氷解

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 1978年10月、当時の中華人民共和国主席・鄧小平氏が、日本を訪問されたとき、戦争で焼土と化した日本は、「朝鮮戦争」のアメリカ軍からの戦争特需を受け、産業界が勢いを増し、その流れの中で電機や自動車などの重工業部門の躍進、貿易の黒字、当時の世界最速の東海道新幹線の開業、オリンピックの開催があって、戦後、33年の歳月が経過していました。

 中日関係も、1972年9月に、田中首相の訪華によって、長らく途絶えていた国交が恢復しました。9月29日、北京における「日中共同声明」の時に、田中首相は、

 「過去数十年に亙って、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過をたどってきた。この間、我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものである 。過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。 」


と謝罪をしました。そのような経緯があっての鄧小平氏の訪日でありました。好奇心の旺盛な鄧氏は、京都・大阪に出かけ、新日鉄の君津製鉄所、松下幸之助の松下電器(現パナソニック)工場などを見学しておられます。その折、東海道新幹線に乗られました。『速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ』、『我々は駆け出す必要に迫られている』と、その乗車の印象の言葉を残しております。


 また松下電器の工場を訪ねた時、電子レンジなどの新製品の展示室を見学されたましたが、電子レンジの機能を説明するために、一皿のシューマイを加熱して鄧氏に見せたそうです。すると鄧氏は突然、シューマイをつまんで口に放り込んで、『なかなかおいしい!』と言います。これには松下の従業員らは驚き、何でも試してみるという鄧氏の精神を称賛したのだそうです。
 東京では、日産自動車の厚木工場の見学をされましたが、圧巻は、昭和天皇との会見でした。その会見の様子を、後になって、当時の侍従長・入江氏は、次のように回顧されています。


 「――(天皇は)中国への贖罪意識がとりわけ強かった。初の要人として、1978年10月、最高実力者の鄧小平副首相が来日、昭和天皇と会見するが、天皇は顔をみるなり、『わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をかけ、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう』との気持ちを述べたという。瞬間、鄧氏は立ちつくす。電気にかけられたようになって、言葉が出なかった。」、「鄧氏は、『お言葉のとおり、中日の親善に尽くし……』と応じた。鄧氏のショックは、<簡単なあいさつ程度で過去に触れない>という日中外交当局と宮内庁の事前了解と違っていたこともあるが、やはり天皇の率直な語りかけが心を打ったのだろう」


 このような、中国と日本の関係に、氷解の時期があったことを思い返して、鄧小平氏の死去(1997年)を、心のそこから惜しんでしまうのは、私だけではないと思います。次の時代になってから、手のひらを返すように、中日関係は険悪、最悪の事態になったからです。この鄧小平氏の訪日後、中国は未曾有の〈日本ブーム〉が巻き起こります。その象徴的な出来事は、高倉健が主演し、中野良子、原田芳雄が共演した、映画「君よ憤怒の川を渉れ(1976年日本で公開)」が、中国で「追捕(zhui bu)」というタイトルで、1979年以降、上映され、何と3億人が観たと言われています。また、栗原小巻や山口百恵は、中国青年の憧れのスターとして喝采を浴びました。40~50代以上のみなさんの青年期の経験ですから、『映画の「追捕」、「杜丘冬人 (高倉健が演じた主人公)」、中野良子を知っているよ!』と言われて、『 杜丘冬人って、誰ですか?』と聞き返さなければならなかったほどでした。「七人侍」、鶴田浩二や長谷川一夫、京マチ子や山田五十鈴、美空ひばりや菊池章子よりも、「君よ憤怒の川を渉れ」、高倉健や栗原小巻や中野良子や山口百恵のほうが、中国では有名なのです。「君よ憤怒の川を渉れ」って、どんな映画でしょうか?一度は観ないといけないように思わされている私であります。


(写真上は、「鄧小平と胡耀邦(中央)」、中1は、「田中角栄元首相」、中2は、中華料理に定番「シュウマイ」、中3は、「山陽・九州新幹線 N700系「・さくら」、中4は、中国で大人気の女優「中野良子」、下は、「君よ憤怒の河を渉れ」の映画スチール写真です)

泉州旅遊

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 先週、この夏に卒業した教え子の招きで、彼女のボーイフレンドと一緒に、〈泉州〉に二泊三日の旅行をしました。彼が、チケット販売所に出向いて、私の旅券を提示して私の分も、前もって買ってくれました。日本のように、その日に乗りたい乗車券を、乗車駅で買えたら、もう少し便利なのですが、数年後には、そういったシステムが導入されるのではないでしょうか。その中国製新幹線(「動車・dong che」)の「和谐号(He xue hao)」に乗り込んだのです。

 日本の新幹線ですが、1964年に開業した東海道新幹線は、この50年あまりの歳月の間に進化して、今は美しい流線型で、まるで地上を飛ぶ飛行機のように感じられますが、中国製は、少しこ小ぶりでしょうか。車内も一様ではなく、様々な客席やコンパートメントがしつらえてあり多様です。ちょっと揺れが大きかったのと、急加減速があり、すれ違い時の風圧の大きさ、またトンネルへの出入り時の耳の詰まりが気になりましたが、これからの更なる改良と工夫が待たれるのではないでしょうか。

 〈改革開放政策〉で中国の経済発展に貢献した鄧小平氏が、1978年10月に、日本を訪問しました。その時、『今回、私が日本を訪問したのは、日本に教えを請うためです。日本は昔から〈蓬莱〉と呼ばれ、不老不死の薬があると聞いています。今回はそれを求めに来ました。不老不死の薬がなかったとしても、私は日本が科学技術を発展させた先進的な経験を持ち帰るつもりです。』と語られたのです。実に謙虚な言葉ではないでしょうか。その時に、東京から京都まで、東海道新幹線を利用しました。その時の乗車は、強烈な感動と印象とを、鄧主席に与えたのです。日本の経済と技術力に、正直に圧倒されておられます。


