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1978年10月、当時の中華人民共和国主席・鄧小平氏が、日本を訪問されたとき、戦争で焼土と化した日本は、「朝鮮戦争」のアメリカ軍からの戦争特需を受け、産業界が勢いを増し、その流れの中で電機や自動車などの重工業部門の躍進、貿易の黒字、当時の世界最速の東海道新幹線の開業、オリンピックの開催があって、戦後、33年の歳月が経過していました。
中日関係も、1972年9月に、田中首相の訪華によって、長らく途絶えていた国交が恢復しました。9月29日、北京における「日中共同声明」の時に、田中首相は、
「過去数十年に亙って、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過をたどってきた。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである 。過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。 」
と謝罪をしました。そのような経緯があっての鄧小平氏の訪日でありました。好奇心の旺盛な鄧氏は、京都・大阪に出かけ、新日鉄の君津製鉄所、松下幸之助の松下電器(現パナソニック)工場などを見学しておられます。その折、東海道新幹線に乗られました。『速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ』、『我々は駆け出す必要に迫られている』と、その乗車の印象の言葉を残しております。
また松下電器の工場を訪ねた時、電子レンジなどの新製品の展示室を見学されたましたが、電子レンジの機能を説明するために、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せたそうです。すると鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込んで、『なかなかおいしい!』と言います。これには松下の従業員らは驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したのだそうです。
東京では、日産自動車の厚木工場の見学をされましたが、圧巻は、昭和天皇との会見でした。その会見の様子を、後になって、当時の侍従長・入江氏は、次のように回顧されています。
「――(天皇は)中国への贖罪意識がとりわけ強かった。初の要人として、1978年10月、最高実力者の鄧小平副首相が来日、昭和天皇と会見するが、天皇は顔をみるなり、『わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう』との気持ちを述べたという。瞬間、鄧氏は立ちつくす。電気にかけられたようになって、言葉が出なかった。」、「鄧氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じた。鄧氏のショックは、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう」
このような、中国と日本の関係に、氷解の時期があったことを思い返して、鄧小平氏の死去(1997年)を、心のそこから惜しんでしまうのは、私だけではないと思います。次の時代になってから、手のひらを返すように、中日関係は険悪、最悪の事態になったからです。この鄧小平氏の訪日後、中国は未曾有の〈日本ブーム〉が巻き起こります。その象徴的な出来事は、高倉健が主演し、中野良子、原田芳雄が共演した、映画「君よ憤怒の川を渉れ(1976年日本で公開)」が、中国で「追捕(zhui bu)」というタイトルで、1979年以降、上映され、何と3億人が観たと言われています。また、栗原小巻や山口百恵は、中国青年の憧れのスターとして喝采を浴びました。40~50代以上のみなさんの青年期の経験ですから、『映画の「追捕」、「杜丘冬人 (高倉健が演じた主人公)」、中野良子を知っているよ!』と言われて、『 杜丘冬人って、誰ですか?』と聞き返さなければならなかったほどでした。「七人侍」、鶴田浩二や長谷川一夫、京マチ子や山田五十鈴、美空ひばりや菊池章子よりも、「君よ憤怒の川を渉れ」、高倉健や栗原小巻や中野良子や山口百恵のほうが、中国では有名なのです。「君よ憤怒の川を渉れ」って、どんな映画でしょうか?一度は観ないといけないように思わされている私であります。
(写真上は、「鄧小平と胡耀邦(中央)」、中1は、「田中角栄元首相」、中2は、中華料理に定番「シュウマイ」、中3は、「山陽・九州新幹線 N700系「・さくら」、中4は、中国で大人気の女優「中野良子」、下は、「君よ憤怒の河を渉れ」の映画スチール写真です)