!

(新島襄の群馬県安中の住宅です)

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凡に生きる

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 『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。 (詩篇9010節)』

 この水面に竿さす人の姿が、私は大好きなのです。静かな湖面に竿をさし、どこから来たのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。対岸の家に帰るのか、または友人を訪ねるのか、それを私は知りません。

 竿を肩にする姿がいいのです。目を水面に向ける真剣さが伝わってくるのです。どうも渡し舟ではなさそうです。この人は、きっと魚を獲る漁師で、漁をしているのでしょう。その魚を売って、家族を養い、子に漁を教えるのです。自分の生涯をこの一事に捧げて生きています。

 この人のお父さんも、そのようにして生きていたにちがいありません。まさに凡(おお)に生きる人たちなのです。彼も彼の子も孫も、父親の後を継いで、父のように生きるのでしょう。ありきたりの一生を繰り返して、受け止めて生きていくのでしょう。

 エンジン付きの大きな船を操縦することだってできそうです。でも、そうしないのです。大海に漕ぎ出すことだってできそうです。でも、そうしないのです。父親のように凡に、この川に生きてきているのです。

 誰かに励まされたり、また貶(けな)されることもなく、ただ寂寞の中を、流れに棹さして生きるのです。流れるのは、川ばかりではなく、時代も世代も全てが流れて、元のままではないわけです

 一人で生まれ、孤(ひと)で生きて、そして独り死んでいくのです。でも、神さまの見守りがあったのを覚えていません。この絵の水面は、今は静かなのです。大雨を受けて激流、濁流になることもあったのでしょう。わが家の下を流れる巴波川を、春夏秋冬、朝な夕なに眺めて、源流の「しめじが原」のことなどに思いを向けています。

 『それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇9012節)』

 それゆえ、私たちは、自分の分の生きる日々に思いを向けるように、神さまはおっしゃるのです。幸いな日も、辛い出来事の日もあったのです。喜んだ日も悲しんだ日もあったのです。いつか、その舟も竿も子に譲る日、死すべき日が来るのです。その日を迎えても、慌てないためにです。人の世は短いのです。

 しかし神さまは、《永遠の神》でいらっしゃるのです。そして、凡に生きてきた私たちも、永遠に生きられるのです。私の日を定められた神さまを信じ、飛び去る日が来るまで、祈りながら定められた日々を、また凡に生きるのです。神と伴に。

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遥かなる野に咲く桃花

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 共に礼拝を守った方からのメールに添付されていた、この春の「桃の花」の写真です。もうすでの桜の季節は終わって、桃の花の季節が、華南の地にはやってきているようです。「桃源郷(とうげんきょう)」とは、《陶淵明の「桃花源記」に描かれている桃林に囲まれた平和で豊かな別天地から》俗界を離れた別世界。仙境。理想。》だと、goo辞書にあります。

 山梨県の富士五湖地方から甲府盆地へ行く、山越の道路を通りますと、眼下に「桃色の絨毯」のような、濃いピンクの桃畑の景色が広がるのです。一面、勤勉な農夫が手入れした桃畑に花が溢れるのです。短い時にしか見られない光景で、圧倒されてしまったのです。

 それに比べ、この写真は、一本の枝に咲く桃の花なのですが、長く過ごした地に訪れた春の便りを、思い出させてくれるように知らせてくださったのです。5年ほど前に、梅林に連れて行っていただき、梅の香と花を楽しんだのを思い出します。帰りに、ご夫妻と息子さんと五人で、郷土料理のレストランに案内してくださって、〈花と団子派〉の私は、両方を楽しませていただいたのだのです。

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 春が来て、春に花々が咲くと、真冬の縛りの氷解の時の到来を告げるのですが、国と国、民族と民族、人と人の関係が解かれ、和む時が来るように願わずにいられません。昨日は、若い友人が、私たちを春の川辺に連れ出してくださいました。帰りに、「いちご大福」を買って、わが家でお茶の時を持ちました。美味しい春でもあります。