 中国に帰国された鄧小平氏は、『経済がほかの一切を圧倒する!』という政策を打ち出して、「解放改革政策」を始めます。その代表的な経済政策として、翌年の1979年に、深圳(Shen zhen)、珠海(Zhu hai)、厦门(Xia men)、汕头(Shen tou)を「経済特区」として定め、重点的な経済開発に取り組んだのです。30年経ちました現在、その発展ぶりは天をつくほどのものとなっています。その契機となったのが、鄧小平氏の日本訪問、その日本体験にあることを考えますと、日本の貢献もまんざらではないのかと思って、誇りたい気分がいたしました。今回、乗せていただいた〈動車〉は、鄧小平氏の感動から始まって、全中国の人民が印象づけられ誇っておられるもので、その感動を共有できたことは感謝なことでした。鄧主席がおいででしたら、日本への感謝を、きっと表され、『更に多くの分野で、日本の技術に学びたい!』と、卑下を惜しまなかったのではないでしょうか。流石、大国を大きく好転させた大器であります。

 さて、私が訪問したのは、「泉州」でした。これまで二度訪ねたことがありますが、アジア圏では、過去においては有数の港町で、実に長い歴史を持っている街であることを知りました。香港やマカオ、上海や天津などがまだ小さな海辺の村に過ぎなかった頃に、すでに大貿易港だったのだそうです。「泉州博物館」には、その証拠に、大海に繰り出して航行した帆船が、砂の中から掘り出されて、展示されてありました。その大きさに驚かされてしまったのです。海外交易のゆえでしょうか、この街では、イスラム教やマニ教やネストリウス派が活発に活動をしていたようで、その名残のある街でした。この500万の街の中心に、小高い丘の公園があって、馬にまたがった将軍・鄭成功(Zheng Cheng gong)の像が置かれていました。以前は遠くから見ただけでしたが、この真下に行きましたら、世界で一番大きな馬の像ではないかと思われるほどの大きさだったのです。愛する教え子の博学の父君が、泉州の沿革を細かく説明をしてくださいました。


 動車にしろ、泉州の街にしろ、馬上の鄭成功将軍にしろ、意味ある経験をさせていただいた旅でした。10日の日曜日に、日本の東北地方で、大きな地震があったのですが、泊めていただいた彼のお父さまが、『今、日本で地震がありましたよ!』と知らせてくれました。その日のお昼の北京からのテレビニュースでは、2番目のニュース項目として、この地震を速報していました。反日・抗日ばかりではなく、中国が、隣人としての日本に、強い関心を示してくれていることを改めて知って、とても嬉しくなってしまったのです。経済発展の鰻登りの途上にあり、計画以上の隆盛を見せ、すでに日本を追い越してしまい、アメリカに追いつことしている勢いを感じざるを得ませんでした。確かに発展の陰に問題もありますが、これからの解決の課題として、真正面から取り組もとしている息吹も感じられたのです。中国のどの街でも、みなさんの顔の表情が、初めて訪問をした15年前よりも、明るく輝いているの感じさせられました。


 かつて世界が日本を羨ましく妬ましく、その発展ぶりを眺めていたように、今日日、中国の発展はアジアやアフリカの諸国の羨望の的のようです。経済ばかりではなく、様々な分野においても、発展が急加速することを心から願っています。歓待してくださった、お二人のそれぞれのご両親とご家族に感謝し、マンゴウ、鉄観音、茶器、はちみつ、パンなどのお土産を手にイッパイにして、旅を終え、住み慣れた家に帰り着きました。謝謝!

(写真上は、お孫さんと一緒の「鄧小平氏」、中1は、中国製新幹線「動車」、中2は、泉州の丘の上で台湾を見つめる「馬上の将軍」、下は、砂に埋没され発掘された「帆船〉です)

ショパン

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 ショパンの美しい詩のようなピアノ演奏曲、「夜想曲」がBGMで流れ、主人公の演奏もあって、その旋律がとても印象的だった映画「戦場のピアニスト(2002年政策)」を観に行ったことがあります。私が生まれる以前のポーランドのワルシャワが舞台でした。ユダヤ人であるがゆえのナチスによる迫害、財産や仕事の没収、収容所送り、家族との離別、追撃を逃れた逃避行、爆撃された廃墟の中での彷徨、ナチス将校との出会いと彼からの善意、終戦といった流れだったでしょうか。ピアノの美しい旋律が、爆撃で破壊された瓦礫の中に伝い流れていくといった対比が、印象的でした。後になって、DVDを借りて何度か見直したこともあり、カンヌ映画祭でも、アメリカのアカデミー賞でも賞を得た秀逸の作品でした。

 もう7年も前になるでしょうか、隣町の図書館で、講演会があって聞きに行きました。この映画の主人公、スピルマンの息子さんがお話をされたのです。子スピルマンは1951年生まれのポーランド国籍(現在はイギリス国籍を取得)で、父39才の時の子でした。現在は、九州産業大学教授(講演当時は、拓殖大学客員教授)で、「日本史」を研究されておられます。日本人女性と結婚をされておいでです。

