ご無事を!

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悪戯をして叱られたり、からかわれる時に、父や兄に、よく言われたのは、『準、お前は、◯ヶ滝で拾ったんだぞ!』でした。記憶にない時のことを、そう言われて、そう信じていたことがありました。よく、日本人は、こう言ったことを、古来子どもたちに言ってきている様です。

この滝の上流の綺麗な渓谷の脇に、旅籠宿がありました。その離れを借りて、家族をそこに住まわせて、父は山の奥の軍需工場で仕事をしていたのです。弟と私は、そこで生まれました。同じ山の麓から流れ出る、別の流れの脇に、父の事務所があって、そこに越して、私たち兄弟は育ちました。山女魚が泳ぐ渓流の脇でした。私の生まれ故郷ほど、美麗な山里はありません。その故郷は如何おわすでしょうか。

みなさんの生まれ育った故郷は、今回の豪雨の被害に会われていらっしゃるでしょうか。自然の美を破壊してしまう様な、想像を絶する暴雨の襲来で、日本列島は大変の様です。というよりは危機的状況です。いえ日本ばかりではなく、熱波や豪雨や地震や火山爆発など、地球全域が、危機的状況に見舞われています。

国境紛争や経済制裁や自国防衛などの問題から目を離して、温暖化や人口増や食糧危機や疫病など、地球規模で考えないと、残された二十一世紀の80年は、生き抜けられないのではないでしょうか。『早く手を打たないと!』と、一世紀も前から言われ続けているのに、<他人事>でしか考えなかった脅威が、身近かで猛威をふるっています。

人心の荒廃と自然の脅威と、関係があるのでしょうか。本末転倒の時代の只中で、《本来》、《当初》に戻らないといけない時期に、来ているのではないでしょうか。幼い日に母から聞いた、「ノアの箱舟」の故事が、思いによぎってまいります。

みなさんのお住いの地と故郷、ご親族の無事を心から願っております。

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あれから

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長女が、都内の短大の卒業をしたのが、1995年3月20日でした。その日、短大の卒業式が、「渋谷公会堂」で行われ、私たちは、長女が生まれ育った街から、JRの電車に乗って、駆け付けて、式に参列しました。娘は、地下鉄に乗って渋谷に向かったのですが、その途中に起こったのが、あの「地下鉄サリン事件」でした。

そんな日本を震撼とさせる様な大事件を、娘も私たちも避けられたのですが、13人の犠牲者(その他の事件の犠牲者総数は29人になります)、6300人の負傷者を出したのです。娘は、それをギリギリに避けて式に出られたのです。何が起こったのかは、知るよしもなかったのですが、式の混乱を避けるために、それには触れずに、無事に卒業式が挙行され終えたのです。

私は、ヨガとか瞑想には、全く興味も関心もありませんし、ある人たちが、それをすることによって、精神的な錯乱を起こしていていて、そう言った被害者とお会いしたことがありました。趣味やエクササイズでは終わらない<深み>がある様です。時には、人の心の深みに、出口のない闇を引き込んで、思考能力を狂わせたり、精神を破壊する可能性があることを知って、近づかないのです。そして、人にも危険を喚起し、注意する様にお話しています。あの団体の始まりも、それでした。
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そんなことをするより、「落語」を聞いたり、音楽会でモーツアルトを聞いたり、知らない街に旅をしたり、美味しい物を食べていた方が、心や身体の疲れを取り除け、清新な気分を味わえるのです。今日のニュースで、首謀者と共犯者が、死刑に処せられたと報じています。<古代法>は、「目には目、歯には歯」ですが、<近代法>では、「死刑」には賛否両論があります。でも人は、「播いたものを刈り取る」のかも知れません。どう受け取るかは一様ではないのでしょう。

