イスラエル医療団

  イスラエル医療団、医療機器など寄贈-「新たな志津川病院の基盤に」

 東日本大震災で外国政府が派遣した初の医療団として、宮城県南三陸町で医療支援を行っていたイスラエルの医療チームは4月10日、2週間にわたる活動を 終え、避難所の敷地内の一角に設置したプレハブの仮設診療所を、持ち込んだ一部の医療機器を含めて町に寄贈した。プレハブ施設は今後、津波で建物が大破し た公立志津川病院の医師らの臨時診療所として利用される。

 同チームは医師や看護師、薬剤師など60人。3月28日に来日し、現在も400人が避難生活を送っている同町総合体育館(ベイサイドアリーナ)の敷地内に仮設の診療所を開設。被災者への医療支援を始めた。
仮設診療所は6棟もある大規模なもので、血液検査やエックス線検査を行うための検査機器のほか、ICU(集中治療室)やNICU(新生児集中治療室)並み の高度な医療機器も完備。派遣された14人の医師は内科、外科、小児科、眼科、産科、耳鼻科など、幅広い診療科に及んでいたため、救急患者への手術や妊産 婦の出産にも対応可能だった。

 滞在期間中、同チームは約200人の被災者を診察。今回の震災では、津波で多数の死者が出ている一方、外科的な治療が必要な患者は少ないことなどから、未使用の医療機器もあったという。
 同チームのデイビット・ラベ医師はキャリアブレインの取材に対し、「最悪の事態に備えた上で、最善を尽くすのが災害医療。使わなかったこと自体に問題はない」とし、プレハブ施設を「新たな志津川病院の基盤にしてほしい」と語った。

 外務省によると、イスラエル政府の医療チームが災害支援で日本を訪れたのは初めて。また、ラベ医師の話では、同国の医療団が先進国で災害支援を行った例は過去にないという。(gooニュース・110410)

防人歌

  
  万葉集に、「武蔵国の豊島郡の上丁椋椅部荒虫が妻の宇遅部(うじべの)黒女(くろめ)」が詠んだ和歌(やまとうた)があります。

     赤駒(あかごま)を山野(やまの)に放(はが)し捕(と)りかにて
     多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ

  その意味は、「防人(さきもり)に出かける夫に、せめて馬を持たせたい。しかし、大事な赤駒は放し飼い中だし、あまりにも急な召集だから捕らえている間もない。もう、二度と会えないかも知れないのにあの多摩の横山を越えて難波までの遠い苦労の路を歩いて行かせてしまうのだろうか・・・(安島喜一さんのHPの記事から)」
http://www.asahinet.or.jp/~hm9kajm/musasino/musasinomannyousannpo/sakimorinouta/akakomawo/akakomawo.htm

  これは、「防人歌」と言われているもので、遠く朝鮮半島からの侵入者から国を守るために、今の九州に遣わされて行った夫を想って詠んだ、妻の作です。車も高速道路もなかった時代、『せめて夫には、馬に乗って九州の任地に行ってもらいたい!』と願った妻の切々たる思いが込められています。「防人(さきもり)」を、《gooの辞書》で調べますと、『《「崎(さき)守(もり)」の意》古代、筑紫・壱岐・対馬(つしま)など北九州の防備に当たった兵士。 』とあります。「横山」というのは、どうも多摩丘陵をそう詠んだのではないかと思います。小学校時代に、この丘陵を駆け巡ったことがあります。また、八王子市の中心には「横山町」という地名があり、かつて甲州街道の宿場の1つ「横山宿」からの地名なのです。

  21世紀の日本の国防や復興に当たる人たちも、「平成の防人」といえるでしょうか。今まさに東日本大震災、原発事故といった大試練の只中にある日本ですが、その復旧と復興と放射能拡散阻止のために、遣わされている自衛官、消防署員、警察官、公務員のみなさんを、「東北の防人」、「原発の防人」とお呼びしていいのではないでしょうか。かつては「一銭五厘」の赤紙で戦地に送られたのだそうですが、現代の防人は、志願しての赴任であります。公務への滅私の献身、国難に際しての使命感には、驚嘆し、感動してやみません。かつても防人は、納税義務の一部としての兵役でしたが、現代日本の防人たちは、もちろん公務員ではありますが、給料のためだけではない、人道上の献身をみるのであります。