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注意注意のこの頃です

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 「呼子(笛)」と言う whistle をご存知でしょうか。時代劇の映画で、同心や与力や町方が奉行所から出てくる場面がありました。その与力や〈岡っ引き(奉行所の同心という今でいうお巡りさんの私的な従者をそう呼んでいました。)〉が、町中で、怪しい犯人に出会うと、仲間を呼ぶために吹く笛が、この呼子笛なのです。

 何年か前に、家内が、散歩中に珈琲&お土産屋さんで、私に買ってくれた〈リストバンド(wristband )〉があります。それには、方角磁石と、この「笛」がついているのです。

 歳をとってきたので、行方不明になったり、転んで怪我をしたりした時に、助けを呼べるようにと、買ってくれたのです。昔、子供たちが出かける時につけた〈迷子札〉と同じで、〈迷爺札〉まで持ち歩く今日この頃なのです。

 昨年暮れあたりから、大平山に熊が出没しているとのニュースを聞きましたので、大平散歩には、これを携行しているのです。先日、百均に行きましたら、〈熊出没時の鐘〉が売られていました。買いませんでしたが、そうしましたら、先日の大平山行きの折に、年配のウオーキング姿の方が、上の方から降りて来られて、その鐘を鳴らしながら歩いておられました。

 春分の日に、孫娘の高校合格の知らせのために、長男家族が訪ねてくれました。一緒にお昼をし(息子夫婦が逆招待してくれました)、進級した孫息子のために祈る時もありました。その出先で、〈熊退治用鐘〉を買ってしまったのです。そんなことで、自分の身を守るためや、救助を認めるための緊急連絡用に、多くの護身工夫をしようと思っています。

 自転車は、家内の入院中に、退院したら乗れるように買った婦人用自転車(ママチャリ)から、中古ですが、折り畳み自転車に換えています。そして、しっかり〈ヘルメット〉もかぶっているのです。一昨日のメールで、すぐ上の兄に、〈転倒注意〉を促されました。倒れたら再起不能になる可能性大と、兄が主治医に言われたとのことで、その注意の分かち合いでした。なお、注意注意の今日この頃であります。

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やっぱり面白さいっぱいのBaseball

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 「出藍の誉れ」ということばが、印象深く感じられてしまいました。これは、弟子が師匠の学識や技量を越えることのたとえ。[由来]「藍」は染料に使う藍草のこと。藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色となるが、その関係を弟子と師匠にあてはめて、弟子が師匠の学識や技術を越えるという意味。学問の重要性をうたった荀子の言葉に由来する。[出典]「荀子」勧学。

 ワールド・ベースボール・クラッシック(World Baseball Classic で、日本野球がアメリカチームを破って、優勝を決めました。この野球の起源ですが、次のように説明されています。

 『野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「タウンボールtown ball」が、イギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(18611865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。(ウイキペディア)』

 日本に伝えられたのは、次のようにです。『南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。1873年(明治5年)に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。(「野球殿堂博物館」より)』

 アメリカに始まり、日本に伝えられてから150年の節目に、WBCの大会で、AmericaNational team を、32で破って勝って、優勝を決めてしまったのです。これは、まさに「出藍の誉れ」ではないでしょうか。

 ウクライナでは、兵器を用いた〈戦い〉が行われて続けている現在、ボールとバットを用いて、野球の世界選手権が、平和の内に行われたのです。母国の名誉のために、平和的な《闘い》が行われるのは、人類が、どれほど平和を希求しているかの象徴的な表れだと感じてなりません。

 子どもの頃に、石ころや水たまりの中で、三角ベースの野球をし、父と家の前の道路でキャッチボールをし、青田や千葉や川上や小鶴や大下などのスター選手の活躍に胸を踊らされたのです。そこには夢がありました。すぐ上の兄は、その夢を追いかけ、野球が好きで、高校野球に青春を燃やしました。

