口福

 

 

ここで、中国語をご紹介してみましょう。例文は、次の様です。

四川的表妹带来了许多家乡的特产,让我大饱口福。

日本語にしますと、『四川省の従姉妹が、持参してくれた田舎の特産物は、美味しくて私を口福(こうふく/ふるさとの味に幸せを感じることでしょうか)にしてくれました!』との意味です。

思い返しますと、今年九月には、次男夫妻が訪ねてくれて、色々と持ってきてくれました。その中に、「梅干し」があったのです。 大事に大事に、貴重品扱いで食べてきて、先週、最後の1つを食べ終えたのです。祖国の味に舌鼓を打ち終え、口福も噛みしめたのです。実に微妙な塩加減で、唸(うな)らせてくれた味でした。

また十月には、友人のご婦人は、「和菓子」をお持ちくださいました。ご自分の住む町の老舗の和菓子屋さんのものでしょうか、えも言われないで、口福でした。甘いだけではなく、微妙な味加減は、匠(たくみ)の成せる業でした。日本には、何十、何百年もの伝統の味が残されているのですね。

十月には、どなたもお出でではなかったのですが、この月の感謝祭には、「ターキー(七面鳥)」を、アメリカの家庭では食べるのです。その日は、私の師の誕生日でした。一、二度、ご馳走になったことがありました。味付けでしょうか、肉自体にでしょうか、実に美味しい味がして、うまくて口福にしてくれたのです。でも、しばらく食べてないなぁ!

年末になって訪ねてくれた友人は、この時期に、ドイツで食べる「シュトレーン」と言う、干し葡萄やナッツなどの入った輸入品の焼き菓子を、「ウガンダ産京都焙煎のコーヒー」とともにお持ちくださったのです。ドイツや北欧にも、季節季節の食べ物があって、人を口福にするのですね。その他に、日本の味も頂きました。

昨日も、友人の家庭に招かれて、ご主人は上海に、ご子息は東京においでですが、他の友人たちも一緒にごちそうになり、弟さんの老婆(laopo奥さん)が、〈田舎料理〉を調理してくださって、また口福にさせていただきました。健康が与えられ、生きる幸せを口や舌でも感じられるのです。感謝しなくてはなりません。

どうも、“故郷(の味)は、遠くにありて味あうもの”なのでしょうか。これが幸福の秘訣です。

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日の出ずる国

 

 

犬吠埼灯台の向こうに見える日の出です[HP/写真を楽しむブログ 撮影地と撮影方法]。日本の本土で、一番早く、日の出が見られるポイントだそうです(冬季を除く/地球が傾いているからですが、冬季は納沙布岬からだそうです)。

 

 

芦屋浜の朝焼けです[京都のエイちゃん/12月11日撮影]。関西圏で見る朝の空も綺麗ですね。芦屋市の案内には、『潮芦屋ビーチは、南芦屋浜地区の南西に設けられた人工海浜で、南に開けた砂浜と潮溜りのある磯を持ち、子どもから大人まで自然の浜辺を感じ、体験できる空間として人気のスポットとなっています』とあります。

 

 

長崎市の「道の駅 夕陽が丘そとめ」の夕日です。長崎市の案内に、『外海地区には絶景がたくさん!雄大な角力灘(すもうなだ)と夕陽はもちろんのこと出津文化村や世界遺産候補となった「出津教会堂と関連施設」や「大野教会堂」などなど!遠藤周作文学館が隣接しており、文学者遠藤周作とその文学の世界を堪能することができます。」とあります。古来、「倭奴国(、わのなのくに)」と呼ばれ、「日の出ずる国」の景色は変わらなく美しいのですね。

祖国の全土に、「創造の美」が溢れているのです。四季が巡り、降る雨が集められて流れて河川をなし、草や花や木々を茂らせ、田や畑を潤し、海に注いでいます。その大自然から、様々な食べ物を得て、人の生が育まれてきています。そればかりではなく、自然の微妙な美しさが、私たちの感性を育ててくれています。その様にして成り立つ国土に、生まれて育った私は、この地を愛して、感謝で、私の心は溢れています。

