仰いで思い出す先生
懐かしさを思い起こさせ、感謝や恩義を覚える歌があります。私たちの時代に、卒業式に歌った、ちょっと季節外れの「仰げば尊し」です。意味がわからない歌詞があったのですが、長年教えていただいた先生への感謝や敬意の思いが綴られているのは分かったのです。
🎶 仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾し(とし) この年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば
互いに 睦(むつみ)し 日頃の恩
別れるる後にも やよ忘るな
身を立て 名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば
朝夕慣れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば ♬
ここに出てくる「さらば」と言う、別れ際に用いる言葉があります。映画で、鞍馬天狗が、角兵獅子(大道で芸をして謝礼を得る子どもで多くの場合孤児や捨て子でした)の杉作のもとを去っていく時に、『さらばじや!』と言ったのを覚えています。
まさに人生には、多くの「別れ」があります。親との死別、好きな女性との別れ、恩師との別れ、級友との死別、恩ある人との死別、これまで多くの別れの時がありました。歳をとるにしたがって、その機会が多くなるわけです。
それでも一番悲しかったのは、二親との別れでした。父の腰から出て、母の胎に宿った自分が、生を受け、育ててくれた父と母には、感謝な思いばかりの今です。
さらに、私には、感恩を謝したいと願う方が三人おります。一人は外山先生、田舎から転校してきた私を小学校2年の2学期から担任してくださった方です。幼稚園も行かず(山奥でなかったからですが)、病気がちで登校日数の極めて少なかった私は、登校した日には、嬉しかったのか、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。
今で言う多動性の問題児だったのです。国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音を、『電車の切り替え線で起こる音です!』と答えた私を聞いて、『よく分かったわね!』と、山内先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことに違いありません。
もう一人は、中学の三年間担任をしてくれた大机先生です。髪の毛が薄くて、明るい目を眼鏡の下に見せていた方で、社会科を担当していました。この方は、朝礼や終礼、授業の開始と終了時に、挨拶を交わす時に、私たちが立つ床に降りて、深く頭を下げていました。
『まだ産毛の残る私たちを、一人の人として敬意をもって接してくれている!』と思わされたのです。そんな経験から、教壇に立つ機会が絶えられた時に、この先生に倣って、初めと終わりの挨拶を致しました。三つ子の魂、60までですね。
さてもう一人は、アメリカ人の宣教師です。狭量で、井の中の蛙のような、日本主義に凝り固まった小生意気な私を、世界に通用するひとりの人間に矯正してくれたのです。一民族の優秀性を棄て切れずにいた私に、すべての人種・民族・国家が独自の優秀性を持つことを教えてくれたのです。妻の愛し方もです。どう考え、どう思索し、何を構築すべきかもです。
つまり、聖書の読み方や解釈の仕方だけではなく、《人間》を教えてくれたと言えるでしょうか。この方は、先生と呼ばれることを固辞されたのですが、敢えて私は言葉を変えて、「恩師」と呼びたいのであります。2002年に召されたのですが、年月が過ぎていくに連れ、この方への感恩は増し加わるのです。
『あなたなら、この教えを理解してくれるでしょう!』と言われて、彼の書き表したチャートとビデオを、渡されたのです。自分には、歯が立たないと、長くしまい込んであったものです。間もなく、読書の秋に、このチャートを紐解くのは、時宜を得たことのように思えてなりません。彼の夢・幻の追随者でありたいと、改めて身を引き締めて覚悟を決めた朝であります。
『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(新改訳聖書 ヨハネ14章26節)』
さらに、三で一つの神でいらっしゃって、第三位格の神さまである「聖霊」は、教師であるのです。学んだこと、聞いたこと、読んだことなどを、必要な時に思い起こさせてくださるお方です。そればかりではなく、聖霊なる神ご自身が、教えてくださったり、禁じたり、静止したり、促してくださるのです。
教え導いてくださった方々は、もうおいでになりません。様々な場面で、窮したり、困惑したり、悩んでしまい、不可解な事態に直面した時に、誰に聞いたらよいのでしょうか。聖霊は、「助け主」でいらっしゃって、その意味は、「あなたの傍(かたわら)におられるお方」なのです。私たちを励まし、訓戒し、責め、「真理」が何かを教えてくださいます。救い、罪、再臨、終末など、私たちの経験、学び、常識、そして知性を超えた領域の不理解なことを、理解させてくださいます。
