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今朝、四時の東の空に見えた「満月」です。スマホで撮影てみました。春の夜明け前、西の空が明るんできています。もうカラスの鳴き声が聞こえて来ます。今日も、地の上に平和があり、一人一人の心の中に平安があるように祈りました。素敵な一日であるように願って、まず感謝したところです。
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「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。(ヨハネ17章22節)」
カメラやスマホを向けて写真を撮ると、多くの人が、人差し指と中指で “ V “ でサインをします。不定期に送られて来るブログを読んでいましたら、その起源が記されてありました。
『起源は “ VEデー(ナチス・ドイツが降伏した日)”、” VJデー(日本が屈服した日)” と呼ばれるように、先の大戦で日本、ドイツを打ち負かして、「ヴィクトリー(勝利)を収めよう」という、連合国のサインである。イギリスのチャーチル首相が、発案したものだ。』
この起源説にも、も少し古い起源説がありそうですが、チャーチルは、葉巻をくわえながら、右手で “ Victory ! “ とやりそうな、お茶目な政治家だったのを知って、何となく分かった様な感じがしてしまいました。
ところで、戦争に負けたドイツやイタリヤでも、戦争を知らない若い人たちは、そんなサインをしているのでしょうか。自分の人生の勝利を信じて、自分が、ただ一人の価値ある存在だと分かっていて、そうするのでしょうか。また、「平和」を希求する願いを、そうサインするのでしょうか。
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今まで、外国人がしているのを見たことがありません。次女の子どもたちの写真が、ジジババに成長の様子を知らせるために、どれほど送られて来たか知らないほど多くあります。そんなサインをした写真を送って来たことは、一度もありません。
あれって、もう日本文化の一つになってしまっているのかも知れません。ところが、へそ曲がりの私は、人差し指だけの ” I “ サインをするのです。その意味は ” One way “ や “ Only one “ を意味してです。カメラの前では、ほとんどしませんが、その願いは、真理や義や永遠に至る道は、「唯一」だと学んだからです。分派している私たちが、やがて「一つ」とされる望みを持っているからでもあります。
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箱根越えは、東海道を旅する人には難所だったそうです。高速道や新幹線を使って、箱根峠を越える必要のない現代人には、縁がなさそうです。その箱根を歌った、「箱根八里」があります。壬生町の出身の鳥居忱(まこと)が作詞、滝廉太郎が作曲しています。
箱根の山は 天下の嶮(けん)
函谷關(かんこくかん)も ものならず
萬丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)へ 後方(しりえ)に支ふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き 杉の並木
羊腸の小徑は 苔滑らか
一夫關に當るや(あたるや) 萬夫も開くなし
天下に旅する 剛氣の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に 足駄(あしだ)がけ
八里の岩根(いわね) 踏みならす
かくこそありしか 往時の武士
箱根の山は 天下の岨(そ)
蜀(しょく)の桟道(さんどう) 數(かず)ならず
萬丈の山 千仞の谷
前に聳へ 後方にささふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼猶闇(ひるなほくら)き 杉の並木
羊腸の小徑は 苔滑らか
一夫關にあたるや 萬夫も開くなし
山野に狩りする 剛毅のますらを
猟銃肩に 草鞋(わらじ)がけ
八里の岩根 踏み破る
かくこそありけれ 近時のますらを
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壬生城の城址公園の堀を渡る橋の袂に行くと、この歌のメロディーが聞こえてきました。解説の板書を見ますと、壬生出身の鳥居忱の作詞だとありました。お父上は、壬生藩の家老でしたが、明治維新以降、東京大学や東京芸大で教鞭をとった方です。
古き良き時代の日本語が溢れていて、意味が難しいのですが、箱根峠を通りますと、大陸の「函谷關」が、どういうところであるか、どれほど難所だったということが分かったのでしょう。中国に倣って、今の神奈川や東京や埼玉や栃木を「関東」と読んだのですが、函谷關ほどに「箱根の関」を超えるのに難儀したのでしょう。
この函谷關は、二箇所あったそうで、霊宝の函谷関を「旧関」「秦函谷関」、洛陽に近くのあ新安の函谷関を「新関」「漢函谷関」などと呼んで区別したそうです。洛陽から教え子が来ていて、『私の愛する古都においでください!』と誘われたことがありましたが、行かないで帰国してしまいました。この洛陽は、漢隋唐の時代には、都が置かれていました。