  こういった時期というのは、実は金儲けに一番の好機なのだそうです。多くの「成金」たちは、人が天災、戦時、疫病蔓延の時期に、莫大な富を築いていることを歴史の中にみるのです。しかし、東日本では、絶好の商機であるのに、多くの商人や経営者が、富の蓄積のためにではなく、故郷の再生のために、顧客に納品するために、また失職した人たちに雇用の機会を提供するために、事業の再興を決心しておられるのを聞きます。素晴らしいことです。日曜日の今日も、ある集いに、南アフリカから来られた方が、本国からのコメントを持ってこられて、それが読まれていました。冷静に沈着に、この事態に対処されている日本への驚嘆が語られていました。そんな日本と日本人を見ているのですね。

  うーん、日本人が忘れかけていた《優しさ》や《思いやり》の思いが復活していることは、エコノミックアニマルと揶揄され、軽蔑されてきた私たちにとっては、起死回生の時であり、祖国愛や誇りの再起の時となっているのではないでしょうか。私たちが誇る祖国のために、多くの国の救援隊の復興支援、物資や募金の寄贈などには感謝の言葉がありません。ことのほか、《アメリカの防人(在日アメリカ軍兵士)》が、外国である日本の災害地での活躍ぶりには、図り知れない友情を覚えてなりません。彼らの妻たちの思いの中にも「防人歌」があることでしょうか。感謝なことであります。

(写真は、熊本県立・鞠智城温故創生之碑「防人」です)

国務


 戦時の責任を負って処刑に甘んじた、名宰相・広田弘毅が、

       風車 風の吹くまで 昼寝かな

と詠みました。性格が温和だったことは、俳句だけではなく、死刑判決文を直立して聞く、その姿にも如実にあらわれています。ですから、外交知識や情報を綿密に収集するといった努力家だったと言われ、出世の野心などないまま、首相に選任されて、責を負ったことになります。広田と正反対な背景から出て、同時代を外交畑で活躍し、広田の減刑を嘆願し、戦後処理にあたり、「ワンマン宰相」 と呼ばれた、吉田茂が、次のような言葉を残しています。

『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり 、歓迎されることなく、自衛隊を終わるかもしれない 。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない 。御苦労だと思う 。しかし 自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは 、外国から攻撃されて、国家存亡のときとか、災害派遣のときとか 、国民が困窮し、国家が混乱に直面しているときだけなのだ 。言葉を換えれば 、君たちが日陰者であるとき、国民や日本は幸せなのだ 。どうか、耐えてもらいたい !』 
 (昭和32年2月「防衛大学校第1回卒業式」吉田茂総理大臣訓示)

  高校を卒業するに当たって進路を考えていた私は、3つの選択肢を考えていました。1つは大学進学、2つはアルゼンチン移民、3つは、自衛隊入隊でした。大学に補欠で入学しまして、南十字星を仰ぐ南米への移民を断念し、海上自衛隊への入隊も果たせませんでした。自衛隊に入るなら、生活が困らない、様々な資格を取得できる、国防意識を満足させられるといったことを考えたのですが。その5年ほど前に、防衛大学の第一回の卒業式が行われ、時の総理大臣/吉田茂が、国土自衛に就く卒業生に向かって、そう語ったのです。

  3月11日の東日本大震災、津波、原発事故の起こる中で、被災者と街の救と支援、事故処理などの職務を、いのちの危険を顧みないで、献身している自衛隊員の姿を見るにつけ、18歳の折の思いがよみがえってきます。私の敬愛したアメリカ人の実業家が、『あなたの家に犯罪者が侵入し、家族に危害を加えようとしていたら、あなたはどうされますか?』と問われたとき、『私は武器を手にとって、家族を守ります!』と答えられたのです。柔和で、平和主義者で、怒りの感情をあらわした姿を見かけたことなど一度もありませんでした。それを聞いた私は、意外なのと納得の思いとが交錯して、しばらくは判断に窮しましたが、やがて安堵と落ち着きを得ました。国を守る国防も、家族を守る愛も似ているのでしょうか。4人の子を育てた私とて、わが子が犯人に打ちたたかれているのを見たなら、その暴力から子を守ることでしょう。