来たばかりの天津、その紫金山路の脇の七階の建物のベランダから見た、壮大な大陸の夕陽に圧倒された日々が、懐かしく思い出されます。ここ中国大陸にも、住む人を感動させる美しい自然が溢れております。

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隣家のおばあちゃんと、家内の朝イチのベランダでの挨拶を聞いてると、決まって「太陽」が話題になっています。洗濯物を干す主婦にとって、陽の光が、とても大切だからです。それと、お決まりの言い出しは、《太陽の光の多少(晴れるか曇るか雨降りか)》なのです。それに呼応して、おばあちゃんも、『ハロー!』と言って、同じ様に太陽を話題にしているようです。

一般的に、こちらの方の朝の挨拶は、『お早う!』ではありません。これって欧米風の挨拶で、『早上好zaoshanghao!』を言うのは外国人だけなのかも知れません。何と言うかといいますと、『吃饭了没有chifanlemeiyou!』なのです。『ご飯を食べたの、まだなの?』と言ったやり取りをしています。実に、実際的で、生活の匂いが強烈な、中国の大陸的、歴史的な挨拶言葉だと感心します。

今年の「流行語」の一つは、『そだねー!』の他に、「ご飯論法(『朝ご飯は食べましたか?』)」だったそうです。食べたか、食べないかを問われ、『(パンは食べたけど)ご飯は食べてない!』と言い逃れる論法が取り上げられたのです。日本語の「ご飯」は、「米食」を言っているのですが、そこでは「朝食/昼食/夕食」を言ってるのです。これは、国会の答弁で、政府側の「ごまかし」や「すり替え」の答弁への揶揄(やゆ)」があったそうです。

日本語には、「インチキ」と言うことばがあります。これについて、“ 日本語俗語辞典”には、『インチキはもともと博打(ばくち)で不正をして騙すことを意味する賭博仲間の隠語であった。それまでは主にイカサマという言1葉が使われたが、イカサマが変化した『イン』と、“こんこんちき”などに見られる「~的」「~奴(やつ)」といった意味によるインチキが明治以降使われ始めた(ただし、流行したのは昭和に入ってから)。後に博打以外でも不正やごまかし、本物でないことを指してインチキというようになった。』とあります。

中国語では、「作假zuojia」とか「作弊zuobi」と言うのでしょう。どこで手にしたのか分からなかったのですが、実は、「偽札20元」の紙幣をお釣りにもらったことがありました。それに、全く気づかなかった私は、それで買い物をしたところ、『假的jiade!(ニセ札)ですよ!』と言われて突き返されてしまいました。信じられないのですが、そのままニセ札が流通しているのです。仕方なく、他の紙片で支払いをしましたが、〈掴まされた者の負け〉で、引き出しのファイルの中に仕舞い込んであります。

お釣りに偽札をもらったら、多くの人は、どこかで使ってしまうのですが、《偽札使用は厳罰》の日本で育った私は、それができないのです。かといって、銀行で取り替えてはくれません。何か交換の方法がありそうですが、どなたも知らない様です。それででしょうか、こちらでは「100元」より高額な紙幣は、こちらでは作られていません。

「ズル(狡)」とうことばもあります。狡猾(こうかつ)の隠語なのでしょうか、不正手段で何かをすることで、例えば、『彼は、今日はズルをして、学校を休んだ!(ズル休み)』と言って使います。「卑怯(ひきょう)」な人が、することなのです。私の父は、この「卑怯」を嫌った人でした。ですから、時々、自分が騙(だま)されることがあったのです。

同級生が、『お金を貸して欲しい!』と、20年ほど前にやって来たことがありました。私は、人には貸さないことにしているのです。貸した相手が、私の奴隷に成り下がってしまうのが嫌だからです。それで、上げてしまうのです。そんなに仲の良い同級生ではなかったのですが、6年間、同じ学校で学んだよしみで、そうしました。よくしたのは、駅に一緒に行って、目的地までの切符を買って上げて、改札を通るまで見守りました。