全く縁のない地に住み始めて、家内の体調も落ち着いていることもあって、周辺の街を訪ねたい思いに駆られて、県を跨がない小移動は可とばかりに、出かけようかなと思っているところなのです。壬生町の町立歴史民族資料館で、奇しくも鳥居忱を知った、先週の訪問でした。
夏の聖会が、箱根で行われていた時期があって、ニ、三度参加したでしょうか。明治期には、多くの若者を集めた夏季学校が、箱根で行われました。ある年、内村鑑三が講演を行なったのです。その話は、若者たちの心に、大きな感銘を与えました。その講演内容が、「後世への最大遺物」として、後になって出版されています。今でも、愛読されている一書です。
(箱根の関所跡、函谷關です)
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今朝、晴れていましたので、思い立った様に、最寄りの栃木駅から、8時17分発の東武宇都宮線に乗って、壬生駅で下車し、壬生城址公園を訪ねました。
宇都宮と栃木の中間に、この壬生町があります。1462年、壬生氏が、この地を治め始めた折に築城されています。関東平野の一角に建てられている平城です。日光に家康の墓所が作られ、改装されるのですが、初めの頃の将軍は、日光の墓所詣でをする時に、 その旅の宿舎として、この城を使ったので、将軍家所縁(ゆかり)の藩として、名を上げたそうです。
明治が百五十年も経ちましたから、武家屋敷が残っているかと思って、城の近くの城下町の「本丸」という名の街を歩いてみましたが、一、二軒、それらしき門構えの家がありましたが、家は普通に建て直されていて、往時を偲ぶことはできませんでした。
この初代の壬生氏が、近江国から持ってきた「夕顔(ゆうがお)」が、殖産興業で農家が植えて、この地の名産品にしたのです。その夕顔から干瓢が作られるのですが、街中に「干瓢問屋」の看板が掲げられた店があって、壬生氏の善政を感じさせてくれた、もう一つの街の顔でした。
壬生忠英公のお陰で、この地の干瓢は、今に至って、全国の生産の八割を占めると言われています。酢飯の間に入れられた、醤油や砂糖で煮た干瓢が入った手巻き寿司は、鉄火巻きに負けないほど美味しいものです。母が、遠足や運動会には、決まって巻いてくれたのです。
栃木市も商いの町でしたが、城下町でもあるのですが、壬生の現代の街は、ゆったりと落ち着いた風情が感じられていました。幕末の長州藩の人、高杉晋作が一度、この街を訪ねて、剣の他流試合をしています。その道場が残されていか、資料館の方に聞きましたが、剣の手合わせをしたのは事実でも、どこだったかは記録が残されていないとのことでした。
まだ十代だった晋作は剣に負けて、鼻っ柱を折られて、悔しい思いで、この街を去ったのですが、令和の訪問者は、干瓢の匂いを想像しながら、ちょっと空腹な感じで、東武鉄道に乗って帰宅しました。
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「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル13章7節)」
⚪︎欽定訳
Remember them which have the rule over you, who have spoken unto you the word of God: whose faith follow, considering the end of their conversation.
⚪︎New International Virsion
Remember your leaders, who spoke the word of God to you. Consider the outcome of their way of life and imitate their faith.
⚪︎中国語訳
从前引导你们,传神之道给你们的人,你们要想念他们,效法他们的信心,留心看他们为人的结局。
⚪︎大正訳
「神の言を汝らに語りて汝らを導きし者どもを思へ、その行状の終を見てその信仰に效へ。」
⚪︎黒崎幸吉訳
「神の御言葉を語ってくれたあなた達の指導者たちのことを思え。その生涯の終り(──いかに神の御言葉を証ししながら死んだか)を注意してみて、その信仰をまねよ。」
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初めて褒めてくれたお婆ちゃん先生、中学3年間の担任で、社会科でさまざまに教えてくれた先生、1年間社会思想史を講じてくださった講師がいました。先日、同じ学校で、この先生から教えを受けた、若い頃にお世話になった方からの知らせで、今、九十五歳でお元気でお過ごしだと言ってこられました。ゼミを導いてくださった教授がいました。知的な感化だけではない、あるべき人間の有り様を教えてくださったのです。
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忍耐して8年間教えてくださった宣教師、様々に執り成しをしてくださった宣教師、愛媛県下を訪ねて弟子にして下さる様に願った牧師のみなさんがいました。それは実に有益な出会いと共に過ごした年月でした。若い頃に受けた、信仰的、霊的な感化は計り知れなく尊いものだと感謝しています。
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ジャン・カルヴァン、クリストフー・ブルームハルト、スポルジョン、W・リュティー、アードルフ・ケーベルレ、J・G・メイチェン、ロン・メル、B・F・バクストン、アンドリュー・マーレー、内村鑑三、藤井武、新渡戸稲造、矢内原忠雄、竹森満佐一、岡田稔、菊池吉弥、金田福一、榊原康夫などのみなさんが著した書物に学びました。
