秋には温泉が

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今朝、眠りから覚めましたら、『えっ、涼しい!』と思わず感じたのです。もう毎日が、最低気温で26度、室内の最低温度さえも29度の連続でしたから、夢を見てるのかと思ったら、現実でした。窓を開けましたら、もうすっかり忘れていた涼しい風が入って来てくれました。夕方の今も、北側の窓から吹き混込んで来る風が、頬に涼しいのです。さしもの暑さも、『これまで!』と言ったところでしょうか。でも、結構裏切られることが多いので、安心しないことにしておきます。

我が家の一部屋の壁に、日本の祝祭日などを知らせてくれる、弟からもらった<カレンダー>が掛けてあるのです。今日は赤字で、「9月15日」、「敬老の日」の祭日だったのです。すっかり忘れてしまっていました。『今日は出勤の日!』の思いしかなかったからです。と言うことは、こちらの生活に、すっかり適合して、日本のことに疎くなっていることになるのでしょうか。

ネットのニュースによると、日本の老人人口(65歳以上)の割合が、25%になったそうです。としますと、四人に一人が老人だということになります。自分が、老人に数えられるなどということを、思ったことがありませんでしたし、今でさえも、他人事に思ってしまう、突っ張ったところがあるのです。ついこの間まで、セーラー服にトキメいていたほどなのですが。

こちらにも「敬老の日」があるそうで、9月9日だったようです。それだからでしょうか、9日の夕方に車に乗せていただいた時、始めて「孝敬父母」という言葉を教えてもらったのです。仕切りに、『シャオジング フウムウ、シャオジング フウムウ!xiao jing fumu』と、車を運転しながら話し掛けてくれたのです。何度か聞いて、帰りの車の中で、やっと「父母への孝行と敬意」だと分かった次第です。

しかし、この年令になると、父も母も天のふるさとに帰ってしまっていて、父がよく言っていた、『孝行したい時に親はなし!』で、何かし残した思いにされてしまうのです。次兄が、『親爺が生きていたら、おんぶして、温泉に連れて行って、楽しませて上げるんだけどな!』と言っていたことがありました。その次兄も、そろそろ背負われる年代になっていますし、かく言う私も同じなのです。

昼過ぎ、学校の帰りに、郵便局に用事があって、寄ってから帰って来たのですが、何時もですと、大汗をかくのに、今日は、いつになく爽やかに過ごすことができているのが、意外だったのです。父の汗かきを受け継いだ私なのですが、秋には、温泉が一番似合いそうですね。南信州の「かじかの湯」や「かぐらの湯」に、日がな入っても好い気候に、そろそろなって欲しいものです。

(写真は、”阿南町案内”の「かじかの湯」の露天風呂です)

 

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「日暮らし」と書くのだと思っていましたら、正しい漢字は「蜩」でした。知らない漢字に出会って、浅学さを思い知らされてしまいました。と言うのは、来月、「蜩ノ記」と言う題名の映画が、日本で公開されるのだそうで、その題名が読めませんでしたので、調べてみて知ったのです。『学校では教えてもらいませんでした!』と言い訳できない年齢になっているので、少々恥ずかしくなってしまいました。『俺に聞くな、辞書を引け!』と言って、広辞苑を買って来てくれた父を、また思い出した次第です。

いやあ、一生が学びなのですね。「弟子」と言う言葉の意味は、『聞く者のことである!』と書いてあつたのを読んだことがあります。初めてのことに、聞き耳を立てて聞こうとする人、学ぼうとする人こそが、「弟子」だと言うのです。九月も中旬、間もなく「秋分の日」がやってきます。それにしても暑い日が続いています。日中は、ゆうに35度はありますし、最低気温だって26度もあるのですから。今日も室内温度が、31度を寒暖計がさしましたので、窓を閉めて、空調を入れたのです。今、雷光と雷鳴で夕立になりました。

かなかなの耳に残りし秋の風

『かなかな!』の鳴き声でも聞こえて来たら、ちょっと涼しさを感じさせてもらえるのですが、こちらでは聞いた試しがないのです。夏の暑さが十一月ごろまで残って、ほんの短い秋があって、冬が来るのです。もちろん夜は、だんだんと涼しくなるのですが、今のところ、その気配がありません。