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 あの太平洋戦争には、日本はアメリカに負けたのですが、戦時下には、中学校野球、都市対抗野球、東京六大学野球などの大会が相次いでが中止された中、「職業野球(今のプロ野球です)は、野球ファンにとって唯一の娯楽だったのです。敗戦国日本は、そのアメリカの助けで、廃墟から立ち上がることができました。

 敗戦国の子どもたちの栄養補給のために贈られた “ LARA 物資 “ の粉末牛乳(鍋で煮て教室で配られました) を飲んで、強固な体をいただいた、われわれ祖父の世代、その孫たちの世代が、平和の内に、闘いを繰り広げて決勝で、《恩》を返すことができたのでしょう。

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 投打に秀でた大谷翔平選手が、相手チームの善戦ぶりを賞賛する姿は、まさに、麗しい Sportsman ship で、感動的でした。勝って、有頂天になって驕らない態度は素晴らしかったのです。

 さて、私たちの孫が、アメリカの高校の〈YAKYUboy 〉で、選抜チームで活躍中です。日米の血を継いでいるので、今回の日本チームに招聘された ラーズ・ヌートバー(Lars Taylor-Tatsuji Nootbaar )選手の背景と同じなのです。

 やはり野球は面白いスポーツです。準決勝で、メキシコチームに向かって、大声援の中で、短く拍手したのが大谷翔平でした。彼には、相手に対しての respect (敬意)が溢れています。勝っても、相手への思いを忘れないのは、どんな賞にも劣らない優れて高貴な振る舞いでした。試合後のインタビューで、ダルビッシュ選手が、臆する若手に、楽しく野球できるような務めを果たしたことを、大谷翔平が大きく評価していたことが素晴らしかったのです。

 今日は、たまの温泉日でしたが、施設のテレビ中継に見入ってしまい、勝利の瞬間を見届けることができました。

(高校生の時に作成した「大谷翔平ノート」です)

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観覧車などを思い出して

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 週初め、宇都宮に、「まちなかメディカルカフェ in 宇都宮」の定例の集いがあって、家内と一緒に行って来ました。以前、一緒に礼拝を守っていた姉妹の紹介で、この会を知ったのです。県都には、行く機会が少ないのですが、久し振りでした。この東武宇都宮駅の近くに市の福祉センターがあって、その10階の窓からの宇都宮の近傍の景色は、美しかったのです。

 子どもの頃、山間部の家から、街に連れ出してくれた父が、父に事務所のすぐそばに、一軒の百貨店があって、そこの屋上に、「観覧車」がありました。それに兄弟みんなで乗せてもらった覚えがあります。兄たちは、父の会社の索道というケーブルに乗って、山奥の採掘場や材木置き場に連れて行ってもらったことがあったようですが、幼い弟と私には、父は許可しませんでした。

 それでも、百貨店の屋上で、その上で回転して上下する観覧車に乗った記憶があるのです。昨日、私たちの降りた東武宇都宮駅の古写真があって、その屋上の風景も映っていました。そこに「観覧車」が写っていて、子どもの頃を思い出したのです。周辺の子どもたちも、一度や二度は、ここの百貨店に連れて来てもらって、観覧車に乗ったのでしょう。デズニー以前の世の中でした。

 お昼には、百貨店の上階に大食堂があって、そこで「お子さま昼食(あの頃はランチなんて言わなかったでしょう)、カレーだったか、オムライスだったかを食べたんじゃあないかな、と思い出しています。古き良き時代だったのです。

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 そういえば、「サーカース」にも、父は連れ出してくれたのです。ライオンはいなかったのですけど、馬とかピエロとか、空中ブランコなんかがあったのだと思い出します。街は賑やかでよかったのですが、自然が溢れた山の中で、幼児期を過ごせたのは、はるかによかったと思すのです。