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間接的にテープで説教を聴いた方も、書物から読んだ方も、直接お話しした方もおいでです。まさに、「あなたがたに話した指導者」たちと言える方です。この方々が話したのは、「神のことば」でした。独断的な思想ではなく、聖書を基に話され、記されたものでした。時間や時代や民族や文化を超えたもので、不変です。
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話された方、記された方の「生活の結末」、「行状の終」、「人的结局」、「その生涯の終り(──いかに神の御言葉を証ししながら死んだか)」を、私たちは、「思い出し」、「よく見る」必要があります。エノクやエリヤの様な終り方をされた方はどなたもいませんが、どの様にして、「聖徒としての死」を迎えられたかに注目する必要があります。『どう死んでいかれたか』は、《どう生きたかの最終》の姿に違いありません。
魂に闘いを挑むものに対し、叫び、罪と闘い、贖いを完成し、父の神の右にいますキリストなるイエスさまに叫び、まとわりつく罪と闘い、打ち払って、これらのみなさんは生き抜いたからです。これらのみなさんの考え方、生き方、信仰のあり方に倣(なら)い、学ばせていただいて今の自分があります。感謝でいっぱいです。
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この栃木に住み始めて二年以上になるのですが、気になることがいくつかあります。夕方になると、二機のプロペラの飛行機が、西から東に飛んで行くのです。宇都宮の自衛隊の基地から飛び立って、低空飛行で群馬県方面に行く様ですが、飛行目的や行先を確かめたこともありません。毎日ではないのですが、爆音がして、戦時下かと気になります。
もう一つは、ヘリコプターが上空をよく飛んでいます。壬生町にある、獨協医科大学病院の “ ドクター・ヘリ” が救急で、患者の搬送をしているのです。このプロペラ音が聞こえて来ますと、『ご苦労様!』と、いつも思わされています。茂木にあるオートレース場で行われたオートバイレースの事故で亡くなった甥も、このドクヘリで搬送されたと聞いていますので、殊の外なのです。
もう一つは、地上の出来事ですが、救急車と消防車が、よく目の前の県道をサイレン音を立てながら走って行きます。どうも火事が多いのだと思われます。とくに強風が吹くような地形ではないのですが、救急車の出動が多くて、いつも気になるのです。
この街と江戸の間が、舟運で結ばれていて、物や人の往来が頻繁に行われていた歴史がありますから、『火事と喧嘩は江戸の華!』で、ここ栃木は〈火事〉をも、〈華〉をも舟に乗せて連れて来たのかなとも思ってしまうほどです。
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江戸の街は火事の多いことで知られていて、そんな事が言われた様です。それで、江戸の消防管理は、民間の「町火消し」が担っていたのです。その名残が、毎年正月に行われてきている、消防庁の〈梯子のり〉の「出初式(でぞめしき)」です。
「いろは」で呼ばれる消防団が、〈百万都市〉だった江戸の町火消しの総数は、一万人以上もいて、防災と火消しに当たっていたそうです。多くあった中で、「よ組」の構成員は、七百人以上もいたと記録されています。「漢(おとこ)」の仕事で、江戸の街が守られていたことになります。
江戸の町の火消しによって、街が防備されたのを忘れてはなりません。幕末の江戸の騒乱の中で、防備兵の様にして、その役割を担ったとも言われています。「気風(きっぷ)」を売っただけの集団ではなかったのです。幕末にあっては、武士に代わる、治安上、重要な人たちであったことになります。
住んでいたアパートの上階のガス爆発で、家事のほとんどをなくしたことがりましたが、引火爆発の危険を避けれたのは、奇跡だと、消防署と警察署の検証の折に言われて、驚いたり感謝だったりした経験があります。あの時家内のお腹にいた息子が、不惑四十になっています。
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「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。 (詩篇56篇8節)」
人が笑う声を何度聞いてきたでしょうか。また微笑む人の笑顔をいくたびも見てきました。肺炎で死なないで済んだ私を見て、母は喜んでくれました。幼い日の信友が、熱河宣教に関わり、自分の胎から産んだ子が、献身して主に仕え、大陸にまで出掛けるのを知って、『そんな異国にまで行かないでもいい!』と思いつつも、志を持って出かけたのを喜んでくれました。
自分の腰から出た初めの子、私の長兄が、聖職に就くことに、格別に感慨深げにしていた父だったことを母に聞きました。親の自分たちの面倒をみてもらいたい思いの一方で、そう言って、父は喜んでいたのです。私が献身する前に、父は、主の元に帰ったのですが、青春の血を燃やして、若い日々を過ごした大陸に、私が行くのを知ったら、どんな風に思ってくれたことでしょうか。