今日は秋の味覚の「栗」を買って来て茹でました。先おととい、友人宅で出してくださって、とても美味しかったので、『我が家でも!』と、アパートの門の所で売っていたのを買って来て、やってみたのです。酸味のある青みかんと、この栗を食べましたら、秋の運動会が思い出されてしまいました。

今日、我が家に小学校二年生がやって来ました。宿題の入ったかばんを下げてです。どんな宿題かを見たら、「国語」の帳面で、昨日の授業で、拼音(中国版のふりがなでアルファベットです)を書き込んだのを、先生が添削で赤い印を付けてありました。間違いを正すのが、その宿題なのです。そこに「翠」の漢字があってびっくりしました。日本の小学校二年生が覚える漢字は、<180字>だけなのに、画数の多い漢字を、こちらの新二年生で覚えているのです。日本でも、漢字制限などなくしたら好いのではないでしょうか。

これまで、『おかしい!』と感じて来た漢字の中で、「障碍者」を「障害者」と書かせていることです。体の不自由な方は、「有害」の「害」で書き表わされているのです。「碍」の漢字が難しいからだと言うのは、おかしなことだと思って来たのです。書き改めないで、本来の漢字を使うべきだと、常常、思っております。「蜩」も、<虫偏>があった方が、『カナカナ、かなかな!』と聞こえて来そうですから!

(写真は、葉室麟著の「蜩ノ記」の表紙です)

「大人になれなかった弟たち・・・」

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先日、亡くなられた俳優で、画家の米倉斉加年さんが、「大人になれなかった弟たちに・・・・」を著し、1983年に偕成社から刊行しています。中学一年の国語教科書(光村図書)にも、掲載し続けられている作品です。私たちの中学の頃にはなかった記事ですので、大変興味深く読んでみました。次のように、ネットにありましたので、ここにアップしてみます。戦時下の少年の体験記です。

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僕の弟の名前は、ヒロユキといいます。僕が小学二年生のときに生まれました。そのころは小学校といわずに、国民学校といっていました。僕の父は戦争に逝っていました。大西洋戦争の真っ最中です。
空襲といって、アメリカのB29という飛行機が毎日のように日本に爆弾を落としに来ました。夜もおちおち寝ていられません。毎晩、防空壕という地下室の中で寝ました。
地下室といっても、自分たちが掘った穴ですから、小さな小さな部屋です。僕のうちでは、畳を上げて床の下に穴を掘りました。母と僕で掘ったのです。
父は戦争に逝って留守なので、家族は、僕と母と祖母と弟の四人です。四人が座ったらそれでいっぱいの穴です。
弟は生まれて間もないのですが、いつも泣かないで一人でおとなしく寝ていました。母は穴を掘りながら、ヒロユキがおとなしいから助かる、と言っていました。
そのころは食べ物が十分になかったので、母は僕たちに食べさせて、自分はあまり食べませんでした。でも弟のヒロユキには、母のお乳が食べ物です。母は自分が食べないので、お乳が出なくなりました。ヒロユキは食べるものがありません。おもゆといっておかゆのもっと薄いものを食べさせたり、やぎのミルクを遠くまでもらいに行って飲ませたりしました。
でも、ときどき配給がありました。粉ミルクが一缶、それがヒロユキの大切な大切な食べ物でした・・・。
みんなにはとうていわからないでしょうが、そのころ、甘いものはぜんぜんなかったのです。あめもチョコレートもアイスクリームも、お菓子はなんにもないころなのです。食いしん坊だった僕は、甘い甘い弟のミルクは、よだれが出るほど飲みたいものでした。
母は、よく言いました。ミルクはヒロユキのご飯だから、ヒロユキはそれしか食べられないのだからと・・・。
でも、僕はかくれてヒロユキの大切な大切なミルクを盗み飲みしてしまいました。それも、何回も・・・。 僕にはそれがどんなに悪いことか、よくわかっていたのです。でも、僕は飲んでしまったのです。
ヒロユキは病気になりました。僕たちの村から三里くらい離れた町の病院に入院しました。
十日間くらい入院したでしょうか。
ヒロユキは死にました。病名はありません。栄養失調です・・・。
父は、戦争に逝ってすぐ生まれたヒロユキの顔を、とうとう見ないままでした。