 その講演では、ユダヤ人の民族的背景を持っている彼が、自分の父を客観的な目で語っておられました。ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)で、父や母や親族や友人を失った父スピルマンは、生き残ったことの罪責感に苦しんで戦後を生きたそうです。父から戦時下の体験をまったく聞いたことのなかった彼は、父が1945年に著わした[戦場のピアニスト]という本を、12才の時に見つけて読みます。そういった父の著書を通して、間接的に、父の体験を知ったのだそうです。彼がまったく父の過去を知らなかったのは、話してくれる親族が、ホロコーストで、犠牲になって、だれもいなかったからでもありました。父スピルマンは、忙しく生きることで、その体験を思い出さないようにしていました。そしてそんな父でしたが、年をとるにつけ忙しくなくなると、ポツリポツリと、長男である彼に体験談を語ったのだそうです。


 その本が再び日の目を見たのは、ドイツ語訳で、1987年に再版されてからでした。そうしますと話題をさらって、英訳や仏訳が刊行され、すぐに完売してしまいます。映画監督は、ポランスキー氏でした。この監督については、最近、よくないうわさをきかされています映画化が決まった翌年の2000年7月5日に、父スピルマンは召されていきます。

 父を『彼は真面目だった!』と、子スピルマンは語っています。1つは音楽に関してです。音楽を〈食べるための道具〉にしなかったのです。どのようなジャンルの音楽にも関心を向けます。ジャズも好きだったようです。そして極限の中で、自分が発狂することなく自殺からも免れることが出来たのは《音楽》だったそうです。もう1つは《人種問題》でした。『人を個人として見るように!』と言い続けたそうです。どの民族にもよい人も悪い人もいること。民族全体が悪いのではない。ドイツ人だって、みんなが悪いのではない。そういった信念の人だったようです。でもユダヤ人の血と言うのでしょうか、アブラハムの末裔といったら言いのでしょうか、信念や生き方は、やはりユダヤ的なのではないかと感じられました。

 映画の中に出てきた、あのドイツ人将校は、カトリックの信者で、ドイツの敗色が強くなったので助かるために父スピルマンに親切にしたのではなく、いつも常に、人道的に親切な人だったようです。『あの時のヒーローは、父ではなく、父を命がけで助けた友人たち、そしてあのドイツ人将校だったのです!』と言っていました。一時間半ほどの講演でしたが、ユダヤ人の1つの足跡に触れることが出来、とても感謝なひと時でした。


 日本人でも、ユダヤ人の救出に貢献した人の中で、杉原千畝(第二次世界大戦の時のリトアニアのカナウス領事)が有名ですが、その他には、元陸軍中将の樋口季一郎氏 、元陸軍大佐で陸軍の「ユダヤ問題専門家」の安江仙弘氏 、元海軍大佐で海軍の「ユダヤ問題専門家」の犬塚惟重氏 などがおいでです。アメリカのオレゴン大学を苦学しながら卒業し、外務大臣になり、A級戦犯の公判中に病死した松岡大介も、ユダヤ人に好意を示しています。民族の大危機の中にも、愛が動き、愛が示されたのですね。二度とあのような時代がこないように願い、ショパンを聞きたい心境です。

(写真上は、「ショパン」、中は、スピルマンの愛する「家族」、下は、ドイツ将校の前でピアノを弾く「スピルマン」です)

女三界に家なし

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 大正6年(1917年)春、母は島根県の出雲市で生まれていますから、この3月31日で、94歳になりました。ロシアで共産革命が起こった翌月で、中国では、この年、孫文が広東軍政府を樹立しています。日本では、味の素、明治牛乳、森永牛乳が創業していますた。この母の故郷に旅行したのが、小学校1年の時で、当時の小学生としては、こんな長旅をするのは実に珍しいことだったのではないでしょうか。東海道線から福知山をへて山陰本線に乗りいれての鈍行列車の旅だったのでしょうか、まだ当時は、蒸気機関車でした。その頃の記念写真が残っていますが、若くてきれいな母がそこに写っております。

 私たち男兄弟4人を産んでくれた母は、これまで二度大病を患い、長期にわたって入院生活をしました。私たち4人の子どもたちのために、少しでも援助をと願って、中央線の日野駅の近くにあった和菓子製造所でパートの仕事をしていました。仕事の帰りだったと思いますが、大型ダンプカーが接近して来たので、自転車から降りて路側によって、やり過ごそうとしていたとき、ダンプのタイヤのボルトで両足に大怪我を負ったのです。駅の近くの医者で応急処置をしたのですが、その処置が悪かったのでしょうか化膿してしまい、立川の大きな病院に転送されたのです。100%、両足切断のところでしたが、奇跡的に化膿が止まりました。それから十一カ月ほど入院をすることになったんもですが、母は四十代半ばだったでしょうか。

 そのとき、一番あわてたのが父でした。何日も、会社を休んで、母のために「野菜スープ」を作ったのです。明治生まれの男が、こんなに慌ててしまって、いつもと違う男を演じていたのが不思議でした。ああいった行動が、明治男の愛情表現だったのでしょうか。その父に、『雅、これをお母さんの所に持って行け!』と言われた私は、駅前からバスに乗って、日野橋を渡って立川病院に運んだのです。当時、上の兄は大学に行っていましたし、次兄は千葉で仕事をしながら東京の大学に通っていました。家にいたのは私と弟だけだったのです。もう一度は、子宮筋腫で、いざ摘出手術をしましたら、筋腫ではなく、「子宮癌」だったのです。まだ当時は、開腹してみないとわからないほどの医療水準だったようです。担当医が家族を呼んだのですが、父は、臆して行けなかったのです。告知だと分かったからでしょうか、『雅、お前が行って聞いてきてくれ!』と言われて、私は医師のところに行きました。上の兄は福岡県の久留米で仕事をしており、次兄は、東京に住んでいたからです。24才でした。