あの団体の施設が、山梨県の上九一色村にあって、何時でしたから、取り壊された跡地に立ったことがありました。そこで悪計が図られ、準備され、日本を支配するために出て行った場は、夏草が茂っていただけでした。でも、残党が活動しています。公安調査庁によると、同じ凶行を繰り返す可能性が大きいと警戒している様です。

「手段」を誤らせる、間違った<精神集中術>は、限りなく危険です。どうしても避けて、近付いてはなりません。『悪しき物に魂を売ってしまうからだ!』と言われています。この私たちが住み続けている街の北の嶺に、中国中から、若者を集めて、「キャンプ」をした跡地があります。そこでは、中国の将来に、夢を持って生きて行き、祖国の復興に仕えるために、願い学び、夢を語り合ったのだそうです。

大人は、若者に、《夢》を与えなければなりません。遠大で、壮大な夢です。自分に、与えられている若さや力を、祖国の祝福のために費やすためにです。私は、そこに出かけて、廃屋なった建物の側に行くのが好きなのです。締め切った建物は、もう使えそうもありませんが、その時の「息吹き」が、何となく感受できるからです。あの嶺の上で、学んだ若者の子や孫たちが、志高く、同じ幻に、今も 生きてることでしょう。

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一人の友人に、なぜか仕切りに会いたくなりました。幼馴染でも、小学校の仲良しでも、中高の悪友でもなく、大学で出会った男です。剛柔流の空手部に所属し、けっこう強く、実績もあった部でしたが、暴力事件に巻き込まれて、入学した頃には、<喧嘩両成敗>で、表立って活動ができずに、隠れて稽古をしていました。古武士の様な男で、爽やかな目をした好漢でした。

父君を、戦争で亡くして、お母様の手で姉上と彼は、 九州の街で育って、上京して来ていました。同じ学科の同級でした。母が参加していた倶楽部に、一緒に行ったり、そこで臨時に留守番をしていたアメリカ人の婦人の家にも出入りしていました。そこには、同級生が何人か、お邪魔して、交わりをしていました。

彼が、島崎藤村が好きで、「初恋」や「惜別の歌」をよく歌っていました。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみ
問ひたまふこそこひしけれ
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私たちが学んだのは、この藤村が学んだ同じ学校でした。そういう先輩後輩のよしみで、彼は、藤村を好んでいたのです。この友人が、高倉健も好きで、何度か一緒に、映画を観る羽目になったのです。自分では観たいとは思わない、「任侠物」だったのですが、一緒に見ているうちに、映画に引き込まれてしまい、一緒に活動してる錯覚に見舞われた様でした。

浅草が舞台の「唐獅子牡丹」という題で、シリーズ物の最初の映画で、新宿で観たでしょうか。彼の父君は博徒ではありませんで、旧陸軍の陸大卒の佐官の将校でした。戦後、中国の北支に残留して、軍命で国民軍に加わったのですが、事情が変わって、処刑される部下たちの責任をとって、自刃してしまったのです。上級の上官は、終戦と同時期に、無事に帰国したのですが、残留組は辛い目にあったのだそうです。

彼の話によると、ベルリンオリンピックには、彼の父君は、乗馬の補欠で参加もしたほどの乗り手だった様です。互いの結婚式に、行き来をした後、疎遠になってしまって、今になってしまいました。父君の戦友だか、叔父さんの戦友だかの会社に勤めていましたが、重役をしていました。そう言えば、法学の教授が、父君の部下で、彼の結婚式の仲人をされていました。

どうしたのでしょうか、彼のその後が気になってしまいました。疎遠の友に会いたいとの思いも、「終活」の一つなのでしょうか。『呆けてしまう前に、何かするように!』との内なる声なのでしょうか。今度、帰国したら連絡をとってみましょう。

(山西省太原氏の街中の様子、林檎の花です)

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アメリカ版"スポ少"

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スポーツを歌った歌ではないのですが、"戦いすんで日が暮れて"との歌詞がありましたが、ベースボールの地区大会で優勝して、お父さんと一緒に、13才の孫が、試合を終えて、グラウンドを引き上げる後ろ姿を、次女が撮って送ってくれたのが、この写真です。

