Art

 

 

日本文化に「落語」があります。その「話芸」の起源は、諸説あるそうですが、江戸時代(1603年~1868年)初期に、人前で、「辻噺(つじばなし・道端で笑い話などをしてお金を得ること)」をしたのが始まりとされています。江戸時代の後期には、江戸っ子の娯楽として、「江戸落語」が盛んになったそうです。明治、大正時代には、三遊亭圓朝が近代落語を完成させています。

座布団に座った噺家の道具と言えば、扇子と手拭い、強いて言えば湯飲みも入るでしょうか。これらを巧みに使いながら、話芸をするのです。正座したまま、時には1時間も話し続けるのですから驚きです。自分も、教員をしたり、今日まで、人の前で話をし続けて生きてきました。この落語は、季節や時に応じては、「枕(まくら/本論ではなく導入の話)」は変わるのですが、あれだけの話を、ほとんど正確に記憶しているのには、驚かされます。並の修行ではできません。

その噺家の中で、「名人」と言われた一人が、もうだいぶ前に亡くなられたのですが、六代目の三遊亭円生でした。大阪生まれでした。ところが、江戸弁の『そうでげす!』と話しているのを聞いたのが、今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上るほどの天才少年だったそうです。

通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが、円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることのできた、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられたのです。

自分にはできない職業があります。この噺家と職業運転手です。ある落語家が、次の話が出なくて、高座を降りたまま、二度と高座に上がらずに廃業した方がいたそうです。それだけ真剣に仕事に取り組む「ずく(信州や甲州の言葉で"根性"の意味)」が、自分にはないからです。また運転も、相手の幅寄せ、横入り、ノロノロ運転に耐えれない私は、できないと思わされていました。もち論、運転免許証を返納した今は、ハンドルは握れませんけど。

自分では、しないけど、聞くことと、乗せていただくことは楽しめると思っています。間(ま)とか呼吸というのでしょうか、上方も東京も、落語の話芸には、"Art(芸術)"を感じてなりません。絶品と言えるでしょうか。先日、公共バスの中のテレビで、こちらの「お笑い漫談」をしていました。その話芸が聞いている方々の爆笑を呼んでいましたから、これもまた"中華芸術"に違いありません。

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冬枯れた西中国山地・八幡高原に、「薄(すすき)」の原野が広がっています[☞HP/里山を歩こう]。何か戦国の武将が、声を上げて戦った、〈兵(つわもの)方の夢の後〉の様なさびしさを感じてしまいそうです。来春の芽吹きには、起死回生、新しい生命が吹き出てくのでしょう。休息と言いながら、そのための準備に余念がないのが、自然界です。

この数日、十二月らしくピリッとした気候が戻ってきました。北海道や東北地方の日本海側では、大雪が降った様です。本格的な冬の到来でしょう。こちらは、寒くても4、5℃にしか気温が下がりませんが、それでも、底冷えがして、亜熱帯だからと油断できません。

今朝、楽隊の演奏が、この小区の中からしてきます。葬儀が行われるのでしょう。北国の春とかも演奏されて、ただ沈痛なだけではないのが、特徴です。季節の変わり目に、お年寄りが召されるのでしょうか。「生まれるに時があり、死ぬるに時有り」、人生の悲喜交々(ひきこもごも)、笑いや涙が織りなされるわけです。遺徳が偲ばれ、惜別の時です。豪族には、「悲嘆の作業」がなされていきます。

まさに『人生短し!』です。ご遺族への慰めを願いながら。生きている私たちは、与えられた時を感謝しながら、一日一日を積み重ねながら、生きるのです。

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珈琲

 

 

「焼けボックリに火」、まさにそんな感じで、このところ珈琲を、また飲み始めています。しばらく遠ざけていた好物の珈琲 、知人の来訪の手土産で頂戴し、茶箪笥に置いた豆を、もう仕舞って置けなくなって、とうとうブレンダーにかけて、ドリップして、この数日、飲み始めてしまいました。ほんとうに『美味しい!』のです。

 

 

ある日、アールグレーの紅茶に鞍替えをした私は、別に《珈琲断ち》の理由などなしで、飲まなくなったのです。飲まなければ、いられないほどの〈愛珈琲党〉ではありませんでしたから、問題ではなかったのです。それでも、珈琲でありながら、珈琲とは言えない、「インスタントコーヒー+砂糖+クリープ」を、通販サイトの"朴朴pupu"で購入して飲み替えたのです。

 

 

初めは、マレーシア出身の方から頂いた「ホワイトコーヒー」でした。それが美味しく感じて、無くなってしまってからは、スーパーや通販サイトで買っては、しばらく飲み続けてきたのです。『砂糖が多いのは体にどうかな?』と家内に言われたのがきっかけで、それを止めようした時、その時の「手土産」でした。一緒に、「ストレーン(シュトレーン/ドイツ製のパン菓子)」も頂き、火がついてしまったわけです。