 
 摘出した卵巣を見せてくれながら、 『お母様は癌です。あと半年ほどの命です!』と、一瞬、躊躇しながら、担当医は、若い私に語ったのです。家に帰って、父に報告したら、『雅、覚悟しような!』と憔悴しきった顔で、そう言っただけでした。それから、一年近く入院生活を続けたのです。私は八王子で仕事をしていましたので、二日に一度くらいのペースで母を、武蔵境の病院に見舞いました。行く度に、母の体を拭く手伝いをしたのですが、内科病棟の大部屋でしたから、〈病室名主〉がいて、妬みでいじめがありました。病室の社会病理です。そんな行為を、何食わぬ顔で、母は見過ごしていました。いじけたり、取り入ったりしないで毅然としている母の強さを感じたほどでした。

 このような大病をしましたが、気遣っていた父は61歳で、脳溢血であっけなく召され、残された母は、年を重ねて、今は長兄の家におります。父の死後、家に戻ってきた次兄と一緒に昨年まで、父の購入した家(その後次兄が改築しましたが)で、40年近く、次兄の扶養家族として生活をしてきました。昨年、兄たちが話をして、母が転居することになったのです。高齢になってからの転居は、母には受け入れるのが難しいのでしょうか、父と共に過ごした家に、『帰りたい!』、『いつ帰れるのか?』と、ひっきり無しにに聞くのだそうです。〈誤嚥(ごえん)〉も始まり、脚も弱くなって来ています。そんな中で、〈帰巣心理(きそう)〉が母の心の中に起っているのでしょうか、自分の〈本拠地〉に、どうしても戻りたいのです。長年連れ添った父との思い出の家ですから、当然でしょうか。婚外子として生を受け、養父母に育てられたのですが、17歳の時に、奈良に嫁いでいた生母を訪ねたのだそうです。実の母がいることを親戚の人が知らせてくれて、訪ねるのです。しかし、『帰ってくれ!』と言われて、出雲に泣く泣く戻ったそうです。うら若き母の十代の悲しい思い出ですが、直接母から聞いた話です。

 諺に、『女、三界に家なし!』とありますが、女も男も、人はだれもが、旅人であり、寄留者なのでしょうか。母には、帰ることのできる永遠不変の〈天の故郷〉がありますから、安心ですが。それでも、人の情でしょうか、孝養心でしょうか、寂しそうにしている母が、切々深々として気になる、蝉声のけたたましい大陸の七月であります。

(写真上は、母が通った「出雲市立今市小学校の後輩たち」、下は、母の生母の嫁いだ寺の隣にある「奈良公園」です)

さんざめき

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 私も一人の大人の男として、新車、しかも「セルシオ」くらいは、と願う夢もあったのですが、『いいえ、あなたには経済車のサニー、しかも中古が適当です!』と言われたようでした。八ヶ岳の麓に、ログハウスを建てて、そこに家族で住みたい、と思ったのですが、『あなたには借家が一番似合います!』と言われたのです。履く靴だって、たまには「リーガル製」を、と思うのですが、『あなたには靴流通センターで売っている特価品でいいのです!』と促されて、一流志向の生き方ができずに今日を迎えています。

 ちょっと無理をすれば、家だって建てることができましたし、高級車だって乗れました。ただ、ローンなどの、いわゆる借金仕立ての購入は、根っから好まないので、断念しました。なぜ借金を嫌うのかといいますと、苦い経験があったからです。仕事が順調で、どうしても多人数の乗れるバンの8人乗りが欲しかったのです。どうしても必要かというと、そうでもなかったのですが、遠くに人を連れて行ったりする機会が多かったので、『あったらとても便利なのだが!』といった状況でした。それで、兄の義妹からお金を借りることにしたのです。家内に大反対されましたが、押し切ってしまいました。ユダヤの諺に、

   「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。 」

とありますが、『お金を借りている!』という負い目が、自分から離れないのです。月々の返済をしている間、まるで、貸し手とお金の奴隷のような自分が、とことん嫌になりました。その借金の返済を完了したとき、『今後、二度とお金を借りないぞ!』と決心したのです。

 そうするとどうでしょうか、中学と高校で同級生が訪ねてきて、『雅、金貸してくれないか!』と言うのです。また、知人から紹介された人が、『泊めてくれませんか?』、『交通費を貸してくれませんか?』、また、『子どもが病気なので・・・』と言っては、何人もの人が、次から次へとやって来るようになりました。私は、決して貸しませんでした。貸さない代わりに、差し上げたのです。まだ若くて、4人の子育て中でしたから、物入りは多かった頃です。でも、借りてる間、その人が私の奴隷になるのが、経験上忍びなくて、そうしたのです。こちらに来ても、出会った中国の青年が、お父さんに仕事がなく、お母さんがパートのような仕事をしていて、年金の関係で、まとまったお金が必要でした。『廣田さん、申し訳ないのですが、◯◯元あったら両親が助かるのですが、貸してくださいませんか?』と頼まれました。その時も、差し上げました。この方は、中国東北部で石炭の産出で有名な町の出身で、近くの街では、旧日本軍が焼き討ちをしたり、虐殺をしたことがあった所からでした。そういった〈償い〉の気持ちもありましたが、彼が誠実な人柄であることが、分かっていましたので、助けになるならばということで、喜んでそうしたのです。