アメリカでは、"シーズンスポーツ"が盛んで、サッカー、水泳、ゴルフ、バスケットと、いろいろな種類のスポーツを、年間通してする様です。この孫も、季節ごとに、スポーツに興じているのです。わが家の子どもたちが、地方都市でしていたのが、"スポ少"でした。「スポーツ少年団」の略称ですが、彼らは、野球やバスケットをしていました。アメリカの様に、あれもこれもではありませんでした。

けっこう親が熱くなって、オニギリを作ったり、お菓子や飲み物を準備して、応援をしていたのです。"お母さんパワー"が溢れていて、《勝ち》に行くのです。あの熱心さには驚かされました。週末や休日には、試合があって、わが家は、あまり協力できなかったのですが、子どもたちは楽しんでいたのです。

妬まれたり、意地悪されたり、精神面で、子どもたちは、ずいぶんと鍛えられたのです。今では、"クラブチーム"があって、より専門的で、高度で、会費も高そうですが、そうまでしないと、勝てないし、有名になれないし、プロにはなれないからでしょうか。昔は、誰でもが、上手は上手に、下手は下手で参加していたのですが。

時々、動画ビデオを送ってくれるのですが、撮影してる次女が、熱くなって声援してる"母親の声”が入っていることがあります。お腹を痛めて産んだ子が、健康を与えられて、活躍しているのを観て、一入(ひとしお)の思いで楽しんでいるからでしょうね。このアメリカの"スポ少"でも、親が、けっこう"ヒートアップ"している様です。一家総出での参加は、好い傾向ではないでしょうか。

勝っても負けても、日本の"スポ少"は、大人がするのに真似てでしょうか、帰りがけに、<打ち上げ>をするのです。子どもとコーチと親たちで、"◯△焼肉"の食べ放題に連れて行かれて、反省食事会をするのが恒例でした。あれって独特な<日本文化>なのでしょうか。外孫たちには、きっと経験できないのでしょう。

今度は、もっと広域の大会に、孫は出場し、やがて《州大会》、《国大会》を目指すのでしょうか。普通の子たちが、緩やかに参加する、外孫たちが参加してるのは、そんなスポーツの様に感じています。プロになる様な、親が血まなこになった雰囲気が感じられないのが好いのです。スポーツは楽しくやらないといけませんね。

励まし合って、協力し合い、戦いや競争の勝ち負けだけでないこと、戦いながら相手チームにエールを送る、それがアメリカンスポーツの好さでしょうか。その上で、精一杯に楽しんでして欲しいと、そう中国の空の下で応援してるジイジです。

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絶滅危惧種

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この花は、「HP里山を歩こう」が、昨日配信してくださった、広島県庄原市に咲く「オグラセンノウ(小倉仙翁)」です。地元の高校生が、バイオで栽培したそうです。絶滅危惧種です。こういった花が、なくならない様、努力がなされているのですね。

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惜しまれつつ

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新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、上の兄が、中学生の頃、英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていました。帰って来ると、その自慢話を聞かされたのです。よく“猿真似”と言いますが、“兄真似”をする傾向が、弟にはあって、それでけっこう強い関心を、落語に持つ様になったのです。

『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』『そうけえ!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。子どもの頃には、ラジオで、落語や漫才や浪曲を、よく放送していました。食事が終わった後に、それをよく聞いたのです。

この歌謡曲、落語、漫才、浪曲、ラジオ小説などが、当時の国民的娯楽でした。テレビが出て来る前のことで、それで言葉を覚え、意味が分からないと兄たちに聞いていました。そんなで、都内の学校に通う様になって、新宿に下車して、この「末廣亭」に、“兄真似“で、出掛けたのです。女友達も連れて行ったことがありました。その初めての経験が嬉しかったようで、彼女は親に話した様でした。