  自衛隊のみなさんの国を守る自衛意識とは、国を形作る国土のみならず、国民をあらゆる想定される敵から守ろうとする国防意識にちがいありません。そのために、平時に厳しい訓練を受けて備えておられるのです。その備えが、今まさに人々の命を救い、命の保持のための食料を運び、瓦礫の山を片付け、放射能の拡散を防ぐため、作業に当たっていてくださるのです。『自衛隊は、穀つぶしで、税金泥棒だ!』と揶揄批判した人を恥じ入らせる、無私の救援に従事されているお姿に声援を送ります。吉田首相の言葉に、私たちの《幸福》を左右する自衛隊の各位に、とくに被災地で国務に当たるみなさまのご無事を、ただただ祈り願う、渋谷の空の下であります。

(写真上は、講和条約締結後寛ぐ「吉田茂」、下は、http://tundaowata.info/?p=8898の「自衛隊のみなさん」です)

危険な株

   
  『若者は安全な株を買ってはならぬ!』という言葉を、どこかで見付けたのは、まだ学校に行っていたときで、就活をしていた頃だったと思います。『将来の安定を約束している職業の選択はすまい!』と決心して、その年も暮れてしまいました。年が開けて、1967年の正月、中学校の《歴史クラブ》で指導してくれて、分倍河原や国領や日野で、古代の住居跡の発掘作業を指導してくださり、また、母校での教育実習の指導をしてくださったN先生から連絡が入りました。『八王子に教育研究所があって、私の昔の同僚が事務局長や課長をしているので、働いてみませんか?』との誘いでした。卒業を前に何も決まっていませんでしたので、履歴書を持ってその研究所に行ってみました。面接を受けましたら、即採用してくれたのです。M先生の紹介があったからでした。 

  その研究所長を、早稲田大学の学科長が兼務されておられ、ことの外、この所長が私に目をかけてくれたのです。この方の弟子で、早稲田で講座を持ち、都内の短期大学で教務部長をされている先生(研究所の研究員でもありました)の口利きで、この短大の付属高校の教員にと招いてくださいました。それで研究所で3年勤務した後、その学校で働き始めたのです。三流大学卒の私でも、そういった人脈に恵まれますと、将来は大学の教壇に立つことができるようなレールが敷かれたのです。そのレールに乗るために、「論文」を書くように勧められ、その準備にとりかかった頃に、熊本で働いていたアメリカ人実業家を訪ねました。その訪問時に、『一緒に働きませんか!』と招かれたのです。《安全な株》を手中にしていた私ですが、あの『若者は安全な株を買ってはならぬ!』という《座右の銘》を思い出しました。この方が招いてくださった事業は、将来が見えないものでしたが、やり甲斐のある仕事、使命感を湧き上がらすものであったことは事実でした。それで、私は、二つ返事で了解を伝えたのです。

 その受け次いで三十数年従事した仕事を、他の方に委ねて、2006年の夏に、中国に渡りました。私の決断に賛同してくださった友人や先輩や家族から、その新しい歩みのための資金が寄せられたからです。今40年前の決心を思い返し、2006年の決断を想い、悔いがまったくないのです。私たちには、家もありませんし、寄せられた貯蓄もわずかですが、それでも《心は錦(そんなフレーズの流行歌が昔ありましたが)》なのです。中国に参り、天津で1年間語学勉強をしました後、華南の1つの街に導かれました。こちらに参りましたら、何の伝手(つて)もなったのですが、中国人の中に友人たちができ、彼らの紹介で、ある大学で日本語を教える仕事が与えられたのです。子どもというよりは孫の世代の学生のみなさんと一緒に学び合いながら、5年間で断念した教育者の道に再び立ち返り、キラキラした眼差しをぶつけてくる彼らに、こちらも真剣で応答させてもらっています。

