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 「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。」、「私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(伝道者の書1章4節、9章11節)」

 華南の街から帰国時に、家内に、綿の肌着が欲しいと言われた私は、渋谷の街で探したのですが、見つかりませんでした。 『お父さん、若者の街の渋谷で、綿製品を探したってダメ!』と次男に言われて、『巣鴨に行ったらあるかも知れないよ!』と言われたからでした。そこは「おばあちゃんの原宿」と呼ばれているのだそうで、旧中山道の通りに、有名なお寺があって、そこに参拝に来る客が利用してきた、古くからの商店が並んでいて、店を出していたのです。

 そこに洋品店が何軒もあって、一軒の店で綿製品の棚があり、そこに家内に頼まれた物を買ったのです。人ではなかったのですが、欲しかった物との出会いがありました。何と、家内の下着を買うような旦那(だんな)なってしまった、いえ、家内の下着を買わせてもらえる旦那に、やっとなれたわけです。お店の女主人は、『もう綿製品は人気がないんです。おばあちゃんたちも下着にお洒落をするような時代になって、今では・・・』と、随分売り場面積が縮小した理由を言ってくれました。

 家内のこだわりは、”グンゼ”なのです。家内曰く『生地も糸も綿なのは、グンゼだけ!』で、そんな拘りがあるのです。貧しい家庭に育った母は、高等小学校を出ただけで、女学校や大学に行きたくても行けなかった様です。母の生まれた街には、1923年(大正12年)に操業を開始した「郡是製糸株式会社出雲工場」があって、そこに勤めたと言っていました。1970年には製糸部門を閉鎖し、2015年には全面閉鎖をしています。

 <昔ながらの馴染みの好い商品>は、国内では、ほとんど生産しなくなっているのでしょう。中国やバングデッシュの合資会社で生産している時代で、現代、有名なアパレル企業が大量に、こちらで生産してると聞いています。二度目に巣鴨に言った時は、家内と同伴でした。その時、また訪ねた店では、その売り場面積は、さらに少なくなってしまっていました。.
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 「あゝ野麦峠」という本を学校に行ってた頃に読みました。岐阜の奥飛騨の農山村の貧しい村から、幾つもに峠を超えて、諏訪や岡谷にあった製糸工場に働きに出たことのあるみなさんに聞き取り調査をして、書き上げた物語でした。群馬の富岡製糸工場でも、殖産興業の勢いで、同じような官営の製糸工場があって、多くのお嬢さんたちが働き、それで外貨を得て、日本は増強して行ったのです。

 そんな歴史を、一枚の肌着は、現在に伝えていることになります。母も大きな製糸機の前に座って、その糸車の回る騒音の中で、糸を繰っていたのでしょう。そのようにして、十代を過ごした母から、私たち兄弟四人は生まれたわけです。それで、今、私はここにあるのです。

 時は、さまざまな始まりと終わり、新しい始まりを刻みます。母の働いた工場跡地に、今では、北陸から展開しているスーパーマーケットが建設されて営業していると、報じられていました。中国の新疆ウイグル地区で、日本の企業が使う綿製品のための綿(わた)を提供し、綿糸や綿製品を作る工場を利用している様です。海外依存度は、ますます増しているのですが、年少労働者の労働条件や問題などが取り上げられて久しいのでが、人権問題も取り沙汰されています。

 自分は実業界で働く様な人生設計を持ちませんでしたが、企業の使命というのは、その利益を、社会に還元することにあると、常々思って来ました。基金を作って、例えば綿産地で働く子どもたちに、学ぶ機会をもたらす教育基金、奨学基金などを作るべきだと思っています。素晴らしい意欲を持った子どもたちに、機会を開くことができるからです。

(グンゼの製糸工場、野麦峠です)

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