(写真は、”yahooイラスト”から「平和の使者・はと」です)

悲しくてなりません

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『世界中で、人の心が荒れ荒(すさ)んでいる!』ようです。と言うよりも,<愛が冷えている>時代が到来しているのかも知れません。地球温暖化で、地球上は酷暑、猛暑、暴雨に見舞われて、人の心が、余裕や我慢や忍耐をなくしてしまったのでしょうか。天気のせいにしてしまうのは言い逃れです。みんなが不快や不安を、同じように感じているのですから。

今朝のニュースで、目の不自由な女子高校生が、暴行を受けて三週間の怪我をしたと伝えていました。白杖が触れて転倒された腹いせで、後ろから足を強烈に蹴り込んだのだそうです。しかも無言で、そうしたのだそうです。社会の中で、強者が弱者と共に生きることによって、<優しさ>を心の中に培う、素晴らしい機会なのに、なんて言うことでしょうか。そこはスパルタはなく、JR川越駅だったそうです。

かつては体の不自由な方たちは、家に籠もって、なかなか社会進出をしませんでした。『人に迷惑をかけるといけないから!』と言ってでした。そんな中、『優しい社会を作ろう!』と言う社会意識が強まってきて、<点字ブロック>が設けられ、道路などの<段差>が解消され、横断歩道の音声でのお知らせなどに努めてきています。どうも、心の中に、もっと大切なものを設ける必要があるようです。

先日も、盲導犬が、追尾して来た男に、フォークのような物で刺される事件があったばかりでした。また、こんな事件が起きて、この女子高校生は、外を歩けなくなってしまうのではないかと心配でなりません。この加害者は、<平成の大悪人>です。朝から悲しくてなりません。点字ブロックを白杖で触れながら、登校し、出勤し、買い物に出るみなさんが、人の愛や善意に触れて、安心して生きられる社会であることを、ただただ願う朝です。(10日に記す)

(写真は、”旬彩館”より「マツムシソウ」です)

テニス界の雄

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『相手がひるんだ隙こそが、攻撃の好機だ!』と言うのが、競争や競技の鉄則です。どのスポーツでも、とくに個人戦の競技では,相手の体制を崩すのは、勝機をつかむ絶好の時なのです。柔道でもレスリングでも、バトミントンでも卓球でも、同じです。勇猛果敢に、攻撃をしかけて、返し技ができないほど、やりこむことは卑怯なことではありません。 ウイキペディアに、次のような記事が載っています。

『「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが体勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーショを、清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。』

ここに出て来ます「清水」とは、清水善造のことで、日本テニス界の黎明期に、国際舞台で活躍した選手です。当時の世界順位で、第三位に上げられるほどの名選手でした。ウインブルゾンでの善造のプレーは、観衆から賞賛を受けた、素晴らしいものだったのです。プロ選手としてはともかく、人間としては高く評価されるべきことだったわけです。相手が、体勢を立て直して、球を打ち返すことができるように、攻撃の手を緩めたわけですから。

戦国の武将は、『やあやあ、我こそは・・・』と名乗りを上げて、武人としての闘争心を高揚し合い、面と面と向かって、渡り合ったような<潔(いさぎよ)さ>それと同じような意気ウインブルゾンの観衆が、感じたのでしょう。また善造は、いつもニコニコしていて、<スマイリー・シミー>と、親しく呼ばれた人気選手だったのです。

フェアープレイが、なかなか見られなくなっているスポーツ界ですが、<紳士のスポーツ>と言われる<テニス>を、日本男子が、イギリス人に負けないような<紳士>として競技したことは、私たちが誇ってよい特質ではないでしょうか。 後年、彼は、洗礼を受けたキリスト者として、敬虔に生きたと記されてあります。ヨーロッパ人に比べて、体の大きくない選手でしたが、貧しさゆえに早朝のアルバイトの草刈りと、長距離の登下校で鍛えた、強靭な足腰を持っていたそうです。群馬は高崎の人でした。

