朝顔便り

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 夏の陽を浴びて、こんなに朝顔の葉が育ちました。まだ花を咲かせてはいませんが、真夏のベランダに、緑のcurtainを作ってくれそうです。涼を呼んでくれて、毎夏の楽しみです。

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桔梗の咲く文月の朝です

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 「文月(ふづき)」、七月になりました。今年は遅い入梅でしたが、夜半も雨が降り、5時過ぎも何か降り出しそうです。ベランダで、開花を待ち望んでいた桔梗(ききょう)の花が咲き始めています。

「桔梗の花咲くときぽんといひそうな」

 加賀千代女が、桔梗の蕾が膨らんだ様子を見て、このように句を詠みましたが、『もう二、三日で咲き出しそう!』と思っていましてたら、『ポン!』と言う音は聞こえませんでしたが、今朝、二輪が綺麗に咲いています。

 天の川を「銀漢」と呼ぶのですが、「七夕(たなばた)」の月でもあります。宋代で最高に詩人と評される、蘇軾(そしょく)の詩に、

暮雲収尽溢清寒(暮雲収まり尽きて清寒溢る)

銀漢無声転玉盤(銀漢声無く玉盤転ず)

此生此夜不長好(此の生此の夜長へに好からず)

明月明年何処看(明月明年何れの処にか看ん)

とあります。声なく天空に輝く天の川を、蘇軾が仰いで詠んだ「中秋月」です。宋の時代は、商業が繁栄した時だったと言われ、そんな時代に活躍した詩人の感性に驚き憧れてしまいます。

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洋上風力発電の勧め

Wind Turbine Farm out at sea in traditional cross hatch style

 

 テレビの番組で、ある商社の重役になった、実在の人物の半世紀を題材に描いた物語が、何度か制作され、放映されています。その番組名は「不毛地帯」で、山崎豊子の原作を、各局が、3度ほど制作してきているのです。

 フジテレビが、開局50年を記念して、2009年に制作し、10月から、翌2010年の3月まで放映されたものを、とても注目して、観たのです。その放映時には、隣国にいましたので、観る機会がありませんでしたが、帰国時に、ネットで放映していたのを私は観たのです。

 その物語の始まりの時期が、自分が生まれて数ヶ月頃の出来事であったため、戦時下に生まれながらも、戦争を直接知りませんでしたので、強い興味を持って観たのです。長期に及ぶ、シベリヤ抑留の過酷な体験を持ち、思いの内に、共に抑留され、シベリヤの酷寒の地で、命を落とした部下たちへの追慕の念を、常に持ち続けながら、戦後を生きた一人の人の物語です。

 山崎豊子は、伊藤忠という関西の総合商社の役員をした、父と同世代人の瀬島龍三をモデルにして、脚色して描いたのです。フジテレビ版は、唐沢寿明が主演していました。実は、その番組で、一番興味深かったのが、この総合商社が、石油部門に進出したことの動機付けでした。

 ドラマの主人公は、日本の旧陸軍の大本営の参謀であった壱岐正で、取締役に躍進していました。日本軍の陸軍士官学校の壱岐の後輩の石油部長の兵頭信一良とのやりとりが、興味津々でした。と言うのは、日米開戦の主なる理由は、oil line を断たれた日本が、東南アジアに石油を求めていくのですが、その輸送船を狙われて撃沈され、死活問題に立たされていました。

 そんな中で、苦肉の一策で、真珠湾攻撃することに踏み切ったのです。もちろん自国を弁護するつもりはなく、「事実」を述べただけです。それが開戦の一番の理由だったようでした。そういった過去から、再び石油問題で、国際紛争に巻き込まれるのを防ぎたいために、イラン国営の油田、サルベスタンの石油採掘権を得て、試掘しようとするのです。

 石油公団や他社とのやりとりに、ヤキモキされるのですが、ついに採掘権を得て、試掘を繰り返して、遂に、見事に原油が吹き出して、その開発事業は成功するのです。

 日本の歴史の中に、Energie(エネルギー)に関わる大きな転換の時期が、何度もあったのです。日本は四海に囲まれる海洋国家であって、中世日本で、主に瀬戸内海で活動した村上水軍、徳川幕府の統治で、浅底の船しか持つことが許されなくなる以前、巨艦の軍用船である、鉄製の「安宅船(あたけぶね)」が使われていました。また、海洋進出をしてシャム(タイの旧国名)で活躍した山田長政がいました。海に囲まれ、資源に乏しい日本は、海外に活路を求めた、一つの事例なのです。