  昨秋、家内が病み、地元の病院(戦前にイギリス海軍が持っていたものです)に入院し治療を受けました。退院後、中国漢方医の治療を受けましたが、私の授業と期末試験が終了しましたので、1月中旬に帰国し、東京で治療を継続してきました。2月になって、私の帰国日の翌日、家内の病気の再発、即入院、治療、手術ということになってしまったのです。14日のフライトを予約していましたが、『あなたの人間ドック(家内の病気で心配した子どもたちから、『どうしても検査を受けて!』と言われて、やむなく受けました)の検査結果が、2月15日ならないと出ない!』とのことで、ひと月中国に戻るのを延期していたのです。延期して検査結果が出ましたその晩に、家内が突然激痛に襲われ、救急入院をしましたから、人間ドックの検査のおかげで、再び激痛に見舞われた彼女のそばにいて看病することができた次第です。
  
 次男の家で術後の静養をして、日柄良くなってきている家内ですから、最終予約の4月20日の飛行機で、私は一先ず、中国に戻ることにしています。そんな今朝、読売新聞の「編集手帳(4月1日付)」を読みましたら、あの《座右の銘》は、異質の詩人、ジャン・コクトーが言った言葉だということを知ったのです。東日本の大震災、福島原発事故の復興や復旧事業に従事している自衛隊、警察、各自治体職員、NGOのみなさん、あらゆる分野からのボランティアをされているみなさん、東電職員、さらには諸外国から駆けつけてくださった救援隊等のみなさんが、《危険な株》を手にして奮闘しているのを見るにつけ、さらには年老いた母のことを思うにつけ、中国への帰巣には、後ろ髪が引かれますが、これも導きかと思うのであります。昨晩も、強烈な余震が、次男のマンションを揺り動かし、『お父さん早く出よう!』という次男の呼びかけに家を出ました。原発の汚染もあり、『うーん?!』、と戻るのに迷うのですが、貧しく弱い者を、これまで導いてくださった《牽引の糸》を感じていますので、この糸に身と心を任せることにしましょう。最善がなることを信じて!

(写真は、http://nicovip2ch.blog44.fc2.com/blog-entry-2230.html所収の「自衛隊支援」です)

心の制服


「乗っていたのは3両目。どの電車かわからない」。津波で崩壊した駅に立つ吉村邦仁巡査=福島県新地町のJR常磐線の新地駅
  東日本大震災の発生直後、福島県新地町のJR新地駅に停車中の電車が大津波にのみ込まれ た。約40人の乗客と乗務員の命を救ったのは、偶然乗り合わせた2人の巡査。彼らの行動を後押ししたのは警察学校で学んだ「制服を脱いでも『心の制服』は 脱ぐな」という教えだったという。
  相馬署地域課の斎藤圭巡査(26)と吉村邦仁巡査(23)。1年前に巡査拝命。震災当日は福島市の警察学校から相馬署に赴任中でスーツ姿だった。
  電車が揺れた。乗客は20~70代の約40人。吉村巡査は「肝が冷えるような揺れだった」。乗客の携帯電話のワンセグテレビ機能から大津波警報が流れていた。
  斎藤巡査は乗務員に「私たちは警察官です」と手帳を見せ、2人で乗客に「役場まで避難しましょう」と声をかけ続けた。「警察官として何をなすべきか」「誘導した後、もし津波が来なかったら…」
  多くの思いが心をよぎったが、余震で車両がゆがみ閉じ込められないようすべてのドアを手動で開け、約1キロ山側の高台にある町役場へ誘導した。吉村巡査は「『大丈夫。家族が来るから駅で待つ』というおばあさんを懸命に説得した」。

  役場に着き背後を見ると「不気味な大波が車や建物をのみ込んでいく。正直怖かった」(斎藤巡査)。半信半疑だった乗客もすさまじい形相で悲鳴を上げた。
  現在、斎藤巡査は相馬港に近い尾浜地区で行方不明者の捜索を続けている。駐在所も流された。「普通に暮らしていた方が突然津波にのまれた。冷たい水の中にいたご遺体を家族に引き渡すたび、悲しみを抑えられない」と話す。
   新地駐在所で捜索を続ける吉村巡査は、建物も田畑も消えた一帯を見つめ「もう以前の光景は思い出せないが、『俺たちも頑張るからおまわりさんも頑張ってくれよ』という住民の声に元気をもらっている」。
   相馬署の生田目剛次長は「涙を流しながら訪れてくる乗客や礼状が相次いでいる。ベテランに劣らぬ判断で使命を果たした」と話す。2人の志望は、刑事という。(msn産経ニュース2011.4.7 19:57 ・中川真)