(写真は、”WM”による、コート上ネット際の清水善造氏です)

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「四季の歌」の二番に、次にようにあります。

夏を愛する人は 心強き人
岩をくだく波のような ぼくの父親

<父のような夏>だと言うのです。つまり男性的な季節だと言うのでしょうか。ギラギラと陽が照りつけ、陽炎(かげろう)が燃え、雷光や雷鳴、そして土砂降りの夕立があり、甲高いアブラゼミの鳴き声があたりを圧倒し、西瓜やトマトの美味しい季節でもあります。よく川に泳ぎに行き,帰りに<ボンボン>と言う氷菓を買い食いし,兄や近所の遊び仲間と,家に帰った記憶があります。

今の子どもたちと違って,夏休みの宿題も少なかったし,し忘れて新学期に登校しても、それほど怒られなかったのです。どの学年でも、担任、隣りの担任にさえも叱られてばかりでしたから、記憶が薄いのかも知れません。自動車も少なかったし,生活がのんびりし,生活圏も狭かった時代でした。追いかけられたり、強いられたりすることのほとんどない、自分の歩調で生きられた時代だったのです。蛍は,山の中に行かなくても、家の前の小川で捕まえられましたし,蚊帳の中に放って,点滅するのを眺めてる内に眠りに落ちたのです。

夏が好きな私でしたが、ただ一つ嫌いだったのは、必ず蚊に刺されることでした。周りにいる人は刺されないのに、必ず自分は何箇所も刺されるのです。それはどの夏も例外なく繰り返されたことでした。ですから、こちらに来てからも、蚊帳を張って寝ないわけにはいきません。それで今年も早々と、戸棚から蚊帳を出して張ったのです。しかし出入りが下手なもですから、蚊帳の中に蚊を招き入れてしまい、安全圏なのに刺されてしまうのです。

ところが、今年は特別で、「異変」が起きているのです。どうしたことか、蚊に刺される回数が、これまで三回ほどしかないのです。代々木公園の近くで、蚊に刺されてデング熱に感染される方が多いそうですし、こちらでも広東省の広州でも多発してるようですから、蚊の発生は多そうです。私の住む街では、暑すぎて蚊の発生が少ないのか、蚊に好まれる自分の体質が変わったのか、不思議でなりません。狐につままれているような感じの秋口の週初めです。

(浮世絵は、二代目広重の「 赤坂桐畑雨中夕けい」です

カタカナ語

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<カタカナ語の氾濫>を嘆く人のブログ記事を読んで、これまで書き続けて来た、ブログを読み返してみました。やあー、実に多いのに驚きました。中国伝来の漢語は、カタカナ表記はしませんが、これらも外来語です。中世以降のポルトガル語(「カステラ」が有名)明治維新以降の英語やフランス語やドイツ語が、混ざりに混ざって、今の日本語が成り立っているわけです。

中国語では、外来語を、どのように表記しているのかが面白いのです。アメリカのことを、日本語では「米国(亜米利加)」、中国語は「美国」です。ニューヨークは「紐育」で「紐約」です。中国の方が、欧米諸国との接触が、鎖国中の日本よりも早かったので、中国語表記の影響を、日本語がおおきく受けているのです。「リンカーン」は、「林lin」に「肯ken」のように、地名や人命の発音に似ている漢字が使われているのです。

台湾に行った時に、ある所でお話をさせてもらいました。話の始めに、『廣田さん、カタカナ語を使わないでいただきたいのですが、よろしいででょうか?』と言われたのです。話の原稿を見ますと、何箇所にもカタカナ語があるではありませんか。それを日本語に言い換えなければならないわけで、ちょっと戸惑ってしまったのです。通訳者が、英語をご存知でも、日本語化されて使われている英語を類推することは、台湾の方にはできなかったからです。カタカナ語は、英語ばかりではなく、フランス語もあるのです。例えば、「ニュアンス」は英語ではなく、フランス語なのです。