彼が恥を忍んで、わざわざ訪ねて来たことに免じてでもあり、返す意志のない借り手であることも見破っても、上げたのです。それ以来、私にお金を借りにくる人はいないのです。インチキな人生を生きることも、狡く生きることもなく、また人に借りることもなく、今日まで、自分が生きてこれたことに、ただ感謝しているのです。でも、「愛」だけは多く借り受けてきました。

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懐古

 

 

東京の郊外の小金井市に、小金井公園があります。その公園の一劃に、1996年に正式に開園した、「江戸東京たてもの園」が造られてあります。復元された様々な、江戸や明治の昔の街並みや建造物があるそうです。近在の小学校の遠足で利用されているのでしょうか。

いつか川越の年金事務所に、息子に連れて行ってもらった時に、その街並みを、車に乗せてもらって、通ったことがあります。戦災に遭わなかったので、「小江戸」の風情が、街の一劃に残されていて、人気の一大観光地です。そこは、江戸防備の重要な街でした。商業も発達し、江戸を水路でも結んで、交易の中継地だったそうです。

そんな近世、近代の町が、小金井に復元されているのです。 まだ都電が走っていた頃に、学校に通っていた頃でしたが、よく利用した車両も、展示されています。懐古趣味の人たちの人気の公園です。何時の日か、近くに行ったら訪ねてみたいものです。まあ、日本中に、似た様な街並みがありますが、公園事業として運営されているのは素晴らしいですね。

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紅葉

 

 

12月1日、国営昭和記念公園の「日本庭園」の紅葉です(武蔵野市Tommyさんの奥さんの投稿[☞HP/里山を歩こう])。こんな鮮やかな紅葉が、立川や昭島で見られるのですね。武蔵野は、「くぬぎ林」で有名で、私の通った学校は、まさに「くぬぎ林」の中にありました。それも、都市化や宅地化で、もう消えてしまったことでしょうね。

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Art

 

 

日本文化に「落語」があります。その「話芸」の起源は、諸説あるそうですが、江戸時代(1603年~1868年)初期に、人前で、「辻噺(つじばなし・道端で笑い話などをしてお金を得ること)」をしたのが始まりとされています。江戸時代の後期には、江戸っ子の娯楽として、「江戸落語」が盛んになったそうです。明治、大正時代には、三遊亭圓朝が近代落語を完成させています。

座布団に座った噺家の道具と言えば、扇子と手拭い、強いて言えば湯飲みも入るでしょうか。これらを巧みに使いながら、話芸をするのです。正座したまま、時には1時間も話し続けるのですから驚きです。自分も、教員をしたり、今日まで、人の前で話をし続けて生きてきました。この落語は、季節や時に応じては、「枕(まくら/本論ではなく導入の話)」は変わるのですが、あれだけの話を、ほとんど正確に記憶しているのには、驚かされます。並の修行ではできません。

その噺家の中で、「名人」と言われた一人が、もうだいぶ前に亡くなられたのですが、六代目の三遊亭円生でした。大阪生まれでした。ところが、江戸弁の『そうでげす!』と話しているのを聞いたのが、今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上るほどの天才少年だったそうです。

通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが、円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることのできた、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられたのです。

自分にはできない職業があります。この噺家と職業運転手です。ある落語家が、次の話が出なくて、高座を降りたまま、二度と高座に上がらずに廃業した方がいたそうです。それだけ真剣に仕事に取り組む「ずく(信州や甲州の言葉で"根性"の意味)」が、自分にはないからです。また運転も、相手の幅寄せ、横入り、ノロノロ運転に耐えれない私は、できないと思わされていました。もち論、運転免許証を返納した今は、ハンドルは握れませんけど。

自分では、しないけど、聞くことと、乗せていただくことは楽しめると思っています。間(ま)とか呼吸というのでしょうか、上方も東京も、落語の話芸には、"Art(芸術)"を感じてなりません。絶品と言えるでしょうか。先日、公共バスの中のテレビで、こちらの「お笑い漫談」をしていました。その話芸が聞いている方々の爆笑を呼んでいましたから、これもまた"中華芸術"に違いありません。