いやー、その珈琲が美味しいのです。京都の専門店で焙煎した、アフリカ内陸部、《ウガンダ》で生産された珈琲です(世界10位の生産国/ちなみに第1位はブラジルです。こウガンダの農産品の第一は珈琲、次いで綿花です)。しかも有機栽培の無農薬、私の師の好きだった、最高級品の《ブルーマウンテン》に匹敵するほのど味です。アメリカ人としては、ずいぶん質素な生活振りだった師は、珈琲は贅沢をしていたのかも知れません。『準、いっしょに飲もう!』と、よくトッテオキを飲みました。私は、珈琲の味が分るほどの〈通(つう)〉などではなかったのですが、実に美味しそうに飲んで、満足している姿を眺めながら、いつからか《ブルーマウンテン党》になっていました。

 

 

でも、子育て中の私には買える代物ではありませんでした。かといって、子育てを終えている今でも、出来上がった〈貧乏性〉は変わらず、〈ブレンドコーヒー〉か〈特売広告品のブルーマウンテン入り〉の範囲でした。でも、何年か前に、弟の家で、《ヨーロッパ珈琲》を飲ませてもらった時に、それも美味しかったのです。この《美味しさ》と言うのは、飲む時の雰囲気、そして舌の感覚や体調と関係があるかも知れません。

 

 

それに《美味いもの》と言うのは、それなりに高価なのです。きっとびっくりするほどの値段に違いありません。コロンビアとかエチオピア(ここで採れるのが《モカ》です)とかジャマイカ(ここで採れるのが《ブルーマウンテン》です)、赤道を挟んだ地域の国々で生産され、世界中で愛されている珈琲です。とくに中国の近年の消費量は、爆発的に増えているそうです。若者たちが小さなスプーンで飲むスタイルが、可愛らしいのです。

そう、単純な私は、《似非(エセ)ブルーマン党》から離脱して、《ウガンダ珈琲党》宣言をしているのです。ウガンダ産のコーを飲んで、この国の経済発展に、少しでも協力したいと思うのです。そうするのも、ただに美味しいからです。

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開花

 

 

12月8日、朝8時半に、北側のベランダで一輪の花をつけた「ハナキリン(花麒麟)」です。この花は、アフリカ大陸の東側のインド洋にある「マダガスカル」が原産の外来種で、観葉植物として愛されています。花と葉をつける枝には、「茨(いばら/荊、棘)があります。それで、「茨の冠」(英語:Crown-of-thorns)と呼ばれているそうです。処刑される罪人の頭に被せられたりしてきています。

今朝方、10℃ほどに下がった気温の中で咲いています。一年中咲いてくれます。本来の寒さが戻ってきたようです。私が生まれた山奥では、今朝の様に、ここで見上げられる鉛色の空からですと、きっと雪が降ったものです。でも、この街では、降雪も結氷もないのです。ニュースによると、北海道では雪が降ったそうですね。

6日の夜、私たち家族に、実によくしてくださった方が、82歳で召されたと知らせがありました。長男が生まれた時に、奥さまとご一緒に、何くれとなく助けて下さった方です。11日に、東京で、「告別式」がありますが、息子に、その前夜に、ご遺族を訪ね、ご挨拶の代理の出席を願ったところです。ちょうど、アメリカ人起業家と新しい地に出かけようとしていた頃でした。

この方の上のお嬢さんが小学生だった頃、家庭教師をさせて下さったのです。あの時生まれた子が、今年46歳になっていますから、時の過ぎ行く様を思い返して、思い出されることが多々あります。奥様、ご遺族のみなさまの上に、心からの慰めを願ったところです。悲しみを慰めてくれるかの様な開花です。

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山と水と桜

 



これらに絵は、洋画家、版画家の吉田博の作品です。一見して圧倒される迫りを感じさせられてしまいます。小学校の時に、年賀はがきのための木版を、彫刻刀で彫った経験が、私にもあります。誤って手をついてしまって、その傷跡を見ると、子どもの頃が鮮明に蘇ってきます。こんなに精緻に描く、その集中力に驚かされてしまいます。渓流の水も、上空の雲も、まさに湧き上がるかの様です。

吉田博の略歴は、次の様です。

『博は、明治9年(1876)、久留米藩士・上田束の次男として、久留米市に生まれました。明治20年(1887)に福岡に移り、その後中学修猷館に入学すると、図画教師の吉田嘉三郎にその画才を認められ、明治24年(1891)、吉田家の養子になりました。明治26年(1893)、17歳で京都の田村宗立の門下生となりましたが、翌年上京して小山正太郎の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業をスタートさせます。明治32年(1899)、23歳の時、描き溜めた水彩画を携え、1か月分の生活費のみを持って、後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行い、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパを巡って2年後に帰国しています。さらに2年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをと共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、ヨーロッパで過ごして帰国しています。洋行が珍しかった時代の外遊によって古今の西洋美術に触れると共に写生によって大いに画技を磨き、帰国後、油彩画の分野で文展や帝展の審査員を務めるなど近代西洋画壇の中心人物として活躍しました。』