 お隣の国の明代、1405年に、蘇州の港を出港した、中国昆明出身の鄭和(ていわ/Zheng He /1371-1433年)の大船団は、アフリカ東岸にまで出掛けています。何と131mもの巨船の大軍団だったようです。七次の航海をし、ヨーロッパの大航海時代のヴァスコ・ダ・ガマや、アメリカ大陸を発見したクリストファー・コロンブスよりも、早い時期に航海をしています。もし、鎖国がなければ日本も、彼らに伍して世界に漕ぎ出ることができたのかも知れません。

 今でも、固形燃料に限りがあり、それに代わるものがもとめられていますが、再生エネルギー、Clean Energieの必要が叫ばれています。そんな中で、注目したいのが、海に囲まれた日本での「風力発電」だと、風力発電の研究者の牛山泉氏(足利大学理事長)が言っておいでです。

 木材(薪)、石炭、石油・ガス、そして原子力と変遷をたどってきたエネルギーが、地球を汚染し続けてきて、今は危機的な状況を迎えていて、遅きに失している対策の現状です。警告を無視し続けてきた、負の結果を迎えていますが、今できることがあると言われて、必死に対策が講じられているのです。

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 日本の歴史で、奈良から京都への遷都がなされた一つの理由は、燃料としての薪が奈良近辺に少なくなったからだそうです。また、徳川家康が開幕の折に、京でも鎌倉でもなく、関東の江戸に注目したのも、一つには燃料問題を克服しようとしたのだと言われます。そして、米英を相手に、日本が宣戦布告をしたのも、石油の入手に道を断たれたからであったわけです。

 満州や朝鮮半島や台湾、さらに東南アジア侵略をしたのも、物資の乏しさの解消を目的としたわけです。とくに、エネルギー問題に、国の将来の存亡がかかっていると結論したからなのです。現代も同じです。遠い距離にある給油国から、もし、その輸送路が絶たれたら、私たちの国はどうしていったらよいのでしょうか。やはり、海に活路があるのかも知れません。それで海上の風力発電利用に期待したいのです。

(”Freepik” と “いらすとや“のイラストです)

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ひっそりと咲く野草

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白糸草

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アカショウマ

 こんな花が、日本の原生種の中にあるのに驚かされます。猪や熊の出没の様子を聞いて、野山を歩くことがなくなったのですが、知らない花と巡り会う機会がなくなってしまいました。

 島根県の裏匹見峡の林道に咲いていたと、今朝、送っていただいた「里山を歩こう」のレポートにありました。日本列島や朝鮮半島に咲く花だそうです。ひっそり咲くのもいいものです。

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これは、ハンカイソウで、北広島に咲く花だそうです。素直に咲いています。

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感謝して生きる

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 昨日は、「雷の日」だったそうです。0626の語呂合わせではなさそうですから、何か歴史的なことがあった日なのかも知れません。

 かつて、京都が火災に見舞われたことがありました。京の都は、幾たびも、火災にあったと記録が伝えています。

 『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。』の書き出しで、高校の国語で学んだ、「方丈記」があります。そこに、次のような記事があります。

 『いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。』、安元3年とは、西暦1177年ですが、この年に京都に大火があった記録されているのです。

 それ以前、醍醐天皇の統治の代に、右大臣の任にあった、菅原道真は、藤原時平との政争の中で、太宰府に左遷させられてしまいます。その左遷から2年後の延喜3年(903年)日に、道真は死んでしまうのです。時平も、 その直後に病没し、次に、道真の後に任じられた右大臣が、沼で溺死をします。

 悪いことは続くもので、延長8年(930年)6月26日に、会議中の清涼殿が、「落雷」で被害を被ります。落雷による火災も発生し、朝廷要人に多くの死傷者も多く出たのです。それを目撃した第六十代の醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に死んでしまいます。これらは、道真の怨霊が原因とされて、「天満宮」が造営され、道真は神として祀られる、そう歴史は記録しています。