傍にいらっしゃるので、あの先生たちに質問した時の様に、「聞く」なら答えてくださるのです。『これが道だ。これに歩め。「旧約聖書 イザヤ30章21節)』と言ってです。『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから・・・』語られる声を聞くことができるのです。
今日も、その声を聞きながら一日を過ごしたい思いでおります。未曾有の暑い日が続き、想像を超えた雨量の雨が降り、時々地が揺れていますが、私たちの責任は、今日を生きることです。明日の心配をしないで、今日です。「明日は明日自身が思い煩う(マタイ6章34節)」ので、今日を感謝して生きようと決心したところです。
(Christian clip artsのイラストです)
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一時の慰めの開花が
こんなことのあった昔に
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「戦場のピアニスト」の映画を見た時に、衝撃的だったことは、ホロコーストの過酷さ、そうせたナチスの残忍さ、ここまで堕ちるかの人間の罪だったのです。それは、戦争という悲劇、独裁者の狂気でありました。そんな時代に、主人公のスピルマンが、ドイツ軍の将校の要請で、ピアノを演奏した後に、そのご褒美ででしょうか、食べ物運んでもらう場面があったのです。それを貪るように食べる様子は、私には圧巻でした。どんなに人の善意に触れて、心にも胃袋にも美味しかったことでしょうか。
ユダヤ人であるが故に、ゲットーに幽閉され、両親や兄妹は収容所送りにされて、ナチス崩壊後に知るのですが、家族全員が殺されてしまっていたのです。彼は、そのゲシュタポの手から巧みに逃れ、生き延びます。同情して助けてくれる、何人もの人と出会って、考えられない様な方法で匿(かくま)われるのです。
戦争の終盤の時期に、廃墟となった瓦礫の中で、食べ物を探し回り、やっと缶詰を見つけます。でも、缶切りがなければ開けられません。そんなことをしている間に、一人のドイツ軍将校に見付けられてしまうのです。職業を聞かれた彼は、『ピアニストです。』と答えると、演奏するように言われて、2年ぶりにピアノの前に座って、躊躇しながら、ショパンの作曲の「バラード第1番 」を弾きました。
※演奏
ご子息のお話ですと、実際は、20番だったそうです。映画のこの場面は、実に感動的でしたし、戦争が終わって、解放をを大喜びする場面も素敵なのですが、その将校が、手にライ麦パンとジャムと缶切りを持って再訪するのです。それを貪るようにして食べる様子が、強烈でした。人にとっての苦痛の一つは、「空腹」とか「飢餓」ではないでしょうか。
四字熟語に、「同病相憐(どうびょうそうれん/同病相憐む)」があります。その意味は、『同じ病気に苦しむ人々が、互いに同情し合うこと。また広く、同じ境遇で苦しむ者同士は、互いになぐさめ合うことをいう。』と、goo辞書にあります。同じ境遇で、同じような経験をさせられると、共感を覚えて、近しい連帯みたいな思いにさせられます。
同じような経験はしないでも、相手の痛みや苦しみを、自分のことのように思って、同情する人もおいでです。後になって、この将校の名が、ホーゼンフェルト大尉であって、ナチスではなく、ドイツ国軍の将校でした。逃亡ユダヤ人のスピルマンに、彼は敬語で話しかけているのです。日本語字幕には訳出されていません。戦後に生まれる、ご子息の著した、「シュピルマンの時計(小学館2003年刊行)」に、そうありました。
自分は、原因を忘れてしまいましたが、小学生の頃に、父にこっぴどく叱られて、家に上がらせてもらうことができませんでした。夕方、遊び疲れ、それで腹ペコでした。夕食を食べられずに、家を出されたのです。家の周りをウロウロしてると、勝手口から、母が呼んでくれました。丼にご飯、その上に味噌をのせてくれたのを、三和土(たたき)の上に膝をついて、もちろん父の目を盗んで貪り食べたのです。
あの夕飯ほど美味しく食べた記憶はないのです。それで。丘の林の中に入って、枯れ草を集めて床にし、野天で、お腹はいっぱいになっていても、涙ながらに寝たのです。どう許されたか覚えていません。そんな父でしたが、渋谷に連れ出してくれて、ロシア料理店で食べた子牛のシチュウも、黒パンも美味しかったのです。その父に叱られて、そっと差し出してくれた母の味噌飯が、記憶の中の一番のご馳走なのです。
だから、家族全員を失った、孤独のスピルマンの空腹が、自分にには理解でき、共感したのです。ワルシャワの放送局の専属ピアニストだった彼が、ユダヤ人狩りで、思いもしなかった日々を送る中、『発狂せずにいれたのは、苦境の中で、口ずさみ、指で鍵盤を叩く仕草をしたことだった!』と語る父の言葉を、その著作に、ご子息のクリストファーは記しています。
人間性や尊厳を保ち得た事実を、スピルマンの内に流れる、ユダヤ人の血でしょうか、歴史を支配される神、その神に選ばれた民族の強さ、高貴さを感じるのです。ご子息が、私たちが住んでいた街の隣町で、講演をされて、家内と高校生の姉妹と一緒に聴きに行きました。もう数十年も前のことになります。夏が来ると思い出す、もう一つ二つの出来事なのです。
(ウイキペディアによるワルシャワのユダ人ゲットー、クリストファーの著作です)
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今朝の朝顔!