 その他には、病気や非行や親がいない若者がいて、世話をしてあげる必要がありました。そんな彼らを家に迎え入れて、一緒に生活をしたことがありました。10人以上の大所帯だった時期もありました。子どもたがハラハラしていたようです。それでも、彼らからお金をもらいませんでした、商売をしているのではないからです。そんな頃、お米が次から次へと届いたのです。それは不思議なことでした。おかずも買うことができましたし、ワイワイ、ガヤガヤの大所帯で、いろいろなことがありましたが、大変楽しかったのだと思います。悪さをしたときには、、ビンタを張ったことも、拳骨で殴ったこともありました。まだまだ元気が溢れて、義侠心に富んでいた時期でしたから。


 あんな大賑わいだった頃から比べますと、この4月からは〈男やもめ世帯〉を余儀なくされて、孤塁を守って3ヶ月が経ちます。三度の食事を二度にし、掃除洗濯、買出し、けっこう忙しいものでした。洗濯物を干しているロープが劣化していて切れてしまい、洗い終えた洗濯物が汚れてしまったこともありました。雨が多かった時期があって、冷蔵庫の中を探しては食べつないだこともありましたが。やっと息子の許可が出たようで、来週、家内が戻ってきます。子育てや人のお世話をしている時期が、人生の花でしょうか。『寂しいでしょう?』と言って、ボーイフレンドを連れて教え子がときどき来て、食事を作ってくれて励まされる機会もあるのですが。やはり、何人もが同時に話し出して、何を言ってるのかチンプン、カンプンで分からなかった頃が、懐かしくて仕方がありません。蝉の鳴き声に混じって、あの〈さんざめき(ざわめき)〉が聞こえてきそうな、華南の街の木陰なる借家の夏であります。ただ愛だけは借りてもいいのでしょう!

(写真上は、八ヶ岳山麓の「別荘」、下は、「蝉」です)

自戒

 

    「愚か者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。 」
 
 「十日天下」、明智光秀よりも七日間長かったのが、復興相。私の愛読書には、上のように書いてありました。応接室で自分の来訪を迎えなかった非礼に対して、「長幼の序」が欠けていると非難して、マグマのように湧き上がる怒りを抑えられないで、小爆発させてしまったのだと、ニュースが伝えていました。被災地の知事の忙しさを、もし理解できたら、政府の高官である自分のほうこそが待つべきだったに違いないんです。そういった理解がなかったのは残念ですね。辞任されるのだそうです。どうして、こんなに脇が甘いのでしょうか?

 彼は福岡県人だそうで、私の知っている友人たちは、穏やかで親切で紳士で、相手の立場に配慮してくれるのに、同じ九州人でも人によって違うのですね。子供の頃に、『実るほど、頭の垂れる稲穂かな!』という諺を教えられましたが、彼は教えられなかったのでしょうか。身分や地位が高くなるにつけ、身を低くしたほうが、徳が高いと評価されて、尊敬されるのですが。

 福岡が生んだ政治家で、外務畑を歩んでこられ、南京事変の頃に総理大臣をされておられた広田弘毅は、実に謙遜な器だったと聞いております。自分を追い越して出世していく後輩たちに、煩わされないで、悠々として、昼寝をするように見せかけて、本を読み、資料を調べ、世界の動きに関心を向けていたのです。時到って、国政を担われたのです。戦国の武将たちの中で、人心収攬に長けていた指導者たちは、上手に部下の才能、やる気を引き出したようです。私は将棋は嫌いで、できないのです。相手の駒の何手も先を考えて考えて、自分の駒を動かしていくあの待っている時間、考えている時間の長さに耐えられないのです。自分は短気なのだとつくづく思い知らされています。悠長なのがダメなおっちょこちょいなのです。どうも将棋好きから聞きますと、「飛車」や「角」よりも、「歩」を上手に展開させると勝てるのだそうですね。小兵を動かして、日本を復興させて欲しかったのですが、残念至極、ちょっと〈高飛車〉だったようです。

 この方は、この5月に60歳になられたようです。世の企業ですと、役員でない限り定年退職されているのです。一仕事終えて、悠々自適な生活をされている年齢なのに、なぜか小僧っ子のように見えて仕方がありません。先ず、〈心の復興〉をなさってから、〈被災された人と土地の復興〉に取り組んで欲しいものです。政治家の世界でしたら、捲土重来、セカンドチャンスだってありますから。私の愛読書には、
   
   「あなたは、立ち直ったら、《国民》を力づけてやりなさい。」

と書いてありました。まだまだ短気に悩まされている私ですが、聞くところによりますと、加齢によって、切れてしまう老人が多いのだそうですね。老成は、昔のことになってしまったのかと思って、自戒しております。

ギブ・ミィー・チョコレート世代

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 昭和16年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃して、あの太平洋戦争が始まります。この戦争に反対したのが、後に連合軍最高司令長官となる山本五十六でした。彼は若き将校として、まだ親しく国交のあったアメリカを訪問したことがあったのです。その時、テキサスの大油田と五大湖周辺の大工業地帯を見て、その規模の大きさに圧倒されていました。物量の多さと工業技術水準の高さは目を見張るものがあったからでした。それを思い返して、『このアメリカには勝てない!』と結論していたのです。ですから日米戦争の開戦には大いに反対したわけです。ところが、ひとたび開戦が決まってしまったとき、海軍の軍人として彼もまた戦わざるを得なくなりました。アメリカ軍は、山本五十六の動きを徹底的にマークし、ついいには無線の暗号傍受と解読に成功して、彼の乗る飛行機を撃墜したのです。その死を悲しんだ日本は、山本五十六の「国葬」を行い、その死を悼んだのでした。アメリカ軍にとっては、怖い敵将の死で、戦争の勝利の確信を、さらに強めたのだそうです。