 その菅原道真の名誉回復がなされ、「天神」として祀る「宮」が、京の北野の建てられたのです。天神が「雷の神」であり、道真が学問に秀でて、学問の分野で朝廷に仕えたていたこともあって、「学問の神」として、二十一世紀の受験生たちによって、合格祈願されているのです。この両神に、何の脈略もなさそうですが、そんな信仰に驚かされます。

 日本の歴史や出来事の中に、「怨念」や「恨み」や「祟(たた)り」が原因すると言う、その原因追及が気になりますが、死者が、人を呪ったり、化けて出るようなことなどないのです。

 市立図書館の入り口の壁面に、「今日は何の日」 が、掲出されていて、借りていた本の返却と、予約していた本を受け取りに出掛けて、その壁面に読んだのです。聖書は、

『これヱホバの設けたまへる日なり。われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇118篇24節)』

 この日も、どの日も、主が設け、お造りになられた日なのです。「日」の良し悪し、吉凶などないのです。どの日も、感謝して生きていけるように、万物の創造主によって、一日一日が祝福されているのです。

(ウイキペディアの稲妻です)

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あんなことこんなこと

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 子どもの頃、「地震」、「雷」、「火事」、「親爺」が怖かったものだと言われていました。自分が怖かったものは、別にありました。「蛇」、「蜂」、「家の隅にあったトイレ」でした。暗くて臭かった時代の記憶です。

 一つは、今もなお猛威を振るっている「地震」でした。「気象庁」の統計のよると、日本と、その周辺で、体感地震(震度1以上)は、1年間に1,000~2,000回程度あるそうです。だいたい1日あたり3~6回ほどになるのです。また過去104年間、マグニチュード1 〜6の地震が、1年に16 回あったことになります。

 『準、窓を開けろ!』と父に言われ、玄関や縁側の戸を開け放ったのです。関東大震災の経験者の父は、家が地震で歪んで、出口を塞がれた経験があって、脱出口の確保を命じたのです。

 二つは「雷」でした。今住んでいる県都の宇都宮は、「雷都」世呼ばれるほど、雷で有名な街です。『ヘソ隠せ!』と言われた雷ですが、嫌われるのに、死に損なったのに、その雷鳴の響きと鋭い雷光、叩きつけるような雷雨は、スカッとするので、大好きなのです。

 気象庁の報告書によりますと、「雷日数(雷を観測した日の合計)」の平年値(1991~2020年までの30年間の平均)によると、年間の雷日数は、東北から北陸地方にかけての日本海沿岸の観測点で多いのだそうです。北陸の金沢は、45.1日が最多で、わが宇都宮は26.5日です。宇都宮は夏場が多いのですが、日本海側の金沢は、冬場の雷が多いのだそうです。今度引越しをするなら、金沢を候補地にしましょう

 大陸の大空に響き渡った雷鳴は、つんざくほどの音量で、万物が振るわれるようなものでした。華南の街でも天津の街でも、『さすがは大陸!』と大喜びをしたのが昨日のようです。

 三つは「火事」でした。「消防白書」によりますと、『出火率(人口1万人当たりの出火件数)は、全国平均で3.0件/万人となっている(第1-1-2表)。 また、出火率を都道府県別にみると、最も高いのは青森県で4.7件/万人となっている。 一方、最も低いのは、富山県の1.8件/万人で、同県は平成3年(1991年)以降連続して最も出火率が低くなっている(第1-1-3表)。』とのことです。

 火災原因については、1位の「たばこ」や2位の「たき火」、3位の「コンロ」、4位の「放火」、6位の「火入れ」など、火の不始末といった人間の過失や悪意などによって引き起こされている火災なのだそうです。子育て中、借家住まいをしていて、火のついたままの石油コンロに、注油をしていて、終わった時に、注油ポンプを振ってしまい、引火し炎が上がってしまったことがありました。大事になる前に鎮火できたのは、奇跡でした。『火は怖い!』を実感しました。いえ、不注意こそが、一番怖いのです。