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朝顔の 三日に一輪 軒の下
大陸から、遣唐使が持ち帰ってきた物の中に、「朝顔」の種がありました。その種に始まる日本の朝顔ほど、庶民に愛され続けた夏の花はありません。何年も何年も、種子から育てたのに、今年の花数の少なさに驚いています。7月の気温の高さのせいでしょうか。
街中の山車会館の裏手の花壇にだけ、たくさん花をつけた朝顔が見られますが、目にする、庭に朝顔のほとんどが、一輪ほど咲くだけなのです。ちょっと淋しい今季でづが、それでも一生懸命に咲いていてくれます。
江戸の入谷の朝顔市は有名で、朝顔愛好家による品種改良が行われ、咲かせた花を誇り合う伝統が、今に伝えられています。熊本には、「肥後朝顔」の展覧会があって、愛好会まであるようです。
(ウイキペディアによる広重の描いた朝顔、今朝咲の朝顔です)
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2024夏・長崎
人間とは、生きる権利とは
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「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(新改訳聖書 ミカ6章8節)」
憲法の改正を求める声が、有識者の中にある反面、この平和憲法を守り続けようとする声も強くあります。憲法論議は、戦争放棄だけの問題だけではなさそうです。憲法を、どう国民生活に当てはめていくかも大きな課題でもあり、大きな課題をもたらした時期がありました。
私たちの国の福祉行政や社会福祉そのものの遅れが叫ばれていた頃に、私は、学生でした。当時、生活保護を受けるために、実に厳しい査定が行われていたのです。極力、公費の負担を減らすために、支給条件が厳しく、その受給の必要のある人を制限づけていたからです。国の財源も、まだ少なかったからでしょうか。
昭和25年に、「生活保護法」が制定されました。それは戦後の新憲法で、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(第3章25条1項)」の条文から、国民に生活を保護し、幸せを享受するために制定されたのです。
結核にかかって、岡山の療養所に入所していた朝日茂氏は、その生活保護を申請し、毎月、生活扶助と医療扶助として600円を支給されていたのです。その金額で、生活をし、治療をしていくことは、その頃の物価水準からしても、とうてい生活をしていくことができなかったわけです。
1957年に、所轄の福山市の福祉事務所に、給付金の増額を願い出ます。そうしますと、福祉事務所は、お兄さんに、毎月900円の援助をしてもらう様に、通告しました。そんな経緯で、国に対して、扶助の増額の訴訟を起こさざるを得ませんでした。
あの頃、福祉事務所は、そういう対応したのです。親兄弟、親族の助けを求めました。もっと酷い場合は、それは笑うに笑えないのですが、受給者が、岸田さんなら、同姓の岸田さんに、生活の助けを求めるようなやりかたが、行政の指導だったそうです。そんな前近代的な扶助の時代だったのです。
それを「朝日訴訟」と言って、大きな話題となったわけです。戦争が終わって、『この国に生まれ生活する私たちが、健康に、文化的に生きていくために、国が責任をとる!』と謳った「平和憲法」はあっても、実際の国民生活には、まだまだ不十分だったのです。
生活権を主張して、保護費の増額が、裁判所に持ち込まれた頃、今、即位されて天皇となられた徳仁さまのご両親が結婚をされた後、このお二人に、子どもが生まれ様としていた頃でした。福祉や社会事業に関わる方々が、心密かに願っていたことがあったのです。その「密かさ」の中に、切なる願いが込められていたわけです。
それは不敬になることで、戦前では、決して許されないことだったのですし、平和憲法のもと、自由な雰囲気が立ち込める時代の只中でも、公にできないものでした。それだけ財源が乏しく必死な時代だったのかも知れません。でも、国庫にも、各行政府には余剰金は隠されていたのです。
それは、『もし生まれくる皇嗣(こうし)が、障害を負って誕生されるなら、日本の福祉は、大きく変わっていくかも知れない!』と言う切なる願いでした。決して人の不幸を願うのではなかったのです。もちろん心身に不自由をもって生まれることが、即不幸というのではありませんが。『生活苦の朝日さんが、最低限度の生活が保障され、ある余裕をもって、病と戦いながら、幸せであって欲しい!』と願ったからでした。