その頃の高座で、だれが噺(はな)していたのか、名前も題も記憶がありませんが、客につられて笑っていたのです。こちらでの教え子が、東京に、友人たちと旅行をして、この「寄席」に行って、『とても楽しかったんです!』と印象を語ってくれたことがありました。落語の面白さを理解できるなら、相当の日本語通になりますが、けっこう分かったのだそうです。

やはり上手な噺家は、古今亭志ん生、その息子の古今亭志ん朝、その兄の金原亭馬生、それに柳家小さん、三遊亭圓生だったでしょうか。小学生の頃にラジオを聞いて、笑い転げたのが三遊亭金馬でした。小学生をお腹が痛くなる様に笑わせたのですから、すごい落語家だったことになります。痴楽や歌奴も談志も面白かったですね。

昨日、「笑点」のメンバーで、後に司会をしていた、桂歌丸師匠が亡くなられたと報じていました。江戸落語の上手な噺家で、実に歯切れの良い、聡明な言葉遣いで、間の取り方がうまい噺家でした。日本文化の一つとして、この方が、江戸落語の面白さを伝えた貢献は大きいと思います。長い噺を、しっかり覚えて演じる能力には、驚かされます。そのためには、ものすごい努力、稽古(けいこ)があったのでしょう。

あの夏目漱石は、日本語を作った一人と言われますが、寄席通いをして、そこで多くのヒントを得て、創作に励んだそうです。漱石は、初代の三遊亭圓朝を贔屓(ひいき)にしていたそうです。存在感の強い方が召され、大変惜しまれます。

(歌丸師匠の出生地の横浜市の市花「バラ(イングリット・バーグマンという種類)」です)

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無事



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タイから“嬉しいニュース”が入りました。洞窟の中で行方不明になっていた、サッカー少年たち12名とコーチ1名とが、タイの海軍やイギリスの救助隊たちによる、必死の捜索の結果、発見されたのです。ワールドカップの行われていた時期の事故でした。無事の救出のために、もう3日必要と、外伝が伝えています。

ご両親の元に、無事に帰られるように心からお祈りしています。

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小石

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新宿の街で、小石を投げると、どちらかにきっと当たると言われたのが《"桜"に“N”のマーク》でした。新宿を行きに帰りに通過し、時には下車して、喫茶店や食堂や映画や落語を、飲んだり、食べたり、観たり、聞いたりしていた私が、よく聞いたり、言ったりしたことでした。何のことだと思われますか。それほど沢山いたり、あったりすることの例えでした。そう、今日日有名になってしまった<日大の学生>と<日本交通のタクシー>でした。

大学経営とタクシー会社の経営で、抜きん出ていたから、ユーモラスにそう言われていたのかも知れません。もう半世紀も前のことですから、今では違った言い回しがありそうですね。きっと、中国人の留学生が、新宿の街に溢れていることでしょうから、今では、その一方は、<中国人の留学生>に置き換えられるかも知れません。《それだけ多い》との喩えです。

ほぼ一年に一度の帰国を、ずっとしているのですが、この数年、帰国して目立つのは、欧米人の観光客が、地下鉄にも、ビジネスホテルにも、繁華街以外にも大勢いらっしゃるのです。川越に所用で出かけた時に、ターミナル駅に、これまた欧米人が何組もおいででした。もちろん、中国人観光客は、どこにでもおいでですが。

以前はお金持ち風の観光客が多かったのですが、“バックパッカー”と呼ぶのでしょうか、ザックを背負った中年から初老の欧米人が目立っていたようです。だいたい、昔は、若者がザックを担いで、地図を片手にして、キョロキョロと方角を見定めていたのですが、欧米人の御夫婦、女性連れ、しかも中年から初老の方たちが目立つのです。