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冬枯れた西中国山地・八幡高原に、「薄(すすき)」の原野が広がっています[☞HP/里山を歩こう]。何か戦国の武将が、声を上げて戦った、〈兵(つわもの)方の夢の後〉の様なさびしさを感じてしまいそうです。来春の芽吹きには、起死回生、新しい生命が吹き出てくのでしょう。休息と言いながら、そのための準備に余念がないのが、自然界です。

この数日、十二月らしくピリッとした気候が戻ってきました。北海道や東北地方の日本海側では、大雪が降った様です。本格的な冬の到来でしょう。こちらは、寒くても4、5℃にしか気温が下がりませんが、それでも、底冷えがして、亜熱帯だからと油断できません。

今朝、楽隊の演奏が、この小区の中からしてきます。葬儀が行われるのでしょう。北国の春とかも演奏されて、ただ沈痛なだけではないのが、特徴です。季節の変わり目に、お年寄りが召されるのでしょうか。「生まれるに時があり、死ぬるに時有り」、人生の悲喜交々(ひきこもごも)、笑いや涙が織りなされるわけです。遺徳が偲ばれ、惜別の時です。豪族には、「悲嘆の作業」がなされていきます。

まさに『人生短し!』です。ご遺族への慰めを願いながら。生きている私たちは、与えられた時を感謝しながら、一日一日を積み重ねながら、生きるのです。

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珈琲

 

 

「焼けボックリに火」、まさにそんな感じで、このところ珈琲を、また飲み始めています。しばらく遠ざけていた好物の珈琲 、知人の来訪の手土産で頂戴し、茶箪笥に置いた豆を、もう仕舞って置けなくなって、とうとうブレンダーにかけて、ドリップして、この数日、飲み始めてしまいました。ほんとうに『美味しい!』のです。

 

 

ある日、アールグレーの紅茶に鞍替えをした私は、別に《珈琲断ち》の理由などなしで、飲まなくなったのです。飲まなければ、いられないほどの〈愛珈琲党〉ではありませんでしたから、問題ではなかったのです。それでも、珈琲でありながら、珈琲とは言えない、「インスタントコーヒー+砂糖+クリープ」を、通販サイトの"朴朴pupu"で購入して飲み替えたのです。

 

 

初めは、マレーシア出身の方から頂いた「ホワイトコーヒー」でした。それが美味しく感じて、無くなってしまってからは、スーパーや通販サイトで買っては、しばらく飲み続けてきたのです。『砂糖が多いのは体にどうかな?』と家内に言われたのがきっかけで、それを止めようした時、その時の「手土産」でした。一緒に、「ストレーン(シュトレーン/ドイツ製のパン菓子)」も頂き、火がついてしまったわけです。

いやー、その珈琲が美味しいのです。京都の専門店で焙煎した、アフリカ内陸部、《ウガンダ》で生産された珈琲です(世界10位の生産国/ちなみに第1位はブラジルです。こウガンダの農産品の第一は珈琲、次いで綿花です)。しかも有機栽培の無農薬、私の師の好きだった、最高級品の《ブルーマウンテン》に匹敵するほのど味です。アメリカ人としては、ずいぶん質素な生活振りだった師は、珈琲は贅沢をしていたのかも知れません。『準、いっしょに飲もう!』と、よくトッテオキを飲みました。私は、珈琲の味が分るほどの〈通(つう)〉などではなかったのですが、実に美味しそうに飲んで、満足している姿を眺めながら、いつからか《ブルーマウンテン党》になっていました。

 

 

でも、子育て中の私には買える代物ではありませんでした。かといって、子育てを終えている今でも、出来上がった〈貧乏性〉は変わらず、〈ブレンドコーヒー〉か〈特売広告品のブルーマウンテン入り〉の範囲でした。でも、何年か前に、弟の家で、《ヨーロッパ珈琲》を飲ませてもらった時に、それも美味しかったのです。この《美味しさ》と言うのは、飲む時の雰囲気、そして舌の感覚や体調と関係があるかも知れません。