昭和35年2月23日に、男子が誕生され、徳仁と命名されました。五体健康で誕生されたのです。優しく、思いやりがあり、好感度抜群な徳仁さまでいらっしゃって、素晴らしい人格をお持ちです。皇后雅子さまやご息女の愛子さんに対する、やさしく思いやりのまなざしや行動は、実に素敵で、みなさんから愛され、尊敬を受けておられます。
それだけ、当事者のみなさんは、必死だったということでしょうか。経済大国になって、世界でも有数の豊かな国となった今、戦後間もなく厳しい生活下に置かれたことが、嘘でもあるかの様に、社会弱者への労りが、今生まれようとしています。『生きることとは何か?』を、人と国家に問いかけた裁判でした。
平和を掲げ、幸福を掲げた新憲法の誕生には、多くのクリスチャンが関わっていたのです。聖書の精神が、反映されて、憲法が誕生しているのです。わずかな数のクリスチャンたちが、この社会、この国の良心の礎となっているのは、感謝すべきことかも知れません。預言者ミカが記した神のことば、「公義を行う」ことこそ、国家、国政にあたる人たち、官吏に認められるべきことに違いありません。
(Christian clip artsによるイラストです)
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「初老ジャパン」と小朋友と
華南の街で生活を始めた最初の時期は、師範大学の寮に住んでいました。そこに住みながら、留学生たちのための語学学校で、フィリピン、インドネシア、マレーシア、イギリス、そして中国系のシンガポール人の同級生たちがいて、刺激し合いながら学んでいました。このシンガポールからの留学生は、家庭では、それぞれの中国の出身地(主に福建省からの人でしたが)の方言はできるのですが、いわゆる標準中国語は話したことがなく、そのために短期で学んでいた若者だったのです。
しばらくして、その寮を出て、大学教員のために建てられた「師大新村」に住み始めたのです。お隣りは、退役の老教授の家で、息子さん家族と同居していました。幼稚園に通っているお孫さんがいて、外の庭の石の椅子で、とても難しい漢字を書く練習をしていたのです。日本の様に「ひらがな」がありませんので、そんなに早くから学ぶのです。おじいさんに教えられながら、宿題をしていました。
彼のご両親は、奥さんのことを「老婆laopo」、ご主人は「老公laogon」と呼び合っていたのです。それで教会の中で、家内が、『我的老公・・・』と、私のことを話した時に、『それは使わないほうがいいですよ!』、『我的丈夫wodezhangfu』がよいのだと教わった様です。きっと、「旦那」とか「宿六」とか砕けすぎた表現だったからでした。
「老」は、日本語では、年齢的なことで主に用いるのですが、中国語では、親しかったり、慣れているとか、長い間のといった意味で使う様です。それで、「親友」には、「老朋友laopengyou」と言っていました。
最近の日本では、40歳になりますと、「初老」なのだそうです。平均寿命でしょうか、余命でしょうか、それがご婦人では87歳にもなっている現在なのに、そんな言い方があるのだそうで、自分は驚いてしまうのです。
パリ・オリンピックのニュースが持ちきりの中で、一喜一憂しておいでの方が多そうですが、「若人の祭典」と言われるスポーツ競技大会ですが、参加するのは十代、二十代の選手がほとんどなのです。走ったり、投げたり、跳んだり泳いだりするのは歳を取ってもできますが、競技となると、そうはいきません。
ところが、馬術競技だけは、その平均年齢が高いのです。馬との相性とか、経験の長さが要求される競技で、どうしても年齢が高い様です。今回のパリ大会の馬術団体で、日本チームが銅メダルを獲得したのです。かつて馬術競技は日本得意種目でした。
1932年に、ロサンゼルスで、第10回大会が行われました。馬術の「グランプリ障害飛越競技」では、日本の西竹一中佐が、愛馬のウラヌス号に騎乗して、金メダルを獲得したのです。その時、西中佐は、30歳でした。次のベルリン大会にも、参加したのでが、そこでは入賞できずに終わっています。
1945年2月、アメリカ軍の猛攻の硫黄島で、西竹一氏は42歳で没しています。ロサンゼルス大会での優勝を知っている、多くのアメリカ人に惜しまれた戦死だった様です。私の級友の戦死されたお父さんが、この西中佐の補欠で、オリンピックに参加していたと、彼が話してくれたことがありました。