産みの両親を知らずに子ども時代を、そして一番心の揺れ動く十代を母が、どんなものを抱えながら生きてきたのでしょうか。子どもたち四人に、もう少し小遣いを与えよう思って、パートの働きに出て、路側帯に寄っていた母の足を、砂利トラのボルトで大怪我を負わされて、救急で担ぎ込まれた医院の外来の廊下に寝かされて、隣街の大病院に転院される前、痛みに耐えて必死の母の涙を見ました。子が知らない所で、母は涙を流していたのでしょう。
主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
わが罪のため さかえをすてて
天(あめ)よりくだり 十字架につけり
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
みくにの門(かど)を ひらきてわれを
招きたまえリ いさみて昇(のぼ)らん
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛す
わが君(きみ)イエスよ われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ
わが主イエス わが主イエス
わが主イエス われを愛
祖父に連れていってもらった教会、その教会学校で覚えたのでしょう、この歌を小声で歌いながら、横になっていた父の頬に流れていた涙も見たことがあります。家督を継ぐ初めの子として生まれたのに、家格に合わないとの理由で、産んだ母と無理矢理に引き離され、非嫡出の子として、養母や祖父母に疎んぜられて育った父には、もう一つの悔し涙もあったことでしょう。
孤独に耐えて生きて来て、東京弁を話す素敵な父と出会って恋に落ち、結婚し、四人の子を父に産んで育てていた母にも、幾たびか試練がありました。同じ様な星のもとに育った共通項が、父と母を引き合わせたのでしょうか。人生って、願った様にはならないのでしょう。不幸と思えばそれっきりですが、創造者を父として知った母は、自分の人生を、創造者の御手から、受け止め直して生きたのです。
愚痴を言ったことなど一度もありません。人を悪くいうこともなかったのです。男らしく生きる様に、息子たちを励まし叱ってくれたのです。そんな母を、父は、一目置いていた様です。出雲弁を、時々漏らす母を揶揄(からか)いながらも、感謝していたのです。その母の祈りが積まれて、父も改心をしたのです。
「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30篇5節)」
寂しい夕暮れに涙があっても、闇を打ち破って光射す新しい朝が、歓喜をもってやってくるのです。そんな朝をもたらしてくれるお方こそ、真実な神にちがいありません。厳しい人生にも、慰めがあるのだという事実を知って、生き抜いたのでしょう。戦争、物資の欠乏、敗戦、その混乱の中を、激励者、慰籍者がいて生き抜いたのです。
「なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる・・もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録7章17節、21章4節)」
父と母の人知れず流した涙を、全部拭い取ってくださる神がいること、その神と出会って、晴れやかに生きることができた両親を思い、同じ神と自分も出会った恩寵を覚えて、感謝な日を、私も生きております。
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「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。」、「私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(伝道者の書1章4節、9章11節)」
華南の街から帰国時に、家内に、綿の肌着が欲しいと言われた私は、渋谷の街で探したのですが、見つかりませんでした。 『お父さん、若者の街の渋谷で、綿製品を探したってダメ!』と次男に言われて、『巣鴨に行ったらあるかも知れないよ!』と言われたからでした。そこは「おばあちゃんの原宿」と呼ばれているのだそうで、旧中山道の通りに、有名なお寺があって、そこに参拝に来る客が利用してきた、古くからの商店が並んでいて、店を出していたのです。
そこに洋品店が何軒もあって、一軒の店で綿製品の棚があり、そこに家内に頼まれた物を買ったのです。人ではなかったのですが、欲しかった物との出会いがありました。何と、家内の下着を買うような旦那(だんな)なってしまった、いえ、家内の下着を買わせてもらえる旦那に、やっとなれたわけです。お店の女主人は、『もう綿製品は人気がないんです。おばあちゃんたちも下着にお洒落をするような時代になって、今では・・・』と、随分売り場面積が縮小した理由を言ってくれました。
家内のこだわりは、”グンゼ”なのです。家内曰く『生地も糸も綿なのは、グンゼだけ!』で、そんな拘りがあるのです。貧しい家庭に育った母は、高等小学校を出ただけで、女学校や大学に行きたくても行けなかった様です。母の生まれた街には、1923年(大正12年)に操業を開始した「郡是製糸株式会社出雲工場」があって、そこに勤めたと言っていました。1970年には製糸部門を閉鎖し、2015年には全面閉鎖をしています。
<昔ながらの馴染みの好い商品>は、国内では、ほとんど生産しなくなっているのでしょう。中国やバングデッシュの合資会社で生産している時代で、現代、有名なアパレル企業が大量に、こちらで生産してると聞いています。二度目に巣鴨に言った時は、家内と同伴でした。その時、また訪ねた店では、その売り場面積は、さらに少なくなってしまっていました。.