前回の帰国時には、秋葉原駅前が、まるっきり変わってしまって、道を聞くのに、見回すと、中国人のみなさんが大勢で、彼らに聞かないように気を付けるのに大変でした。地下鉄の出口とJRの出口が分からなくて、バスターミナルに、なかなかたどり着かなかったのです。それに、”お上りさん“、私たちもですが、が多くて、店員さんにも聞くのですが、道や建物など知らない人ばかりでした。

もし、秋葉原で小石を投げていたら、きっと中国の方に当たるのでしょうね。同じアジア系ですが、やはり、ちょっと違いがあるようです。私たちも、この中国の街で歩いていると、地元の人は、『同胞ではないなぁ!』と思っているようです。どこか、ちょっと違うのでしょうか。私たちが、この国を楽しんで生活しているように、外国人観光客にも、日本を楽しんでもらいたいものです。

(1889年の秋葉原の街の様子です)

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コナスビ

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6月末の高知県高岡郡越知町・横倉山で、小さく咲く「コナスビ」の花です(HP「里山を歩こう」7月1日受信)。鬱蒼と木々の森林の中で、ひっそりと、天に向かって咲き誇っているのでしょうか。誰の目にも止まらない様な森の木陰で、この花は満足そうに咲いるのです。

事業を起こしたり、文学作品を書いたり、そんな偉くならなくとも、有名にならなくともいい、『ただ勇ましく高尚な心で生きて欲しい!』と、物の本に読んだ若い日から、そんな生き方をしてきての今日です。

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寄留者

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昨日の朝、7時40分に、いつもの様に家を出ました。立体交差の橋脚に近づきましたら、聞き覚えのあるメロディーが、けっこう大きな音量で聞こえてきたのです。ダンスサークルのメロディーです。確かにあれは、「星影のワルツ(白鳥園枝の作詞、遠藤実の作曲で1966年発表)」でした。

1 別れることはつらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影のワルツをうたおう
冷たい心じゃないんだよ
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ 死ぬ程に

2 一緒になれる幸せを
二人で夢見た ほほえんだ
別れに星影のワルツをうたおう
あんなに愛した仲なのに
あんなに愛した仲なのに
涙がにじむ夜の窓

3 さよならなんてどうしても
いえないだろうな 泣くだろうな
別れに星影のワルツをうたおう
遠くで祈ろう 幸せを
遠くで祈ろう 幸せを
今夜も星が降るようだ

別れ、さようなら、涙、泣く、冷たいこころ、失恋などの日本人の好む「ことば」や「感情」が、歌の中に散りばめられています。中国のみなさんが、翻訳された歌詞で、同じ哀調メロディーで口ずさむ時に、共感して止まないのです。そのほかにも「北国の春」、「津軽海峡冬景色」、「みちづれ(山茶花)」などもよく歌っていたり、MP3でメロディーが街中に流れています。

同じ東アジアの感性なのでしょうか、朝鮮半島のみなさんも、日本の「歌」を好むのです。同じ血が流れているからか、血が近いからでしょうか。それとも米作民族だからでしょうか。都会で生活をし始めるのですが、心の傷ついた若者が、出て来た田舎を振り返って、そこにある山河、父や母や兄弟姉妹や友、食べ物、そして思い出に郷愁を抱く様な感情があるからです。

杜甫や李白、芭蕉や牧水などは、都会に住めない漂泊詩人が多くおいでです。彼らの詩や歌は、人の心を捉えるのでしょう。人生は短いのです。それで生まれてから没するまでの行程は、旅に例えられるわけです。死の向こうに、《永恒の時》が残されているとすると、まさに私たちは、この世の《寄留者》で旅人に過ぎないわけです。悔いのない旅を続けて行きたいものです。

日曜日の朝は、「演歌」ではなく、天にも届く様な、全地に響き渡る様な歌を聞き、歌って始めたかったのですが、この世の現実は、失恋の歌でした。でも私の思いに中には、母がよく歌っていた、心に透き通る様な歌が溢れていました。

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