今回のパリ大会で銅メダルをとった馬術チームの平均年齢は、41.5歳で、最高齢は48歳だったのです。それででしょうか、彼らのニックネームが、「初老ジャパン」だっそうです。この「老」も、ただ年齢が高いだけではなく、経験の豊富さ、落ち着きなどを加味した意味合いで、自らそう名乗った様です。
年齢が高くなった自分も、経験は長いのですが、もう、最終盤の人生競技の段階にあるようです。こちらに来て、知り合ったご家族の一粒種のお嬢さんが、先週も遊びに来てくれました。小学校四年生になっているのです。家内の誕生日のお祝いにでした。お祝い品を持参して、お母さまと一緒でした。まだ、『遊ぼう!』気分で訪ねてくれるのです。まさに、家内と私の「小朋友xiaopengyou」なのです。でも、もう「老朋友」になるほどの間柄になっているのでしょうか。
(ウイキペディアによる西竹一中佐、バルーンで飾ってくれた写真です)
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広島2024夏
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今日日、ウクライナやパレスチナで戦争が行われている最中ですが、1945年に、広島市に原爆が投下された79回目の今日は記念日です。先日、広島を訪ねた次男夫婦が、旅先から送ってくれた、広島市内の写真とビデオです。ハトが写ってるいるのが、とても印象的でした。また、復元された市電が、現役で運行されているのです。
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出て行って休みを得よ
「主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。(新改訳聖書 エレミヤ31章2節」)
人気を保つために、結婚を禁じられ、家庭を持たないまま、隠れた生活をしながら生きなければならない様に、強いられて、そんな慣習に縛られた、「アイドル」とされた男女がいます。心も体も休む暇のない人たちなのです。
アイドルであるために、強いられた生き方を、大人たちにさせられて、人本来の幸せを満喫することもなく、無節操な世界に身を置いたのです。やがて、人気に翳(かげ)りが来ますと、表舞台から去って行き、噂にも上らなくなってしまうのです。もうすぐに、次のアイドルが誕生するのです。きらびやかであった銀幕や舞台のスターたちが、そう言った人生を歩む様子を見聞きしてきました。
みんな大人の都合なのです。大人が生きていくための tool(ツール/道具、手段)、いえ収入源、生活原資を確保するための「ドル箱(円箱と言わないのが面白いですね)」として、人気取りの世界が蠢いています。次から次へ誕生しては、消えて行きます。〈夢を与える〉のに、夢を奪われて、惨めな結末で去っていくのです。
モデルを勧められ、誘われたことも、ないではない自分ですが、その一見して輝かしく見える世界が、実は闇の世界だということを感じたからでしょうか、そに誘いにのりませんでした。あの日に、闇深い金づく、色づくの闇の世界に引きずり込まれないで、打ち勝てたのは、自分が強かったからではありませんでした。私をみちいてくださった永遠の御手であったに違いありません。
芸術だと言いながらも、その内実は、名誉欲や肉欲や物欲の蠢く世界で、若い頃にあった輝きや注目は、年老いて衰え、無理な生活の刈り取りで、身体も心も病んで、人々に忘れ去られ、見る影もなく寂しく去って行った人たちが、数限りなくいます。いつの間にか、輝かしい舞台の上から消えてしまったのです。
お父さんがしていた医者の跡を継がないで、芸能界で生きた一人のスターがいました。映画の世界で、若い頃に、とくに輝いていました。しかし最後は、私が住んでいた街の隣街で、病んで、孤独の内に亡くなってしまいました。往年の大スターでした。上の兄の二級ほど上の年齢でしたが、その70年ほどの生涯は、実際には孤独だったのです。虚構や嘘の世界で、自分でない他人を演じるというのは、観る人には娯楽であっても、演じる人は矛盾を抱えて生きさせるのでしょう。自分を失ったに違いありません。もちろん全ての俳優が、そうだとは言えません。立派な人格者もおいででした。