自粛


  「遠慮」、「奥床しい」、「自重」、「我慢」という、自己を規制している言葉は、日本人の感情表現や生き様を、的確に言い表わしているといえるでしょうか。そういったものを強いられ培って、忍従して生きてきた国民性を言う言葉なのでしょうか。島国で、農耕民族の私たちは、今年の収穫の中から、来年の植え付けのために、もし飢饉になったら、さらに2~3年後の蒔種のためにも、「種」を備蓄しておかなければならなかったわけです。蔵や洞の中に蓄えたら、狩猟民のように生活の基地を転々とさせて移っていくことはできません。農耕民族の我慢強さ、飢饉や貧乏などに耐えられる遺伝資質が備わっているのです。

  それで自己主張を強くしないで、『長いものには巻かれろ!』という人生哲学をもって、穏便に生きてきたのが、私たち父や祖父や曽祖父だったのにちがいありません。物が豊かで、機会にも恵まれた忍耐力のない私たちの世代の生き方とは違って、強靭な精神力を持っている世代なのでしょう。終戦後、軍需工場のあった中部山岳の山村から、東京に出てきた時の父を写した一葉の写真が、母の写真帳の中にありました。目の映るようなオジヤでしょうか、スイトンでしょうか、そんなモノしか口にできなかったそうですから、恰幅の良かった父とは別人の様な姿が映されていました。養育を委ねられた四人の男の子のために、戦中戦後を生き抜いて、食べ物や着るものを整えてくれた父の在りし日の姿なのです。

  『欲しがりません、勝つまでは!』というスローガンも、戦争中にはあったと聞きます。一億が、飢餓の中で耐乏を強いられていた時代、黙して争わず、そう要求されても、じっと唇をかんで生きていたのだそうです。そういった遺伝質を、この時代の私たちも受け継いでいるのでしょうか。3月11日に起きた大震災と大津波、それにともなう福島の原発の放射能漏れ事故、建国以来の大試練の中で、黙々として耐えている被災地のみなさんの様子に、世界は驚きの声を挙げているのです。そうやって耐えている大人を見て、『最近の子ども、若者は・・・!』と酷評されている若い世代も、それに倣っている様子には驚かされるのです。

  そんな被災地のみなさん、日本人をご覧になられて、 米紙、ニューヨーク・タイムズは、『津波後の日本は自粛という新たな強迫観念に襲われた!』との見出しの記事を掲載していました(3月27日付)。「自粛」とは、[名](スル)自分から進んで、行いや態度を慎むこと。『露骨な広告を業界が―する』」とyahoo辞書にあります。国や国家権力に強制されるのは「自粛」ではないのですが、暗黙のうちに「自粛」が要求されることは賛成できません。被災地の困難を考えて、自分の行動を律するのは《美徳》だと信じます。日本という文化と伝統の中で、培われた高い心の資質、人間関係の術(すべ)だと思われます。でも、《自粛》が呪縛のようになってしまったら、これも問題なのです。馬鹿騒ぎをしないで、尋常ではない華美に走らないで、生活を楽しむことは決して悪だとは思えません。十年も子どもに恵まれなかった夫婦に、赤ちゃんが与えられたら、『東北地方ではみんなが悲しんでいるのだから・・・!』と言って、生まれてきた赤ちゃんを喜び楽しまないとしたら、これは異常なことではないでしょうか。

  どこかに喜びの歓声が上がったら、それが反響し共鳴して、四方八方に喜びがまき広がっていくのです。東京や神戸や博多の喜びが、東北地方にコダマしていくなら、東北人は、それを嫌わないでしょう。かえって共に喜んでくれるはずです。《喜び方》の問題なのではないでしょうか。私は、家内の退院を喜び、友人や家族の喜びを共有し、四十周年記念の3本のローソクの点ったケーキを、「遠慮」も「自重」も「我慢」もしないで、実に美味しく頂きました。もちろん自粛もしませんでした!