 オレゴンで、次女の学校の卒業式に出席した後、上の娘と三人で、そこからワシントン州、アイダホからモンタナ、そしてワイオミングと、5つの州を車で旅行したのです。その道々感じたのは、大きなアメリカの農村部が、実に近代的な大規模・機械化農法で農業が行われていることに、いまさらの驚きを覚えたのです。すでに映画やニュースや写真で見て知ってはいましたが、この目で見たその大きさは圧倒的でした。日本のような農法のこじんまりして細密なものと違って、トラックターの大きさも、巨大なスプリンクラー設備も眼を見張るものがありました。ここで生産された豊かな生産物が、工業地帯や都市部の必要を十二分に満たしていることがわかったのです。食糧の自給ができる国でありつつも、工業生産も脅威的なものであるこを知らされたわけです。山本五十六は工業の立地国としてのアメリカに驚かされたのですが、私は農業立地に目を見張ったのです。


 このアメリカにも、多くの問題があります。しかし世界で最も祝福された国であり、その祝福を世界中に分かち合ってきているのです。若い頃に、一緒に働いたアメリカ人実業家が教えてくれた、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を、その時、思い出したのです。1つは、建国の父たちの愛国心、その愛国心を受け継いでいる現在のアメリカ国民の存在、2つは、莫大な財政をささげて多くの国を支援していること、3つは、アメリカの使命や存続のために海外からの応援と支持と感謝と執り成しだそうです。そのアメリカで、私の四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。なぜなら、偏狭なものの考え方から解放されて、広く世界をみ、世界と交われる資質を養い育てられ、異質の文化や習慣や人種との接触が与えられたことは素晴らしい機会だったと思います。

 ある日、アメリカの友人の家に、多くの若者が来ていて、私たちも、そこに同席していました。その家のご主人が、『雅、何か話てくれないか!』ということで、OKしたことがありました。その時、私は《自分の今とアメリカとの関連について》話をしたのです。私は、アメリカから来日された実業家の働きの手伝いをさせて頂きながら、彼から多くのことを学んだこと、妻の愛し方でさえも教えられたのですから。また小学校時代、アメリカから送られた「Lala物資」の粉ミルクを飲ませていただいたこと。家内は、スカートやブラウスを貰って、それを着て学校に行きましたから、うらやましがられて大変だったと聞いています。もう1つは、この国で作られた映画を観て、夢が育まれたこと、とくにジェームス・ディーンの主演した映画は、中学生の私にとって衝撃的だったことでした。敗戦国の子どもが、戦勝国の援助や感化を受けたのは感謝でしたが、そのことを思い返しながら、その過去を恥じた心の内で、激しく葛藤した青年期もあったのですが、それには触れませんでした。


 『お父さん、《ギブ・ミィー・チョコレート世代》だったんだよね!』と、先日、息子に言われました。立川基地の隣町に住んでいましたから、アメリカ兵との接触の機会が多かったので、甘いものに飢えていた私たちは、アメリカ兵を見つけるとそう連呼したのです。青年期に達した私は、そんな子どもころの自分が赦せませんでした。その反動でしょうか、軍歌を歌ったり、日の丸を愛したり、〈日本精神〉に立って、危なっかしい歩みにいこうとしたのです。そんな偏狭さに潜り込もうとしたとき、このアメリカ人実業家と出会いました。彼を訪ねてくる友人たちが持っている、〈高潔な人格〉に触れるのです。民族や国籍を超えたところにある交わりによって、私はバランスされ、変えられたのです。憎むべき国と敵から、親しい友人の国と国民とにです。そう変えられて、『よかった!』と、今も感謝しております。中国語で「我已経改変了」と言うようです。

(写真上は、モンタナを舞台にした映画の「リバー・ランズ・スルー・イット 」、中は、「ジェームス・ディーン」下は、アメリカ製の「チョコレート」です)

光陰

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 『もう4年もすると楢山様かな!』、150年も前に、信州か甲州の山里に生まれていたら、息子に背負われて、〈楢山参り〉をすることになるのでのでしょうか。いまだに世界有数の経済大国であることからするなら、想像もつかない時代が過去にあり、恐ろしく悲しくて残酷な習わしがあったことを思い返して、昨日は考込んでしまいました。『お父さん、まだ若いんだから、弱さを告白しないでね!』と娘たちに、よく言われましたが、私の生まれた山と山がせめぎ合った渓谷を深く入り込んだ山里は、米も取れないで、蕎麦か〈黒平十六〉という豆や芋が取れるくらいでした。父の会社に働いていた方の中にも隣近所にも、平家の落人の部落だったに相違なく、〈藤原姓〉の家が多かったのです。そこには姥捨の伝統はなかったと思いますが。

 私が、そこで生まれたときに、その藤原姓の村長さんの奥さんが、産婆がわりに私を取り上げてくれたのだと、母に聞いています。ですから村長の家に行きますと、玄関には、彼らの孫のではなく、私の写真が飾られてあったのだそうです。私の父の会社の鉱石集積場には、山奥から〈索道(ロープウェイ)〉で運ばれた防弾ガラスの原材料である〈石英〉が山積みにされていました。そこからトラックで街の国鉄貨物駅に運ばれて、京浜地帯の工場に搬出されていたのです。兄たちは、その索道に乗って、山を往復したと言っていましたが、幼い私には、その許可を父はくれませんでした。何時でしたか、長野県飯田市の昔の写真を見ていましたら、私がうる覚えのある索道の写真があったのです。