子どもの頃、街の空き地に、小屋がかけられ、チャンバラの時代劇が演じられていました。男がお白粉で化粧をし、赤い口紅をつけ、黒いクマを目の周りに塗って、かつらをかぶって、尻っぱしょりの着物で、各々、役を演じていました。客席からは、演じる役者の名が呼ばれ、お囃子が流れ、太鼓が打ち鳴らされ、投げ銭が飛んで、全く別世界がありました。
農耕に疲れた村人が、農閑期に、しばしの休みと、近郷近在から呼び集められ、そう高くない木戸銭を払って、夢の様な舞台を眺めて、娯楽を楽しんだ名残が、銀幕の映像が映し出された映画に変わったていったのです。
その映画に、小学生の私は、魅せられてしまったのです。父が転校した旧制中学校に、何級か先輩で、有名な映画俳優がいました。そんな親近感があったからでしょうか、その出演映画が観たくて、隣街の映画館に、週末になると、弟を誘って出かけたのです。チャンバラ映画です。
それに、若くて、これからの映画界を背負って立つ、俳優たちを観たくてでした。ところが、その多くの方が、若くして亡くなってしまいました。無理が原因してなのでしょうか、不摂生な生活を強いられ、奢侈贅沢な生活が続いて、ついに心も滅ぼしたのか、身体を壊し、夢を売ったにしては、ご自分としては、ずいぶんと不幸な一生だったのです。
一度だけでしたが、ある仕事を頼まれて、あの映画俳優や舞台俳優や歌手が、スポット・ライトを当てられて、舞台の上に立ち、歩む姿をライトで追われる様な中を、歩む経験をしたことがありました。そのライトを当てられた時、舞い上がる様な高揚感に包まれたのです。まるでマジックにかけられたかの様でした。人々が客席にいて、自分だけが一人、脚光を浴びていました。
あの気分を味わった私は、一度だけだったのは良かったと、つくづく思うのです。あの舞い上がる様な気分は、今でも忘れられないからです。常にそんな立場にいたら、スポット・ライトが当てられなくなって、銀幕や舞台から去った後の落差は、如何ばかりに大きいいことだろうかと思えたのです。
スーパーマーケットで働きながら、二足の草鞋(わらじ)、三足の草鞋を履きながら、家内と二人で、教会の用と子育てをした日々を思い返し、感謝が尽きないのです。真夜中に、スーパーやコンビニの床清掃もしました。学校に行っていた頃、外資系のホテルのバイトで、ポリシャーを回した経験もあって、それで請け負ったのです。
たくさんの方々の助けで、その事業を始めましたら、『他の支店もして欲しい!』とか『コンビニでもして欲しい!』と頼まれ始めましたが、会社組織は作らなかったのです。自分に与えられている時間を、正しく管理する必要を感じていたからです。それでバイト感覚でやり続けました。子どもたちの教育費をそれで捻出したのです。20年近く、それを続けたでしょうか。使徒パウロが、天幕づくりをしながら、宣教活動をしたのに倣って、清掃の仕事をしたことは感謝でした。
そうやって、伝道者として過ごした日々を思い返して、決して guilty (罪悪感でしょうか)に責められることなないのです。その働きが、社会的に評価され、感謝されたからでもありました。家に帰って来た子どもたちも、一緒に働いて、助けてくれ、子どもたちの学業が終わる頃には、その事業も終わったのです。
まさに「万事あい働きて益」であったと感謝したことです。「わが生涯に悔いなし」と今、深く思わされております。ワックスの注文を忘れてしまった夢を、今でも、時々観るのです。そんな私で、もう何もしない様な今も、あの頃と同様に感謝が溢れ、喜べるのです。
オランダの歴史学者のホイジンガーが、「労働と遊びの両立」を、その彼の著書で言っていました。月に2度、真夜中の労働は、実は辛かったのです。でも親の責任を果たすために、また同労の働き人の生活援助のために、献金のためにも頑張れたのです。疲れ切って、白む朝を迎えた日々が懐かしく思い出されます。
その街には、山際に日帰り入浴施設が多くあって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉もありました。あの湯につかりながら眺めた光景は、感動的で忘れることができません。ちょうど真冬の季節の厳冬で、凍てつく日が続いていた日だったと思います。春の新緑、秋の紅葉、自然に触れて力付けられた、あの一息つく時々、「遊び」があって、生活にリズムや休息が与えられていたことになります。けっこう質の素敵な生き方だったかなと、そんなことを思い返して、自負している今であります。
(ウイキペディアによる熊本の古閑の滝の氷柱、チャンバラごっこです)
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