(写真は、ヒラメキワークスの「自粛のTシャツ」です)

 
  《風評被害》、goo辞書によりますと、「根拠のない噂のために受ける被害。特に、事件や事故が発生した際に、不適切な報道がなされたために、本来は無関係であるはずの人々や団体までもが損害を受 けること。例えば、ある会社の食品が原因で食中毒が発生した場合に、その食品そのものが危険であるかのような報道のために、他社の売れ行きにも影響が及ぶ など。 」とあります。

  もちろん、『健康被害となる食品をむやみに食べたり飲んだりしても構わない!』というわけではありません。次の時代を生きなければならない、幼気(いたいけ)のない子どもたちの健康保持の配慮も、決して忘れてはなりません。でも生産者の悲痛な顔をテレビの映像の中に見、語る言葉を耳にしますと、実に辛い思いがしてまいります。農産品に被害があるということは、生産地と生産農家にも被害があるということになります。生産者みなさんは、そういった環境の中で生活をしているということになります。先祖から受け継いだ土地を離れられないで、耕し続け生産してきた地での生業(なりわい)を、そう簡単には捨てて離れることなどできないのでしょう。

  家内の入院と手術を終えて、今、次男の住む代官山の家で過ごし、家内の恢復を見守っています。次男が、こう言った東北大震災での原発事故の放射能飛散や余震が続くといった異常な現況の中で、母親と私を守ろうとしてくれているのです。この様な役割というのは、父親の私の長年の務めであったのですが、今や自分の子が細かく配慮してくれて、役割を引き継いでくれていることは、なんと言って表現していいのか言葉が見つかりません。《青春の蹉跌(さてつ)》というのでしょうか、思春期に辛い経験をして、今、三十歳になる次男が、人生の山や谷を超えて、東京のど真ん中、日本のIT産業の中心地の一角に本拠地を移して、借りた部屋で自営の仕事を始めているのです。その決して広くない部屋に、私たちを受け入れていてくれることは、彼のために幾度となく涙を流し、手を合わせて祈っていた家内にとっては、どんなに大きな慰めと励ましでしょうか。

  小さな彼のベッドで、家内と休んでいるのですが、三日前の夜中に膝を出したままだったので、『膝が痛い!』と言いましたら、芳香を放つ入浴剤を入れて風呂をわかしてくれた彼が、『お風呂に入って!』と勧めてくれました。昨晩、放射能汚染に関わり危機管理を訴える講演会から帰ってきて、『放射能に汚染された葉物は食べないようにね!』と注意してくれました。なんども死に損なって、おつりとか余分を生きていていると思っている私に、そう言って注意を喚起してくれて、『生きよ!』というメッセージを発信してくれているのです。実に嬉しいかぎりです。

  この2月に、勤務地の中国に戻る予定でしたが、家内の胆石治療、私の「人間ドック」での精密検査の必要を告げられての航空券を変更しての残留、その検査が『問題ない!』との結果が出た日の夕食後の家内の緊急入院、治療、退院、再入院による摘出手術で、日が過ぎてしまいました。もう4月、結婚4四十周年を次男の家で迎え、長男家族が訪ねてくれ、買ってきてくれたケーキで祝ってもらいました。なんと、孫たちが、《ハッピーバースデイ》を歌ってくれました。そういえば、結婚生活の中で与えられた4人の子どもたちが誕生したのですから、「結婚記念日」のこの歌は的外れではないことになります。20日に私だけで中国の戻り、今後のことを考えたいと思っています。残る家内は、息子たちが世話してくれますので、安心しています。遠くにいる娘たちも、『おいでよ!』と招いていてくれますが。

  未曽有の日本の現状のもとで、生活の中には余震への恐れ、生活の不安、将来への憂慮などがあります。そんな中で、『困難に強いDNAを、本人は受け継いでいます!』と、テレビで語っておられた東工大の先生の言葉が思い出されます。風評に惑わされない正確な情報を、次男が収集してくれて、その都度知らせてくれます。そんな彼に感謝している、満開の桜の卯月の東京であります。

(写真は、長右衛門の壁紙の「桜」です)