 なぜ、ちょっと考え込んだのかといいますと、深沢七郎原作で、今村昌平が監督をした映画、「楢山節考」を観たからなのです。それで、『もう4年もすると・・・』と思わされたのです。この映画は1983年に、カンヌ映画祭で、「パルムドール」という賞を得て、世界が、日本の映画製作の優秀さに注目することになった秀作だったのです。そこに描かれている習俗、〈姥捨て〉は、どこの国、民族にもあるのでしょうか。貧しさが改善されないで、長生きをすると、〈穀潰し(ごくつぶし)者〉と呼ばれて捨てられるか、自分でそう決めて捨ててもらうかを、なんと七十歳で決めなければならないのです。諏訪湖を通りすぎて間もなく、中央高速から離れて長野道に入って、しばらく行きますと、「姥捨サーヴィスエリア」があります。山梨県生まれの深沢七朗の作品ですが、山梨ではなく長野県にあることを知って、意外だったので驚いたことがありました。山芋の〈とろろご飯〉を、姥捨サーヴィスエリアの食堂で食べたのですが、ちょっと複雑な味がしたのです。〈棄老伝説〉からの命名ですが、その呼称を変えてもらいたいような気持ちがするのは、私だけでしょうか。まあ、なるべく近づかないのがいいのかも知れませんが。

 姥捨の伝説だと、一度は母親を捨てたのですが、村に問題が起こって、その解決のための知恵は、自分の老いた母親にあるということで、母が連れ戻される、そう聞き覚えていましたので、そんな展開を期待していたのです。『何時、連れ戻されるのだろうか?』と思っているうちに、スクリーンが暗くなって、「終」と出てきてしま射ました。期待外れでしたが、どうも私の思い込み違いだったようです。山に神さまがいて、『お呼びになっていいる!』ことなど決してないのに、そう信じ込まされて、家族の迷惑にならないようにそっと身を引く、坂本スミ子演じる老婆の〈おりん〉ですが、私よりも3歳年上なだけなのです(坂本の実年齢は39歳でした!)。ちょっと、ショックでした。若い時に、この作品が刊行されたのを知っていましたが、読もうと思いませんでした。ずっと先の話だと思っていましたから、『年をとったら読んでみよう!』とは思っていましたから、映画鑑賞が読書に先行してしまったわけです。もう一つショックだったのは、〈爺捨て〉もあることでした。大体、統計学的にも生理学的に、女性は長生きで、男は早死ですから、〈爺捨て〉以前に召されるのが一般的なのですが、元気な私は、今、ちょっと怯えております、はい。〈姥捨サーヴィスエリア〉、〈楢山(小説上の山ですが)〉と、なるべく息子たちに近づかないのがいいのかも知れません。昨日生まれたばかりなのに、ああ、光陰矢のごとしです(光阴似箭guang yin si jian)。

(写真上は、「楢山の沢(?)」、下は、映画の「宣伝スチール」です)

違い

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 アメリカ映画で、トム・ハンクスが主演した「プライベート・ライアン」を観たことがあります。ナチス・ドイツの侵攻によって、困難の只中にあったフランスに加担し、ヨーロッパ戦争の終結を期して、連合軍が、ノルマンディーに上陸します。その上陸作戦の中に、特別な使命を託された8人の小隊がありました。その使命とは、〈ライアン上等兵を見付け出して帰還させる〉ことでした。8人が一人の兵士の救出のために危険極まりない最前線に突入するのです。私は、この映画を見て驚かされたのです。日本の軍隊では、終戦間際に、「回天」とか「神風」とか言われて、魚雷や戦闘機で、敵艦に体当たりの肉弾攻撃をしましたから、こういった〈ライアン上等兵救出作戦〉のようなものは、全くなかったのではないでしょうか。

 子どものころに、『なぜ日本は戦争に負けたと思うか?』と言って、ある人(元兵士)がその答えを教えてくれたことがありました。戦時下、軍隊の内務班で日常的に行われていたのが、古参兵による新兵への〈いじめ〉だったのです。国を愛し、父や母や弟妹を守るための〈大義〉に立って、雄々しく戦った兵士たちの勇敢さは知らされていたのですが、理由のない体罰、一人の失敗を連帯で責任を負わされて、鉄拳を見舞われるといったことが、伝統として当然のように、『兵士の志気を高めるためだ!』というおかしな理由の陰で行なわれていたそうです。〈鶯の谷渡り(ホーホケキョと歌いながら柱にしがみつくのです)〉とか〈伝令(机と机の間に腕で立って自転車をこぐ真似をさせ『急げ!』とか言いながらさせるのです)〉といった体罰を加えて、座興にしていたことも、あのおじさんが教えてくれました。何の楽しみもなかったこと、家族から引き離されていること、戦争がいつ終わるのか分からないこと、勝ち目のない戦争であることなどで、焦燥感や捨鉢な雰囲気や諦めが、隊内に満ちていたのです。それで、敵軍と対面しながらの戦闘時に、『銃弾が後ろから飛んでいって、恨みつらみの古参兵を狙撃して、復讐することも稀ではなかったよ!』と言ったのです。これも映画でしたが、「真空地帯(野間宏作、1952年映画化され上映)」で、木村功が演じた日本軍の実態を知らされて、この映画が誇張ではなく、〈皇軍(天皇の軍隊)〉だと言われていた日本軍に、このような恥部が隠されていたのを理解したのです。