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 東京に出て来て、級友の女の子が、「バター屋」をしていると聞いて、弁当箱を持って買いに行ったことがありました。肺炎になって退院してから、父は、滋養強健のために、瓶に入ったバターを、いつでも舐められるようにしてくれていたので、自分でも買ってみようと思って、母におねだりしたのでした。ところが、廃品回収をする人を「バタ屋」と言うのだそうで、何も買えずに家に帰って来たのです。

 兄たちも弟も、バターを食べるのを、父に禁じられていたのだそうで、「一人天下」だったのを思い出して、特別扱いの子ども時代を思い出して、兄弟たちに申し訳なさを覚える今の私です。

(以前の「東武百貨店」です)

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負うた子に教えられての今

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 『ぼく、イエスさま、だいすき!』と言った、まだ幼かった息子に、『お母さんもイエスさま、大好き!』と答えると、『じゃあ、イエスさまを半分ずつだよ!』と答えが返ってきたのです。大好きなイエスさまを、母親に取られたくなかったのか、何時でも分け合わなければならない、4人兄弟の中で育ちながら学んだので、愛して大好きなイエスさまを半分ずつに分け合うことを提案したのかも知れません。子どもって、本当に面白いと感じたことです。

 聖書の中に、「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若いときの子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は・・(詩篇127・3~5)」とあります。私に、4人の子どもがあることを聞かれた方が、思わず『ブッ~!』と笑われたことがありました。その時の雰囲気からしますと、軽蔑したと言うよりは、意外だったことと、二人の子のお母さんの目からは、『ちょっと多すぎるんじゃあない!』と言った思いからの笑いだったと解釈しています。

 この方のご主人は、中堅企業の部長をされていて、重役でもありました。ところが、私はパートで働きながら牧師をしていたのです。『我が家では収入が少ないから、子供を育てることが出来ないのです!』と言われる方がいて、子どもを持たないようにしておいでです。それででしょうか、2020度、一人の女性が生涯に産む子供の数が、《1.33》だと、ニュースが報じていました。

 私は4人の子どもを与えられたと信じているんです。決して自分たちで計画して産んだのだと思っていません。詩篇の記者が言うように、子どもは「賜物」で「報酬」だと信じているのです。もちろん経済的な理由だけではないと思いますが、この少子化傾向は、さらに『加速していく!』と危惧されています。

 もう十数年前になりますが、私の「矢筒」の中にある子どもたちで相談したのでしょうか、親を心配して、長男からは、e-mailで長々と問い合わせてきました。また長女が代表して電話をくれました。『お父さん。これからは、もっとリラックスして生きたらいいよ。私たちはお父さんが分かっているんだ。』と言ってきました。彼らには、、とうの昔から、私の弱さが理解されているのでしょうか。

 『可愛い子には旅をさせろ!』と言われたように、彼らを遠くにやって、生活させられたことは、よかったのだと思うのです。でも一番の喜びは、彼らが、主を恐れて生きることを知って、主が、いまだに大好きなことであります。 

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 片道の燃料だけで飛んで行って、復路の可能性を断ち切った神風特攻機のような生き方ではなく、十分な燃料を積んで、帰って来ることも、他の土地に移動することも自在に出来るような、柔軟性のある生き方を、私の老後にして欲しいと願ったのだと思うのです。私が憧れた生き方が、まだ続いているのでしょう、それを心配しているようです。

 本当に、『そうだ!』と思いました。それまで、だいぶ肩を張って頑張り過ぎて、生きて来たかも知れないからです。『お父さん。人にお願いすべきことは、謙ってお願いすべきだと思うわ!』、と自分の責任だけで立とうとしている私に忠告してくれたのです。『負った子に教えられ』たわけです。

 『みんなで大好きなイエスさまを分け合うことにしよう!』、と今でも思わされている、「春告花」、桜があちらこちらで七分、八分の知らせが入る今日この頃です。

(満開の「思川桜」です)

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