実は、『カタカナ語は極力使わないで文章を書く!』と決心して、このブログを書いて来たつもりですが、その決心を忘れ てしまって、実に多いのです。同じように、国会議員の質疑応答、文筆家の文章にも多いのです。難しいので、辞書を引くのですが、綴り(「スペル」と書いたのですが<綴り>に書き改めてしまいました)が分からないのでうやむやになってしまうことが多いのです。

「繰り返して訪れるお客」を、”リピーターrepeater” と呼んでいますが、英語本来の意味は、「連発銃」か「常習犯」や「落第生」なのだそうです。馴染みのお客さんが来た時、『あっ、連発銃を持った常習犯と落第生が来た!』では、実に失礼になってしまうわけです。綺麗な日本語、大和言葉があるのですから、極力使いたいと再決心の「長月」の七日です。さて「ブログ」は,何と日本語で書き表したら好いのでしょうか。

(写真は、福砂屋の「カステラ」です)

中秋節の休み

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今週末から、来週始めまで、「中秋節」で休みになると連絡がありました。新年度、新学期が始まったばかりですのに、予想外の休みに、緊張気味の気持ちが、少々緩んでしまいました。でも、この休みは好いものです。

日本にいたら、<ジジババ>をしているのでしょうか。もう学校に行き始めているので、両親や祖父母よりも、友達が一番好くなっている孫たちですから、けっこう煙たがれて、時間を持て余してしまうことでしょう。それで、ボランティアに出かけたり、自転車に乗って知らない小道を走ったり、図書館で読み物をして過ごすのかも知れません。昔、釣り竿を担いで出かけたりした魚釣りも、けっこう楽しめそうです。

ところが、こちらにいることで、きちんと学期学期に、週ごとに、果たすべき社会的な責任が与えられていることに、感謝しているのです。先々学期まで、一緒に仕事をしていた二人の同年輩の教師が退職してしまって、自分独りになってしまいました。なんだか存在価値や責任が大きくなっているのかも知れません。最近の学生には、『爷爷(イエイエ/おじいさん)!』と呼ばれるようになっています。もう、『叔叔(シュウシュウー/おじさん)!』の年代ではなくなっていますから。もちろん、『廣田先生!』とか『雅仁先生!』と、学生にみなさんは呼ぶのですが、彼らのお父さんやお母さんは、私の長男の世代ですから、当然でしょうか。

高校三年間、担任をしてくれた教師は、兄たちの学年を担任した方で、その学年で渾名された、『オジイ!』が通称でした。慶応ボーイのお洒落な英語教師でした。終礼に出るのをサボって、終わってから教室に戻ると、『雅仁、オジイが、また怒ってたぞ!』と言われるのです。それで職員室に行って、『先生、何でしょうか?』と言うと、『おう、廣田来たか!』と言って、怒ったことなどなかったように、世間話をして、『頑張れよ!』と言うのが、何時もの繰り返しだったのです。教育実施に行った時には、もう退職されておいででした。

「休み」と聞いたので、この<オジイ>を思い出してしまいました。好い先生だったN先生の年齢をはるかに超えてしまっている今の私ですが、『もっと真面目に勉強しておけばよかった!』と、これも何時も繰り返し思いにやってくる、<今オジイ>の自己反省です。

(写真は、”百度”による「秋桜(こすもす)」です)

健康志向

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私の散歩道が、幾つかあります。このアパートには、南と西と東に、門が三つありますから、それぞれの門を出て、右左に行くだけで六方向あるのです。最近気づいたことは、この地域の<運動公園>に向って歩いて行くのが一番好いということなのです。なぜかと言いますと、思い思いに歩いたり、 走ったり、後ろ向き歩きをしたりしていて、仲間と二人、三人と連れ立って、励まし合っている、同好者が、そこに大勢いるからです。

他の道で、散歩している方と会うのは、一時間半ほどの間に、一人くらいで、ほとんど朝早く出勤の電動自転車に乗って急いでる方たちばかりです。運動公園では、若者たちが、10面もあるバスケットボール場で、ゴールに向って、ボールを放ったり、ゲームをしています。年配者たちは、鉄棒にぶる下がったり、歩行練習機のようなもので体を動かしたりして、まあ様々に運動をしているのです。さらに400mの陸上競技場を、何周も走っている方もおいでです。