 どうして、ライアン上等兵を帰国させる必要があったのでしょうか。彼は4人兄弟で、4人とも従軍していたのです。しかも他の3人の兄弟はすでに戦死していました。それで、軍の上層部が、このことを知って、故郷に残されたお母さんのもとに、ライアンを戻そうと決めたのです。もちろん、米国民への軍のアピールといった面がなかったわけではないのですが。戦死して軍神になる日本軍の戦争哲学とは、西と東の違いほどに大きな相違があったのではないでしょうか。うーん、こう言ったことを考え、実行するアメリカ軍の在り方を知って、太平洋戦争で日本が負けたのは、当然だと思わされたのです。山本五十六のような軍人は、若かりし頃にアメリカを視察した経験がありましたから、その国づくりの堅固な様に驚かされていました。ですから米英を敵にしての戦争に勝ち目のないことを求めて、どうにか回避したいと願っていたようです。

 お母さんは、8人の決死の救出作戦で、無事に帰還したライアンを出迎えて、どんな思いだったでしょうか。日本兵士の両親は、『死んでお国のために尽くしなさい!』と送り出しましたが、心の底では、『必ず生きて帰ってきなさい!』と思っていたのは当然のことでしょう。映画のラストシーンは、〈アーリントン墓地〉を訪ねた老いたライアンの背後に、子や孫たちが映し出されていました。救出された一人から、多くの家族が生まれ出て、アメリカの平和と繁栄を享受している光景は、多くのいのちの犠牲の上に生み出されているわけです。日本の平和も繁栄も、多くの兵士の屍(しかばね)の上に成り立っていることを忘れてはいけません。命、平和、喜び、家族、国家、世界、将来、多くのことを思わされた映画でした。

(写真は上は、連合軍が上陸したの「ノルマンディー(平和な時代)」、下は、平和の象徴「鳩のイラスト」です)

日本語

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平成20年の「国語に関する世論調査(文化庁が毎年実施)」の調査項目の中に、〈日本語を大切にしているか〉があって、
   大切にしていると思う           38.1%
   考えてみれば大切にしていると思う   38.6%
      合計                  76.7%
という結果がでています。今回の調査結果を、前回(平成13年実施)に比べると、とくに若い人たちの〈日本語を大切にしている〉とのポイントが増加しています。総じて40歳代~70歳代は高いのですが、とくに若年層には、日本語を支持する傾向にあることが分かります。もう一つ、〈「美しい日本語」というものがあると思うか〉については、
   あると思う                 87.7%
   ないと思う                  2.5%
と、圧倒的に、『日本語は美しい言葉です!』との答えが多かったのです。これも、前回より増加傾向にありました。では、〈「美くしい日本語」とはどんな言葉か〉に上げられた言葉を七つ列挙してみます。

   1.思いやりのある言葉
   2.挨拶の言葉
   3.控えめで謙遜な言葉
   4.素朴ながら話し手の人柄がにじみ出た言葉
   5.短歌・俳句などの言葉
   6.故郷の言葉
   7.アナウンサーや俳優などの語り方

 前回と比較して、増加傾向にあるのが、〈控えめで謙遜な言葉〉や〈故郷の言葉〉が上げられています。逆に減少傾向にあるのは、〈アナウンサーや俳優などの語り方〉でした。こういった調査からしますと、日本語に対する気持ちは、高まりつつあると言えるのではないでしょうか。

 これまで、『日本の国語を、外国語に替えたほうがよろしい!』と主張した人が何人かいました。明治18年に初代・文部大臣になった森有礼は、〈英語〉の国語化を提唱し、エール大学の教授のホイットニーに手紙を書き送って、相談を持ちかけています。やはり「欧化主義」の流れの中で、そう考えたのですが、薩摩藩士だった彼の背景からしますと、随分と急進的なものの考え方をしたことになります。実現はされませんでしたが、国粋的な人たちからは疎んじられたのでしょうか、43歳で暗殺されてしまいます。もう一人、志賀直哉(「小僧の神様」の著者で、実に美しい日本語を使った作家で〈文章の神様〉との定評があります)がいます。森有礼は〈英語〉、志賀直哉は〈フランス語〉の国語化を提唱したのです。『お嬢さん!』と呼びかけるのを、『マドモアゼル!』と呼ぶことになります。戦後間もなく、そう主張するのですが、彼自身はフランス語を、まったく話すことができなかったと言われています。

 さて、名宰相と呼ばれるチャーチルは、母国語の大切さを強く意識し、それを実行しました。新田次郎(「劔岳・点と記」の著者)を父、藤原てい(「流れる星は生きている 」の著者)を母とした彼らの次男で、数学者の藤原正彦(「国家の品格」の著者)もまた、『小学校における教科間の重要度は、一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数。あとは十以下 !』というほどの国語教育の重要性を主張し続けています。彼は、「祖国とは国語」という本の中で、『「国語教育絶対論」国語こそすべての知的活動の基礎だ!』と言っております。理科系の学者で、アメリカに留学した経歴もある藤原正彦が、こういった主張をすることは注目に価するのではないでしょうか。


 フランスの初等教育では、ヴィクトル・ユゴー(1802年‐1885年、「レ・ミゼラブル」で有名な小説家)などの〈詩文〉を、暗記させているのです。フランス語の韻律の美しさを体得させて、自然に身につくような努力を徹底していることになります。日本語も、美しい言語だと思います。以前、韓国に参りましたときに、お宅に招いてくださった夫人が、『韓国語は演説などのスピーチに向いた言葉ですが、日本語は詩的な表現ができる素敵な言葉ですね!』と言っておられました。

 一昨日、日本語科を卒業された教え子からメールがありました。『職場で日本語が上手に話せるようになる秘訣はなんですか?』と聞いてきましたので、『日本語を声に出して読み、それを反復したらいいと思います!』とお答えしました。そうですね、万国共通、万国語共通、〈ことばを声に出すこと〉こそが、言語習得の秘訣に違いありません。

(写真上は、「日本の美・庭園」、下は、「ヴィクトール・ユゴー」です)