改変


北京春秋 応援のメッセージ

 東日本大震災で被災し、仙台市内のビルの屋上で立ち往生して約8時間後に救出された中国人女性の手記が中国のインターネットで話題を集めている。
  「約80人で救出を待っていた。私が貧血で倒れそうになると、赤ちゃん連れの主婦が粉ミルクを分けてくれた。駆けずり回って水を探してくれた若い女性もい た。…みんなの携帯電話のうち、つながるのは2つだけだったが、中国人の私に真っ先に使わせてくれた。その後、行列をつくり1人ずつ家族に電話をしていた」と救出までの様子を紹介。「私を支えたのはミルクではなく、彼らの優しさだった」と日本人への感謝の気持ちをつづった。
 この手記は多くのサイトに転載され、「感動した」「がんばれ日本人」といった感想が数多く寄せられた。震災以降、中国のネットで定番だった反日的な書き込みが減少し、このような日本応援のメッセージが急増している。
  中国政府の愛国主義教育やテレビで毎日のように流される抗日ドラマにより、旧日本兵の残虐ぶりをたたき込まれている中国の若者たち。ただ今回は、メディア の震災報道やネット情報などを通じて、秩序を守り、他人を思いやる日本人のありのままの姿を知ることができた。それが善意のメッセージ急増の原因に違いな い。(矢板明夫/msn産経ニュース・北京春秋・110405)

(写真は、中国の世界遺産、「万里の長城」です)

信頼


避難所から分けてもらった食料品を受け取る住民たち=南三陸町志津川大森東、日本大震災から3週間余りがたった被災地では、避難所に物資が行き渡り始める一方、大津 波の直撃を免れた自宅で暮らす「自宅避難民」への支援が課題となっている。避難所暮らしの人よりも物資が不足しているケースもある。壊滅的な被害を受けた 宮城県南三陸町で、高台にあったために建物の損壊を免れた集落では、住民たちが厳しい生活環境の中、助け合いながら自宅避難生活を続けていた。(田中一 世)

 南三陸町中心部から約1キロ、がれきに囲まれた道を進んで高台に上がると、外見上は被災の痕跡を感じさせない「志津川大森地区」の住宅街に出る。62世帯268人が今も暮らしているが、電気、ガス、水道はストップしたままだ。

  毎日、午前10時過ぎ、集落の広場に続々と住民が集まり、すぐに70人以上が行列となる。そこに、同地区の区長を務める三浦友昭さん(62)の軽トラック が到着。住民数人が手早く荷台から段ボールを降ろす。三浦さんが約2キロ離れた避難所に連日通い、“おすそ分け”してもらっている食料だ。

 「じゃあ配るぞ。きょうはおかずはついてないけど、トイレットペーパーをもらってきた」。三浦さんの言葉に拍手がわいた。この日の食料は、住民1人につき、お湯をかけるだけで食べられる保存用のご飯のパックが1つ。それが、集落の住民がこの日に受け取った“支援”だ。
 住民らは、争うことなく、順番に家族の人数を申告し、その分を持って帰る。三浦さんは言う。「嘘の申告なんてないよ。集落自体が、避難所みたいなもんだから。みんなで助け合い、信頼しているのさ」。ほぼ人数分しかない物資が、住民全員に行き渡らなかったことはない。

 主婦の佐々木宣子さん(72)は「家の食料は底をついたし、街が無くなっちゃったから買い物もできない。これが私らの命綱ね」。先月11日の大津波は、海抜約30メートルの集落にも迫った。津波にのまれて犠牲になった住民も3人いたが、住宅は大半が無事だった。

  地震から5日ほどたったころ、電気が止まっているために冷蔵庫の食品が腐り、食料が尽きた家庭が相次いだ。そこで、三浦さんは町役場に「住民の食料をもら えねえか」と直談判した。すると「申し訳ないが、1日1回だけ取りに来るという条件なら可能だ」という答えが返ってきた。

 自宅暮らしとはいえ、水道が使えないので洗濯もできない。体調を崩したら、医師がいる避難所まで行かなければいけない。だが、三浦良美さん(78)は「自分の家に住めるというだけ、まだ幸せ」と話す。

  同地区には最近になって、たまにボランティアが差し入れに訪れる。だが、避難所のように世話係の自治体職員が常駐しているわけでもない。同町の担当者によ ると、こういった自宅避難民の数は、正確には把握できておらず、「避難所に比べ、物資が届く仕組みができていないのが実情だ」。(110404・msn産経二ユース)

 
(写真は、大震災以前の南三陸町の「アワビ漁風景」です)