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「あゝ野麦峠」という本を学校に行ってた頃に読みました。岐阜の奥飛騨の農山村の貧しい村から、幾つもに峠を超えて、諏訪や岡谷にあった製糸工場に働きに出たことのあるみなさんに聞き取り調査をして、書き上げた物語でした。群馬の富岡製糸工場でも、殖産興業の勢いで、同じような官営の製糸工場があって、多くのお嬢さんたちが働き、それで外貨を得て、日本は増強して行ったのです。
そんな歴史を、一枚の肌着は、現在に伝えていることになります。母も大きな製糸機の前に座って、その糸車の回る騒音の中で、糸を繰っていたのでしょう。そのようにして、十代を過ごした母から、私たち兄弟四人は生まれたわけです。それで、今、私はここにあるのです。
時は、さまざまな始まりと終わり、新しい始まりを刻みます。母の働いた工場跡地に、今では、北陸から展開しているスーパーマーケットが建設されて営業していると、報じられていました。中国の新疆ウイグル地区で、日本の企業が使う綿製品のための綿(わた)を提供し、綿糸や綿製品を作る工場を利用している様です。海外依存度は、ますます増しているのですが、年少労働者の労働条件や問題などが取り上げられて久しいのでが、人権問題も取り沙汰されています。
自分は実業界で働く様な人生設計を持ちませんでしたが、企業の使命というのは、その利益を、社会に還元することにあると、常々思って来ました。基金を作って、例えば綿産地で働く子どもたちに、学ぶ機会をもたらす教育基金、奨学基金などを作るべきだと思っています。素晴らしい意欲を持った子どもたちに、機会を開くことができるからです。
(グンゼの製糸工場、野麦峠です)
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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11章28、30節)」
この写真は、私たちの小朋友の写真です。市内の小学校に入学し、ちょうど一週が過ぎています。この様に、四月に見られる光景で、一番微笑ましいのは、小学校入学の一年生の「ランドセル姿」でしょう。体に余るほどの大きなランドセルを背負いながら通学する姿は、可能性に満ち溢れている姿です。六年後には、背中にチョコンとのせられるほど、体が大きく成長しているのが、興味深いのです。
もう一つは、「重荷」を負う人の姿を象徴しています。徳川家康は、次の様に言いました。
『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。』
まさに、当を得た人生訓です。ところで、イエスさまは、重荷を負いかねたら、『わたしのところに来なさい。』と言われました。一人では負い切れない重荷があるのを知っておられるからです。人の孤独や生きづらさの問題です。そんなに難しい重荷や課題、そんなに多い重荷や問題が分かっていてくださるのです。
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中国の華南の街の朝な夕なの風景は、お爺ちゃんやお婆ちゃんが、小学生を送り迎えしていて、孫が負うべきカバンを、年寄りが背負って後をついていくのが見られて、不思議に思ったのです。《長幼の序(孟子の勧めた訓戒)》の中国で、『こんなことでいいの?』と、いつも思っていました。しかもお昼に送り迎えに行き、下校時にも迎えるのです。
この幼い友人は、どんな重荷を負いながら大人になっていくのでしょうか。このお嬢さんには〈行く道〉、私たちには〈来た道〉ですが、その重荷を負って、一緒に歩んでくださるお方がいると言う約束です。それは、小麦を食べるヨーロッパや中近東で見られる光景ですが、二頭の牛が小麦を挽いたりする時に、牛は「軛(くびき)」に繋がれて、同じ方向に、同じ速度で歩きながら、小麦を粉にします。そうすると、きめの細かな小麦粉ができるそうです。
私たちの《軛の相手》が、イエスさまだと言うのです。私の歩く速さに合わせて下さるし、速く歩く必要のある時は、無理なく導いて下さるそんな、《軛仲間》なのです。私は、もう長く、そうしていただいて歩いて来ました。足が腫れることも、傷付くこともありませんでした。歩けない時には、このお方が、背負ってくださったのを感じたものです。
ここまで来るのを長く感じた道でしたが、実際には、ほんのわずかな道のりだったなあと、今になって思うのです。そうして今の地点があります。もう少し行かなければなりませんが、ご一緒くださるお方がいて下さるのは、なんと感謝なことでしょうか。
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