 

 

それに《美味いもの》と言うのは、それなりに高価なのです。きっとびっくりするほどの値段に違いありません。コロンビアとかエチオピア(ここで採れるのが《モカ》です)とかジャマイカ(ここで採れるのが《ブルーマウンテン》です)、赤道を挟んだ地域の国々で生産され、世界中で愛されている珈琲です。とくに中国の近年の消費量は、爆発的に増えているそうです。若者たちが小さなスプーンで飲むスタイルが、可愛らしいのです。

そう、単純な私は、《似非(エセ)ブルーマン党》から離脱して、《ウガンダ珈琲党》宣言をしているのです。ウガンダ産のコーを飲んで、この国の経済発展に、少しでも協力したいと思うのです。そうするのも、ただに美味しいからです。

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開花

 

 

12月8日、朝8時半に、北側のベランダで一輪の花をつけた「ハナキリン(花麒麟)」です。この花は、アフリカ大陸の東側のインド洋にある「マダガスカル」が原産の外来種で、観葉植物として愛されています。花と葉をつける枝には、「茨(いばら/荊、棘)があります。それで、「茨の冠」(英語:Crown-of-thorns)と呼ばれているそうです。処刑される罪人の頭に被せられたりしてきています。

今朝方、10℃ほどに下がった気温の中で咲いています。一年中咲いてくれます。本来の寒さが戻ってきたようです。私が生まれた山奥では、今朝の様に、ここで見上げられる鉛色の空からですと、きっと雪が降ったものです。でも、この街では、降雪も結氷もないのです。ニュースによると、北海道では雪が降ったそうですね。

6日の夜、私たち家族に、実によくしてくださった方が、82歳で召されたと知らせがありました。長男が生まれた時に、奥さまとご一緒に、何くれとなく助けて下さった方です。11日に、東京で、「告別式」がありますが、息子に、その前夜に、ご遺族を訪ね、ご挨拶の代理の出席を願ったところです。ちょうど、アメリカ人起業家と新しい地に出かけようとしていた頃でした。

この方の上のお嬢さんが小学生だった頃、家庭教師をさせて下さったのです。あの時生まれた子が、今年46歳になっていますから、時の過ぎ行く様を思い返して、思い出されることが多々あります。奥様、ご遺族のみなさまの上に、心からの慰めを願ったところです。悲しみを慰めてくれるかの様な開花です。

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山と水と桜

 



これらに絵は、洋画家、版画家の吉田博の作品です。一見して圧倒される迫りを感じさせられてしまいます。小学校の時に、年賀はがきのための木版を、彫刻刀で彫った経験が、私にもあります。誤って手をついてしまって、その傷跡を見ると、子どもの頃が鮮明に蘇ってきます。こんなに精緻に描く、その集中力に驚かされてしまいます。渓流の水も、上空の雲も、まさに湧き上がるかの様です。

吉田博の略歴は、次の様です。

『博は、明治9年(1876)、久留米藩士・上田束の次男として、久留米市に生まれました。明治20年(1887)に福岡に移り、その後中学修猷館に入学すると、図画教師の吉田嘉三郎にその画才を認められ、明治24年(1891)、吉田家の養子になりました。明治26年(1893)、17歳で京都の田村宗立の門下生となりましたが、翌年上京して小山正太郎の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業をスタートさせます。明治32年(1899)、23歳の時、描き溜めた水彩画を携え、1か月分の生活費のみを持って、後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行い、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパを巡って2年後に帰国しています。さらに2年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをと共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、ヨーロッパで過ごして帰国しています。洋行が珍しかった時代の外遊によって古今の西洋美術に触れると共に写生によって大いに画技を磨き、帰国後、油彩画の分野で文展や帝展の審査員を務めるなど近代西洋画壇の中心人物として活躍しました。』

 

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その後、版画を学んで、多くの作品を残しています。山と水と桜を愛して描いた人です。今も多くの所で、古典が開かれていますので、いつか出掛けてみたいと思っています。

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