 

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その後、版画を学んで、多くの作品を残しています。山と水と桜を愛して描いた人です。今も多くの所で、古典が開かれていますので、いつか出掛けてみたいと思っています。

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作詞が丘灯至夫、作曲が上原げんと、初代コロムビア・ローズが歌った 「東京のバスガール」は、昭和32年(1957)年に発表され、一世を風靡したヒット歌謡曲でした。

1 若い希望も恋もある
ビルの街から山の手へ
紺の制服身につけて
私は東京のバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

2 昨日心にとめた方
今日はきれいな人つれて
夢ははかなく破れても
くじけちゃいけないバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

3 酔ったお客の意地悪さ
いやな言葉でどなられて
ほろり落としたひとしずく
それでも東京のバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

今運行されている路線バスは、「ワンマンバス」で、運転手が車内案内をし、カードで乗車賃を払うので、もうその姿を知る人も少なくなったのが、「バスガール(和製英語)」です。ここで歌われている「バスガール」は、東京都内を走る、「都バス」のバスガールだったのでしょう。当時は、女性にとっては、憧れの職業だったそうです。

ところが、私の胸をときめかせてやまなかったのが、「京都のバスガール」でした。3泊4日の関西への中学校の「修学旅行」で、観光案内をしてくれたバスガールの方に、淡い恋心を覚えたからです。坊主頭のニキビの男子中学生校の我々にとっては、4日も一緒に時を過ごせる女性は、母以外にいなかったのです。

ことばの抑揚が「京都弁」で、ポッチャリ体型のお姉さんは、生意気盛りに私にとっては、憧れ以上でした。男兄弟四人、父を入れて五人の中で育だった反動でもあったからでしょうか。この〈旅する中学生〉の私にはヒゲも生え出して、いっぱしの「男」だったわけです。その憧れが昂じて、大学受験の折、『京都の同志社!』と、学校の進学志望校欄に記入したほどです。女人禁制の中学・高校で、汗男臭さの男の中で過ごした私は、東京弁の彼女よりも、京都弁のお姉さんがよかったのです。

現実は、京都への進学は叶わず、東京に落ち着いてしまったわけです。こう言うのを、「思春期コンプレックス」と言うのでしょうか。「京女性への思慕」だけではなく、「京都への憧れ」を引き摺っている自分が、まだいるのです。そこは、父と母が、新婚時代に暮らした街だと言うこともあって、身近に感じてしまうからでしょうか。

先日、その京都からの男性のお客様が、4日ほど、我が家に滞在されました。あの京女性ではなく、京男のこの方のことばの端に、中学の時に聞いた、京ことばを思い出させてくれたのです。お土産に頂いた、「ストーレン(ドイツ製で輸入の菓子パン/この季節に北欧などで必ず食べるのだそうです)」とコーヒー(ウガンダの豆を京都の店で焙煎した物)で、アフリカとドイツ、そして「京」を、とても美味しく味わった朝でした。

ちなみに家内は、大阪の泉州・堺で誕生していますが、東京で育って、〈北多摩弁〉の女性です。

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18℃

 

 

昨日は、長女の「老公laogong/この地域では気取らずにこう言いますが、『ダンナ』という意味でしょうか/主人」の誕生日でした。ボストンで生まれ、サンフランシスコで育っています。昨日は、あいにく体調を崩していて、ベドの中でした。肩を脱臼し、手術をするほどの重傷でしたが、現在、リハビリ中です。早く恢復する様に願っているところです。

今朝の6時半にベランダは、18℃です。例年に比べ暖かなのです。でも週末は、寒さが戻ってくると予報が出ています。好い1日をお過ごしください。

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近さ

 


 

ついぞ縁も所縁(ゆかり)もないのですが、この写真の「中村吉右衛門」に、近いものを、私は感じるのです。歌舞伎の名門に生まれ、歌舞伎の道に精進し、「人間国宝」にもなった方です。もうだいぶ前になりますが、この方が主演されたテレビ番組、「鬼平犯科帳」で、幕府の火付盗賊改方長官、長谷川平蔵を演じていました。昔、若かった彼が、海軍兵学校の学生役も演じていて、その映画を観たこともありました。