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 四つは「警察」です。もう「オヤジ」が怖くなくなったからです。昔、警察官は威張っていました。何度も怒られたからです。反発したくなるような威張り方でした。横柄だったし、権威を振り回していました。お隣の国にいた時、婦人公安が、借家の手続きで、大家さんと一緒に行った時に、『もう少し優しくしたら!』と思うほどに、ものすごく威張って、権威を振り回していました。

 ごく最近ある県警察本部での事件があって、事件の捜査段階で、上司による隠蔽が問題になっています。警察官の犯した罪へ、長の介入で、事件を有耶無耶にしたことを、許せなかった幹部の告発によってです。真相は、まだはっきりしませんから、怖さ違いで、かえって怖いのです。

 elite 公務員が、地方の官公庁に赴任して、経験を積むためでしょうか、3、4年の間勤めて、中央に、出世のために帰ってくるのです。私たちの時代も同じでした。在任中に、不祥事が起こると、その出世や、退職金や天下りに影響するので、事件を隠蔽してしまうことが、往々にして多いのです。大役人も小役人も同じです。 

 映画で観た江戸時代の悪代官のしたことと、寸分違わないのです。ことばや態度での怖さが昔はありましたが、賢くなった人たちの悪知恵によるのでしょうか。中には、引責辞任をされた幹部も、少なからずおいでです。それがせめてものと、安堵するのですが。義を愛するか否か、それを問いたい老いた一人であります。

 素晴らしく国家の公安についておられる、警察関係者や海上保安にあたっておいでの方々が多くおいでです。それで、安寧と秩序が、保たれていることになります。優しく語る、人情味あふれたことばで接してくださった警察官もおいででした。台湾を訪問した時に、『日本統治時代の巡査が立派でした!』と、感謝されたことがあり、溜飲を下げたことがあったのです。

(ウイキペディアによる稲光、1938年の月島交番と巡査です)

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赤い色の思い出が

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西瓜の切り口の赤色は、夏の思い出で、井戸に吊るして冷やして、母が切ってくれて食べたのは、地物の西瓜で、今ほど甘くはなかったのですが、あれぞ本物で、赤い色の強さが鮮明に蘇ります。

 冷蔵庫も、電気釜も、洗濯機もなかった時代の夏は、素麺を茹でて、母手作りの出汁で、薬味にネギや生姜を入れて食べたのです。ネギ嫌いなのに、素麺は食べられたのです。西瓜も、昼間に食べた残りでしょうか、夕食後にも食べさせてもらったようです。

 「夏がくれば思い出す」のは、尾瀬ではなく、西瓜や素麺なのです。夕日も、赤かったでしょうか。子どもの頃に、「赤い夕日の故郷(作詞が横井弘、作曲が中野忠晴でした)」という歌が、よく聞こえてきました。

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(おーい)
呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
うらぶれの 旅をゆく
渡り鳥を 呼んでいる
馬鹿な俺だが あの山川の
呼ぶ声だけは おーい きこえるぜ

呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
懐かしい 面影の
ひとつ星も またたくよ
小麦畑は 二人の夢を
ひそめているか おーい 今もなお

呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
涙ぐみ 背伸びする
渡り鳥を 呼んでいる
雲よ行くなら おふくろさんに
思いをせめて おーい 乗せて行け
(おーい)

 山の狭間の渓谷像で生まれ、その隣の渓谷の隣り村に越して、小学校1年まで住みましたが、山に落ちて行った太陽の残照が、薄赤かったような記憶があります。

 夕陽といえば、隣国の天津の公寓(Gōngyù アパート)の七階のベランダから地平線に沈んでいく太陽の大きさと真赤な太陽は強烈でした。『大陸にいるんだ!』と言う思いに溢れて、感動的だったのを思い出してしまいます。

 様々な色彩が、自然界に散りばめられています。もし無色透明だったら、どんなに味気ないことでしょう。気落ちしても、真っ赤だったり、真黄色だったりの花々を見ると、何か元気にさせられてきたのです。神さまが、さまざまな絵の具で、自然界を色付けされているからでしょう。 

(”illust image“の西瓜、”BEIZE image“による夕陽です)