<富士山の隣りに夕日が見られる部屋>を、昨日は訪ねました。家の玄関からは、奥多摩も秩父も丹沢も遠望でき、スカイツリーも見えるのだそうです。学校時代に山が好きで、山仲間とよく歩いた山々を眺めながら、余生を生きて行くのでしょう。私の弟は、好い買い物をしたのです。昨年11月に、自分の誕生日に引越しを済ませたと言っていました。形あるものを、子どもたちや孫に残すことは、良いことだと思いました。長く教師として教育に携わって、心血を捧げてきた彼の永年の汗の結晶の有形の一つなのです。
新築でしょうか、転居になるのでしょうか、その「お祝い」に出掛けたわけです。駅前のスーパーで食材を買って、そこまで迎えに来てくれた弟の車で、連れて行ってもらいました。その11階の玄関で、『あそこに見えるのが・・・』と、その眺望を解説してくれたのです。家内が作ったのは、少々、季節遅れの「お雑煮」でした。彼には珍しくないのですが、『美味しい!』と三人で食べました。帰国する私たちに、『これお土産に持って帰ってください!』と友人が家に届けてくれた、高級中華食材の<干し鮑>入りでした。
奥さんを病気で亡くして十五年、男手一つで三人の子を育ててきました。仕事帰りに食材を買って、賄いをし続けての年月でした。実に良くやってきています。再婚の話も多くあったのですが、顔を縦に振らずに、これまで一人で生きてきたのです。一昨年召された母が、末の息子で可愛いのでしょうか、元気な頃には、針仕事やおかず作りとか、何かと手助けをしてきたようです。今は故あって、可愛くて仕方がないと相好を崩し、また厳しく孫の世話をやいています。学校から戻って来た孫ベーに『はい、ピアノ!』と言って練習をさせていました。第二回目の<子育て>でしょうか。そのピアノの上に、四人兄弟の嫁の中で、最美人の義妹の微笑んでいる写真が置いてありました。退職後も、同じ職場に一室、一つの机を与えられ、週三日ほど出かけては、後輩の相談にのったり、学生の世話をしているのです。
この家の一間は、実は、家内と私の帰国時のための<宿舎>なのだそうです。車も蔵書も家も所帯道具も、一切を処分して出掛けた「レカブ人」、旅人然として生きている私たちのために、引き上げて来た時に住むことも考えていてくれているのです。そう思っていてくれる彼の気持ちが嬉しくて、どんなに励まされていることでしょうか。そう言えば、小さい頃に、父に叱られて、家から追い出されると、一緒に出てくれ、一緒に泣いてくれたのが、この弟なのです。六十年経っても、意地悪でいじめっ子だった兄貴の私なのに、同じ気持ちを向けていてくれるのです。私の愛読書に、こんなことが書いてあります。
「友はどんな時にも愛するものだ。
兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。」
『夕方になったら、賢ちゃんのところに行こう!』との彼の提案で、彼の孫べーと私たちで、次兄を訪問しました。『今晩はすき焼きだよ!』と言って義姉がご馳走してくれました。お腹をお肉や焼き豆腐、そして愛とで満たしました。弟は、「保護者会」のために早めに帰り、私たちは兄に駅まで送ってもらって帰ったのです。有形、無形の「愛」があるのですね。そんな満たされた一日でした。駅前のコンビニで、<ミートソース・スパゲッティー>を息子に買った宵でした。
(写真は、「奥多摩連峰」です)