今朝、見付けたのは、公園の隅にある「テニスコート」です。何と三面も、全天候型のコートがあるではありませんか。篠竹が通り道と分け隔てた中に、隠れているようにあったのです。誰も使っていませんでした。『えーっ、もったいないな!』と言うのが実感でした。『近くにテニス好きの同世代の御仁がいたら、一緒にできるのになあ!』とつぶやいてしまいました。

そうですね、一人でやっていると、時々言い訳が出て来て、サボってしまうのですが、早朝や夕刻に、こうやって運動に励んでいる仲間がいるだけで、『みんな頑張っているんだから!』と、自分を励まして続けられるのでしょうか。そう言った意味で、運動公園の存在の意味があるのでしょう。何人か肥満体の方もいますが、切実に思っている人もいるようです。

そこにいる人の平均年齢が、男女ともに高いのは、<健康志向>だからでしょうか。私も同じですが、<老い>に挑戦状を叩きつけているのでしょう。朝が、だいぶ涼しさを感じられるようになって来ました。『友達百人できるかな!』、と思ってみたりしています。

(写真は、”WM”による、秋の花「桔梗(ききょう)」です)

人恋しい秋

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やはり、人恋しくなるのでしょうか、今朝、ある方のことを思い出していました。私と二十歳違いで、同じ誕生日、同じように腕時計の文字盤を腕の内側に向けてはめるアメリカ人の実業家がいました。一緒にテニスをしたこともあり、よく彼の家に、家族ごと招いてくれた方でした。夫人の両親がパン屋でしたので、美味しいパンやクッキーを焼いて食べさせてくださいました。病気になられて、しばらく闘病をされていましたが、召されてから、もうだいぶ年月が経っております。

先日、この方の写真が、回り回って、私のメールボックスに、添付されて送られて来ました。まだ二十歳前の<美男子>、太平洋戦争に従軍されていた時のものです。北欧系の青い目で、息子さんが、お二人健在ですが、よく似ているのです。

北欧からの移民の子で、ワシントン州の出身で、私が一緒に働いた方の友人でもありました。 私の知る限り、よきアメリカの伝統を受け継ぐ、<アメリカ市民>のモデルにような人でした。<gentlemanジェントルマン>と言う英語を絵に書いたような穏やかで、堅実で、暖かな心の持ち主でした。

父には少し若く、兄には年齢差が大きかったのですが、人間的に見て、<父的な存在>だったでしょうか。『どうして、こんなに穏やかなのだろうか?』と、誰もが思っていたのです。一緒に寝泊まりをしたことはありましたが、生活の全てを見ていたわけではありませんでした。出会って来た沢山の人の中でも、特に思い出深い人です。喧嘩ぱやい短気な私にとっては、感情の抑制の効いた理想的な人だったのです。

ところが、ある時(告別式の時です)、弟さんが若い時の兄の思い出話を話したのです。それを、又聞きしたことがありました。この方が、十代を送った街では、大変有名(!?)だったそうです。それが、全く変えられたのです。戦場での体験が、彼を変えたのか、途轍もない誰かとの出会いがあったのか、私が出会った時には、ニコニコと両手を広げて迎え入れてくれる人でした。奥様は、この話は、<寝耳に水>だったそうで、彼は、自分の心の中で、過去を封印して、愛する夫人にも語らなかったのです。

変えられたお父さんの彼に、五人の子供さんがおられます。みなさんを知っていますが、彼らが、まだ子どもだった頃、家族で訪問した時に、自分たちの寝台を、私たち家族に与えて、何処かに寝場所を見付けて寝てくれ家族ぐるみで歓迎してくれた方たちでした。そんな好い経験をした私たちの子どもたちも、そんな生き方を真似て、それぞれが、今を生きているのは感謝なことです。

(写真は、”HIS”による、ワシントン州シアトルの名物の「クラムチャウダー」です)