と言うのは、同じ年に生まれ、同じ時代の風の中を生きたという近さなのです。褒賞や叙勲には全く縁のない私で、日本政府も生まれ故郷も、一顧だにしてくれない平々凡々を生きた私ですが、日中戦争の晩期に生まれ、物の欠乏の中に育ちましたが、自由の空気を吸いながら大きくなった同世代が、この方です。

この方は東京の都会で生まれ育ち、私は山の織りなす山村で生まれ、隣の渓谷の奥の村で育ったのですが、荒廃の中から立ち上がって行く父の世代のたゆまぬ勤勉さの中で、大人になれました。この方と私の父親も、同じ年の生まれで、彼は次男、私は三男でした。名門の生まれでも、無門の生まれでも、両親の愛を受けて育てられたことに、ただ感謝するだけです。

彼に、私が勝っているのは、四人もの子の親であることと、海外に雄飛できたことでしょうか。そんな機会はないのでしょうけど、いつかお会いしてみたいと思うのです。そういえば、同級生たちと、随分疎遠のままなのです。一昨年、中高を一緒にした同級生と、相模原で会いましたが、話して行くうちに、色々と思い出すことが多かったのです。やはり、人恋しい年末なのでしょうか。

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責任

 

The Pied Piper of Hamelin (Der Rattenfänger von Hameln) luring the children of Hamelin out of the city. Illustration by D. Baum. (Photo by Culture Club/Getty Images)

 

日本の〈童話〉にも、「猿カニ合戦」とか「桃太郎の鬼退治」とかがあって、読んでみますと、何か子ども向けではない様に感じていたのです。同じ様に、ドイツにも、「グリム兄弟」の話の中に、子ども向けではない様な話が語り継がれています。"ハーメルンの笛吹き"の物語です。

1284年、ハーメルンの村にはネズミが大繁殖し、人々は困りかねていました。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着たが現れて、報酬をみらえるなら、ネズミを退治するともちかけます。ハーメルンの人々は男に報酬を約束したのです。それで男が笛を吹くと、村中のネズミが男のところに集まっってきたではありません。男はそのまま川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させてしまったのです。ところが、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を守らないで、報酬を拒んでしまいます。
笛吹き男はいったんハーメルンの村から姿を消したのですが、再び現れました。住民が教会に行っている間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて、この男のあとをついて行ってしまったのです。その数は130人で、二度とハーメルンの村に戻って来ませんでした。

そんな奇怪な〈集団失踪事件〉の「実話」を題材に、グリム兄弟が書き残したわけです。この話は、誘拐されてしまう様な恐怖心を、子どもたちの心に植え付けてしまうのではないか、親として心配したものです。日本でも、よく〈児童誘拐事件〉が起きていたからです。有名なのは、東京都台東区で、1963年3月に起きた「吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐事件」でした。4才の男の子を、金目当てで誘拐され、殺害してしまうと言った残忍な事件でした。事件発生から2年後に、犯人が自供して、事件は解決したのです。

実に悲しい事件でした。それで、私は忘れられませんでした。この犯人が、吉展ちゃんに目をつけたのは、この子が、親戚を訪ねる様にと、〈よそ行きの服〉を着ていたからだったそうです。わが家は、程々の経済状況で、家内は、親戚から回ってきた服や、安売りで買った服に、よくつぎ当てなどして、子どもに着せていましたので、誘拐犯の目につくこともなかったのですが、〈日本版ハーメルンの笛吹き〉に出会わないとも限らず、心配もありました。

でも、それも杞憂(きゆう)で、子育てが終わって、今や、孫の時代が巡ってきています。今、私たちが住んでいます国でも、誘拐事件があるからでしょうか、幼稚園や小学校や中学校の登下校の際は、ご両親やおじいちゃんやおばあちゃんが、しっかり、校門までと、校門から付き添っています。交通事故も起きかねないので、どの国も子育てって大変なことは、古今東西同じです。

子どもたちの安全のために、社会全体が、しっかり、子どもたちを見守る責任がありそうですね。世の中が、愛が冷えて、険悪になって来ているからです。

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朝食

 

 

 

先日、「追思会(告別式)」に参りました、海浜の村で、遅めの朝食をとったのです。この写真の様に、「锅边guobian/鍋辺」と言う料理でした(上から順に調理していました)。野菜や肉や小牡蠣(かき)に、米の粉で作った薄焼きを入れて、しばらく火を通した料理です。

その村の「菜市場」の近くの食堂で、私たちが食べた時は、具を煮込んだ中華鍋の上の方に、この米の粉を水で解いたものを上手に注いで、しばらく蓋をしていました。そこに薄焼きができて、そのまま煮込んでいたのです。実に美味しかったのです。

中国の、多くの所で食べられる、「朝食」なのだそうです。ある方は、「豆浆doujiang/豆乳」に「油条youtiao/油で揚げたパンの様な物」、お粥などですませますが、これを初めて食べて、気に入ってしまったのです。

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